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神の神経学:脳に宗教の起源を求めて/村本治【本要約・ガイド・目次】

更新日:

「脳に内在する神」の発見。

脳の働きと宗教活動の結びつきをやさしく解明。
「神」の起源は、脳内の神経回路にある。神経学者、神経内科医として日米両国で、脳の高次機能障害の診療に活躍してきた著者の、長年の体験と研究の成果。宗教とは?神とは?宗教に関わる悲劇と紛争が後を絶たない現実を前に、今、宗教の起源を脳内の神経回路にとらえ、その原点に光をあてる。混迷する現代の宗教に対し、神経科学に基づく「宗教改革」の可能性を問う。

はじめに

本書は、哲学、神学、心理学、人類学、社会学の境界分野で長年の間模索され続けてきた宗教の起源の問題を、脳の科学すなわち神経科学の視点から新たにとらえ、一般の人々にも分かりやすい形で統括的に展望することを目的として書かれた。

宗教とは何か、神とは何(誰)か、神は存在するのか、存在するとすればどこに存在するのか。これらの疑問は人間の歴史を通して、繰り返し問いかけられ、繰り返し論じられてきた究極の疑問である。「神」という言葉を使わなくとも、人間が時間と空間を超えた超自然的存在を信じ、その存在に希望を託し、その存在に感謝し、その存在に恐れをいだいて生きて来た事実は、時代と場所、人種と文化を超越した、人類の歴史を通しての普遍的な現象と言えよう。このような人類に普遍的な宗教活動の裏には、どのような医学的、神経生物学的基盤があるのであろうか。

本書は、人間の宗教活動に関する現代の神経科学の進歩を、一般の方々に向けて分かりやすく解説すると共に、その理解が人類の宗教活動にどのような影響を与えるかを考察したものである。
宗教の心理学的、精神医学的基盤は、心理学、精神医学のごく一部の専門家の間で研究されてきたに過ぎなかった。人間の心の働きや行動が全て脳によって支配されている以上、宗教活動も神の概念もまた、脳の働きの結果であることは、神経科学者にとっては自明に思えることである。
特に、近年の神経科学の新しい方法論の進歩は、宗教体験に伴う人間の脳の活動に関する知見に、飛躍的な進歩をもたらした。しかし、そのような新たな知見は、われわれが日頃慣れ親しんでいる宗教とどのように関係しているのであろうか。脳の側から宗教を見直すことにより、人間の宗教活動の根源に新たな視点を打ち出すことはできないであろうか。これが著者の最初の出発点であった。

著者は長年、神経科学者ならびに神経内科医として、日本とアメリカで脳の高次機能に障害を持つ患者さんたちの診療を中心に、臨床の最前線で働いてきた。そのかたわら、脳の機能と人間の行動や心理との関係、宗教が医療や精神神経疾患に与える影響にも深い興味を持ち、考察と研究を重ねて来た。

本書では先ず、宗教活動が脳の各部位の働きと直接に結びついていることを示す最近の知見を紹介し、様々な宗教体験と宗教に関した行動が、脳の機能で説明できることを示す。「神経」はまさに「神」の「経」であったことが再発見されたとも言えよう。医学生物学の技術的進歩は、近年加速的に早まっており、この分野も時々刻々変化を遂げている。しかし、これまでに積み重ねられた知見は、宗教と脳との関係に益々確立した見解をもたらしたと私は見ている。従ってこの時点で、これを一般の人々に紹介することは意義あることであろうと考える。

そのような科学的知見の紹介の後で、第二部では宗教と宗教思想とを概観し、宗教が脳の発達と並行して発達してきたこと、宗教自体の中に人の心(すなわち脳)と神や仏との関係が言及されていることを見る。そしてそれらに基づいて宗教を新しい視点から見直そうというのが、第三部の主題である。実体としても、宗教的表象としても、神が「脳に内在する」ことをここでは論じる。世界を取り巻く宗教問題は、この新しい視点からどのように変わり得るであろうか。世界的「宗教改革」は可能であろうか。ここでは著者の宗教家の方々への提言も論じる。

私は本書が、「昔からある無神論者の議論」として、宗派に関係なく多くの宗教家から一蹴される可能性があることを充分覚悟している。「神と宗教は人間の希望を満足させるイマジネーションに過ぎない」という議論は、無神論者の基本的立場であるからだ。しかし宗教の背後にある脳のメカニズムの研究は、単なるイマジネーションを遥かに超えた、複雑で深淵な心と脳との相関関係の世界を開きつつある。
最近の神経科学の新しい知見の多くは、古くからある有神論者と無神論者との間にある無限に見える隔たりに、むしろ逆に橋渡しをする希望を与えていると私は見ている。脳に基づいた宗教のメカニズムの解明は、単なる有神論無神論不可知論、また特定の宗教、宗派を超えて、宗教に対する新たな建設的視点をもたらす可能性を秘めているのである。第三部では、有神論と無神論との橋渡しをする試論として「神経学的神論」を考察する。

本来人々に希望と幸福をもたらすはずの数々の宗教が、歴史の多くの時点で、また現代でも世界の各地で、戦争や悲劇の根源となっている事実は、誰も否定できないであろう。人々は現在、全般的には平和で健康な生活を望み、社会経済体制はその方向に向かいつつあるように見える。
しかしその一方で、宗教に起源を持つ紛争は何千年たっても解決せず、世界各地でますます泥沼化するように見える。西洋文化の源流となる三つの宗教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地であるエルサレムに、何千年にも渡って決して平和が来ない事実は、この悲劇を象徴している。

神経科学が解明する「脳に内在する神」の再発見は、全ての人に神と宗教とを再検討させるきっかけを与えるであろうことを、著者は希望している。有神論者と無神論者、西洋と東洋の宗教、妥協を許さない原理主義宗派と宗教的寛容を目指す宗教合同の動き、これらの対立関係は、「脳に内在する神」を人々が再発見することで、大きく変わるかも知れない。

キリスト教の歴史を見ても、科学の知見がその宗教観に大きな見直しを迫った例は幾つかある。
コペルニクスによる地動説はその一つであるし、ダーウィンによる進化論はもう一つの例と言えょう。いずれの場合にも科学の新しい知見に直面して、人々は宗教を取るか科学を取るかの、二者択一を迫られたように感じ、ある人々は宗教を捨てて無神論に走り、別の人々は科学を否定した。しかし時が経つにつれて、多くの宗教は徐々にその姿勢を変え、科学の新しい知見を取り入れながら、宗教の新たな方向を見出している。現在では少数の原理主義的宗派を除いて、多くの宗教家はこれらの科学の知見を受け入れながら、その宗教活動を続けている。

「脳に内在する神」の再発見が、今後世界の宗教にどのように受け入れられ、どのような影響を与えるかは、私は予測がつかない。しかし、過去の歴史が将来を示唆するとすれば、宗教が神経科学の進歩を否定することは不可能であるし、逆に神経科学の知見が宗教を消滅させることもあり得ないことであろう。宗教は必ずこの知見を基に、新たな方向性を見出すのではないだろうか。
本書がその指針の一部となれば、著者の本望につきる所である。

なお著者は、本書の学術的内容に関しては、最大限に正確性を期した積りだが、一人でも多くの予備知識のない一般の方々に広く理解して頂きたいという希望から、高度に専門的な知識については、正確さを損なわない範囲でわかりやすく簡素化した部分がある。また、わかりにくい医学上のデータの羅列や、宗教や哲学の文献の長々とした引用や概念の解説も、一般の読者の方々にいたずらに疎外感を与える可能性があり、控えている。神経学、宗教学、哲学の専門家の方々から見れば、本書の議論は表層的で物足りない部分があると感じられるかも知れないが、それはこのような理由によるので、ご理解いただきたい。
2003年8月
アメリカ・オレゴン州・ボートランドにて
村本治

目次&概要・抜書き

プロローグ:問題提起宗教の起源を求めて

幾つかの疑問
精神病や薬物による妄想や幻覚、てんかんに伴う精神的体験の中に宗教書に書かれている宗教体験と酷似するものがあることに、私は深い興味を覚えざるを得なかった。これらの経験は、脳の機能と宗教との間に緊密な関係があることを私に確信させた。

宗教・神・宗教体験—本書で扱う概念
献身的な信仰には必ず特有の個人的宗教体験が伴うものである。このように見てくると、宗教を医学生物学的に解析するには、先ず個人レベルで宗教体験がどのようにして起こり、個人的な信仰がどのように形成されるかに取り組むことが基本であると考えられる
そのような観点から、本書では先ずこのような個人レベルで起こる体験と行動という観点から宗教を扱うことにする。
従って、本書で扱う「宗教」は、宗教の種類や宗派に関係なく、様々な形の宗教と考えられている活動を包括的に含める
また本書では「神」という言葉を頻回に使うが、それは特定の宗教の神を意味するものではない
「神」「仏」「創造者」、あるいはそれに相当する人間を超えた崇拝の対象の定義が、宗教により個人により異なる以上、すべての人間が合意する「神」の定義は存在しない。
本書で使う「神」という言葉は、全ての宗教がそれぞれに崇拝している人間を超えた存在を一般的にさしている総称である、ということを理解していただきたい。

第一部:脳の中に宗教を求めて

脳の機能自体が非常に複雑で、その基本的な構造と機能とを一応は理解できない限り、本書の主題を完全に理解することが困難なことである。この困難を全ての読者に克服して頂くのは至難の業としか言い様がない。それでも、なるべく多くの読者に本書の内容を理解して頂くため、第一章と第二章では、神経科学に予備知識のない方々に向けて、本書で扱う基本的な脳の知識と研究方法とを解説することにした。

第一章:宗教体験に関連した脳の構造と機能

感覚と運動を司る脳の部分
このような一連の経験は、あなたに特別な感情を引き起こすかもしれない。例えば故人は死んでもその魂はどこかに生き続けているとか、合掌をする中で、故人は私の別れの言葉をどこかで開いているとか、更には伯父と私はそれ程親しくなかったが、ここで初めて心の中で伯父と通じ合えて一体になれる、というような感情を持つかもしれない。
不思議なことに、亡くなってしまった伯父に対して、非現実的とは知りながらも抑えきれない不思議な思いと感情に包まれることは、仏教やキリスト教の宗教を超えた体験と言える。このような感情、思考、行動は、脳の働きに全面的に依存している
人間の知的機能や感覚機能が関係する神経細胞は、ほとんどが脳の表面の層に集まっており、これを大脳皮質、あるいは略して皮質という。そして重要なことは、意識にのぼる全ての精神的な体験は脳を介することである。脳を介さない意識的体験は存在しない。
これらの基本的な視覚、聴覚、触覚、運動、などの機能は全て、脳の表面の大脳皮質という神経細胞の層状構造によって制御されており、これらの基本的機能を行なう皮質を一次的感覚・運動皮質という。これらは人間が外の世界と情報をやりとりしたり、外の世界に働きかけたりする、最も基本的な最初の「窓口」の役割をする。
大脳辺縁系」は、側頭葉の内側深部にある海馬、前部にある扁桃核、側頭葉皮質の一部に加え、視床、視床下部、帝状回などの構造を含めた、脳の中心部にある大きな円周型の構造であり、周囲の歴の各部位を連結する形で回路を作っている。またその下にある自律神経の中枢である視床下部と密接に接続して、多くの動物的、植物的感覚など、人体の内部に発生する感覚を脳に受け入れる。

大脳辺縁系の司る機能⇒4つのF
食べる(feeding)/闘う(fighting)/逃げる(fleeing)/生殖行動(fuck)
これらのいわゆる動物的で、比較的原始的な機能の他、恐怖、怒り、歓喜などの感情、学習と記憶、自律神経機能など、人間の内部に起こる感覚や体験は、大脳辺縁系を通して、その上位の大脳皮質で処理されたり制御されたりする。なお、喫覚と味覚は、大脳辺縁系を介して脳に入ってくる。
海馬」は記憶を制御する役割を果たす。実際の記憶情報は、脳の各部に貯蔵されるが、海馬はそれらの記憶された情報の出し入れのための情報経路となる。海馬が損傷されると、記憶は残っているのに思い出せない、新しい情報を覚えられない、という症状が起こる。宗教体験との関係では、過去の経験を現在に結びつける、たとえば昔死んだ人の霊が現在見られる、というような体験には不可欠な部位である
扁桃核」は側頭葉の前部の内側に埋め込まれた神経細胞の大きな集団であり、危険を知って攻撃的な反応を行なったり、敵と味方を区別するなど、感情が関係する対外交渉に重要な構造である。神や霊や像など、外部の存在に感情的な反応を表すことが多い宗教活動では、扁桃核が大きな役割を果たすと考えられている。

様々な感覚情報を統合する「連合野」
連合野の内部では、感覚情報の入力と、その処理結果の出力となる反応との間に、沢山の神経細胞が複雑に介入するため、その結果として人間らしい複雑な反応が見られるようになる。統制のとれた行動を第一とする宗教活動には、このような連合野の働きは不可欠である。連合野は、また複数の感覚からの入力を統合して、一つの体験に仕立てるオーケストラのような働きもある。その場合、連合野の出力は腕を動かしたり、食べたりする運動ではなく、認知、記憶、意識、言語、判断、計画といった精神的活動となる。

主な連合野とその機能
視覚連合野(後頭葉前部) = 物体、文字、顔、色などの認識
聴覚連合野(側頭葉上部) = 言葉、音の高さ、音色、などの認識
体性感覚連合野(頭頂葉) = 触覚、方向感覚などの認識
運動連合野(前頭葉後部) = 手足顔目口などの協調した運動
これらは、感覚や運動の一つの様式に対応しており、それらの感覚や運動の中枢の直ぐ隣に配置され、対応する様式の情報処理を行なう領域である。これらの一次的、基本的な連合野の上に、更に高次な複数の感覚様式を統合させる、最も複雑な神経回路から成る連合野が存在する。

高次の連合野
◆側頭・頭頂連合野 = 聴覚、視覚、記憶の統合
人の声を聞いてその人の顔を思い浮かべる体験、言葉を聞いて漢字を思い出す体験など。
◆後部頭頂連合野 = 空間感覚、運動感覚、記憶の統合
左右、上下、前後、大小、遠近、などの比較概念とその認識、計算、物体の三次元空間での位置関係の認識、手本の真似をして絵を描く、形の違う積み木を順番に組み合わせる、体の部位の認識、右手を通し次に左手を通して順序だって着物を着ること、など。
◆前頭前連合野 = 全ての感覚連合野、運動連合野と記憶とを統合
自分の内外の全ての感覚を使って全体像を把握し、それを知識や記憶と照らし合わせて統合し、判断を下し行動の決断をする。いわば脳全体の指揮者のような役割。統合して判断を下すための情報を作業記憶に保持する機能もある。
◆旁辺縁領域=大脳辺縁系と他の連合野の認知機能の統合
記憶、情動(怒り、恐怖、喜び、悲しみ)、臭いと味覚、内臓感覚(食欲、性欲など)を他の感覚や認知機能と統合させる。魅力的な異性を見て、映画俳優の誰々と似ていると思い、魅力を感じ性欲を起こす体験はその典型。

人間の認知、記憶、意識、言語、判断、計画などの最も高等な脳機能は、全て連合野によって起こされる。これは宗教活動についても、同じである。つまり、神の声を聞いたり、仏の姿を見たり、誘惑を振り切って戒律を守ったりする宗教活動は、多くの感覚が動員された複雑な体験であり、まさにこれらの高次な連合野が関係する複雑な精神活動のひとつなのである。前頭前野(prefrontal cortex)=前頭前連合野

人間の個人的宗教活動の要素と脳の機能

第二章:脳の働きを調べる方法

心理学の実験と観察から
脳損傷患者の観察から
病跡学的アプローチ
脳の刺激実験から
脳に作用する薬物の反応から
脳の電気生理学的研究から
脳画像診断法から

第三章: 神の存在と人間の認知—歴史的考察

十七世紀、十八世紀の哲学者ーデカルトとカント
西洋哲学の分野で人間の認知能力と神の存在との関係に言及したのは、十七世紀のフランスの有名な哲学者、ルネ・デカルトが最初であろう。デカルトは神が存在する理由を、その「省察五」の中で深く考察している。
「自分は全知全能の完全な神を知る能力が与えられている。誤りだらけの自分の不完全な認知能力だけで、なぜ完全な神の存在を知ることが出来るのか。それは本来不可能なはずである。従って、神の観念は不完全な人間の作り出したものではなく、完全な神によって不完全な人間に与えられた観念に違いない。そのような神の存在なくしては、この完全な神の観念は自分に備わるはずはない」
このデカルトの、神の存在の「証明」は、一種の循環論理であるとして、後世において批判される。つまり、神の存在を証明するのに、自分が神の存在を知っていることを前提にしているのだ。しかしここで重要なことは、デカルトが神の存在を人間の認知能力、あるいは感性を通して定義し、証明していることである。
神の観念が人間の心に元々備えられた(神から与えられた)ものという概念は、本書で以下に展開していく、神が脳に起源するという概念と一脈通じるものがある。
デカルトの影響を大きく受けたオランダの十八世紀の哲学者スピノザは、神の存在を、人間を含む全ての存在の中に見出すことが出来ることを論じ、いわゆる「汎神論」の立場をとった。この考え方は、人間の個々人にも神がいることが帰結され、人の心と神との近接関係を示唆しており興味深い。
エマニュエル・カントは十八世紀ドイツの偉大な哲学者であったが、彼はまた人間の意識と存在との関係に関して、非常に重要な見方を提示した。彼は人間の意識に上る表象、つまりわれわれが感覚でとらえて理解できる事柄と、その裏にある実体(物自体)とを分けて考え、この実体の世界は「超越的」であって、人間の経験を超越した経験不可能な世界であるとした。そしてこの観点に基づき、カントは、神もまた人間の経験を超越した存在として、われわれにはその存在を理解できないとした。
カントはそれまでにあった神の存在を証明する議論に徹底的な反論を加えたが、彼は決して神の存在そのものを否定したのではない。
彼の立場は、神の存在は証明することも否定することも不可能である、という不可知論である。カントの神に対する見方の中で、本書の主題と関連があって興味があるのは、いわゆる「カントのコペルニクス的転回」である。
彼は対象(客観)が先に存在してわれわれがそれを認識する(主観)のでなく、対象こそが認識により構成されるという、それまでの認識論の見方を転回させたのである。

十九世紀から二十世紀初頭の心理学者ージェームスフロイトユング
アメリカの心理学者、哲学者であるウィリアム・ジェームスは、宗教心理学の父とも言える存在である。
彼は日本の夏目漱石や西田幾多郎に大きな影響を与えたことでも知られている。
宗教体験に伴う人間の心の内面を詳細に記載した彼の主著、「宗教体験の諸相」は、その後の宗教体験を研究する人々の古典となっている。
現代精神分析学の父と言われ、十九世紀から二十世紀初頭にかけてのドイツの精神神経科医として活躍したジグムント・フロイトの基本的な宗教観は無神論であった。彼は宗教を一種の集団神経症と見なし、神は人間が父親のイメージを投影した幻想であるとした。
ユングはフロイトのように宗教をただの幻想として片付けず、宗教の起源を人類共通の意識下にある心理構造、すなわち彼の用語で言う「集合的無意識」に求めた。人間は教育や文化を超えて、共通の心理的体験や行動パターンを示すことに彼は注目し、これは人間の進化に伴い、人間の無意識な心の中に、歴史的に組み込まれたものと考えた。彼はこれを「元型」という用語でも表現している。
ユングはここで脳の神経回路や、脳の進化、脳の遺伝子の発現等、現代の神経科学で知られている概念はもちろん使っていない。

第四章: 精神神経機能の脳内の局在と神経回路の研究

脳損傷患者と脳機能局在の研究
神経回路網による脳機能の理解

第五章:前頭葉と道徳的判断、倫理的行動

フィネアス・ゲイジと前頭葉損傷
最近の脳損傷患者の研究
反社会性人格障害の研究
反社会性人格障害とは、頻回に犯罪行為を繰り返しながら、良心の呵責も悔悟の念も感じないという、病的な性格を持った人々に与えられる、精神医学上の診断名である。これらの人々は衝動的な性格を持ち、計画性がなく怒りやすく攻撃的であり、喧嘩や暴力を繰り返すため、習慣性の犯罪者となることが多い。この分類に属する患者は、時代も国も超えて常に存在することが知られており、その原因についての研究も進められてきた。しかし最近に至るまで、その本当の原因は明らかではなかった。かつて「精神病質」という分類に入れられていた患者たちがこの範疇に入る。
・神経心理学的検査法の進歩により、前頭葉の機能をより特異的に検査する方法:前頭葉に特有の人間の管理統合機能 (executive function)を評価~反社会的人格障害の人々は高率にこの管理統合機能が障害=前頭葉機能の低下。
・構造的核磁気共鳴法による脳の容積の計測の研究~反社会的人格障害患者の前頭前野の脳容積は、正常人に比べて異常に低い。
・脳の血流を調べる陽電子放射断層撮影(PET)や単光子放出コンピューター断層撮影(SPECT)などを使って脳の代謝を調べる研究~反社会性人格障害患者の前頭前野で、血流と代謝が減少している。
・これらの患者では前頭葉の前端の部分が特異的に小さく、機能が劣っていることが示された。その他、注意深い神経学的診察、脳波検査などによっても、習慣性犯罪を犯す反社会的人格障害者たちは、高率に前頭葉の機能低下の兆候を示すことが知られている。
・バージニア大学から報告された次の症例は、前頭葉眼両面皮質の障害が、密接に性犯罪と結びついていることを示している。
それまで真面目に勤めていた学校の教師であった四〇才の男性は、ある時から急に児童ポルノのインターネット・サイトに興味を持ち出し、マッサージ・バーラーへ行っては売春婦を求めるようになった。やがて養女に対して性的ないたずらをするようになり、児童に対するわいせつ行為の有罪判決を受けてしまった。刑務所に入る前の日、彼は頭痛を訴えて病院を訪れた。核磁気共鳴法(MRI)による底の精密検査の結果、彼の右側の前頭葉の前部、下面の部分に玉子ぐらいの大きさの脳腫瘍が見つかった。この脳腫瘍は手術で取り除かれ、彼は性犯罪者のリハビリテーションを受けた後、わいせつ行為は止まって普通の状態に戻り帰宅できた。しかしその後再び、密かにポルノを集める行動が始まった。それと同時に彼は再び頭痛を訴えた。再び行なわれたMRI検在は、脳腫瘍の再発を示していた。この再発した腫瘍は再度手術で取り除かれ、彼の異常行動は再び止まった。”

・この症例では、習慣的犯罪行為が、前頭葉の前部にある脳腫瘍の大きさと比例して悪化したり、良くなったりすることがよく示されている。前頭葉眼窩面皮質が、いかに異常行動と直接的に関係しているかをよく物語る症例である。

ピック病に見られる人格と行動の異常、前頭葉の機能亢進と強迫神経症
・ピック病(前頭側頭型痴呆)は、初老期の五十歳から六十歳代にかけて発病する、脳の変性疾患であり、アルツハイマー病よりは頻度は少ないが、痴呆を引き起こす神経疾患として有名である。特に前頭葉型ピック病と言われる病気は、劇的な人格変化と、病前の性格からは全く理解できない異常な行動がみられる。
・例えば、それまで真面目に勤めていた会社員が、ある時から急にお金を濫費するようになり、ついには会社の金を横領して逮捕される。しかし、本人も家族も、なぜそんなことをするようになったのか理解できない。ある学校の先生は、菓子を万引きして捕まっている。それまで真面目一筋で子供たちの道徳的模範となってきた学校の先生が、なぜそんなつまらない万引きをしなければならないのか本人も回りも理解できなかった。(このような例では、詳細な神経学的診察と、脳の画像診断により、前頭葉型ピック病の診断が確立されることが少なくない)
・私自身がオレゴン州ボートランドのクリニックで診断して経過を追ってきた、前頭葉型ピック病のの例で特に注目して頂きたいのは、彼が生涯を通じて敬虔なクリスチャンであり、発病当時牧師として活躍していたことである。この病気が彼の宗教観と宗教活動にどのように影響を与えたかを、この症例で注目していただきたい。

G氏が奥さんに連れられて神経内科の外来を訪れたのは54歳の時であった。G氏は28年間、キリスト教メソジスト派の牧師として教会の信者から敬われ、信頼されてきた人物だった。しかしこの数年、彼は度重なる問題を教会内で起こしてきた。信者でもある奥さんは、G氏の説教がだんだんに、宗教的な深みのない、内容の薄いものになり、祈りも、宗教的な内容の薄い、「献金の額が多くなりますように」といった表面的で物質的な願いを祈るようになったことを不審に思っていた。それと平行して、信者との交流が少なくなり、ある時は礼拝の後、本来なら信者たちとの懇談をするはずの時間に、牧師室に入って内側から鍵をかけて昼寝をするといった常識はずれの行動が見られた。
やがて、G氏は教会の会計を管理することが困難になってきた。それは計算ができないという問題より、予算を計画し、秩序だってお金の出入を管理できないと言う問題であった。彼は計画性なしにお金を濫費して、教会に大きな赤字を作ってしまった。家族とまわりの人々は、多分ストレスによるためであろうとして、G氏に休職を勧めた。家族は心配して、医師に精密検査を願い出た。
家庭医により身体的な病気が無いことを確認された後、G氏は神経内科にコンサルテーションのために送られてきた。私がG氏に最初に会った時、彼は一応礼儀正しく応対したが、常に落ち着きが無く貧乏ゆすりを繰り返し、質問に対しては表面的な短い答えをするだけだった。しかし、彼の言語機能はその時点では全く正常で、一般的な質問には普通に答えられた。計算も普通にできるし、車の運転も全く問題はなかった。記憶の検査でも、短期記憶も古い昔の記憶も問題はなく、いわゆる痴呆の診断はつけられなかった。しかし、問診で明らかになったことは、彼がこの数年間、教会内で起こしてきたことに対する問題意識が全く無かったことである。
核磁気共鳴法による画像診断は、G氏の前頭葉の先端部の内側面が左右とも選択的に、しかも高度に萎縮していることを明らかにした。この萎縮部分は前頭葉眼窩面皮質を完全に含むことが、画像の解析からわかる。私は、この特有の人格変化と行動パターン、そして特徴的な前頭葉の先端部の萎縮から、前頭葉型ピック病の診断を下した。
G氏の宗教活動について言えば、この診断の前後から、彼は生涯を通じて献身してきたキリスト教に興味を失ったように見えた。彼はクロスワード・パズルを飽きることなく一日中遊んでいたが、聖書を紐解くことはほとんどなかった。奥さんに連れられて教会には行くが、礼拝の参加は全く形式だけになった。この時点では彼のクロスワード・パズルを解く能力は、正常に保たれており、言葉や記憶には障害がなかったことがわかる。
診断の二年後、G氏はついに法律に触れる事件を起こし、警察の世話になることになった。一つは、彼がスーパーマーケットで拾った小切手を勝手に現金に換えようとしたことである。もう一つの事件は単純な万引きであった。それ以前にも、彼はスーパーマーケットのサラダバーで、お金を払わずに平気でつまみ食いをして奥さんを困らせていた。もちろん、生涯クリスチャンとして、長年の牧師として、盗みは言うまでもなく、拾得物でも無断で自分のものにしようとするなど、G氏の人柄からは全くあり得ないことであった。彼はもはや、善悪の判断ができないように見えた。しかし、この時点でも彼はまだ普通に話し、読み書きや計算はできており、他の知的機能は障害された様子はなかった。
これらの問題行動の後、G氏は鍵のかかった痴呆患者の介護施設に収容されることになった。その数年後、G氏は徐々に言語機能を失い、一日中あてもなく徘徊し、手当たり次第に目の前にあるものを口に入れたり、食べたり、というような、動物的な存在になってしまった。

このG氏の七年近い病気の経過は、ピッグ病の典型的な経過であるが、彼の病初期に見られた幾つかの症状は、典型的な前頭葉の前部の障害を反映している。彼の病気の初期には、脳の他の部分の機能はまだほとんど正常に働いており、普通の診察では全く異常がなかったにもかかわらず、宗教的な関心を失い、それまでは考えられなかったような、倫理的道徳的に問題のある行為に走るようになった。もちろん、G氏は病気が進んでからも、日曜日には奥さんに教会へ連れて行かれて、形式的には宗教活動を続けているように外側からは見えた。しかし、その活動の内容をよく調べてみれば、それは形骸化した見かけの宗教活動に過ぎなかったのである。
このようなピック病の患者の特有の症状は、前頭葉の前部が人間の道徳的観念、倫理的判断、そして宗教活動の本質的な面に対して、不可欠な機能を果たしていることを示唆している。G氏が、他の全ての機能が正常である病気のごく初期に、宗教活動の障害を来たしたことは、それが他の認知機能の障害から二次的な結果で起こったのではなく、前頭葉前部内側面の変性がその直接の原因となっていることを示す。

前頭葉の機能亢進と強迫神経症
それでは前頭前野の機能が普通より活発になると、人はどのような行動を起こすのか。精神医学ではこれに非常に近い病態として、強迫性障害(あるいは強迫神経症、Obsessive-Compulsive Disorder、略してOCD)という特殊な神経症が知られている。またこれに関連した人格障害として、強迫性人格障害があるが、これは、簡単に言えば「完璧主義で頑固な性格」を主な特徴とした、一種の性格異常である。
これらの病態が、最近の神経科学の研究で、前頭葉に関係していることが解明されており、それらの患者たちが宗教に関連した幾つかの興味ある症状を示すことである。まず強迫性障害(強迫神経症)の患者は、一定の思考や観念に支配されやすく、その観念から逃れようと思っても、常にその思考が頭から離れないという症状を持つ。これを強迫観念というが、その中にはよく、「死後の世界はどうなっているか」「この世界の終末はいつか」などといった哲学的、宗教的な疑問が、本人の意志に関係なく頭から離れないという症状がある。このような、宗教的哲学的な強迫観念を強迫的思索(obsessive ruminative state)と言う。質問癖、穿鑿癖(せんさくへき)といった性格もよく見られる症状である。また、死の恐怖、汚染の恐怖、病気の恐怖など様々な恐怖が、これらの人々の心を支配することも多い。
また強迫性障害の患者には、ある一定の行為をどうしても行なわないと気がすまないという症状があり、これを強迫行為と言う。一番よく見られるのは、寝る前や出かける前に、家の戸締りや水道、電気、ガスなどが完全に閉じられているかを何度も何度も吸認し、しかもその後で、また不安になって確認のために起きてきたり、戻ってきたりする症状である。手の汚れを恐れて、何度も繰り返し手を洗う強迫行為もよく見られる。
宗教と特に関連して興味のある症状は、彼らがよく行なう強迫的儀式行動である。これらの強迫症状は、人々の間に時々見られる伝統的な迷信や宗教行動とよく似ている。その意味で迷信は、集団的な強迫行為と考えることができるかもしれない。
儀式的な行為、強迫的思索、恐怖症など、強迫神経症のかなりの症状に、宗教的な意味付けができることを考えると、前頭葉眼高面皮質の機能が宗教的態度の形成に関係している可能性は非常に高いと考えられる。

前頭葉と自省の心
正常者の前頭葉がどのように働いているかを調べた研究。
自分自身を客観的に観察し、自分とは何か、自分と他人との違いは何か、などを認知する機能は、人間の社会的認識、行動、道徳や宗教と密接に関係した脳の機能である。「自省の心」は、道徳や倫理、宗教にとって不可欠の機能。
機能的核磁気共鳴画像法(fMRI)を使用して、正常人が自分自身を振り返って考察する際に、脳のどの部分が働いているかを調べた研究。
自省の心を要する質問に対する反応と、それを要しない対照の質問に対する反応とを比較~その結果得られたものは、自省の心に特有な脳の活動。自省の心を使う場合に、前頭前野皮質の内側面に特異的な脳の活動があることが発見。同時に後部帯状回皮質と言われる、脳の後部の小さな部分が同時に活動することが観察。この後部帯状回という大脳皮質は大脳辺縁系の一部となっており、記憶を呼び出すのに重要な働きをすることが、他のfMRIを使った実験からすでに知られている。特に、自伝的記憶と言われる、自分自身の人生の過去において起こったことを思い出す記憶の一分野に、この後部帯状回が重要であることが、いくつもの研究から明らかにされている。
自分がどんな人間であり、自分がどんな性格であるか、などは全て記憶に頼って判断しなければならないわけで、前頭葉以外にそのような特殊な記憶に関係する脳の部位が、一緒に活動することは当然と考えられる。

前頭葉は、自分を振り返って考え、自分を制御して、倫理的、道徳的な生き方を選びとるために、どうしても必要な脳の部位であることが分かる。この部位が障害されれば、人格は失われ、宗教的な信仰も宗教への献身も失われるのである。

第六章:頭頂葉と宗教固有の体験

宗教固有の体験とは何か
宗教固有の感性を伴った体験こそは、歴史上一貫して宗教の根底にある、本質的なものと考えられる。もちろん宗教はこの根本的基盤から発達して、様々な側面を持つ人間の社会活動となっている。しかし、その起源を理解し、その本質とメカニズムを理解するには、この宗教固有の体験を理解することが不可欠なのである。このような体験を基盤に持たない限り、宗教団体は結局、本質的には政党や組合と同じく、観念や理念と行動目標強要する共有する単なる人間の集まりに過ぎなくなるであろう。
こうした人間の集団活動と宗教とを本質的に分けるのは、この基盤にある超自然的な宗教体験と言うことができるであろう

瞑想する脳、神秘的体験をする脳
ペンシルバニア大学の精神神経科:ユージン・ダキリ(Eugene G D'Aquili)と放射線科:アンドリュー・ニューバーグ(Andrew Newberg)たちの研究結果は、脳の左側、耳の上に位置する頭頂葉の大脳皮質の一部が、瞑想の頂点に対応して代謝活動を減少させることを示した。この瞑想の頂点に一致して活動を休める部分は、解剖学的には後上頭頂葉皮質と言われる。

更にダキリたちは、この宗教体験と脳の代謝との関係が、宗教の種類に関係なく見られるかどうかを調べるために、同じデザインの実験をキリスト教、フランシスコ派の尼僧たちの集中した祈祷を使って実験した。しかしこの尼僧たちの祈持に伴う感覚は、チベット仏教の瞑想に伴う感覚とは異なって表現された。尼僧たちは、祈祷の絶頂期には神が非常に近くに感じられ、ついには神と自分が一体に感じられると自分たちの体験を表現した。これはカトリック教に伝統的にある、神的合一(mystie union)の経験と一致するものと考えられた。
神秘的合一は、また神秘主キリスト教ではキリストとの結婚による合一とする教義もある。
この尼僧たちの経験した神秘的合一の体験に際しても、同様に左側頭頂葉の同じ部分の代謝が低下することが認められた。ダキリらは、これらの結果に基づいて、この部分は宗教の種類を超えて、宗教体験に際して共通に活動が抑制される脳の部位であると考えた。

自己と自己以外とを区別する脳
頭頂葉連合野のこの部位は、空間と方向の感覚に密接に関係している。この部分に障害のある患者は、自分の周りにある物体の位置関係がわからなくなり、住み慣れた自分の家の中でさえ迷ってしまうことがある。更に障害が進むと、自分自身の空間と自分以外の空間との間の区別がわからなくなってしまう。また病状が進むと、自分と自分以外との区別がつかなくなることがよく観察される
私が右手の親指の先と中指と薬指の先端を合わせ、人差し指と小指とを立てて、狐の頭の影絵を作る手の形を患者に示し、「これと同じ手の格好を作って下さい」とお願いする。この問題はアルツハイマー病の患者にとって特に難しい。それは手の各指の空間関係を把握しなければならず、更に自分自身の各指の関係も把握しない限り、真似ができないからだ。患者は私の手をしげしげと見たあと、手と指で色々な格好を作ってみる。しかしそのうちに、なんとこの患者は私の手に自分の手をつけ、私の指に患者自らの指をからませる行動に出ることがある。このような頭頂葉の障害患者に見られる不思議な現象は、神経心理学の領域で、クロージング・イン現象と呼ばれており、自分の領域と自分以外の領域とが区別できなくなり、混乱する状の典型と考えられている。

自己を失い神仏と一体となる体験
多くの宗教儀式で使われる宗教的象徴物、絵画、像、言葉や歌などは、それに全ての感覚を集中させることによる、他への感覚の遮断状態は、あたかも無重力状態で上と下の感覚がなくなったような状態、あるいは真っ暗闇に立たされて左右も前後も分からなくなった状態に似ている。人間が自分の体を意識し、周囲を意識するには、その基準となる様々な感覚を必要とする。感覚が全て造断されると、人間は何か実態のない空間に浮遊したような感じを受けるものである。
フローテーションタンク(アイソレーションタンク)の中で、重力感、触感、音、光、温度などの刺激を除いて人工的に作り上げた感覚造断環境は、ストレスや依存症の治療に使われることがある。感覚遮断環境では、人が幻覚を経験したり、感覚が歪んで、時間感覚が麻押したりすることがあることが知られている。これも宗教体験と共通するものであろう。

言葉で言い尽くせない偉大な体験—映画「コンタクト」より

1997年に封切られた故カール・セーガンのSF映画「コンタクト」は、地球以外の宇宙のどこかに存在するかもしれない知能を持った生物を、電波を使って探索する女性研究者、エリーを主人公とする映画である。この映画は、天文学や宇宙科学だけでなく、哲学や宗教に深い造詣と興味を持っていたカール・セーガンの、多面にわたる思想を反映した映画で、SFとしてだけでなく、宗教的、哲学的、社会学的問題を多岐にわたって取り上げており、宗教の起源という問題を考える上に、多くの考えの糧を与えてくれる
ここに紹介するのは、この「コンタクト」の終盤でのクライマックスに当たる公聴会の場面である。
女主人公エリー・アロウェイは、銀河系の中心部にある惑星「ベガ」から送られてきたメッセージに基づいて作られた特別な装置を使って、唯一人でごく短時間のうちに「ベガ」へ行って帰ってきたのだが、もちろんそれは誰にも信じてもらえない。アメリカ国民と宗教関係者が見守る公聴会の中で、国家安全順間のマイケル・キッツはエリーを詰問し、エリーの話を作り話として片付け、国民の不安を和らげようとする。原理主義的宗教関係者は、地球以外の天体に高度の知能が発達している可能性に脅威を感じていたからだ。キッツの尋問に対するエリーの答えは、人が非常に特殊な状況に置かれた時に体験する、言葉で言い尽くせない偉大な体験を見事に描写している。

”(エリー)そんなことは起こらなかったという可能性はあるか、という質問に対しては、私は科学者として、その可能性があることを確かに認めます。
(キッツ)ちょっと待って。ここではっきりさせておこう。あなたは自分の体験を裏付ける何らの物質的な証拠も持ち合わせていないことを認めるのだね。
(エリー)そうです。
(エリー)あなたは、すべてのことは幻覚であったかもしれないと認めるのだね。
(エリー)はい。
(キッツ)あなたがもしわれわれの立場にいたら、全く同じような不信と懐疑心をもって反応するであろうことを認めるのだね。
(エリー)はい。
(キッツ)それならどうしてあなたは自分の証言を撤回して、この銀河系の中心への旅は、実際は起こらなかったと認めないのだ。
(エリー)それは出来ないことだからです。……私は証明することの出来ない体験をしました。私はそれを説明することすらできないのです。でも人間として私が知っていることの全てが、私自身が私であることの全てが、それは現実であったと教えているのです。私は何か素晴らしいもの、何か私を水遠に変えてしまったものの一部となったのです。宇宙の光景は、私たちが確かに小さく、意義のない存在に見えるが、同時に私たちがいかに稀で貴重な存在であるかを教えてくれたのです。私たちは、誰一人として孤立してはいないと……。この体験を分かち合えたらと思います。全ての人が、一瞬の間でもいい、この畏敬と、謙遜と、希望とを感じることができたら、……でも、これは私の希望に終わるでしょう……”

カール・セーガンは、思想的に多くの部分でこの主人公エリーと同じ立場をとっていたという。彼は宗教に関しては、神の存在は科学的に証明できないという不可知論的な立場をとっていた
この物語の中でエリーは、地球以外の天体に道かに進化した知能を持った生物がいることを発見したために、宗教界から強烈な批判を受ける。しかし、エリーは(そして作者のカール・セーガンも)宗教は批判せず、宗教と科学とを別の次元で考えるという立場を取りつづける。
しかし、カール・セーガンは、惑星への旅から帰ってきたエリーの言葉を通じて、ここに科学者も宗教者と同じように「言葉で言い尽くせない偉大な体験」をすることがあることを示唆している。宗教者がその偉大な宗教体験を非宗教者に対して言葉で言い尽くせないという同じ困難を、エリーは正しく科学者としての立場から経験しているのである。
「コンタクト」はもちろんフィクションであるが、宗教体験と同じような「畏敬と、謙遜と、希望」の混じった、言葉で言い尽くせない偉大な体験が、特殊な状況では宗教に関係なく起こることを示唆する。私の雪山の体験は、これほどの偉大な体験ではなかったが、やはり言葉に尽くせない不思議な体験であった。
エリーはここで「神」という言葉をあえて使わなかったが、「何か素晴らしいもの、何か私を永遠に変えてしまったものの一部となる」というエリーの感動的な言葉は、彼女が「神の発見」の直前まで行った可能性を示唆している。
しかし、宗教信者の大部分は、エリーような特殊な状況を経験することなく宗教的体験をし、神を発見して宗教に入っている

宗教体験における宗教儀式の役割
一般の信者に広く宗教体験をさせるには、どのような方法が宗教で使われているのであろうか。祈祷と瞑想は、世界のほぼ全ての宗教に共通する、宗教活動の最も重要な要素と言えよう。しかし多くの宗教は、祈祷や瞑想に加えて、特有の宗教儀式を使って信者たちに宗教体験を与えている。これらの儀式による宗教体験は、祈祷や瞑想と共通する脳のメカニズムを持つのであろうか。
儀式の特徴は、信者たちが集団で一定の型にはまった行動を起こすことである。また儀式には、ダンスや体の律動的な動きなどの一定のリズム、繰り返される決まった言葉(お経、念仏、聖句)、音楽(歌、太鼓、お経など)、光と映像(象徴となる像、絵画、ろうそく)、臭い(線香、香煙)、などがほとんどの宗教で使われている。これらの感覚・運動器官に訴える効果は、信者の脳にどのように作用するのだろうか。
過度の感覚の飽和状態は、逆に感覚遮断状態を作ることは、心理学でも知られており、それが宗教儀式のメカニズムであっても不思議はない。頭頂葉の空間感覚や、自己と外界とを区別する感覚の変化が、宗教体験と密接に関係しているという説は、それを支える実験的証拠もあって、宗教体験を説明する重要な要素であろう。しかし、私自身の雪山での体験でもわかるように、そのような体験が直に宗教と結びつけられるかどうかは定かではない。このような体験に宗教的な意味をつけるには、ただの感覚を超えた、より複雑なメカニズムがあると思われる。これには、宗教的なシンボル、宗教的な場所、そして集団での行動が必要かもしれない
頭頂葉は恐らく宗教体験をつかさどる脳内回路の中で重要な位置を占めてはいるが、それだけを「神の座」と考えるのは無理があるようだ。
頭頂葉の一時的機能低下は、特有の不思議な感覚を人に与え、宗教的な前後関係で認知の姿勢が宗教に傾いている時にそれが起こると、神秘的宗教体験と解釈されるのであろう。確かに、この頭頂葉の働きがなくとも、人は普通の宗教活動を続けることはできる。しかし、この頭頂葉の機能は、少なくとも一部の信者にとっては、活き活きとした宗教体験を与えることにより、「生きる神」の存在を自分の内部に感じさせ、確信させることを可能にしているのであろう。

アルツハイマー病と宗教活動
アルツハイマー病では、ピック病と対照的に人格や倫理道徳行動は、特に痴呆が進行する前は、比較的保たれることが知られている。上に紹介したビック病のG氏と対照的な、アルツハイマー病のH氏の話を次に紹介しよう。

"H氏が最初に泌尿器科の医師から私の所へ紹介されて診察に来たのは63歳の時であった。コンサルテーションの理由は、前立腺肥大の手術の後、時々もの忘れがひどくて混乱することがあることであった。H氏は過去20年以上、地元の神学校で新約聖書を教える教授であったが、それと同時に生涯を貫く熱心なクリスチャンとして、教会の牧師の仕事もあわせて行なっていた。初診当時は、H氏の神経学的な診察は正常であって、ストレスによる一時的な記憶障害と考えられた。しかしその三年後に再び私のクリニックを訪れて来た時、彼の記憶障害は進み、日常の家族との会話をすぐに忘れて、同じ質問を繰り返すようになっていた。
H氏はその前の年に神学校の教授を退職していた。奥さんによると、講義の際のストレスが病状を悪くしているようだったが、しかし学生たちや他の教官からは最後まで慕われ、人気のある先生として退職できた。この時の診察では、H氏は短期の記憶に明らかな障害があり、三つの単語を覚えてもらっても、その数分後にはそれが思い出せない状態だった。また、字を書いたり、図形を模写したりする能力も障害されており、頭頂葉の障害が疑われた。しかし、古くから身に着いている知識や、読んだり、出したり、聞いて理解する能力は正常であった。
この時の脳のCTはごく怪度の萎縮を示す以外には異常はなかった。この時点で、私は日民を初期のアルツハイマー病とXこの時点でのH氏の宗教活動は以前と全く変わっていなかった。新約聖書の教授という仕事は退職していたが、毎朝家族全員を集めてギリシャ語原文と英語で聖書を読み、それを注解し、その後家族全員のために祈祷を捧げるという長年の習慣は全く変わっていなかった。また月に一度ぐらいは、教会の牧師として礼拝を司会して、説教も行なっていた。
その一年後、彼の症状は更に進行し、話し言葉の中に、言いたい言葉が思い出せない障害が出てきた。彼はついに教会での説教をあきらめたが、家族全員での朝の礼拝と聖書研究は、引き続き中心になって行なっていた。この時の診察では、記憶障害が進行し、軽い失語症の症状が始まっていた。頭頂葉障害に典型的に見られる構成失行という特有の行為の異常も見られるようになった。しかし、H氏は終始、礼儀正しく人を思いやり、誰にでも暖かく接する牧師としての人柄を全く失っていなかった。
驚くことは、彼が長年教えてきた新約聖書の原典の言語である、ギリシャ語を忘れていないことであった。その数ヵ月後、私は試しにH氏に新約聖書のヨハネによる福音書の第一章の内容を説明してもらった。彼はギリシャ語の夫々の単語の意味を説明しながら、この第一章でキリストが神から与えられた素晴らしい贈り物であることを、目を輝かして私に説いてくれた。
確かに話し言葉はすでに訥々としており、言葉が飛んだり、同じことを繰り返して話したりすることはあった。しかしそれにもかかわらず、H氏がキリスト教の中核とも言える、ヨハネの第一章の内容の重要性を、熱をこめて伝えようとする努力は、ひしひしと伝わってきた。
私はまたH氏に「言葉が不自由になってきて、神様に祈る時にどうしていますか」と尋ねた。H氏はいつもの笑顔を絶やさず、「祈りは心でするものです、祈りはどこででもできます、車に乗っている時でも、散歩をしている時でも、言葉に出さなくても何時でも心の中で祈っています」という意味のことを訥々と、しかし目を輝かして話してくれた。この会話の中にも、病気にめげずに自分の信仰を貫きたいというH氏の信仰に対する熱意が伝わってくるのだった。”

このアルツハイマー病に罹患するH氏の自分の信仰に対する態度を、前の章で紹介したピック病のG氏の態度とを比べてみると、両者とも同じように一生を牧師という職業にかけて、キリスト教に献身してきたにもかかわらず、対照的な違いがあることがわかるであろう。
この二人の牧師である痴呆患者を比較してみると、いかに前頭前野が宗教活動に決定的に重要な役割を果たしているかがわかると共に、頭頂葉は宗教体験に必要な脳の部分ではあっても、前頭葉のようにそ 機能しないと個人の宗教活動が成り立たないということはないようである。
恐らく頭頂葉は、祈祷、瞑想、座禅、宗教儀式などの最高潮の時点で起こる宗教体験において、一時的な機能抑制を起こして自己空間感覚の喪失を起こすことに、その重要な役割があるのであろう。一方いったん確立した宗教の信者がそれを維持するためには、頭頂葉は前頭葉のような決定的な役割は果たしていないようである。実際に神経内科の臨床で頭頂葉に障害を持っている患者を診療している限り、前頭葉障害患者に比べると、宗教に関する問題はほとんど起こらないのが現実である。

第七章:宗教活動と側頭葉、大脳辺縁系

側頭葉てんかんが引き起こす幻覚の世界
てんかんと宗教との関係
ドストエフスキーの病跡学
てんかんはどのように宗教体験を引き起こすか

第八章:その他の脳機能変化による宗教体験

脳内の薬物効果による宗教体験
臨死体験における宗教体験
夢と宗教体験
宗教体験は精神病か

第九章: 「神の座」は脳内にあるのか

神を知る脳細胞と神を知る神経回路
第一部のまとめ

第二部:宗教の中に脳の働きを求めて

第十章: 宗教の歴史的起源とその進化

先史時代の宗教
認知的不協和の理論と神話の形成
地域と文化を超えた宗教の共通性
世界に共通する創造神話
共通する英雄神話
広大な人間の無意識の世界
カール・ユングと集合的無意識
脳の進化に対応する宗教の進化

第十一章: 心に内在する神の概念

心の中にある二つの人格の対話
各宗教に見られる「人の心に内在する神」の概念
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教
ヒンドゥー教仏教
西田幾多郎の宗教観

第十二章:人の本性の中に宿る「善」の思想

ショーペンハウエルの疑問
新大久保駅事件と世界貿易センターの悲劇に学ぶ
全くの他人による生体臓器移植の臓器提供
孟子の性善説
聖書に見られるショーベンハウエルの疑問
人に内在する「善」とショーペンハウエルの解釈
内なる善と内なる悪、内なる神と内なる悪魔

第十三章:脳に刻まれた伝統としての宗教

第二部のまとめ

第三部:脳内神経回路に内在する神神経学的神論

第十四章:神経学的神論による宗教の理解

神の声の発生源、倫理中枢としての前頭前野
神、仏は脳に神経回路網として「内在」する
神経学的神論と各宗教の神論
「内なる神」の投影としての「外なる神」
神経回路から宗教国家まで
なぜ人間には神の神経回路が必要であったか

第十五章: 神経学的神論から見た宗教の形成過程

神の神経回路と環境因子との関係
組織的宗教の形成
個人が宗教を獲得する過程
宗教の中で生まれ育った場合
現代のいわゆる「カルト」の形成

第十六章: 「内なる神」と「外なる神」との葛藤

「外なる神」が「内なる神」を支配する時
一神教と多神教、独裁主義と民主主義

第十七章:宗教者、無神論者、不可知論者、無宗教者との対話

宗教者 (有神論者)たちとの対話
無神論者たちとの対話
不可知論者たちとの対話
無宗教者たちとの対話

エピローグ「内なる神」を最愛の友として

幾つかの疑問に対する答え
神は死んではいない
宗教の未来
神経学的神論のすすめ

あとがき

29年前(1974年/昭和49年)に私が医学部を卒業する数年前から、私は「脳の医者」になろうと決意した。以来、私の興味は一貫して脳と、それが生み出す数々の驚異的な現象に吸いつけられてきた。それらは、神経機能、認知機能、精神現象であり、脳の病気が引き起こす様々の不思議な症状であった。
そして究極的にたどり着いた結論は、人が人であること、そして人が最も価値を置くもの、それが脳に存在することであった。人類の歴史を通して一貫して人々を動かし、喜ばせ、また不幸にもしてきた宗教が、やはり脳にあったことは当然の結論ではあるが、改めて脳の神秘に眼を見張るばかりである。
私が学生時代以来続けてきた、紆余曲折の神を求める心の旅の果てに、私は今ようやく目的地が見えてきた思いがする。私の感動を、本書を通じて読者の方々と少しでも分かち合えれば幸いである。

私は最初、本書を日本人に問うべきか、それとも過去二十年間私自身の文化圏となっているアメリカの聴衆に向けるべきかを迷った。結局私は日本語によって私の考えを、先ず日本の一般の方々に問うことを選んだ。その最も大きな理由は、この書の内容が、一神教の伝統を持つ聴衆、特に原理主義的色彩の強いアメリカのキリスト教、ユダヤ教、イスラム教徒の方々から激昂を買い、一蹴されることを恐れたからだ。仏教や神道など、汎神論の色彩が強い日本の伝統の中で、「脳に内在する神」の概念はより受け入れられやすいのではないか、更に言えばもしかしたら歓迎されるのではないか、というのが私の推測である。

またそれと同時に、アメリカで二十年間にわたって脳の医者として宗教を考察した末に、私は最近、日本人のいわば「脳に刻まれた伝統」に新たな誇りを感じ、それをしっかりと見直したいと思うようになった。これが日本で上梓を決意したもう一つの理由である。


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