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エチカ―倫理学(上・下)/スピノザ【本要約・ガイド・考察】

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エティカ~幾何学的秩序に従って論証された


Ethica, ordine geometrico demonstrata

17世紀オランダの哲学者バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza)の著書。
※ラテン語名:ベネディクトゥス・デ・スピノザ(Benedictus De Spinoza/1632~1677)

ラテン語で書かれ、ユークリッド幾何学の形式に基づき、神・人間の精神について定義公理から定理を導き、演繹的に論証。

[映像出典:NHK-100分 de 名著:スピノザ『エチカ』2018年12月(國分功一郎)]

構成

第1部 神について
第2部 精神の本性と起源について
第3部 感情の起源と本性について
第4部 人間の屈従あるいは感情の力について
第5部 知性の力あるいは人間の自由について

形而上学、心理学、認識論、感情論、倫理学の内容がそれぞれ配列されているが、中心的な主題は倫理である。特徴は論述形式が全体を通してユークリッドの『原論』の研究方法から影響を受けている点であり、全ての部の冒頭にいくつかの定義と公理が示され、後に定理(命題)とその証明とその帰結が体系的に展開されている。

概要

まずスピノザは万物に原因があり、またそれ以上探求することができない究極的な原因が存在すると考える。この究極的な原因が自己原因(causa sui)と定義されるものであり、これは実体、神、自然と等しいと述べる。神は無限の属性を備えており、自然の万物は神が備える無限の属性の様態の一種である。

このような汎神論はんしんろんの観点に基づけば、神こそが万物の内在的な原因であり、そこから神の自由を導き出すことができる。スピノザは人間が本来的に自然であることを否定し、汎神論の元での決定論を主張する。

神から派生する無限の属性の中から人間の幸福の認識に寄与する要素を抽出するためには人間の身体と精神について考察することが必要であり、スピノザは感覚的経験に基づいた認識の非妥当性を指摘する。

そして万物が有限の時間の中に存在し、外部の力によってしか破壊されない自己を存続させる力「コナトゥス」の原理に支配されているとし、人間の感情もこのコナトゥスによって説明した。また人間の感情とは欲望、喜び、悲しみの三種類から構成されており、例えば外部の原因の観念を伴う喜びが愛であり、外部の原因の観念を伴う悲しみが悩みであると理解する。

この感情を制御することができない無力こそが人間の屈従の原因であり、理性の指導に従うことで自由人となることができると論じる。本来的に不自由な人間が自由を獲得するためには外的な刺激による身体の変化に伴って生じる受動的な感情を克服する必要がある。

そのことによって人間は感情に支配される度合いを少なくし、理性により神を認識する直観知を獲得することができる。スピノザは直観知を獲得して自由人となることに道徳的な意義を認め「すべて高貴なものは稀であるとともに困難である」と述べて締めくくっている。

スピノザ自身による、『国家論』での『エチカ』要約

思うに次のことは確実な事柄であり、かつ我々はわが『エチカ』においてその異なることを証明している。すなわち、人間は必然的に諸感情に従属する。

また人間の性情は、不幸な者を憐れみ、幸福な者をねたむようにできており、同情よりは復讐に傾くようになっている。

さらに各人は、他の人々が彼の意向に従って生活し、彼の是認するものを是認し、彼の排斥するものを排斥することを欲求する。

この結果、すべての人々はひとしく上に立とうと欲するがゆえに、みな争いにまきこまれ、できる限り仲間を圧倒しようとつとめ、こうして勝利者となる者は、自分を益したことよりは他人を害したことを誇るに至る。

そして宗教がこれと反対に、各人はその隣人を自己自身のごとく愛さなければならぬこと、言いかえれば他人の権利を自己の権利と同様に守らなければならぬことを教えているのは誰しもよく知っているのであるけれども、この知識はしかし、我々のすでに示したように、感情に対してたいした効果を及ぼさない。

もっとも病いが感情そのものを征服して人間が生気なく横たわっている死の床においてとか、人間が何の対人関係も持たない教会堂の中においてとかなら、それは効果はあるが、それが最も必要であるべき職場とか宮廷とかにおいてはまるで役に立たぬのである。

さらに我々の示したところによれば、理性はなるほど感情を制御し、調節することはできる。しかし我々は同時に、理性そのものの教える道が実に峻険なものであることを見た。
だから、民衆なり、国務に忙殺される人々なりが、もっぱら理性の掟だけに従って生活するように導かれうると信ずる者は、詩人たちの歌った黄金時代もしくは空想物語を夢みているのである。

[出典:『国家論』政治論~第1章:第5節]

スピノザ哲学以前:デカルトについて

ルネ・デカルト(Rene Descartes/1596~1650)
フランスの哲学者、数学者、自然科学者。近代科学の数学的・論理的手法を用いて近代哲学の基礎を確立。

我思う、故に我あり/コギト=エルゴ=スム(cogito ergo sum)
オランダやドイツを旅する中で、人間の慣習は地域ごとに異なり、神聖とされる慣習にも確かな真理が欠けていることを知った。こうした体験を通じて、デカルトは、人間が後天的に得た知識は確実ではないと考えた。では、人間にとって確実なものとは何か。

デカルトはあらゆる物事を疑ってみた。すなわち、思考の中にある知識や考え(観念)の一つひとつを疑い、権威や慣習や感覚によって形成された観念をすべて疑わしいものとして排除することを試みたのである。この結果、自分を疑っている自分だけは疑うことができないという結論に達した。このことをデカルトは 「われ思う、ゆえにわれあり」と表現し、これを哲学の第一原理とした。
*
デカルトが説いた、あらゆることを疑うことによって確かなものを明らかにする方法を方法的懐疑という。コギト=エルゴ=スムの原理から彼が得た人間における確かなものとは、「疑う自分」から感覚的なものをすべて排除した、人間が生得的にもっている純粋な精神(思考力)である。デカルトはこれを理性(良識、ボン=サンス)とよび、すべての人間が平等にもっているとした。
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デカルトは、方法的懐疑によって確立された理性を原理として、世界(神・人間・自然)を論理的・数学的に証明することは可能であり、それには厳格に定義された言葉(範躊、カテゴリー)が必要だと考えた。この厳格な定義を明晰判明という。
定義された言葉や記号によって自然現象などを論証する方法を演鐸法という。
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デカルトは、世界は神と精神と物体の3つの実体から成り立っていると考えた。実体とは「それ自身で存在し、他のものを必要としないもの」である。デカルトによると、神は独立して存在する実体(無限実体)であり、精神と物体は神に依存する実体(有限実体)である。

すべての物体は長さ、幅、厚さなどを数量として捉えることができ、物体によって構成される自然は数学的に数量として把握され、また、自然の運動や変化はあることを原因として機械のように因果関係として説明することが可能になった。このような自然観の捉え方を機械論的自然観という。

デカルトは、「思惟(しい)」を特徴とする精神(自我)と、「延長」を特徴とする物体は、それぞれ独立した実体であるとする物心二元論(身心二元論)を唱えた。しかし人間は精神と物体をもち、たがいにどのように交渉しているかという、新たな哲学的難問が生まれた。

[出典:よくわかる倫理(MY BEST)学研教育出版]

デカルトの誤謬ごびゅう

精神と物体はそれぞれ独立した実体であるとする『物心二元論』のデカルトに対し、スピノザは神が主体(実体)で精神・物体を客体(属性)とするウパニシャッド的『一元論』を提唱した。

デカルトの道徳論

社会生活における道徳について、デカルトはあらゆる学問の知識を修得した末に確立されるものであるとし、それまでに活用するものとして「仮の道徳」なる3つの規則を示した。
【仮の道徳】
①法律や慣習に従うこと。
②行動にあたっては態度を明確にして迷わないこと。
③運命に打ち克つより自己に打ち克つこと、また世の秩序を変えるより自分の欲望を変えるように努めること。
*
【デカルトの道徳観】
情念(感情や欲情など)とは体が自分を守ろうとして起こる反応であり、驚きや悲しみとして経験されるものである。情念は身体にとっては能動的な反応であるが、精神にとっては受動的であり、精神の能動的な活動を妨げるものである。そこで、理性を正しく働かせて情念を支配し、人間としての気高い心(高邁の精神)に従って生きることをデカルトは道徳の根本とした。

[出典:よくわかる倫理(MY BEST)学研教育出版]

『仮の道徳』とは肉体的(本能的)レベルで生きる世俗一般の人たちに向けた論理のことで、とりあえずこの3つさえ守っていればそこそこ人間らしい生き方ができますよ。で、道徳の仮免許が取得出来たら次は本試験合格を目指しましょう。そのためには理性を働かせて、良識(高邁の精神)に従って生きることができるよう学問修養を積みましょうね。
そこで障害となるのが情念(や欲望)なんですね。情念に惑わされると理性が働きませんからね。知能低下を招いてバカみたいになります。ですから、良識に従って生きるためには、情念のコントロールが必要となってくるのです。

と、デカルトは説く。

高邁こうまいの精神』の人:スピノザ

デカルトの理性主義を受け継いだスピノザは、デカルトやベーコンの思想に影響を受けつつ、独自の合理論を展開した。
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感情の束縛から脱して、他に隷属しない認識とは何かを明らかにする。
理性による感情の抑制が人間精神に何をもたらすかを論じ、最後に結論として精神の自由、人間の至福の問題へと到達する。
*
デカルトは神・精神・物体の3つを実体であるとしたが、スピノザはこれを否定し、神だけが実体であるとして、一元論を主張した。
*
スピノザによれば、人間は自然の一部であり、自然は神の単なる現れであり、すべては神が自己原因して自分を展開したものである。そして、神は自然の創造者でも超越者でもなく、自然の中に存在する。スピノザはこれを神即自然(かみそくしぜん)といい、万物は神であり、神と世界と同一であるとする汎神論を唱えた。

[出典:よくわかる倫理(MY BEST)学研教育出版]

スピノザ哲学の背景

アムステルダムの富裕なユダヤ人の貿易商の家庭に生まれる。両親はポルトガルでのユダヤ人迫害から逃れオランダへ移住してきたセファルディム

幼少の頃より学問の才能を示し、ラビとなる訓練を受けたが、家業を手伝うために高等教育は受けなかった。商人として働いていたが、商人としての利益より、人生の目的に尽くす方が利益は大きいとして商人を止める。

伝統から自由な宗教観を持ち、神を自然の働き・ありかた全体と同一視する立場から、当時のユダヤ教の信仰のありかたや、ヘブライ語聖書に含まれる書(モーセ五書)の著者がモーセであるとする定説への批判など聖典の扱いに対して批判的な態度をとった。
恐らくそのため1656年7月27日にアムステルダムのユダヤ人共同体からヘーレム(破門・追放)にされる。狂信的なユダヤ人から暗殺されそうになった。

スピノザの世界観~神即自然

一神教のキリスト教・ユダヤ教と相反するスピノザの神観

自然=精神と物体両者がひとつになった存在である。
宇宙森羅万象に精神があり理路整然とした秩序(ロゴス)に従い運行している。
神=自然の実体。神の属性=自然。
自然の実体が神。神が現れたものが自然である。主体(神)と客体(自然)が一体となっている:神即自然。神と世界は同一である。世界は神の表れ、神の体。

私達人間は、この神の世界の中に入っている、この自然の一部分である。
だから私達は、肉体という物体と、精神という心を持っている。すなわちそれは大いなる神の意識の表れである。

観念の獲得方法

スピノザは、人間には3種類の知(認識:観念の獲得方法)があるという。第3種の知である直観知によって個物を必然的・無時間的なものと理解することを「永遠の相の下に」理解すると言い表した。

  • 第1の知:表象知誤謬の唯一原因(誤った知)外部の刺激によって生まれる感覚的経験に基づくもので混乱した非妥当な観念から成る
  • 第2の知:理性知/科学的理解によって得られる概念的・推理的認識
  • 第3の知:直観知=自分を含む物体を神の一部(個物)として理解する知/物の本質を具体的に把握してこれを神への直接依存の中に見るもの

スピノザによれば、人間には欲望・喜び・悲しみという3つの基本的な感情がある。これらを直観知によって必然的なものと理解するとき、人間は感情の束縛から解放されて自由になる。

このように自分の感情の必然性を理解することは、それをも神の一部として認め、神を愛すること(神への知的愛)であり、ひいては神が自分自身を愛するところの一部(神の知的愛)である。この「神の知的愛」の中に人間の徳と幸福があるとスピノザは考えた。

良識(高邁の精神)に従って生きる道

感情はそれと反対の、かつそれよりも強力な感情によってでなくては、抑制されることも除去されることもできない。
[定理7]

理性は自然に反する何ごとをも要求せぬゆえ、したがって理性は、各人が自己自身を愛すること、自己の利益・自己の真の利益を求めること、また人間をより大なる完全性へ真に導くすべてのものを欲求すること、一般的に言えば各人が自己の有をできる限り維持するように努めること、を要求する。
[定理18:備考]

物は我々の本性と一致する限り、必然的に善である。[定理31]

人間は受動に従属する限りにおいては、本性上一致するとは言われえない。[定理32]

不埒な欲望や悪癖を止めようとするのはなかなか困難なことだが、心を奪われ夢中になれるもっと素晴らしいものに出会ってしまったら、そんなちっぽけな欲望など憑き物が落ちるように簡単になくなってしまう。

たとえば、ヤクザの情婦になった女がDVを受けても優しい言葉をかけられるとまた離れられなくなってしまうような……そんな目先のつまらない一瞬の幸福より、理性的で愛情深い男と出会い、愛し愛される本当の愛の喜びを知ってしまったために、キッパリ簡単にヤクザ者と別れられるようなもの。そして今後は、野獣的で本能の塊のような男に惹かれることもない。

自己の真の利益

宗教、特にキリスト教では、欲望(性欲・物欲等)は悪である、その欲望を超越してこそ初めて神に至るという教えだが、スピノザは『我々の本性と一致する限り、必然的に善である』と言う。しかし『受動に従属する限り、本性上一致すると言われえない』だから、絶対に完璧な善ではない、と。

たとえば、男女が互いに愛し合っている(性欲を求めあっている)場合、これは本性上善である。性欲は善でも悪でもないどちらに属するものでもない。互いに愛し合っていて、互いに求め合っているとき、それはどちらも受動ではない、能動である。ゆえに、我々の本性と一致する限り必然的に善である。

しかし、この男女の行為が受動に従属する限り、本性上一致するとは言われえないから、それは善ではない。(※例:夫婦の営みで夫または妻のどちらか一方の要求にいやいや応じる場合)

このように、『夫が求めたら妻には応じる義務がある』というような、仮の道徳のことをスピノザは誤った知(表象知)とした。

つまり、『仮称道徳』とでも言うべき誤った知で溢れかえる『この世の道徳』・常識・慣習にがんじがらめになっている人は、本性上正しく生きているといえない。本性上正しく生きている人こそ善なのだとスピノザは言う。

自分の価値観を他人に押し付ける愚

自分の愛するものを他の人が愛することを、また、自分の意向通りに他の人々が生活することを、単に感情に基づいて努める人は、本能的にのみ行動するものであって、それ故に人から憎まれる。
*
ところが他の人々を理性によって導こうと努める人は本能的に行動するのではなく、友愛的かつ善意的に行動するのであってその心中は極めて確固たるものがある。
[定理37:備考1]

⇒『赤児にモツ煮込みを喰わせるな』的な。

いわば同調圧力をかける側にいる感情的本能的で、理性がすっぽりと抜け落ちているような人。

『直観知』で生きている人は、理性によって導こうと努める人であり、『表象知』で本能的に行動するのではなく、友愛的かつ善意的に行動するのであって、理性的かつ良識に従って生きている。

行動の原点は宗教心

さらに、神の観念を有する限りにおける我々、すなわち神を認識する限りにおける我々から起こるすべての欲望および行動を私は宗教心に帰する。
しかし我々が理性の導きに従って生活することから生ずる、善行をなそうとする欲望を私は道義心と呼ぶ
次に理性の導きに従って生活する人間が他の人々と友情を結ぶにあたっての根底となる欲望を私は端正心と呼び、また理性の導きに従って生活する人々が賞賛するようなことを端正と呼び、これに反して友情を結ぶのに妨げとなるようなことを非礼と呼ぶ。
[定理37:備考1]

理性に従って生きる人の根源にあるのが、善を為したいという欲望であり、その根底となる欲望が、道義心・端正心であり、そのもっとも根源にあるものが宗教心である。

至福を享受することが先

ゆえに理性に導かれる人間の究極の目的、言いかえれば、彼が他のすべての欲望を統御するにあたって、規準となる最高欲望は、彼自身、ならびに彼の認識の対象となりうる一切のものを妥当に理解しようとするように彼を駆る欲望である。
[付録:第4項]

自己ならびに自己の感情を明瞭判然と認識する者は神を愛する。そして彼は自己ならびに自己の感情を認識することがより多いに従ってそれだけ多く神を愛する。
[定理15]

この第三種の認識から、存在しうる限りの最高の精神の満足が生ずる。[定理27]

至福は徳の報酬ではなくて、徳それ自身である。そして我々は、快楽を抑制するがゆえに至福を享受するのではなくて、反対に、至福を享受するがゆえに快楽を抑制しうるのである。
[定理42]

『神即自然』自然の一部である自己を知ることは神を知ることであり、第三種の知=直観知の認識から存在し得る限りの最高の精神の満足が生じる。その最高の欲望を満たせば低レベルの欲望に惑わされることはない。

表象知のレベルにある人は、欲望を克服しなければ(捨てなければ)至福は手に入らないと思って苦悶する。快楽を捨てた先に至福があると思って苦しい禁欲生活をするが、決して至福を得ることは出来ない。

そうではなく、至福というのは徳それ自身なのだから、至福を先に享受することによってこそ、低レベルな欲望やくだらない快楽に惑わされることがなくなるのである。

物事をよく考える人は、自分の心をしっかり見つめ、自分を正しく愛することを学び、そして至福を先に手に入れてしまう。そうなればくだらないことに振り回されることがない。

そこに到達できない人は、間違ったものの考え方をする。その間違ったものの考え方がデカルトのいう、因習・慣習・仮の道徳。誤った知識、倫理観、世間の常識、世間体などそういうものに縛られている限り、絶対にたどりつけない。

無知は冥土の旅の一里塚

すなわち無知者は、外部の諸原因からさまざまな仕方で揺り動かされて決して精神の真の満足を享有しないばかりでなく、その上自己・神および物をほとんど意識せずに生活し、そして彼は働きを受けることをやめるや否や同時にまた存在することをもやめる。
これに反して賢者は、賢者として見られる限り、ほとんど心を乱されることがなく、自己・神および物をある永遠の必然性によって意識し、決して存在することをやめず、常に精神の真の満足を享有している。
[定理42:備考]

無知な者は、いろんな外部要因に振り回され、日常生活のほとんどを神を考えることなど全くせず、つねに生活にあくせくしている。外部からの働きかけが終わったとき、それは即ち死ぬ時である。

結び

さてこれに到達するものとして私の示した道はきわめて峻険であるように見えるけれども、なお発見されることはできる。また実際、このように稀にしか見つからないものは困難なものであるに違いない。なぜなら、もし幸福がすぐ手近にあって大した労苦なしに見つかるとしたら、それがほとんどすべての人から閑却かんきゃくされているということがどうしてありえよう。
たしかに、すべて高貴なものは稀であるとともに困難である。

スピノザは唯物論者なのか?

スピノザは『エチカ』の中に自己の哲学思想のすべてを結集させた。典型的な汎神論と決定論のうえに立って万象を永遠の相のもとに眺め、人間の行動と感情を嘆かず笑わず嘲らず、ただひたすら理解しようと努めた。ドイツ観念論体系成立のうえに大きな役割を演じ、また唯物論的世界観のすぐれた先駆的思想でもある。

上巻の表紙には上記のように書かれている。スピノザを唯物論者とみなすのは、ユダヤ・キリスト教など一神教的世界観の人たちだけである。
自然は神が作った被造物で、心など持たない単なる物。人間は、被造物の管理者として神から任命されている。自然を管理支配する立場であるから、自然に頭を垂れるような敬虔さは微塵もない。

山の幸・海の幸、自然(の恵み)に感謝し、山や海、お天道様に手を合わせる美しい姿を、一神教的世界観の人たちは忌むべきものとする。邪教だ!偶像崇拝だ!!と。
だから、『神即自然』~自然は神、被造物を神とするスピノザを唯物論者とするのである。

スピノザは、自然は神直接の現れ、自然は精神であり心を持つ『神即自然』の一元論。一方、唯一絶対神のユダヤ・キリスト教的世界観の二元論では、スピノザ哲学を理解できない。言葉を変えれば、二元論的思考では高邁な精神へ到達できない。即ち一神教的世界に永遠に平和は訪れないということだ。

アインシュタインが信じる神

ユダヤ人であったアインシュタインは、航海中ラビから電報で、「あなたは神を信じるか?」との質問に、「私はスピノザの神を信じる。それは、この世界の秩序ある調和の中に自身をあらわされる神であり、人間の運命や行動にかかわる神ではない」と返信した。

(了)

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