哲学

【ざっくり哲学解説】ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal、1623~1662)

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ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal、1623~1662)

フランスの哲学者、自然哲学者、物理学者、思想家、数学者、キリスト教神学者、発明家、実業家。哲学においては、実存主義(existentialism)の先駆者となった。

神童として数多くのエピソードを残した早熟の天才で、その才能は多分野に及んだ。ただし、短命であり、三十代で逝去している。死後『パンセ』として出版されることになる遺稿を自身の目標としていた書物にまとめることもかなわなかった。

『人間は考える葦である』などの多数の名文句やパスカルの賭けなどの多数の有名な思弁がある遺稿集『パンセ』は有名である。その他、パスカルの三角形パスカルの原理パスカルの定理などの発見で知られる。ポール・ロワヤル学派に属し、ジャンセニスムを代表する著作家の一人でもある。

パスカルの到達した精神レベル

デカルトのような考え方=精神と物体はそれぞれ独立した実体であるとする『物心二元論』に対してパスカルは、精神と物体とを区別することは困難であるとした。
パスカルは人間のあり方を捉え直し、その結果、人間は『精神・心情』の2つから成り、精神には幾何学的精神繊細な精神の2つがあると考えた。

幾何学的精神とは理性に基づく論理的な思考であり、対象を理解するのに有効である。
繊細な精神とは直観による思考であり、自分の内面を理解するのに有効である。パスカルは人間の生き方を考えるには繊細な精神が必要であると考えた。
*
不安や悲惨や空虚さは考えることによっては解決されない。気晴らしは不安や空虚さを増すばかりである。人間の無力さは理性ではなく、心情によって解決される。そこで、繊細の精神によって神を直観し、神に自分をゆだねる以外に人間の救済はないとパスカルは説いた。

[出典:よくわかる倫理 (MY BEST) /学研教育出版]

パスカルは、人間の意識と切り離された外界が存在するという考え方を否定しました。『幾何学的精神』とは、顕在意識のこと(デカルトのいう理性[良識])で、『繊細な精神』とは、潜在意識のことです。

幾何学的精神は論理的思考で、客観的に対象を理解するのに有効です。これはコンピューターやAI人工知能の形式論理に例えることができるでしょう。

しかし、人間は形式論理だけで生きているわけではありません。
AIが理解できない非形式論理的な思考と言動も兼ね備えているのが血も涙もある生身の人間なのですから。

人間にあってAIにないものが、ひらめきや直観の世界です。人工知能には、宇宙自然の背後に潜む統一的な法則性を見出すことは出来ないのです。人工知能に膨大なデータをインプットして学習や経験をさせても論理を超えたアウトプットは不可能です。

身近なところでは、詩や文章、人の話す言葉の解釈とか意図や真意は、人工知能に理解不能です。もちろん、人間でも真意や意図が理解できない人がいるわけですが、少なくとも言葉の背後にある意味を汲み取ろうとする努力はするわけです。それが人間とAIの違いです。

哲学者がいう言葉の意味が全く理解できないというのは、論理だけで理解しようとしているからで、パスカルのように、潜在意識レベル(直観)で語っているものを肉体意識レベル(論理)で解釈しようとするから全く理解できないということです。

哲学者が一般の人に理解してもらうため言葉を尽くすのですが、なかなか理解してもらえない理由がここにあります。また、哲学者により到達した精神レベルが違うため、同じような言葉を使っていても指し示すところが違う場合もあります。⇒ ※参考:月をさす指(指月の譬)

同じ直観という言葉を使っていても、スピノザとパスカルの指し示す直観は違います。

スピノザのいう直観知(第3種の知)は、パスカルの『幾何学的精神』のことです。パスカルのいう直観は『繊細な精神』のことです。

パスカルは潜在意識レベルで語っていますが、これが無意識レベルにまで到達した人のいう直観はまた次元が違うものになるはずです。もうこのレベルになると言葉では語れない世界に突入します。
※参考:⇒ 老子~第1章:道の道とす可きは常の道に非ず
老子~第14章:之を視れども見えず~直観で捉えたタオは言葉で説明できない

パスカルが、自分の内面を理解するのに有効であると言っていることから、直観というのはとても瞑想的な知を表しています。心を静かにして内面を深く見つめていかなければ獲得することができない思考です。(日本では、これまでに『瞑想録』の和訳題名により紹介されていました)

人間の生き方を考えるには『繊細な精神』が必要であると。すなわち、心を静かにして自分の内面を深く見つめることが重要だということです。そして『繊細の精神』によって神を直観し、神に自分をゆだねる以外に人間の救済はないとパスカルは説きました。

パスカルはキリスト教徒ですから、『神にゆだねる以外に救いはない』とキリスト教的な表現をしていますが、老子であれば、道(タオ)という言葉を使って人間としての生き方を教えています。

パスカルの人間観

ではパスカルは人間についてどのように捉えていたのでしょうか。

パスカルは、人間を偉大さと悲惨さという矛盾する二面性を持つ中間者と考えた。
宇宙における人間の無力さ、社交生活の倦怠と気晴らし、政治権力の不正などの悲惨さの中で、人間は「考える葦」として考える働きにおいて偉大である。
このような人間の悲惨さと偉大さという矛盾する二重性は、キリスト教によって説明されて救われる。
パスカルは、人間の生を三つの秩序に分け、王侯・貴族の属する身体(物質)の秩序、学者が属する精神の秩序をこえて、神の超自然的な愛の秩序に生きることを説いた。

[出典:倫理用語集 第2版/山川出版社]

考える葦

人間はひとくきの葦にすぎない。
自然の中でもっとも弱いものである。
だが、それは考える葦である。
彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するにはおよばない。
蒸気や一滴の水でも、彼を殺すには十分である。
だが、たとえ宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。
なぜなら、彼は自分が死ぬこと、宇宙の自分に対する優越を知っているからである。
宇宙は何も知らない。
だから、われわれの尊厳のすべては、考えることの中にある。
[パンセ]

実存主義

ヨーロッパにおける近代市民社会の成立と資本主義の発達は、一方で深刻な人間疎外の状況をもたらした。
機械文明や管理社会の発達の中で、人々は個性や人間性を失い、画一化・商品化の度を強め、孤立感を深めていった。
こうした中、19世紀半ばにあらわれ、20世紀になって広く注目を集めるようになった思想的立場が実存主義*1である。
*1 歴史的には実存主義は、合理主義(人間の理性を重んじる立場)や、実証主義(観察できる経験的事実のみを知識の対象とする立場)に対抗する思想として成立した。

実存主義では、「本質」よりもまず「実存」*2を問題とする。
現実の人間の生き方を考えるには、抽象的・普遍的な人間一般ではなく、「この私」の具体的・個別的な実存というものをまず考えなければならない。
「この私」がいかに本来の自己のあり方を取り戻し、人間疎外を克服するかを、自己の主体的な決断による生き方の問題として探求する。
*2 自己の存在を自覚し、関心を持ちつつ生きている人間的な存在のあり方を意味する。たとえば、「人間は社会的動物である」とか「人間は本来、善なるものである」などは、人間の「本質」を表現しようとした文である。

実存主義について理解を深めるために、以下引用してみます。

宗教的認識とは何か
嵐のただ中にある舟人を想定しよう。
彼にとって最も切実なのは、どうすれば当面の危機を脱することができるかという問題であり、周囲の海水がどんな成分から成っているのか、嵐はなぜ起こるのか、等々といったことはほとんど問題になるまい。
ある北欧の哲学者は、この舟人のような危機意識に立つ実践的認識を、「実存的」と呼び、実存的な認識における真理を、「主体的」な真理として特徴づけた。

[仏教の思想2~存在の分析〈アビダルマ〉櫻部建・上山春平著/角川ソフィア文庫]

北欧の哲学者というのはセーレン・キェルケゴールのことです。キルケゴールはこう言います。

主体的問題は主体性そのものにかんすることであって、事象にかんする問題ではない。
つまり、問題は決断ということにあり、すべて決断は主体性の中にあるから、そこには客体的には事象のあとかたさえない。
なぜなら、事象が問題になると、主体性は決断の苦痛と危機からいくらか眼をそらせ、問題をいくらか客観的にすることになり、それにともなって決断が延期されることになるからだ。[哲学的断片・あとがき]

自分という存在を自覚し見つめているときに、外部の問題いわゆる本質に関わることを問題にし始めると、心の目が外部に向かってしまうので、いつまで経っても自分を見つめることになりません。

例えば、なにかに悩んでいるとき、(特に女性は)感情の乱れを収めるために他人に相談したり愚痴をいったり長電話をしたりします。確かに気持ちは楽になるでしょうけれど、何の解決にもなりません。男性ならギャンブルに走ったり酒に逃げたりするようなものです。

悩みごとがあるなら人に相談などせず、徹底的に自分と向き合うしかないのです。
内に向けるエネルギーを人に相談することによって、貴重なエネルギーを浪費してしまいます。

悩みごとがあったり何かして辛くなったら人に相談したり愚痴を言ったりするのが習慣になっているような人は、自分の苦しみを人に放り投げているだけなのです。その分相手が気分が悪くなっていきます。

そうはいっても、死ぬほど辛い思いを抱えた人が誰かに相談して苦しさを投げ渡した結果、楽になって自殺を思いとどまった人もいるんだぞ!それのどこが悪いのだ!と、憤慨される方がおられるかも知れません。

『自殺を思い止まった』のであって『問題が解決した』のではありません。嵐のただ中にある舟人にとっては、如何にこの危機から脱することができるのかが最優先なのであります。

ですから問題を解決しようとするのであれば、外部に目を向けるのではなく内面の心に目を向けなければならないのであります。

これが、『学問的な真理』と『宗教的な真理』のあり方、二つの真理の認識のしかたは根本的に違うというのがキルケゴールの指摘です。

★学問的真理:外部、対象に対する真理。
★宗教的真理:自己に対する真理。

そして、この両者併せての全体なのであって、どちらか一方に偏るものではありません。

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