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神の神経学:脳に宗教の起源を求めて/村本治【本要約・ガイド・目次】

更新日:

「脳に内在する神」の発見。

脳の働きと宗教活動の結びつきをやさしく解明。
「神」の起源は、脳内の神経回路にある。神経学者、神経内科医として日米両国で、脳の高次機能障害の診療に活躍してきた著者の、長年の体験と研究の成果。宗教とは?神とは?宗教に関わる悲劇と紛争が後を絶たない現実を前に、今、宗教の起源を脳内の神経回路にとらえ、その原点に光をあてる。混迷する現代の宗教に対し、神経科学に基づく「宗教改革」の可能性を問う。

はじめに

本書は、哲学、神学、心理学、人類学、社会学の境界分野で長年の間模索され続けてきた宗教の起源の問題を、脳の科学すなわち神経科学の視点から新たにとらえ、一般の人々にも分かりやすい形で統括的に展望することを目的として書かれた。

宗教とは何か、神とは何(誰)か、神は存在するのか、存在するとすればどこに存在するのか。これらの疑問は人間の歴史を通して、繰り返し問いかけられ、繰り返し論じられてきた究極の疑問である。「神」という言葉を使わなくとも、人間が時間と空間を超えた超自然的存在を信じ、その存在に希望を託し、その存在に感謝し、その存在に恐れをいだいて生きて来た事実は、時代と場所、人種と文化を超越した、人類の歴史を通しての普遍的な現象と言えよう。このような人類に普遍的な宗教活動の裏には、どのような医学的、神経生物学的基盤があるのであろうか。

本書は、人間の宗教活動に関する現代の神経科学の進歩を、一般の方々に向けて分かりやすく解説すると共に、その理解が人類の宗教活動にどのような影響を与えるかを考察したものである。
宗教の心理学的、精神医学的基盤は、心理学、精神医学のごく一部の専門家の間で研究されてきたに過ぎなかった。人間の心の働きや行動が全て脳によって支配されている以上、宗教活動も神の概念もまた、脳の働きの結果であることは、神経科学者にとっては自明に思えることである。
特に、近年の神経科学の新しい方法論の進歩は、宗教体験に伴う人間の脳の活動に関する知見に、飛躍的な進歩をもたらした。しかし、そのような新たな知見は、われわれが日頃慣れ親しんでいる宗教とどのように関係しているのであろうか。脳の側から宗教を見直すことにより、人間の宗教活動の根源に新たな視点を打ち出すことはできないであろうか。これが著者の最初の出発点であった。

著者は長年、神経科学者ならびに神経内科医として、日本とアメリカで脳の高次機能に障害を持つ患者さんたちの診療を中心に、臨床の最前線で働いてきた。そのかたわら、脳の機能と人間の行動や心理との関係、宗教が医療や精神神経疾患に与える影響にも深い興味を持ち、考察と研究を重ねて来た。

本書では先ず、宗教活動が脳の各部位の働きと直接に結びついていることを示す最近の知見を紹介し、様々な宗教体験と宗教に関した行動が、脳の機能で説明できることを示す。「神経」はまさに「神」の「経」であったことが再発見されたとも言えよう。医学生物学の技術的進歩は、近年加速的に早まっており、この分野も時々刻々変化を遂げている。しかし、これまでに積み重ねられた知見は、宗教と脳との関係に益々確立した見解をもたらしたと私は見ている。従ってこの時点で、これを一般の人々に紹介することは意義あることであろうと考える。

そのような科学的知見の紹介の後で、第二部では宗教と宗教思想とを概観し、宗教が脳の発達と並行して発達してきたこと、宗教自体の中に人の心(すなわち脳)と神や仏との関係が言及されていることを見る。そしてそれらに基づいて宗教を新しい視点から見直そうというのが、第三部の主題である。実体としても、宗教的表象としても、神が「脳に内在する」ことをここでは論じる。世界を取り巻く宗教問題は、この新しい視点からどのように変わり得るであろうか。世界的「宗教改革」は可能であろうか。ここでは著者の宗教家の方々への提言も論じる。

私は本書が、「昔からある無神論者の議論」として、宗派に関係なく多くの宗教家から一蹴される可能性があることを充分覚悟している。「神と宗教は人間の希望を満足させるイマジネーションに過ぎない」という議論は、無神論者の基本的立場であるからだ。しかし宗教の背後にある脳のメカニズムの研究は、単なるイマジネーションを遥かに超えた、複雑で深淵な心と脳との相関関係の世界を開きつつある。
最近の神経科学の新しい知見の多くは、古くからある有神論者と無神論者との間にある無限に見える隔たりに、むしろ逆に橋渡しをする希望を与えていると私は見ている。脳に基づいた宗教のメカニズムの解明は、単なる有神論無神論不可知論、また特定の宗教、宗派を超えて、宗教に対する新たな建設的視点をもたらす可能性を秘めているのである。第三部では、有神論と無神論との橋渡しをする試論として「神経学的神論」を考察する。

本来人々に希望と幸福をもたらすはずの数々の宗教が、歴史の多くの時点で、また現代でも世界の各地で、戦争や悲劇の根源となっている事実は、誰も否定できないであろう。人々は現在、全般的には平和で健康な生活を望み、社会経済体制はその方向に向かいつつあるように見える。
しかしその一方で、宗教に起源を持つ紛争は何千年たっても解決せず、世界各地でますます泥沼化するように見える。西洋文化の源流となる三つの宗教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地であるエルサレムに、何千年にも渡って決して平和が来ない事実は、この悲劇を象徴している。

神経科学が解明する「脳に内在する神」の再発見は、全ての人に神と宗教とを再検討させるきっかけを与えるであろうことを、著者は希望している。有神論者と無神論者、西洋と東洋の宗教、妥協を許さない原理主義宗派と宗教的寛容を目指す宗教合同の動き、これらの対立関係は、「脳に内在する神」を人々が再発見することで、大きく変わるかも知れない。

キリスト教の歴史を見ても、科学の知見がその宗教観に大きな見直しを迫った例は幾つかある。
コペルニクスによる地動説はその一つであるし、ダーウィンによる進化論はもう一つの例と言えょう。いずれの場合にも科学の新しい知見に直面して、人々は宗教を取るか科学を取るかの、二者択一を迫られたように感じ、ある人々は宗教を捨てて無神論に走り、別の人々は科学を否定した。しかし時が経つにつれて、多くの宗教は徐々にその姿勢を変え、科学の新しい知見を取り入れながら、宗教の新たな方向を見出している。現在では少数の原理主義的宗派を除いて、多くの宗教家はこれらの科学の知見を受け入れながら、その宗教活動を続けている。

「脳に内在する神」の再発見が、今後世界の宗教にどのように受け入れられ、どのような影響を与えるかは、私は予測がつかない。しかし、過去の歴史が将来を示唆するとすれば、宗教が神経科学の進歩を否定することは不可能であるし、逆に神経科学の知見が宗教を消滅させることもあり得ないことであろう。宗教は必ずこの知見を基に、新たな方向性を見出すのではないだろうか。
本書がその指針の一部となれば、著者の本望につきる所である。

なお著者は、本書の学術的内容に関しては、最大限に正確性を期した積りだが、一人でも多くの予備知識のない一般の方々に広く理解して頂きたいという希望から、高度に専門的な知識については、正確さを損なわない範囲でわかりやすく簡素化した部分がある。また、わかりにくい医学上のデータの羅列や、宗教や哲学の文献の長々とした引用や概念の解説も、一般の読者の方々にいたずらに疎外感を与える可能性があり、控えている。神経学、宗教学、哲学の専門家の方々から見れば、本書の議論は表層的で物足りない部分があると感じられるかも知れないが、それはこのような理由によるので、ご理解いただきたい。
2003年8月
アメリカ・オレゴン州・ボートランドにて
村本治

目次&概要・抜書き

プロローグ:問題提起宗教の起源を求めて

幾つかの疑問
精神病や薬物による妄想や幻覚、てんかんに伴う精神的体験の中に宗教書に書かれている宗教体験と酷似するものがあることに、私は深い興味を覚えざるを得なかった。これらの経験は、脳の機能と宗教との間に緊密な関係があることを私に確信させた。

宗教・神・宗教体験—本書で扱う概念
献身的な信仰には必ず特有の個人的宗教体験が伴うものである。このように見てくると、宗教を医学生物学的に解析するには、先ず個人レベルで宗教体験がどのようにして起こり、個人的な信仰がどのように形成されるかに取り組むことが基本であると考えられる
そのような観点から、本書では先ずこのような個人レベルで起こる体験と行動という観点から宗教を扱うことにする。
従って、本書で扱う「宗教」は、宗教の種類や宗派に関係なく、様々な形の宗教と考えられている活動を包括的に含める
また本書では「神」という言葉を頻回に使うが、それは特定の宗教の神を意味するものではない
「神」「仏」「創造者」、あるいはそれに相当する人間を超えた崇拝の対象の定義が、宗教により個人により異なる以上、すべての人間が合意する「神」の定義は存在しない。
本書で使う「神」という言葉は、全ての宗教がそれぞれに崇拝している人間を超えた存在を一般的にさしている総称である、ということを理解していただきたい。

第一部:脳の中に宗教を求めて

脳の機能自体が非常に複雑で、その基本的な構造と機能とを一応は理解できない限り、本書の主題を完全に理解することが困難なことである。この困難を全ての読者に克服して頂くのは至難の業としか言い様がない。それでも、なるべく多くの読者に本書の内容を理解して頂くため、第一章と第二章では、神経科学に予備知識のない方々に向けて、本書で扱う基本的な脳の知識と研究方法とを解説することにした。

第一章:宗教体験に関連した脳の構造と機能

感覚と運動を司る脳の部分
このような一連の経験は、あなたに特別な感情を引き起こすかもしれない。例えば故人は死んでもその魂はどこかに生き続けているとか、合掌をする中で、故人は私の別れの言葉をどこかで開いているとか、更には伯父と私はそれ程親しくなかったが、ここで初めて心の中で伯父と通じ合えて一体になれる、というような感情を持つかもしれない。
不思議なことに、亡くなってしまった伯父に対して、非現実的とは知りながらも抑えきれない不思議な思いと感情に包まれることは、仏教やキリスト教の宗教を超えた体験と言える。このような感情、思考、行動は、脳の働きに全面的に依存している
人間の知的機能や感覚機能が関係する神経細胞は、ほとんどが脳の表面の層に集まっており、これを大脳皮質、あるいは略して皮質という。そして重要なことは、意識にのぼる全ての精神的な体験は脳を介することである。脳を介さない意識的体験は存在しない。
これらの基本的な視覚、聴覚、触覚、運動、などの機能は全て、脳の表面の大脳皮質という神経細胞の層状構造によって制御されており、これらの基本的機能を行なう皮質を一次的感覚・運動皮質という。これらは人間が外の世界と情報をやりとりしたり、外の世界に働きかけたりする、最も基本的な最初の「窓口」の役割をする。
大脳辺縁系」は、側頭葉の内側深部にある海馬、前部にある扁桃核、側頭葉皮質の一部に加え、視床、視床下部、帝状回などの構造を含めた、脳の中心部にある大きな円周型の構造であり、周囲の歴の各部位を連結する形で回路を作っている。またその下にある自律神経の中枢である視床下部と密接に接続して、多くの動物的、植物的感覚など、人体の内部に発生する感覚を脳に受け入れる。

大脳辺縁系の司る機能⇒4つのF
食べる(feeding)/闘う(fighting)/逃げる(fleeing)/生殖行動(fuck)
これらのいわゆる動物的で、比較的原始的な機能の他、恐怖、怒り、歓喜などの感情、学習と記憶、自律神経機能など、人間の内部に起こる感覚や体験は、大脳辺縁系を通して、その上位の大脳皮質で処理されたり制御されたりする。なお、喫覚と味覚は、大脳辺縁系を介して脳に入ってくる。
海馬」は記憶を制御する役割を果たす。実際の記憶情報は、脳の各部に貯蔵されるが、海馬はそれらの記憶された情報の出し入れのための情報経路となる。海馬が損傷されると、記憶は残っているのに思い出せない、新しい情報を覚えられない、という症状が起こる。宗教体験との関係では、過去の経験を現在に結びつける、たとえば昔死んだ人の霊が現在見られる、というような体験には不可欠な部位である
扁桃核」は側頭葉の前部の内側に埋め込まれた神経細胞の大きな集団であり、危険を知って攻撃的な反応を行なったり、敵と味方を区別するなど、感情が関係する対外交渉に重要な構造である。神や霊や像など、外部の存在に感情的な反応を表すことが多い宗教活動では、扁桃核が大きな役割を果たすと考えられている。

様々な感覚情報を統合する「連合野」
連合野の内部では、感覚情報の入力と、その処理結果の出力となる反応との間に、沢山の神経細胞が複雑に介入するため、その結果として人間らしい複雑な反応が見られるようになる。統制のとれた行動を第一とする宗教活動には、このような連合野の働きは不可欠である。連合野は、また複数の感覚からの入力を統合して、一つの体験に仕立てるオーケストラのような働きもある。その場合、連合野の出力は腕を動かしたり、食べたりする運動ではなく、認知、記憶、意識、言語、判断、計画といった精神的活動となる。

主な連合野とその機能
視覚連合野(後頭葉前部) = 物体、文字、顔、色などの認識
聴覚連合野(側頭葉上部) = 言葉、音の高さ、音色、などの認識
体性感覚連合野(頭頂葉) = 触覚、方向感覚などの認識
運動連合野(前頭葉後部) = 手足顔目口などの協調した運動
これらは、感覚や運動の一つの様式に対応しており、それらの感覚や運動の中枢の直ぐ隣に配置され、対応する様式の情報処理を行なう領域である。これらの一次的、基本的な連合野の上に、更に高次な複数の感覚様式を統合させる、最も複雑な神経回路から成る連合野が存在する。

高次の連合野
◆側頭・頭頂連合野 = 聴覚、視覚、記憶の統合
人の声を聞いてその人の顔を思い浮かべる体験、言葉を聞いて漢字を思い出す体験など。
◆後部頭頂連合野 = 空間感覚、運動感覚、記憶の統合
左右、上下、前後、大小、遠近、などの比較概念とその認識、計算、物体の三次元空間での位置関係の認識、手本の真似をして絵を描く、形の違う積み木を順番に組み合わせる、体の部位の認識、右手を通し次に左手を通して順序だって着物を着ること、など。
◆前頭前連合野 = 全ての感覚連合野、運動連合野と記憶とを統合
自分の内外の全ての感覚を使って全体像を把握し、それを知識や記憶と照らし合わせて統合し、判断を下し行動の決断をする。いわば脳全体の指揮者のような役割。統合して判断を下すための情報を作業記憶に保持する機能もある。
◆旁辺縁領域=大脳辺縁系と他の連合野の認知機能の統合
記憶、情動(怒り、恐怖、喜び、悲しみ)、臭いと味覚、内臓感覚(食欲、性欲など)を他の感覚や認知機能と統合させる。魅力的な異性を見て、映画俳優の誰々と似ていると思い、魅力を感じ性欲を起こす体験はその典型。

人間の認知、記憶、意識、言語、判断、計画などの最も高等な脳機能は、全て連合野によって起こされる。これは宗教活動についても、同じである。つまり、神の声を聞いたり、仏の姿を見たり、誘惑を振り切って戒律を守ったりする宗教活動は、多くの感覚が動員された複雑な体験であり、まさにこれらの高次な連合野が関係する複雑な精神活動のひとつなのである。前頭前野(prefrontal cortex)=前頭前連合野

人間の個人的宗教活動の要素と脳の機能

第二章:脳の働きを調べる方法

心理学の実験と観察から
脳損傷患者の観察から
病跡学的アプローチ
脳の刺激実験から
脳に作用する薬物の反応から
脳の電気生理学的研究から
脳画像診断法から

第三章: 神の存在と人間の認知—歴史的考察

十七世紀、十八世紀の哲学者ーデカルトとカント
西洋哲学の分野で人間の認知能力と神の存在との関係に言及したのは、十七世紀のフランスの有名な哲学者、ルネ・デカルトが最初であろう。デカルトは神が存在する理由を、その「省察五」の中で深く考察している。
「自分は全知全能の完全な神を知る能力が与えられている。誤りだらけの自分の不完全な認知能力だけで、なぜ完全な神の存在を知ることが出来るのか。それは本来不可能なはずである。従って、神の観念は不完全な人間の作り出したものではなく、完全な神によって不完全な人間に与えられた観念に違いない。そのような神の存在なくしては、この完全な神の観念は自分に備わるはずはない」
このデカルトの、神の存在の「証明」は、一種の循環論理であるとして、後世において批判される。つまり、神の存在を証明するのに、自分が神の存在を知っていることを前提にしているのだ。しかしここで重要なことは、デカルトが神の存在を人間の認知能力、あるいは感性を通して定義し、証明していることである。
神の観念が人間の心に元々備えられた(神から与えられた)ものという概念は、本書で以下に展開していく、神が脳に起源するという概念と一脈通じるものがある。
デカルトの影響を大きく受けたオランダの十八世紀の哲学者スピノザは、神の存在を、人間を含む全ての存在の中に見出すことが出来ることを論じ、いわゆる「汎神論」の立場をとった。この考え方は、人間の個々人にも神がいることが帰結され、人の心と神との近接関係を示唆しており興味深い。
エマニュエル・カントは十八世紀ドイツの偉大な哲学者であったが、彼はまた人間の意識と存在との関係に関して、非常に重要な見方を提示した。彼は人間の意識に上る表象、つまりわれわれが感覚でとらえて理解できる事柄と、その裏にある実体(物自体)とを分けて考え、この実体の世界は「超越的」であって、人間の経験を超越した経験不可能な世界であるとした。そしてこの観点に基づき、カントは、神もまた人間の経験を超越した存在として、われわれにはその存在を理解できないとした。
カントはそれまでにあった神の存在を証明する議論に徹底的な反論を加えたが、彼は決して神の存在そのものを否定したのではない。
彼の立場は、神の存在は証明することも否定することも不可能である、という不可知論である。カントの神に対する見方の中で、本書の主題と関連があって興味があるのは、いわゆる「カントのコペルニクス的転回」である。
彼は対象(客観)が先に存在してわれわれがそれを認識する(主観)のでなく、対象こそが認識により構成されるという、それまでの認識論の見方を転回させたのである。

十九世紀から二十世紀初頭の心理学者ージェームスフロイトユング
アメリカの心理学者、哲学者であるウィリアム・ジェームスは、宗教心理学の父とも言える存在である。
彼は日本の夏目漱石や西田幾多郎に大きな影響を与えたことでも知られている。
宗教体験に伴う人間の心の内面を詳細に記載した彼の主著、「宗教体験の諸相」は、その後の宗教体験を研究する人々の古典となっている。
現代精神分析学の父と言われ、十九世紀から二十世紀初頭にかけてのドイツの精神神経科医として活躍したジグムント・フロイトの基本的な宗教観は無神論であった。彼は宗教を一種の集団神経症と見なし、神は人間が父親のイメージを投影した幻想であるとした。
ユングはフロイトのように宗教をただの幻想として片付けず、宗教の起源を人類共通の意識下にある心理構造、すなわち彼の用語で言う「集合的無意識」に求めた。人間は教育や文化を超えて、共通の心理的体験や行動パターンを示すことに彼は注目し、これは人間の進化に伴い、人間の無意識な心の中に、歴史的に組み込まれたものと考えた。彼はこれを「元型」という用語でも表現している。
ユングはここで脳の神経回路や、脳の進化、脳の遺伝子の発現等、現代の神経科学で知られている概念はもちろん使っていない。

第四章: 精神神経機能の脳内の局在と神経回路の研究

脳損傷患者と脳機能局在の研究
神経回路網による脳機能の理解

第五章:前頭葉と道徳的判断、倫理的行動

フィネアス・ゲイジと前頭葉損傷
最近の脳損傷患者の研究
反社会性人格障害の研究
反社会性人格障害とは、頻回に犯罪行為を繰り返しながら、良心の呵責も悔悟の念も感じないという、病的な性格を持った人々に与えられる、精神医学上の診断名である。これらの人々は衝動的な性格を持ち、計画性がなく怒りやすく攻撃的であり、喧嘩や暴力を繰り返すため、習慣性の犯罪者となることが多い。この分類に属する患者は、時代も国も超えて常に存在することが知られており、その原因についての研究も進められてきた。しかし最近に至るまで、その本当の原因は明らかではなかった。かつて「精神病質」という分類に入れられていた患者たちがこの範疇に入る。
・神経心理学的検査法の進歩により、前頭葉の機能をより特異的に検査する方法:前頭葉に特有の人間の管理統合機能 (executive function)を評価~反社会的人格障害の人々は高率にこの管理統合機能が障害=前頭葉機能の低下。
・構造的核磁気共鳴法による脳の容積の計測の研究~反社会的人格障害患者の前頭前野の脳容積は、正常人に比べて異常に低い。
・脳の血流を調べる陽電子放射断層撮影(PET)や単光子放出コンピューター断層撮影(SPECT)などを使って脳の代謝を調べる研究~反社会性人格障害患者の前頭前野で、血流と代謝が減少している。
・これらの患者では前頭葉の前端の部分が特異的に小さく、機能が劣っていることが示された。その他、注意深い神経学的診察、脳波検査などによっても、習慣性犯罪を犯す反社会的人格障害者たちは、高率に前頭葉の機能低下の兆候を示すことが知られている。
・バージニア大学から報告された次の症例は、前頭葉眼両面皮質の障害が、密接に性犯罪と結びついていることを示している。
それまで真面目に勤めていた学校の教師であった四〇才の男性は、ある時から急に児童ポルノのインターネット・サイトに興味を持ち出し、マッサージ・バーラーへ行っては売春婦を求めるようになった。やがて養女に対して性的ないたずらをするようになり、児童に対するわいせつ行為の有罪判決を受けてしまった。刑務所に入る前の日、彼は頭痛を訴えて病院を訪れた。核磁気共鳴法(MRI)による底の精密検査の結果、彼の右側の前頭葉の前部、下面の部分に玉子ぐらいの大きさの脳腫瘍が見つかった。この脳腫瘍は手術で取り除かれ、彼は性犯罪者のリハビリテーションを受けた後、わいせつ行為は止まって普通の状態に戻り帰宅できた。しかしその後再び、密かにポルノを集める行動が始まった。それと同時に彼は再び頭痛を訴えた。再び行なわれたMRI検在は、脳腫瘍の再発を示していた。この再発した腫瘍は再度手術で取り除かれ、彼の異常行動は再び止まった。”

・この症例では、習慣的犯罪行為が、前頭葉の前部にある脳腫瘍の大きさと比例して悪化したり、良くなったりすることがよく示されている。前頭葉眼窩面皮質が、いかに異常行動と直接的に関係しているかをよく物語る症例である。

ピック病に見られる人格と行動の異常、前頭葉の機能亢進と強迫神経症
・ピック病(前頭側頭型痴呆)は、初老期の五十歳から六十歳代にかけて発病する、脳の変性疾患であり、アルツハイマー病よりは頻度は少ないが、痴呆を引き起こす神経疾患として有名である。特に前頭葉型ピック病と言われる病気は、劇的な人格変化と、病前の性格からは全く理解できない異常な行動がみられる。
・例えば、それまで真面目に勤めていた会社員が、ある時から急にお金を濫費するようになり、ついには会社の金を横領して逮捕される。しかし、本人も家族も、なぜそんなことをするようになったのか理解できない。ある学校の先生は、菓子を万引きして捕まっている。それまで真面目一筋で子供たちの道徳的模範となってきた学校の先生が、なぜそんなつまらない万引きをしなければならないのか本人も回りも理解できなかった。(このような例では、詳細な神経学的診察と、脳の画像診断により、前頭葉型ピック病の診断が確立されることが少なくない)
・私自身がオレゴン州ボートランドのクリニックで診断して経過を追ってきた、前頭葉型ピック病のの例で特に注目して頂きたいのは、彼が生涯を通じて敬虔なクリスチャンであり、発病当時牧師として活躍していたことである。この病気が彼の宗教観と宗教活動にどのように影響を与えたかを、この症例で注目していただきたい。

G氏が奥さんに連れられて神経内科の外来を訪れたのは54歳の時であった。G氏は28年間、キリスト教メソジスト派の牧師として教会の信者から敬われ、信頼されてきた人物だった。しかしこの数年、彼は度重なる問題を教会内で起こしてきた。信者でもある奥さんは、G氏の説教がだんだんに、宗教的な深みのない、内容の薄いものになり、祈りも、宗教的な内容の薄い、「献金の額が多くなりますように」といった表面的で物質的な願いを祈るようになったことを不審に思っていた。それと平行して、信者との交流が少なくなり、ある時は礼拝の後、本来なら信者たちとの懇談をするはずの時間に、牧師室に入って内側から鍵をかけて昼寝をするといった常識はずれの行動が見られた。
やがて、G氏は教会の会計を管理することが困難になってきた。それは計算ができないという問題より、予算を計画し、秩序だってお金の出入を管理できないと言う問題であった。彼は計画性なしにお金を濫費して、教会に大きな赤字を作ってしまった。家族とまわりの人々は、多分ストレスによるためであろうとして、G氏に休職を勧めた。家族は心配して、医師に精密検査を願い出た。
家庭医により身体的な病気が無いことを確認された後、G氏は神経内科にコンサルテーションのために送られてきた。私がG氏に最初に会った時、彼は一応礼儀正しく応対したが、常に落ち着きが無く貧乏ゆすりを繰り返し、質問に対しては表面的な短い答えをするだけだった。しかし、彼の言語機能はその時点では全く正常で、一般的な質問には普通に答えられた。計算も普通にできるし、車の運転も全く問題はなかった。記憶の検査でも、短期記憶も古い昔の記憶も問題はなく、いわゆる痴呆の診断はつけられなかった。しかし、問診で明らかになったことは、彼がこの数年間、教会内で起こしてきたことに対する問題意識が全く無かったことである。
核磁気共鳴法による画像診断は、G氏の前頭葉の先端部の内側面が左右とも選択的に、しかも高度に萎縮していることを明らかにした。この萎縮部分は前頭葉眼窩面皮質を完全に含むことが、画像の解析からわかる。私は、この特有の人格変化と行動パターン、そして特徴的な前頭葉の先端部の萎縮から、前頭葉型ピック病の診断を下した。
G氏の宗教活動について言えば、この診断の前後から、彼は生涯を通じて献身してきたキリスト教に興味を失ったように見えた。彼はクロスワード・パズルを飽きることなく一日中遊んでいたが、聖書を紐解くことはほとんどなかった。奥さんに連れられて教会には行くが、礼拝の参加は全く形式だけになった。この時点では彼のクロスワード・パズルを解く能力は、正常に保たれており、言葉や記憶には障害がなかったことがわかる。
診断の二年後、G氏はついに法律に触れる事件を起こし、警察の世話になることになった。一つは、彼がスーパーマーケットで拾った小切手を勝手に現金に換えようとしたことである。もう一つの事件は単純な万引きであった。それ以前にも、彼はスーパーマーケットのサラダバーで、お金を払わずに平気でつまみ食いをして奥さんを困らせていた。もちろん、生涯クリスチャンとして、長年の牧師として、盗みは言うまでもなく、拾得物でも無断で自分のものにしようとするなど、G氏の人柄からは全くあり得ないことであった。彼はもはや、善悪の判断ができないように見えた。しかし、この時点でも彼はまだ普通に話し、読み書きや計算はできており、他の知的機能は障害された様子はなかった。
これらの問題行動の後、G氏は鍵のかかった痴呆患者の介護施設に収容されることになった。その数年後、G氏は徐々に言語機能を失い、一日中あてもなく徘徊し、手当たり次第に目の前にあるものを口に入れたり、食べたり、というような、動物的な存在になってしまった。

このG氏の七年近い病気の経過は、ピッグ病の典型的な経過であるが、彼の病初期に見られた幾つかの症状は、典型的な前頭葉の前部の障害を反映している。彼の病気の初期には、脳の他の部分の機能はまだほとんど正常に働いており、普通の診察では全く異常がなかったにもかかわらず、宗教的な関心を失い、それまでは考えられなかったような、倫理的道徳的に問題のある行為に走るようになった。もちろん、G氏は病気が進んでからも、日曜日には奥さんに教会へ連れて行かれて、形式的には宗教活動を続けているように外側からは見えた。しかし、その活動の内容をよく調べてみれば、それは形骸化した見かけの宗教活動に過ぎなかったのである。
このようなピック病の患者の特有の症状は、前頭葉の前部が人間の道徳的観念、倫理的判断、そして宗教活動の本質的な面に対して、不可欠な機能を果たしていることを示唆している。G氏が、他の全ての機能が正常である病気のごく初期に、宗教活動の障害を来たしたことは、それが他の認知機能の障害から二次的な結果で起こったのではなく、前頭葉前部内側面の変性がその直接の原因となっていることを示す。

前頭葉の機能亢進と強迫神経症
それでは前頭前野の機能が普通より活発になると、人はどのような行動を起こすのか。精神医学ではこれに非常に近い病態として、強迫性障害(あるいは強迫神経症、Obsessive-Compulsive Disorder、略してOCD)という特殊な神経症が知られている。またこれに関連した人格障害として、強迫性人格障害があるが、これは、簡単に言えば「完璧主義で頑固な性格」を主な特徴とした、一種の性格異常である。
これらの病態が、最近の神経科学の研究で、前頭葉に関係していることが解明されており、それらの患者たちが宗教に関連した幾つかの興味ある症状を示すことである。まず強迫性障害(強迫神経症)の患者は、一定の思考や観念に支配されやすく、その観念から逃れようと思っても、常にその思考が頭から離れないという症状を持つ。これを強迫観念というが、その中にはよく、「死後の世界はどうなっているか」「この世界の終末はいつか」などといった哲学的、宗教的な疑問が、本人の意志に関係なく頭から離れないという症状がある。このような、宗教的哲学的な強迫観念を強迫的思索(obsessive ruminative state)と言う。質問癖、穿鑿癖(せんさくへき)といった性格もよく見られる症状である。また、死の恐怖、汚染の恐怖、病気の恐怖など様々な恐怖が、これらの人々の心を支配することも多い。
また強迫性障害の患者には、ある一定の行為をどうしても行なわないと気がすまないという症状があり、これを強迫行為と言う。一番よく見られるのは、寝る前や出かける前に、家の戸締りや水道、電気、ガスなどが完全に閉じられているかを何度も何度も吸認し、しかもその後で、また不安になって確認のために起きてきたり、戻ってきたりする症状である。手の汚れを恐れて、何度も繰り返し手を洗う強迫行為もよく見られる。
宗教と特に関連して興味のある症状は、彼らがよく行なう強迫的儀式行動である。これらの強迫症状は、人々の間に時々見られる伝統的な迷信や宗教行動とよく似ている。その意味で迷信は、集団的な強迫行為と考えることができるかもしれない。
儀式的な行為、強迫的思索、恐怖症など、強迫神経症のかなりの症状に、宗教的な意味付けができることを考えると、前頭葉眼高面皮質の機能が宗教的態度の形成に関係している可能性は非常に高いと考えられる。

前頭葉と自省の心
正常者の前頭葉がどのように働いているかを調べた研究。
自分自身を客観的に観察し、自分とは何か、自分と他人との違いは何か、などを認知する機能は、人間の社会的認識、行動、道徳や宗教と密接に関係した脳の機能である。「自省の心」は、道徳や倫理、宗教にとって不可欠の機能。
機能的核磁気共鳴画像法(fMRI)を使用して、正常人が自分自身を振り返って考察する際に、脳のどの部分が働いているかを調べた研究。
自省の心を要する質問に対する反応と、それを要しない対照の質問に対する反応とを比較~その結果得られたものは、自省の心に特有な脳の活動。自省の心を使う場合に、前頭前野皮質の内側面に特異的な脳の活動があることが発見。同時に後部帯状回皮質と言われる、脳の後部の小さな部分が同時に活動することが観察。この後部帯状回という大脳皮質は大脳辺縁系の一部となっており、記憶を呼び出すのに重要な働きをすることが、他のfMRIを使った実験からすでに知られている。特に、自伝的記憶と言われる、自分自身の人生の過去において起こったことを思い出す記憶の一分野に、この後部帯状回が重要であることが、いくつもの研究から明らかにされている。
自分がどんな人間であり、自分がどんな性格であるか、などは全て記憶に頼って判断しなければならないわけで、前頭葉以外にそのような特殊な記憶に関係する脳の部位が、一緒に活動することは当然と考えられる。

前頭葉は、自分を振り返って考え、自分を制御して、倫理的、道徳的な生き方を選びとるために、どうしても必要な脳の部位であることが分かる。この部位が障害されれば、人格は失われ、宗教的な信仰も宗教への献身も失われるのである。

第六章:頭頂葉と宗教固有の体験

宗教固有の体験とは何か
宗教固有の感性を伴った体験こそは、歴史上一貫して宗教の根底にある、本質的なものと考えられる。もちろん宗教はこの根本的基盤から発達して、様々な側面を持つ人間の社会活動となっている。しかし、その起源を理解し、その本質とメカニズムを理解するには、この宗教固有の体験を理解することが不可欠なのである。このような体験を基盤に持たない限り、宗教団体は結局、本質的には政党や組合と同じく、観念や理念と行動目標強要する共有する単なる人間の集まりに過ぎなくなるであろう。
こうした人間の集団活動と宗教とを本質的に分けるのは、この基盤にある超自然的な宗教体験と言うことができるであろう

瞑想する脳、神秘的体験をする脳
ペンシルバニア大学の精神神経科:ユージン・ダキリ(Eugene G D'Aquili)と放射線科:アンドリュー・ニューバーグ(Andrew Newberg)たちの研究結果は、脳の左側、耳の上に位置する頭頂葉の大脳皮質の一部が、瞑想の頂点に対応して代謝活動を減少させることを示した。この瞑想の頂点に一致して活動を休める部分は、解剖学的には後上頭頂葉皮質と言われる。

更にダキリたちは、この宗教体験と脳の代謝との関係が、宗教の種類に関係なく見られるかどうかを調べるために、同じデザインの実験をキリスト教、フランシスコ派の尼僧たちの集中した祈祷を使って実験した。しかしこの尼僧たちの祈持に伴う感覚は、チベット仏教の瞑想に伴う感覚とは異なって表現された。尼僧たちは、祈祷の絶頂期には神が非常に近くに感じられ、ついには神と自分が一体に感じられると自分たちの体験を表現した。これはカトリック教に伝統的にある、神的合一(mystie union)の経験と一致するものと考えられた。
神秘的合一は、また神秘主キリスト教ではキリストとの結婚による合一とする教義もある。
この尼僧たちの経験した神秘的合一の体験に際しても、同様に左側頭頂葉の同じ部分の代謝が低下することが認められた。ダキリらは、これらの結果に基づいて、この部分は宗教の種類を超えて、宗教体験に際して共通に活動が抑制される脳の部位であると考えた。

自己と自己以外とを区別する脳
頭頂葉連合野のこの部位は、空間と方向の感覚に密接に関係している。この部分に障害のある患者は、自分の周りにある物体の位置関係がわからなくなり、住み慣れた自分の家の中でさえ迷ってしまうことがある。更に障害が進むと、自分自身の空間と自分以外の空間との間の区別がわからなくなってしまう。また病状が進むと、自分と自分以外との区別がつかなくなることがよく観察される
私が右手の親指の先と中指と薬指の先端を合わせ、人差し指と小指とを立てて、狐の頭の影絵を作る手の形を患者に示し、「これと同じ手の格好を作って下さい」とお願いする。この問題はアルツハイマー病の患者にとって特に難しい。それは手の各指の空間関係を把握しなければならず、更に自分自身の各指の関係も把握しない限り、真似ができないからだ。患者は私の手をしげしげと見たあと、手と指で色々な格好を作ってみる。しかしそのうちに、なんとこの患者は私の手に自分の手をつけ、私の指に患者自らの指をからませる行動に出ることがある。このような頭頂葉の障害患者に見られる不思議な現象は、神経心理学の領域で、クロージング・イン現象と呼ばれており、自分の領域と自分以外の領域とが区別できなくなり、混乱する状の典型と考えられている。

自己を失い神仏と一体となる体験
多くの宗教儀式で使われる宗教的象徴物、絵画、像、言葉や歌などは、それに全ての感覚を集中させることによる、他への感覚の遮断状態は、あたかも無重力状態で上と下の感覚がなくなったような状態、あるいは真っ暗闇に立たされて左右も前後も分からなくなった状態に似ている。人間が自分の体を意識し、周囲を意識するには、その基準となる様々な感覚を必要とする。感覚が全て造断されると、人間は何か実態のない空間に浮遊したような感じを受けるものである。
フローテーションタンク(アイソレーションタンク)の中で、重力感、触感、音、光、温度などの刺激を除いて人工的に作り上げた感覚造断環境は、ストレスや依存症の治療に使われることがある。感覚遮断環境では、人が幻覚を経験したり、感覚が歪んで、時間感覚が麻押したりすることがあることが知られている。これも宗教体験と共通するものであろう。

言葉で言い尽くせない偉大な体験—映画「コンタクト」より

1997年に封切られた故カール・セーガンのSF映画「コンタクト」は、地球以外の宇宙のどこかに存在するかもしれない知能を持った生物を、電波を使って探索する女性研究者、エリーを主人公とする映画である。この映画は、天文学や宇宙科学だけでなく、哲学や宗教に深い造詣と興味を持っていたカール・セーガンの、多面にわたる思想を反映した映画で、SFとしてだけでなく、宗教的、哲学的、社会学的問題を多岐にわたって取り上げており、宗教の起源という問題を考える上に、多くの考えの糧を与えてくれる
ここに紹介するのは、この「コンタクト」の終盤でのクライマックスに当たる公聴会の場面である。
女主人公エリー・アロウェイは、銀河系の中心部にある惑星「ベガ」から送られてきたメッセージに基づいて作られた特別な装置を使って、唯一人でごく短時間のうちに「ベガ」へ行って帰ってきたのだが、もちろんそれは誰にも信じてもらえない。アメリカ国民と宗教関係者が見守る公聴会の中で、国家安全順間のマイケル・キッツはエリーを詰問し、エリーの話を作り話として片付け、国民の不安を和らげようとする。原理主義的宗教関係者は、地球以外の天体に高度の知能が発達している可能性に脅威を感じていたからだ。キッツの尋問に対するエリーの答えは、人が非常に特殊な状況に置かれた時に体験する、言葉で言い尽くせない偉大な体験を見事に描写している。

”(エリー)そんなことは起こらなかったという可能性はあるか、という質問に対しては、私は科学者として、その可能性があることを確かに認めます。
(キッツ)ちょっと待って。ここではっきりさせておこう。あなたは自分の体験を裏付ける何らの物質的な証拠も持ち合わせていないことを認めるのだね。
(エリー)そうです。
(エリー)あなたは、すべてのことは幻覚であったかもしれないと認めるのだね。
(エリー)はい。
(キッツ)あなたがもしわれわれの立場にいたら、全く同じような不信と懐疑心をもって反応するであろうことを認めるのだね。
(エリー)はい。
(キッツ)それならどうしてあなたは自分の証言を撤回して、この銀河系の中心への旅は、実際は起こらなかったと認めないのだ。
(エリー)それは出来ないことだからです。……私は証明することの出来ない体験をしました。私はそれを説明することすらできないのです。でも人間として私が知っていることの全てが、私自身が私であることの全てが、それは現実であったと教えているのです。私は何か素晴らしいもの、何か私を水遠に変えてしまったものの一部となったのです。宇宙の光景は、私たちが確かに小さく、意義のない存在に見えるが、同時に私たちがいかに稀で貴重な存在であるかを教えてくれたのです。私たちは、誰一人として孤立してはいないと……。この体験を分かち合えたらと思います。全ての人が、一瞬の間でもいい、この畏敬と、謙遜と、希望とを感じることができたら、……でも、これは私の希望に終わるでしょう……”

カール・セーガンは、思想的に多くの部分でこの主人公エリーと同じ立場をとっていたという。彼は宗教に関しては、神の存在は科学的に証明できないという不可知論的な立場をとっていた
この物語の中でエリーは、地球以外の天体に道かに進化した知能を持った生物がいることを発見したために、宗教界から強烈な批判を受ける。しかし、エリーは(そして作者のカール・セーガンも)宗教は批判せず、宗教と科学とを別の次元で考えるという立場を取りつづける。
しかし、カール・セーガンは、惑星への旅から帰ってきたエリーの言葉を通じて、ここに科学者も宗教者と同じように「言葉で言い尽くせない偉大な体験」をすることがあることを示唆している。宗教者がその偉大な宗教体験を非宗教者に対して言葉で言い尽くせないという同じ困難を、エリーは正しく科学者としての立場から経験しているのである。
「コンタクト」はもちろんフィクションであるが、宗教体験と同じような「畏敬と、謙遜と、希望」の混じった、言葉で言い尽くせない偉大な体験が、特殊な状況では宗教に関係なく起こることを示唆する。私の雪山の体験は、これほどの偉大な体験ではなかったが、やはり言葉に尽くせない不思議な体験であった。
エリーはここで「神」という言葉をあえて使わなかったが、「何か素晴らしいもの、何か私を永遠に変えてしまったものの一部となる」というエリーの感動的な言葉は、彼女が「神の発見」の直前まで行った可能性を示唆している。
しかし、宗教信者の大部分は、エリーような特殊な状況を経験することなく宗教的体験をし、神を発見して宗教に入っている

宗教体験における宗教儀式の役割
一般の信者に広く宗教体験をさせるには、どのような方法が宗教で使われているのであろうか。祈祷と瞑想は、世界のほぼ全ての宗教に共通する、宗教活動の最も重要な要素と言えよう。しかし多くの宗教は、祈祷や瞑想に加えて、特有の宗教儀式を使って信者たちに宗教体験を与えている。これらの儀式による宗教体験は、祈祷や瞑想と共通する脳のメカニズムを持つのであろうか。
儀式の特徴は、信者たちが集団で一定の型にはまった行動を起こすことである。また儀式には、ダンスや体の律動的な動きなどの一定のリズム、繰り返される決まった言葉(お経、念仏、聖句)、音楽(歌、太鼓、お経など)、光と映像(象徴となる像、絵画、ろうそく)、臭い(線香、香煙)、などがほとんどの宗教で使われている。これらの感覚・運動器官に訴える効果は、信者の脳にどのように作用するのだろうか。
過度の感覚の飽和状態は、逆に感覚遮断状態を作ることは、心理学でも知られており、それが宗教儀式のメカニズムであっても不思議はない。頭頂葉の空間感覚や、自己と外界とを区別する感覚の変化が、宗教体験と密接に関係しているという説は、それを支える実験的証拠もあって、宗教体験を説明する重要な要素であろう。しかし、私自身の雪山での体験でもわかるように、そのような体験が直に宗教と結びつけられるかどうかは定かではない。このような体験に宗教的な意味をつけるには、ただの感覚を超えた、より複雑なメカニズムがあると思われる。これには、宗教的なシンボル、宗教的な場所、そして集団での行動が必要かもしれない
頭頂葉は恐らく宗教体験をつかさどる脳内回路の中で重要な位置を占めてはいるが、それだけを「神の座」と考えるのは無理があるようだ。
頭頂葉の一時的機能低下は、特有の不思議な感覚を人に与え、宗教的な前後関係で認知の姿勢が宗教に傾いている時にそれが起こると、神秘的宗教体験と解釈されるのであろう。確かに、この頭頂葉の働きがなくとも、人は普通の宗教活動を続けることはできる。しかし、この頭頂葉の機能は、少なくとも一部の信者にとっては、活き活きとした宗教体験を与えることにより、「生きる神」の存在を自分の内部に感じさせ、確信させることを可能にしているのであろう。

アルツハイマー病と宗教活動
アルツハイマー病では、ピック病と対照的に人格や倫理道徳行動は、特に痴呆が進行する前は、比較的保たれることが知られている。上に紹介したビック病のG氏と対照的な、アルツハイマー病のH氏の話を次に紹介しよう。

"H氏が最初に泌尿器科の医師から私の所へ紹介されて診察に来たのは63歳の時であった。コンサルテーションの理由は、前立腺肥大の手術の後、時々もの忘れがひどくて混乱することがあることであった。H氏は過去20年以上、地元の神学校で新約聖書を教える教授であったが、それと同時に生涯を貫く熱心なクリスチャンとして、教会の牧師の仕事もあわせて行なっていた。初診当時は、H氏の神経学的な診察は正常であって、ストレスによる一時的な記憶障害と考えられた。しかしその三年後に再び私のクリニックを訪れて来た時、彼の記憶障害は進み、日常の家族との会話をすぐに忘れて、同じ質問を繰り返すようになっていた。
H氏はその前の年に神学校の教授を退職していた。奥さんによると、講義の際のストレスが病状を悪くしているようだったが、しかし学生たちや他の教官からは最後まで慕われ、人気のある先生として退職できた。この時の診察では、H氏は短期の記憶に明らかな障害があり、三つの単語を覚えてもらっても、その数分後にはそれが思い出せない状態だった。また、字を書いたり、図形を模写したりする能力も障害されており、頭頂葉の障害が疑われた。しかし、古くから身に着いている知識や、読んだり、出したり、聞いて理解する能力は正常であった。
この時の脳のCTはごく怪度の萎縮を示す以外には異常はなかった。この時点で、私は日民を初期のアルツハイマー病とXこの時点でのH氏の宗教活動は以前と全く変わっていなかった。新約聖書の教授という仕事は退職していたが、毎朝家族全員を集めてギリシャ語原文と英語で聖書を読み、それを注解し、その後家族全員のために祈祷を捧げるという長年の習慣は全く変わっていなかった。また月に一度ぐらいは、教会の牧師として礼拝を司会して、説教も行なっていた。
その一年後、彼の症状は更に進行し、話し言葉の中に、言いたい言葉が思い出せない障害が出てきた。彼はついに教会での説教をあきらめたが、家族全員での朝の礼拝と聖書研究は、引き続き中心になって行なっていた。この時の診察では、記憶障害が進行し、軽い失語症の症状が始まっていた。頭頂葉障害に典型的に見られる構成失行という特有の行為の異常も見られるようになった。しかし、H氏は終始、礼儀正しく人を思いやり、誰にでも暖かく接する牧師としての人柄を全く失っていなかった。
驚くことは、彼が長年教えてきた新約聖書の原典の言語である、ギリシャ語を忘れていないことであった。その数ヵ月後、私は試しにH氏に新約聖書のヨハネによる福音書の第一章の内容を説明してもらった。彼はギリシャ語の夫々の単語の意味を説明しながら、この第一章でキリストが神から与えられた素晴らしい贈り物であることを、目を輝かして私に説いてくれた。
確かに話し言葉はすでに訥々としており、言葉が飛んだり、同じことを繰り返して話したりすることはあった。しかしそれにもかかわらず、H氏がキリスト教の中核とも言える、ヨハネの第一章の内容の重要性を、熱をこめて伝えようとする努力は、ひしひしと伝わってきた。
私はまたH氏に「言葉が不自由になってきて、神様に祈る時にどうしていますか」と尋ねた。H氏はいつもの笑顔を絶やさず、「祈りは心でするものです、祈りはどこででもできます、車に乗っている時でも、散歩をしている時でも、言葉に出さなくても何時でも心の中で祈っています」という意味のことを訥々と、しかし目を輝かして話してくれた。この会話の中にも、病気にめげずに自分の信仰を貫きたいというH氏の信仰に対する熱意が伝わってくるのだった。”

このアルツハイマー病に罹患するH氏の自分の信仰に対する態度を、前の章で紹介したピック病のG氏の態度とを比べてみると、両者とも同じように一生を牧師という職業にかけて、キリスト教に献身してきたにもかかわらず、対照的な違いがあることがわかるであろう。
この二人の牧師である痴呆患者を比較してみると、いかに前頭前野が宗教活動に決定的に重要な役割を果たしているかがわかると共に、頭頂葉は宗教体験に必要な脳の部分ではあっても、前頭葉のようにそ 機能しないと個人の宗教活動が成り立たないということはないようである。
恐らく頭頂葉は、祈祷、瞑想、座禅、宗教儀式などの最高潮の時点で起こる宗教体験において、一時的な機能抑制を起こして自己空間感覚の喪失を起こすことに、その重要な役割があるのであろう。一方いったん確立した宗教の信者がそれを維持するためには、頭頂葉は前頭葉のような決定的な役割は果たしていないようである。実際に神経内科の臨床で頭頂葉に障害を持っている患者を診療している限り、前頭葉障害患者に比べると、宗教に関する問題はほとんど起こらないのが現実である。

第七章:宗教活動と側頭葉、大脳辺縁系

側頭葉てんかんが引き起こす幻覚の世界
てんかんとは、脳内に間歇的に異常な電気活動が起こる結果、様々な神経学的症状を発作的に繰り返し起こす病気である。
側頭葉てんかんには原則として筋肉痙攣は伴わないが、視覚、聴覚、臭覚、記憶、情動などに関係した様々な症状があらわれる。急に不思議な臭いに襲われる幻臭、人の声や音楽が聞こえてくる幻聴、特定の人の顔や景色が見える幻視などが、側頭葉内部の神経細胞の異常興奮により発作的、間歇的に繰り返し起こるのが、よく見られる側頭葉てんかんの症状である。
また記憶に関した症状としては、急に今の状態が以前に一度経験したことがあるという感覚になる、デジャヴュ体験(既視体験)がある。これは「思い出の幻覚」とも言えるかも知れない。逆に急に全てのものが全く新しく見えて、今まで染んでいたものが初めて見るような錯覚におちいるジャメヴュ体験(未視体験)も起こる。
情動に関係した側頭葉てんかんの症状としては、突然理由のない恐怖心に襲われる発作もあれば、逆に突然気分が高揚し、言葉に尽くせない喜びから状態に至る発作もある。更に自分自身が自分の身体から抜け出した体験(離人体験、out of body experience)、自分自身を外側から見ている体験、現実から夢の世界に入った感覚など、様々な精神的な経験が、側頭葉てんかん患者によって報告されている。
なお、興味深いのは、上に述べた症状のうちのあるものは、てんかんを持たない正常者にも経験されることである。「自分の存在感が感じられない」「自分の外の世界に現実感がなくなった」「自分の心が自分に属さない感じがする」という感覚は、てんかん患者以外にも様々な精神疾患でも報告されている他、特に精神神経系の病気を持たない人でも体験されている。これは精神科領域で離人症と呼ばれる症状である。
また急にまわりの世界が馴染み深く懐かしく感じられ、「これは一度見たことがある」という錯覚に陥るデジャヴュ体験も、てんかん患者でなくとも正常人で時々体験されるので、馴染みのある人も多いだろう。これらの体験は、特に睡眠不足、疲労、高熱などの、脳がストレスにさらされた状態で、正常な人にでも時々起こる。
更に、離人体験は、ワイルダー・ペンフィールドによる、てんかん患者の脳の刺激実験でも見られている。すなわち側頭葉の一部の電気刺激により、患者はその刺激に対応して、てんかんとは関係なく「この世とは違う世界にいる」という体験を報告している

てんかんと宗教との関係
てんかんは古代ギリシャ時代には「神聖病」と考えられ、神が人間に乗り移る病気と考えられていた。また聖書は、マルコによる福音書9章14節から29節に見るように、てんかんを霊がとりついた状態と考えており、イエス・キリストは霊を追い出すことで、てんかんを治療している。
てんかん患者の宗教に傾倒する傾向が指摘され、病跡学的研究から多くの宗教創始者、宗教指導者、シャーマン、預言者などがてんかん患者であったという見解が出され、それが医学的にも受け入れられた説となっている。
宗教に関係した重要人物で、てんかんを持っていたと現在考えられるのは、キリスト教の使徒パウロ、旧約聖書の預言者エゼキエル、ダニエル、イスラム教の創始者モハメッド、モルモン教の創始者ジョゼフ・スミス、新エルサレム教会派の創始者エマヌエル・スウェーデンボルグ、シェーカー派の創始者アン・リーなどが挙げられている。これらの重要人物たちは皆、神秘的内容を伴った幻視、幻聴を経験しており、それが宗教的な体験として記録されている。
一つの例として、預言者ダニエルが神の使者の姿を見て、その頂言を聞く場面を聖書から引用してみよう。
”1月24日のこと、チグリスという大河の岸にわたしはいた。目を上げて眺めると、見よ、一人の人が麻の衣を着、純金の帯を腰に締めて立っていた。体は宝石のようで、顔は稲妻のよう、目は松明の炎のようで、腕と足は磨かれた青銅のよう、話す声は大群衆の声のようであった。この幻を見たのはわたしダニエルひとりであって、共にいた人々は何も見なかったのだが、強い感情に襲われてたげ出し、隠れてしまった。わたしはひとり残ってその壮大な幻を眺めていたが、力が抜けていき、安は変わり果てて打ちのめされ、気力を失ってしまった。その人の話す声が聞こえてきたが、わたしは聞きながら意識を失い、地に倒れた。(ダニエル書10章4節—9節)”
ここで預言者ダニエルは、神からの使者の預言を聞くことになるが、最初に幻覚が表れ、それに続いて力が抜けて、姿が変わり果てて(別の訳では「顔が死人のように青ざめて」とある)倒れて意識を失うこの症状の進行は、てんかんの幻覚性の前駆症状(アウラ)と、それに続く電気的な発作波の全般化が、意識喪失と筋肉の制御の喪失を引き起こし転倒させる過程を、典型的に描写したものである。病跡学的にこれらの人物の生涯の記録を解析すると、側頭葉てんかん患者に多く見られる症状の記録が他にも見られ、これらの人物の大部分が側頭葉てんかんを持っていたと考えられている。またエゼキエルとダニエルの他、イザヤ、ホセア、エレミヤなどの、旧約聖書の預言者たちの幻も、てんかんの兆候と見る見方がある。
有名なハーバード大学神経内科教授の故ノーマン・ゲシュヴィンドは、スティーブン・ワックスマンと共に1975年に側頭葉てんかんに見られる特有な行動パターンを研究して発表した。彼らは側頭葉てんかんを持つ患者の中に、てんかん発作と直接関係なく、特有な行動パターンが見られることを示した。この症候群は、宗教性すなわち宗教への傾倒、性欲の減退、そして文を書いたり絵を描いたりする書画活動の高揚が主な特徴であった。
患者は宗教的あるいは哲学的な議論を好み、神の存在、宇宙の起源、といった話題を繰り返し話したり書いたりする。それと同時に快楽的な活動には興味を示さなくなる。この症候群は、ゲシュヴィンド教授の名前をとってその後ゲシュヴィンド症候群と呼ばれることがある。
ゲシュヴィンド症候群の存在とその意義に関しては、その後神経科医、てんかん学者などの間で議論が続いており、この症候群を否定する論文も出ている。確かにこのような症候群をもつ患者は側頭葉てんかんの患者の中に多いとは言えないかも知れない。しかし多くの神経内科医や精神科医は、その傾向を持つてんかん患者を扱った経験を何度か持っている。私自身も、何冊ものノートに細かい字で、端から端までぎっしりと繰り返し聖書の聖句を書いている(すなわち、宗教と書画活動の高揚)側頭葉てんかん患者にあったことが、印象深く記憶に残っている。なお、古くから精神科領域では、「てんかん性性格」「てんかん気質」という概念があり、これはてんかん患者、特に側頭葉てんかんの患者に特有な性格をさしている。これはほは、ゲシュヴィンド症候群に近いが、てんかん気質という場合には、その粘着気質に焦点があり、宗教性は特に含まれてはいない。

ドストエフスキーの病跡学
加賀乙彦はその著書の中で「諸家の言う癇癪性格はドストエフスキイにおいてはっきりと認められる。というよりドストエフスキイについて人々が言っている特徴のなかで癇癪性格に合致しないものを探すのがむずかしいくらい、彼は典型的な癇癪性格者なのである」と書いている。
ドストエフスキーはここで側頭葉てんかん、特にその中の一つのタイプである他てんかんの症状を、「白痴」の主人公のムイシュキン公爵の言葉に託して克明に記載している。私も多数の側頭葉てんかんの患者を診断して治療したが、これと非常によく似た体験を何度か聞いたことがある。ドストエフスキーはこの長編の主人公ムイシュキンを、敬虔なキリスト教徒で「真に美しい人間」として構想し、キリストのように純粋で愛される人間として描いている。
ドストエフスキー自身も、ムイシュキンと同様、非常に宗教性の強い人間であったが、実際には一時無神論にも傾倒し、再度キリスト教に改宗するという劇的な経験もしている。早稲田大学教授でドストエフスキー研究家の井桁貞義によると、ドストエフスキーがキリスト教へ戻った改宗の体験は、てんかんの前兆(アウラ)に伴う劇的なものであった。ドストエフスキーの著作とその一生は、このようにてんかんと宗教体験とが密接に結びついていることを示す、顕著な例となっているのである。

てんかんはどのように宗教体験を引き起こすか
アメリカの精神科医ベアーは、てんかん発作によって側頭葉に度重なる電気刺激が加わると、側頭葉の内部での感覚系の入力が、記憶と情動の中枢である大脳辺縁系とより強く連絡し、その結果すべての感覚が情動的に強調されて感じられるようになる。そしてその反応として宗教体験が起こりやすくなるという仮説を出した。しかし、この仮説では「なぜ宗教なのか」という問いには答えが出せない。
この問題に対して、最近、カリフォルニア大学サンディエゴ校の神経内科教授ラマチャンドランは、興味ある実験をして報告している。彼は典型的なゲシュヴィント症候群、すなわち側頭葉てんかん性格を持つ患者を実験室に連れてきて、様々な写真や言葉を見せて、彼らの情動の反応を調べた。この場合大部分の人間は(男性の場合)、恐怖の写真や性的刺激に対して大きな反応を示し、なじみの顔写真にある程度の反応を示すが、それ以外には目立った反応は示さない。ところが、ラマチャンドランが連れてきた、ゲシュヴィント症候群の二人の患者は、宗教的な言葉と絵に対して大きな反応を示したが、他の写真や言葉には有意の反応を示さなかった

もし側頭葉の異常電気興奮(てんかん)が宗教体験の基礎であるとしても、てんかんを持たず、側頭葉に異常も無い大部分の健康人の宗教体験はどのように説明するのだろうか。ここで考えなければならないのは、精神神経機能の「正常」「異常」の判断は、ある場合には非常に困難で、また議論が分かれるという事実である。この章の初めの方で紹介したように、側頭葉てんかんのある種の症状、たとえば既視体験や離人体験は、正常人でも疲労、ストレス、睡眠不足、発熱などで経験される。それではこのような体験は本当に正常なのだろうか、それとも潜在的な病気の表れではないのだろうかという疑問が生じる。

どこまでを精神神経の病気と定義するかは、かなりの部分が診断基準の作り方と診断技術にかかっている。実際、軽度の精神疾患を持った人々は、正式な診断を受けてはおらず、大部分は「正常な一市民」として生活している。てんかんについても、発作の内容が外からは見えず、しかも発作が稀で本人に気づかれないか、問題を起こさない場合、患者は医師を訪れて診察や、てんかんの診断に不可欠な脳波検査を受けることはない。「正常」と考えられている人々の中に、このような潜在性のてんかんを持つ人々は、少数ながら必ずいるのである

一つの興味ある仮説は、宗教体験をする人々の側頭葉は、他の人々の側頭葉と比べて構造が少し異なっているという可能性である。特別の才能のある人々の脳が、その才能に関係した脳の一部分において、構造的に一般人と異なっていることは、神経科学で最近明らかにされている。一部の宗教家、特に宗教指導者や預言者などの側頭葉が、これらの天才と同様、特別な構造を持っていたという可能性は考えられる。しかしこのような仮説は、今の所神経学者によって検証されてはいない。
いずれにしても、側頭葉てんかんがドストエフスキーのような劇的な宗教体験を起こすことは確かだが、それだけで一般に広く経験される宗教体験を説明するのは、現時点では無理であろう。

第八章:その他の脳機能変化による宗教体験

脳内の薬物効果による宗教体験
一九六〇年代初めのアメリカの新鋭の心理学者、ティモシー・リアリーは、ハーバード大学の教授に赴任して間もなく、メキシコでバケーションを取り、そこで幻覚誘発性の茸を食べて、初めての神秘的体験をした。リアリーはそれまで心理学者として研究して知っていた、神秘的宗教体験が自分に起こったことに強烈な感動を覚えた。この体験は、リアリーのその後の人生を大きく変えることになった。

彼は、茸が人々の心と行動を変える有力な薬になると考えて、ハーバード大学でサイケデリック薬物の研究を始めた。彼は茸の主成分であるプシロシビンを、自分も含めた研究者たちや被験者たちに飲ませては心理学的実験を行なった。しかし、やがて学生や職員の間の薬物乱用が問題になり、リアリーはハーバード大学を免職になる。その後彼は、LSDを使用したが、やがて一九六〇年代のアメリカ社会全般の幻覚剤乱用の中で、当時のヒッピーのシンボル的存在になる一方、社会的批判の的にもなり、ついに麻薬所持の罪で懲役の判決を受けることになる。その後の彼の人生は、脱獄、薬物乱用による国際的指名手配、LSD中毒など、悲劇と波乱万丈に満ちたものになる。

ここで、興味あることは、リアリーの興味がこの薬物乱用以降、宗教的になったことである。彼は独自の神の定義に達し、自分の宗教観を「活動家神学」と呼んだ。リアリーの楽物中毒に伴う宗教への傾倒は、幻覚剤のもたらす宗教的体験が、単なる感覚の領域から、宗教観という認知の領域にまで及ぶことを示唆する。幻覚誘発性の植物を使用した宗教指導者やシャーマンたちが、リアリーと似たような体験から、独特の宗教体系を築き上げても不思議はないであろう。

もちろん、幻覚剤が現代の宗教の信者たちの宗教体験に、意味のある役割を果たしている例は稀である。しかし、瞑想や祈祷に伴う神秘的体験や、側頭葉の異常に伴う幻想的体験と同様、幻覚剤による神秘的体験は、一部の宗教指導者たちに宗教的意味を持つイメージや言葉を与え、それに基づく宗教体系の形成に大きな役割を果たしたことは確かであろう。

臨死体験における宗教体験
臨死体験の記述を、これまでに述べてきた、側頭葉てんかんに見られる宗教体験の記述と比べると、二つの体験は非常に似ていることに気づかれるだろう。従って、臨死に際して、側頭葉にてんかんと似たような電気活動が起こっていることは充分可能である。
これを示唆する神経学的な証拠としては、脳が低酸素状態に置かれると、一部の神経から興奮性の化学物質が放出され、脳の電気興奮性が高まることが知られている。実際、脳が低酸素状態におかれると、てんかんに似た痙攣が起こることが観察される。死の直前は、一般に呼吸と心拍が止まって脳は低酸素状態に至るので、それに伴う脳神経の一時的な興奮が、このような複雑な体験を起こすことは可能である。その際、側頭葉の内側の部分にある、低酸素状態に耐性があることが知られている海馬を含む、大脳辺縁系がより強く興奮し、その結果、側頭葉てんかんと非常に似た体験が引き起こされるのかも知れない。この海馬は、記憶に関係しており、そのために他の脳機能が停止した状態でも、なおある程度の記憶が残るものと考えられる。

夢と宗教体験
夢で活性化する脳の大脳辺縁系は、側頭葉てんかんの電気活動が起こる部位と、ほとんど一致する。それに対して、側頭葉てんかんの場合は、ドストエフスキーの記述にもある通り、体験は生々しい現実感を与えることがある。従って、側頭葉の機能異常に伴う幻覚は、夢よりも確実な宗教体験となり易いことであろう。

宗教体験は精神病か
精神病、特に統合失調症(旧称精神分裂病)や蝶病を代表とする幻覚と妄想を主症状とする精神疾患で、宗教を主題とする幻覚や妄想が見られることは昔から広く知られている。たとえば、自分はキリストの再来であるとか、神が自分にこれをしろと命令しているとか、サタンが策略して自分を不幸にしている、などという妄想は精神疾患によく見られる。従って宗教体験を精神病と結びつける考え方は、昔からあった。しかし、綿密な宗教体験の解析は、精神病に見られる幻覚妄想と、宗教体験との間に多くの違いがあることを示している

一般に精神病による幻覚や妄想は時と場所を選ばずに起こるが、宗教体験に基づく幻覚や妄想は、宗教的な状況でのみ起き、たとえば職場や学校など、関係のない場所では起こらない。精神病に関係のない宗教体験を持つ人々は、それを起こす状況から離れれば、そのような体験をしないものである。それに対し、精神病の病的体系は、本人の意志に関係なく起こるため、周囲に対して異常感を起こす。たとえ同じ宗教に属する人々から見ても、その人の言動は異常に見える。それに対し、宗教体験は時と場所を選んで起こるため、同じ宗教に属する人々から見れば、その人の言動は全く正常に見えるのである。

従って、大部分の良く知られた宗教体験は、精神病とは考えられていない。しかし、そのことは必ずしも精神病と宗教が無関係であるという証拠にはならない。多くの確立して伝統のある宗教は、人々の精神衛生にとって有益であることが報告されているが、一部の宗教、特にいわゆる「カルト」と呼ばれる新宗教の幾つかは、信者の精神衛生に悪影響を与えたり、精神病の患者がより入信しやすいという傾向が報告されている

また、精神病の中でも統合失調症の一タイプである妄想病では、固定した妄想が長年続くだけで、他の精神病の症状をほとんど表さないことがあるため、特有の信念を強固に持ち続ける人々と区別がつかないこともある
ある種の儀式的な行動や迷信のような型にはまった行動、取りつかれたように浮かんでくる宗教的な観念や恐怖などは、潜在的に信者が持っている強迫神経症や、強迫的人格障害の症状である可能性は否定できない。

第九章: 「神の座」は脳内にあるのか

神を知る脳細胞と神を知る神経回路
人間の宗教活動と宗教体験には、様々な脳の部位の機能が複雑に関与している。それではそれらの多くの脳の部位の中で、この一点だけが神を知るのに本質的な役割を果たしている、という脳の部位はあるのであろうか。更に言えば、脳細胞の中で「神を知る脳細胞」があるのであろうか。そのような脳細胞が沢山ある人は宗教に入り、そのような脳細胞が欠損していると無神論者になるということはないだろうか。これは非常に魅力ある質問ではあるが、今の所、答えは見つけられていない。しかし、私はそのような脳の一点は存在しないであろうと考えている。

たとえば離人体験のような神秘的体験でも、側頭葉てんかんや臨死体験に見られるような恍惚体験でも、その人の脳がそのような特殊な状態に置かれれば、誰でも経験できるものである。しかしそのような体験が全ての人において直に宗教に結びつくとは限らない。それらの体験が宗教的意義を持つためには、その体験を宗教的な前後関係で解釈し、自己の実存の中にそれを組み込んで、それに則って一貫した行動をとるという、行動パターンの変化がどうしても必要になるのだ。言い換えれば、宗教的体験は、宗教的認知と宗教的行動とに裏付けられて初めて宗教活動として確立するのである。このような複雑な、感覚、認知、行動のパターンを一つの脳の局所に求めたり、脳細胞に求めたりすることは、確かに魅力的な試みではあるが、現代の神経科学の常識からして不可能である。

人間の宗教活動も、それを脳内の「神の座」に求めるよりは、他の多くの認知・行動パターンと同様に神経回路網によって理解する方が、脳の高次機能の実態によりあっていると考えられる。これはちょうど、摂食行動、繁殖行動など、人間の脳にプログラムされた行動が、すべて複数の脳内の部位を動員した、神経回路網によって起こされているのと事情がよく似ている。つまり「神を知る神経回路網」は、上に述べた宗教活動に関する様々な脳の部位が、一定の共通のパターンで働く時、神を知ったり、信仰心をもって宗教生活をするようになる、と考えるのである。

この点で興味あるのは、最近ドイツのデュッセルドルフ大学神経内科から発表された研究である。彼らは六人の原理主義的クリスチャンと、六人の無宗教の大人を使って、宗教的感性を引き起こす読み物と、宗教と無関係な読み物とで、どのように脳内の代謝の変化が異なるかを、陽電子放射断層撮影(PET)によって調べた。六人のクリスチャンは皆、この原理主義的宗派に改宗してきた強い信仰を持つ信者たちだった。大人になってから改宗を体験した信者は、子供時代からその宗教の中で育った人々に比べ、一般により強い宗教への献身をすることが、宗教心理学の研究から知られており、この実験の被験者たちは、非常に強い宗教への傾倒がある理由で選ばれたのである。

この実験では被験者に読んでもらう宗教的読み物としては聖書の詩篇二十三章が使われ、無宗教的な読み物としては電話カードの使用説明書が使われた。また、宗教的感性による特異的な脳の活動を、一般的な幸福感による脳の活動から区別するために、ドイツの子供たちに良く歌われてほとんどの人々になじみのある童謡が使われた。被験者たちは、陽電子放射断層撮影(PET)の装置に入って、放射物質の注入を受けた直後に撮影をうけながら、これらの三種類の読み物を読んだ。またPETの後では心理学的検査を受けて、夫々の読み物が予想された通りの感覚を被験者に起こしていることが確認された。

このデュッセルドルフの実験では、詩を読んで宗教的な感覚が呼び起こされた時、被験者の脳の右前頭葉の上部外側面と、頭頂葉の上部の内側にある小さな大脳皮質が活性化されることが示された。頭頂葉のこの部分は、前頭前野皮質と密接に神経線維でつながっていることが知られている。興味あることは、幸福感のような感情変化によって活発化される大脳辺縁系の部位は、詩篇を読むことによっては活発化されなかったことである。この結果からこの研究者たちは、詩備を読むことによって引き起こされる宗教的体験は、前頭葉の思考の制御を行なう上部外側面と、視覚の記憶に関係する頭頂葉の一部との間の神経回路網によって起こる、認知活動であると結論している。

人間の宗教活動が脳の一つの局所の働きではなく、複雑な神経回路網によって起こされている、というこの見方は、他の人間の行動と脳活動との関係を見ても、最も納得できる見方と思われる。この点ですでによく研究されている人間の行動に、性愛に関する行動がある。これは、恋愛の感情を表す詩歌や芸術表現に始まり、性的な興奮から実際の生殖行動まで含まれるが、全て視床下部と言われるホルモンの中枢となる脳の部位と、その上部にある大脳皮質の様々な部位との神経回路網によって起こされていることが知られている。
恋愛には宗教と共通するような、素晴らしいものへの崇高な献身という側面があり、ロメオとジュリエットのような命がけの恋愛をする人々にとっては、何か物質を超越した次元の現象のように感じられるものである。しかしそのような複雑な人間の感情と行動を、神経科学のまな板の上で解剖してみれば、それはやはり最終的には、神経回路網の働きに帰せられるのであって、「恋の中枢」などは存在しない。
宗教という同じ様に複雑な認知行動パターンにも同じ事が言えるのも不思議ではない。

第一部のまとめ
一、前頭葉の先端部である前頭前野皮質は、人間の倫理的、道徳的な人格を保持していくために不可欠な脳の部位である。この部位が障害を受けると、たとえ他の脳の部位がどれだけ正常に機能していても、真の信仰を持って宗教活動を続けることは不可能になる。

二、頭頂葉の自己空間を認識する連合野は、「悟り」「神との一体化」「無我の境地」、などの神秘的体験に関係している。しかし、この部分の関与はそのような神秘的体験時に一時的に見られるもので、宗教活動にとって頭頂葉の働きが継続的に必要とされている証拠はない。

三、側頭葉てんかんが引き起こす、幻覚や妄想のあるものは、宗教的体験にともなう幻覚や妄想と酷似する。側頭葉てんかんの患者の中に、強い宗教への傾倒を示す者がおり、一部の信者の宗教体験は、側頭葉てんかんの症状と考えられる。

四、幻覚剤の使用と臨死体験は、共に視覚を中心とした強い幻覚を引き起こし、その体験は宗教体験や側頭葉てんかんの幻覚症状と酷似している。これらの体験がきっかで宗教に入ったり、宗教を始めたりする場合がある。

五、宗教は大部分の場合、精神病の症状ではないが、診断を受けていない軽い病気を持つ精神病者が、その精神病に基づく宗教体験を経験している可能性はある。

六、宗教を起こさせる脳の特定の部位、すなわち脳内の「神の座」あるいは「神を知る中枢」の実体は、脳内の一点ではなく、幾つかの部位を結ぶ神経回路網であると考えられる。宗教と似た複雑な人間の認知行動パターンである恋愛行動が、同じ様に複雑な神経回路網の働きで理解されるのとよく似ている。

以上見てきた宗教活動と脳の機能やその異常との関係を総合してみると、「神を知る神経回路」は次のような要素を持っていると考えられる。先ず第一に、前頭前野皮質はこの回路の中で必須の要素でなければならない。別の言葉でいえば、前頭前野皮質は脳全体の宗教活動の指揮者のような存在である。指揮者が抜けても、音楽の演奏は各楽器の奏者が機能している限り続くが、そこにはもはや指揮者の活き活きとした芸術性は出てこない。形骸化した音楽しか生まれないだろう。
それと同様に、前頭前野皮質の機能が無い限り、宗教に関する感覚を持つことはできても、また宗教に関する理解と記憶はできても、それが「自己の宗教」とはなり得ないのだ。その意味で、前頭前野皮質は神を知る上での脳内の必要条件と言える。しかしちょうど指揮者一人だけでは音楽が奏でられないのと同様、前頭前野皮質だけでは宗教は成り立たず、従ってこれだけでは宗教成立の充分条件を満たさない

大部分の無宗教者、無神論者は、反社会性人格障害者を例外として、正常な前頭前野皮質を持っていると考えられる。従って、ほとんどの人間は、倫理的な行動をし、衝動的行動を制御しながら生きていくことが出来るし、宗教の信者になれる可能性を持っている。しかし、健康な前頭前野皮質を持っているということだけで、ただちに神を意識したり宗教に献身したりすることはありえない。宗教活動は前頭前野に加えて、それ以外の別の脳機能を必要としているのである。

宗教成立の充分条件は、「神を知る神経回路」の第二の要素にかかっている。それは頭頂葉や側頭葉から発せられる特有の体験である。それは、瞑想や祈祷によって得られたり、宗教儀式に参加することによって得られることもある。また、側頭葉てんかんのような病的に起こる幻覚や、ストレスや一時的な身体状態の変化から来る幻覚によることもある。更に、薬物による幻覚が役割を果たす場合もあれば、臨死体験がきっかけとなることもあるかもしれない。これらの体験は、様々な状況で様々な形で起こるが、結局、前頭前野皮質との連絡網を介してはじめて、神や仏への信仰という形の最終的な宗教へと結実すると考えられる。そしてそこには、宗教的な環境、たとえば寺院や教会などの特有な雰囲気と、すでに信者になっている人々の誘導が、重要な外的要因となっていることは言うまでもない。

第二部:宗教の中に脳の働きを求めて

第十章: 宗教の歴史的起源とその進化

先史時代の宗教
認知的不協和の理論と神話の形成
人間が認知した事実と、自分の欲求との間に隔たりがある時に、認知の内容を変えて自分の欲求の挫折と不満を解消する行動をとること。
「認知的不協和の理論」を簡単に説明するために使われるたとえ話に、イソップの酸っぱいぶどうの話がある。
興味あるのは、このきつねの「酸っぱくて食べられないぶどう」という観念は、全く現実性のない、きつねが自分の挫折感を緩和させるために作り上げた話なのだが、そのようにして形成された観念が、強い確信になってしまうことである。その後の心理学の多くの研究は、この「認知的不協和の理論」が多くの人間の行動の様々な面で見られ、人々が現実離れした確信を得る重要な認知のメカニズムであることを示した。
医療現場でよく見られる「認知的不協和の理論」の例は、嗜癖(しへき・アディクション)の行動である。喫煙の健康に対する弊害を認識して喫煙を止めようとするが、その嗜癖を克服できない人々は少なくない。興味ある研究は、それらの人々が喫煙の害に関する情報を知らされても、それを軽く扱うか、ついには心の中で無視することである。彼らにとっては、喫煙が有害でありながらそれを続けることは、不安感をつのらせるだけである。これが「不協和」であり、これは解消されなければならない。そこで喫煙が少しでも害がないという情報があると、それを心の前面に意識させて、嗜癖を克服できない言い訳と正当化を図るのである。すなわち、認知的不協和を解消させるためには、場合によっては客観的な情報や合理的な論理を歪めたり無視したりして、それに代わって不合理な理論を確信してしまうことがあるのである。

レオン・フェスティンガーは彼の理論を宗教にも適応し、それが見事に示されることを報告した。これは彼の非常に有名な「予言が外れる時」という実験報告である。フェスティンガーは、この世界が間もなく終わりになり破壊されるという終末を予言している一宗教団体に、信者になりすませた研究者を送り込み、その内部で信者がどのように終末予言に対する信仰を作り上げるかをつぶさに観察した。信者たちは仕事をやめ、財産を売り払って教祖の元に集まって終末を待った。そしてこの宗教が教える終末の予言の時が来て、何も起こらずに予言が外れたとわかった時に、信者になりすました研究者は、信者たちがどのように振舞うかを観察した。

この時、信者たちは、「自分の人生の全てをかけたこの宗教が間違っていたとは認めたくない」という一つの認知と、「この宗教は、嘘の予言をしてあてにならないことを教えている」という、もう一つの認知との間の不協和に直面した。この時、信者はどのようにしてこの認知的不協和を解消したであろうか。

一番簡単に考えられる反応は、「この宗教はインチキ宗教だ」として手を切る方法だが、信者たちはこの最も簡単な道をとらなかったのだ。信者たちがとった不協和の解消法は、「これは自分たちの信仰の強さを試すための神の試練だった」という新たな認知で、それにより彼らはますます信仰を強めた。また、「終末は実は来たのだが、教祖の信仰によって神が終末の悲刷を回避させたのだ」という新しい認知も形成された。これは、信者たちが自分の全てをかけた宗教の誤りを認知するよりは、予言の内容の認知を変えることによって、その宗教を継続したいという欲求を満足させる道を選んだからである。

この終末予言の宗教の例でも、きつねの酸っぱいぶどうの例でも、認知の不協和を解消するために、新しい「話」が作られ、それが新しい「確信」となることに注目したい。このような確信は、やがて奇跡の体験談とか神話を生む原動力になる。

愛する人の死に直面し、その人がいないという認知と、その人の死が実感にならず、その人に再びどうしても会いたいという強烈な欲求との間には、解消しようのない不協和が生じる。その時に、例えば、その人が夢の中で亡くなったはずの愛する人に会ったり、暗闇の中で人影のようなものが見えるような、何らかの神秘的体験をすれば、それが「愛する人の魂は生きている、実際私はその魂に会った」という話に発展する。ここに奇跡の体験談や復活の神話が誕生することになる。もしそのような経験が複数の人から報告されれば、それは社会全体の神話に発展し、それは更にたくさんの人々に信じられるであろう。これは何も太古や未開地で起こるだけではない。現代でも実際に起こっているのだ。その良い例が、一九六〇年代のアメリカのロック・スター、エルビス・プレスリーの生存神話であろう。

「神話」という言葉は、日本語でも英語(myth)でも、作り話、嘘の代名詞のように使われ、偏見を持たれている用語である。たとえば、「聖書は神話である」と言えば、大部分のキリスト教徒は侮辱されたような嫌な顔をする。しかし、神話の本質は隠喩を使った象徴である。
隠喩そのものが史的事実として真実なのではなく、隠喩によって伝えられる神話の製作者の心情こそが真実なのである。アメリカの比較宗教学、神話学の権威であるジョゼフ・キャンベルは、この誤解を解くために努力を重ねていた。彼は、神話の豊かな隠喩を読み取ることにより、古代人の生命力ある心の真実が伝わることを示した。そして神話が現実味のない死んだ記録と感じられるとすれば、それは神話を事実の記録として読もうとして、隠喩が象徴する深い意味を無視する誤りから来るとした。本書でも、神話を宗教が生み出した記録として頻回に言及するが、キャンベルと同様、事実の記録としてではなく、古代人の知恵と心情の貴重な宝庫として扱いたい。

話を太古の宗教の形成に戻そう。現代のわれわれの社会では考えられないことだが、古代人は毎日、他の野生動物との生きるか死ぬかの生存競争、あてにならない食物の確保、病気や災害との限りない闘いなどから、毎日死と直面して生きなければならなかった。彼らは強力な生存の欲求を持っていたが、彼らの発達した認知能力は、周囲の環境が自分たちの生存を簡単には許さないことを、彼らに認識させた。この生存の欲求と、生存に敵対する環境の認知との間の認知的不協和の積み重ねに対し、彼らは何らかの形で確信ある答えを得る必要があった。ここに様々な神話の形成と、人間の限られた命を超越した存在を信じる宗教が作られざるを得なかったのである。その後栄えた人類の全ての文明は、時間や場所は違ってはいても、例外なく宗教活動を持っていた。宗教は人間の最も古い精神活動であるだけでなく、最も普遍的な精神活動なのである。

地域と文化を超えた宗教の共通性
創造神話は、地球上に起こった文明のほぼ全てに見られることは良く知られており、これに関する研究や文献も多い。これらの創造神話の間には、もちろん、幾つかの相違点があることは間違いない。たとえば聖書の創造神話の独自性を主張する人たちは、最初に神が存在してその神が創造を起こした、という筋書きは聖書にしか見られないと言う。しかし、これも日本に身近なアイヌ民族や、ニュージーランドのマオリ族の創造神話を見ると、先に存在した創造神による創造の初めが述べられているので、聖書が独自であるとは言えない

進化の過程で人類の脳の内部に、地理的な場所に関係なく、神話を作る脳内の神経回路が形成されて来たと考えるのである。人が時間と無限の感覚を脳の発達と共に獲得するにつれ、時間の始めと終わりに関する説明をどうしても必要とするようになり、それが創造神話として結実することになったのである。

世界に共通する創造神話
共通する英雄神話
広大な人間の無意識の世界
カール・ユングと集合的無意識
ユングは、人類が共通に持つ、意識されない心理的パターンを、「集合的無意識」と呼んで、夢や子供の空想話の中にそれらを見出した。しかし、彼がこれを人類に共通する遺伝的な資質であると結論させたのは、世界各地に存在する神話の研究を通してであった。そのような神話に見られる共通のパターンには様々な型が見られ、これをユングは「元型」(archetype)と名づけた。たとえば、母の元型、父の元型、異性の元型、そして自我の元型などである。

脳の進化に対応する宗教の進化
神話と宗教の世界は人類の進化の最も早い時点ですでに始まり、それが脳の認知機能の進化に歩調を合わせて進化してきたと考えるのが、世界に共通する神話や宗教習慣を説明するのに最も合理的であろうと考えられる。そして、その人類共通に進化を遂げた認知のパターンこそが、カール・ユングの提唱した集合的無意識であり元型であると考えられ、それは神経科学で最近解明されてきた、脳内の神経回路のパターンと最終的には一致するものであると考えられる。

以上本章では、世界の古代神話の内容を注意深く比較してみると、民族や地理的な環境の違いにもかかわらず、そこには驚くほど共通のパターンがあることを見てきた。そしてそのような共通性は、ユングが提唱した人類共通の遺伝的な特質である「集合的無意識」の発現した現象であると考えれば、最も整合的に説明されるのである。つまり「集合的無意識」は、人類の認知機能が脳の進化過程で一定の段階に発達した時点で、各地の文明で夫々宗教として結実したのである。
これを一言で要約すれば、宗教の進化は、脳の基本的な認知機能の進化と並行しているという結論になる。

第十一章: 心に内在する神の概念

心の中にある二つの人格の対話
各宗教に見られる「人の心に内在する神」の概念
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教
ヒンドゥー教仏教
西田幾多郎の宗教観

第十二章:人の本性の中に宿る「善」の思想

ショーペンハウエルの疑問
新大久保駅事件と世界貿易センターの悲劇に学ぶ
全くの他人による生体臓器移植の臓器提供
孟子の性善説
聖書に見られるショーベンハウエルの疑問
人に内在する「善」とショーペンハウエルの解釈
内なる善と内なる悪、内なる神と内なる悪魔

第十三章:脳に刻まれた伝統としての宗教

第二部のまとめ
以上第二部では、宗教と哲学の中から、脳の特徴的な機能を反映すると考えられる共通な現象や、考え方を展望してきた。確かに、脳という言葉はこれらの宗教的、哲学的な文書には一切出てこない。しかし、世界中で同時多発的に出てきた各宗教に見られる共通の内容は、人類共通の脳内の認知機能の進化によって最も合理的に説明されると考えられるのである。言い換えれば、宗教は進化によって脳に刻まれてきた伝統文化の一つとも言えるであろう。

一方、人に内在する神の見方も、宗教の境界を超えて歴史的に多くの宗教に現れてきた。ここにも何らかの人類共通の感性が働いていると考えられる。更に人に内在する善の考え方も、宗教に関係なく孟子からキリストまで、また無神論者のショーペンハウエルから現代の世界にまで広く認められているが、興味あることに、それが宗教と関係なく見られる現象であることである。

このことは、人の善が宗教の結果なのではなく、宗教や神の概念の下地として人間に内在するものであることを示唆する。キリストが善きサマリア人の例え話を使って、自分の宗教の最も重要な教えである隣人愛を説く中で、その例え話の主題としてではなく言外に、宗教の外にそのような隣人愛があることを認めていることは、象徴的な現象と考えられる。

そして人に内在する神、すなわち「内なる神」の概念や「内なる善」の見方が、「内なる悪魔」や「内なる悪」の概念の対照概念として、歴史的にも世界的にも広く見られるが、「内なる悪」が脳内の動物的な欲求の神経回路と密接に結びついているのと全く同じように、「内なる善」あるいは「内なる神」は、やはり一定の脳内神経回路と密接に結びついていると結論されるのである。ここで以上の第二部の内容を項目別にまとめてみる。

一、宗教は、考古学的、人類学的に見ると、人類の脳の進化、特に認知機能の進化と共に発展してきた。
二、宗教の原型ともなる神話の形成には、一定の認知機能(認知的不協和の解消)が関与していると考えられる。
三、世界各地の宗教は、文化、地域、人種に関係なく、驚くほど共通したものがある。神話の研究は、特にこの点を明らかにした。これは人類の脳に共通して存在するオペレーティングシステム、特にカール・ユングの提唱した集合的無意識の働きによって説明される。
四、ある人たちは、心の内に「良心」といえる第二の人格を持っていて、それと対話する人が少なくない。
五、各宗教を見てみると、キリスト教と仏教で、それぞれキリストや聖霊、あるいは仏が信者の内部に住むという「心に内在する神(仏)」という概念がある。一方、純粋な一神教であるユダヤ教、イスラム教ではそれは見られない。またヒンドゥー教では、自我と宇宙原理の一体化という概念がある。
六、人が自己の利益や命を犠牲にして、他人に同情し助けを与えるという行動(利他行動)は、宗教と関係なく、昔から様々な形で起こることが知られている。これは、人間に内在する「善」が、共通の脳の機能によっていることを示唆する。
七、人に内在する「善」と対照する、人に内在する「悪」は、より直感的に理解しやすい。「内在する悪魔」はすでに脳の神経回路網と結び付けられることが知られており、それと同じ関係が「内在する神」と別の脳内神経回路との関係にも当てはまると考えられる。

次の第三部では、これらの第二部の考察と、第一部で展望した知見とをまとめて、脳内の神経回路から実際の神への形成過程をたどってみよう。

第三部:脳内神経回路に内在する神神経学的神論

第十四章:神経学的神論による宗教の理解

神の声の発生源、倫理中枢としての前頭前野
神、仏は脳に神経回路網として「内在」する
第二部で見てきたように、ユダヤ教とイスラム教を大きな例外として、ほとんどの他の宗教は、信者の内部に宿る神、仏、あるいはキリストや聖霊の概念を持っている。この事実は、偶然とは考えがたい。なぜこのような概念が、各宗教を通じて存在するのであろうか。それは、第一部で見たように、宗教体験のある部分が、感覚的に神や仏と一体となる体験を可能にするため、その素朴な心情を言葉として表した時、キリスト教では「聖霊が下って私に宿った」と表し、仏教では「即身成仏」と表現されたと考えられる。これらの表現は、決して観念的な作り話や、象徴的な言葉ではなく、少なくともある信者にとっては現実性のある実感なのである。

そして、現代の神経科学の進歩は、この神や仏が内在するという実感の裏にある、脳の神経活動を明らかにしつつある。すなわち、前頭前野と大脳辺縁系との回路が、自省の心を生み、「良心の声」や「神の声」を聞くことを可能にしていることは、先に紹介した通りである。太古から世界の宗教で語られたこれらの信者の体験は、神経科学により実証される、実体で裏付けられたものであることが明らかにされたと言ってよいと私は考える。それでは、そのような知識は、われわれが神や仏を信じる態度を、どのように変えるであろうか。

これに対して一番よく聞かれる宗教者の反応は、「神が人間の脳を作った時に、神を人間に認識させる必要があったために、そのような回路を備えてくれたのだ」という考えである。つまり、そのような脳内の回路は人間の外にある神の産物であり、宗教の起源ではないという反論である。これはもちろん、科学で反論も証明もできない宗教的命題である。しかし、論理の上だけから見れば、第三章で紹介した、デカルトが「神が存在する」と証明した時の循環理論と本質的に同じである。「神が人間を作った時に、神を人間に認識させる必要があった……」と論じるその宗教者は、すでに神を知る自分の脳内の神経回路を使って神のことを考えている。つまりこの人は、先験的な神の存在を前提にしようとして話しているが、その彼の言葉そのものが、彼の脳内にそのような回路が、彼が神を認識する前にすでに存在することを証明していることになるのである。言い換えれば、神を認識できる神経回路が最初に存在しない限り、人間が認識できる神は存在し得ないのである。

このような宗教者たちが唱える「無条件に、先験的に、絶対的に存在する」と信じられる神(仏)に対して、本書が提示するのは、「神(仏)」というものは、人間の脳の進化に伴って脳内神経回路として発達してきた「実体」であり、それは人間にとって「内なる神」として「感じられる」存在であると共に、人間が生きていく上で非常に重要な役割を果たしてきた存在であるという考え方である。その意味で、「神(仏)」は「実体」として「存在」し、その存在は科学的に調べることができるのである。しかも科学は、その「内なる神」が、人類にとっていかに重要な役割を果たしているかをも明らかにする。われわれはその「内なる神(仏)」の存在を信じることができ、その存在を感じながら、それに従って生きることが出来るのである。端的に言えば、これが本書の結論として得られる「神経学的神論」である。

神経学的神論と各宗教の神論

「内なる神」の投影としての「外なる神」
人類が最初に宗教を作った時、それがネアンデルタール人であったか、クロマニヨン人であったかは別としても、多分最初は「外なる神」の崇拝であったのではないかと考えられる。その理由は、古代からの創造神話は全て、「外なる神」の描写であるし、歴史的に見て、仏教の「内なる仏」の見方である如来蔵や、キリスト教の「内なる神」の見方であるイエスの教えは、夫々仏教とユダヤ教の歴史的発展の中で後になって初めて出てきたものである。原始宗教の太陽神や山や海の神の崇拝も、全ては「外なる神」の崇拝であった。ということは、宗教の起源は「内なる神」ではなく、「外なる神」ではなかったのか、という疑問が出てくる。私はこの疑問に対して、次のような可能性を考えている。つまり「内なる神」は最初から人類の脳内に神経回路として潜在的に存在したが、古代の人類は、特に前頭前野が最近の人類のように発達していなかった段階では、単に「内なる神」として認識することができなかったのではないだろうか。先に第五章では、自省の心、すなわち自分自身を振り返って見る能力が前頭前野皮質に存在することを見たが、前頭前野が現在のように大きく発達する前の段階では、現在の幼児と同様「内なる神」が発見されにくかったのは当然のことと考えられる。

それでは、実際に見える物体や偶像にたよらない、ユダヤ教やイスラム教の無限の大きさと無限の時間に存在する、見えない「外なる神」は、どこから来たのだろうか。私は、これは「内なる神」が外へ投影された結果であると考えている。

「神が無限である」という感覚は、最初は宗教の創始者や指導者によって、先に述べた頭頂葉や側頭葉を介する宗教体系として、個人的に体験されたものであったろうと考えられる。その意味で、その起源はやはり個人の「内なる神」の体験であったのだ。しかし、古代の社会では宗教は人の所有ではありえない。それは部族や国家を団結させ、人民をまとめていく共通のものでなくてはならなかったもし、一人一人の神が異なっていたら、神はばらばらになり、民族の統一はとれない。従って、神が民族の統一の象徴となるためには、唯一つであって、民族の全員が一有に仰ぎ見る存在でなければならない。それには個人の「内なる神」は全く役に立たない存在であった。また、同時にその神は物体や人間などの、有限で一時的にしか存在しないものでは役に立たなかった。これらの条件を満たすには、宗教の創始者の「内なる神」を「外なる神」に投影し、唯一絶対で永遠に存在する、見えざる神に変容させるのが最も適していたのであろう。

このような唯一絶対の一神教が、ユダヤ人やアラブ人などの本来遊牧民族の中に発達したのは偶然ではない。彼らは常に異民族と対決し、その歴史は攻めたり攻められたりの繰り返しであった。そのような社会では、民族を常に安定して統一していく力強い「外なる神」がどうしても必要であったのである。それに対し、アジアの農耕定着民族の比較的安定した社会には、その必要がはるかに少なかったと考えられる。

神経回路から宗教国家まで
このように、「悪魔」が脳内神経回路網に起源を持つことが理解できれば、「神」もまた同じように脳内神経回路網に起源を持つことが理解できるのである。なお、実在する世界の宗教を見てみると、「外なる神」を強調する宗教は、悪魔もまた外に投影され、実際の人間、団体や国を悪魔と同定する。このような宗教は、どうしても外部に向けた戦いの活動が、必然的に宗教活動の一部となる。これが「聖戦」である。現代の世界で、宗教が原因となって戦争をしている国や団体を見れば、その宗教の性格は自ずと理解されるであろう。それに対し、「内なる神」を強調する宗教は、悪魔もまた内在化され、それは信仰生活の中で、自己の内部での克服の対象とされる。

なぜ人間には神の神経回路が必要であったか
人間の脳も身体も、夫々の存在には、必ず理由がある。たとえば、摂食中枢や、生殖行動の中枢、子育てに必要な神経回路などは、それが種の生存と継続に不可欠であるからだ。それでは、なぜ人間の脳に神を知る神経回路を備え付ける理由があったのだろうか。有神論者は、神が人間に神を知らせるためにそのような脳の部分を備え付けたと言う。しかし、これは鶏が先か卵が先かの、循環理論であることは先に述べたとおりで、これでは説明にならない。

私は、この「神の神経回路」は、人類の脳が進化の過程で、より適応しやすい条件を人間に対して作ったためであろうと考えている。すなわち、「神の神経回路」を有する人々は、幾つかの条件で「神の神経回路」を持たない人々より生存に有利であったために、人類何十万年もの進化の過程で、ついにそれを脳のオペレーティングシステムとして備えるようになって現在に至ったのであろう。

一般に人間に普遍的に見られる一定の行動パターンを、進化の過程によって説明しようとする試みは、進化心理学と呼ばれている。これは比較的新しい心理学の分野で発展途上にあるが、人間の多くの一見意味のないように見える行動を、科学的に解明する可能性を秘めている。この進化心理学で多くの行動が進化に基づいて説明されるのと同様に、人類の宗教の起源と成立の過程は、脳内の神経回路の進化によって、説明することが可能である。

ここで重要なポイントは、神の神経回路は宗教の結果生まれたものではなく、宗教が形成される前から、進化の過程で脳に形成されたものであるということである。宗教に関係のない「一体感」の存在、宗教に関係のない「利他行動」、「倫理本能」の存在は、そのことをはっきりと示唆している。宗教と神は、「神の神経回路」の産物であって、その原因ではないのである

第十五章: 神経学的神論から見た宗教の形成過程

神の神経回路と環境因子との関係
宗教の信者の中には、全くそのような体験を持たず、ただ教義と戒律、特有の習慣と行動パターンだけを理解して、それらを受け入れて実践しているだけの信者もたくさんいる。すなわち宗教的認知と宗教的行為で成り立つ宗教活動であり、宗教体験の関与はほとんどない。そのような場合は、この神経回路網で大きな活動をしているのは、前頭前野皮質と、学習と記憶に必要な大脳辺縁系の一部だけであり、側頭葉を介する劇的な幻覚や、頭頂葉による特殊な一体感などは経験されないかも知れない。

組織的宗教の形成
ここで見るように、組織的宗教の形成過程の最初のステップは、脳の前頭葉-頭頂葉-側頭葉の回路の進化的発達に依存している。しかし、宗教が社会的な機関になるに従って、個人的宗教体験の役割は減り、「内なる神」は「外なる神」に投影され、「外なる神」の一人歩きが始まる。
体制化した宗教は、脳内神経回路とは無縁の存在となり、権力と政治の係わりが更なる宗教の発展の原動力となる。そうなると、宗教の宗教としての特異性は失われ、他の社会活動や政治などの集団社会行動と区別がつかなくなる。

個人が宗教を獲得する過程
宗教の中で生まれ育った場合
幼児期には子供がどんなに宗教的な振る舞いをして、信者のように見えても、それは単に真似であり、親を初めとする環境によって植え付けられた学習行動に過ぎないことは、宗教心理学者たちの一致した見方である。この事実は、宗教の中で生まれ育った子供たちに、特有な宗教の形成過程を経験させる。なぜなら、彼らは自分たちの脳が認知能力を充分に発達させる前から、神の概念が外からすでに与えられているからだ。すなわちこのような子供たちでは、「外なる神」が先ず認知の中に現れる。

しかし、これらの子供たちも、他の子供たちと全く同様、思春期の時代を通して波乱に富んだ様々な体験を通り過ぎる。この思春期の成長過程で、宗教の中で育った子供たちも、一度はそれまでに与えられてきた「外なる神」の見直しを迫られる。そのような体験から、ある子供たちは、思春期以後に初めて「内なる神」を発見し、それに沿って大人としての、親から口移しにされたのではない自分の宗教を続けることになる。この際、すでに宗教環境の中にどっぷりと浸かっているこれらの少年少女は、比較的簡単に自分たちの体験を宗教的文脈の中で理解することができる。

一方別の子供たちは、「外なる神」の現実を子供時代から嫌と言うほど体験し、成長するに従って「外なる神」に幻滅すると同時に、自分独自の「内なる神」を発見して、親の宗教とは別の道をたどることになる。また別の子供たちは「外なる神」への失望から、宗教全体に対して興味を失うことにもなる

現代のいわゆる「カルト」の形成
現代において次々に形成される新興宗教、特にカルトと言われる信者の中で起こっていることは、「内なる神」の発見の代わりに起こる急速な認知的不協和の解消と、それに伴う確固たる「外なる神」への依存であると私は考えている。次にそのような宗教の例を考えてみよう。

たとえば、結婚して子供ももうけ、特に不自由のない主婦が、物質的には満ち足りているが、精神的には物足りない生活を送っている。「このまま、毎日夫と子供の世話をして、昼間はテレビを見る毎日の人生に、一体どんな生きる意味があるのだろう、私には何も生きる目的がない」、などという実存的不安を感じる。あるいは、新聞やテレビで次々に恐ろしいニュースを見ると、「私もそのうち、死んでしまうし、子供たちはますます不安で危険な社会に生きて行かなければならない、なんと嫌な世の中か」などという死の恐怖を覚える。しかし彼女には「内なる神」を発見するきっかけがない。

そこへ、家から家へと巡回して、信者を勧誘している新興宗教の信者と知り合いになる。その宗教は、信者になって献身すれば、間もなく来るハルマゲドンでも生き残ることができ、楽園で家族全員が永遠に生きられる、と教える。この主婦は最初、半信半疑であるが、その魅力的な教義を信じて献身することが、彼女の不安を解消するのに最も手っ取り早く、有効であることを体験するうちに、楽園で永遠に生きるという話が、確実な信念となり、信仰となる。このように、自分にとって不安を引き起こす認知を打ち消すために、自分のもう一方のより理性的で合理的な認知を無意識の中に押し下げ、現実離れした非合理な認知を意識の中に育て、それを確立した信念として信じていく過程が、第十章で説明した「認知的不協和」の解消なのである。ここに、非常識で妄想のような教義であっても、確固たる信仰をもって信じきることができる不思議な心理的変容が起こるのである。これが新宗教によく見られる、いわゆる「洗脳」の実体であると私は考える。
手っ取り早い「認知的不協和」の解消は、しばしば整合性のない常識はずれな認知をもたらす。「認知的不協和」の理論を最初に提唱した、レオン・フェスティンガー自身がこれを、終末を予言する宗教で見事に示したことは、第十章で紹介した通りである。プレスリーの生存と復活の神話もこの範疇に入る。新宗教、特にカルトと呼ばれる閉鎖的な集団で頻回に見られる、「洗脳」、「マインド・コントロール」と呼ばれる現象は、「認知的不協和」の「手っ取り早い解消」が、強固で整合性のない信念を急速に作り上げることで説明されるであろう。

いわゆるカルトに入る人々の脳にも、例外なく「内なる神」の神経回路は存在するはずである。しかし一旦そのような宗教団体に入ると、特に戒律の厳しい団体では、たちまち「内なる神」は無意識の彼方に押しやられ、「外なる神」、すなわち「教祖」や「組織」が信者の心と生活を全面的に支配するようになる。ここに洗脳から宗教組織の奴隷へと至る、カルト信者の多くの悲劇が生まれるのである。そしてこの「洗脳」状態を維持するためには、情報の制限が不可欠になる。
「外なる神」に疑いを起こさせるような情報は、宗教組織の奴隷たちの目を覚まさせる最も有効な手段になるからだ。ここにカルトにつきものの厳しい言論統制が必要となる。
なお「洗脳」は宗教だけでなく、全体主義体制の元で情報の自由な交換を許されない人々の間にもしばしば見られる。昔の毛沢東政権下の紅衛兵たちが毛主席をたたえる言葉、北朝鮮の人民が金主席とその国家をたたえる言葉などを聞くと、そこには新興宗教の教祖への献身と区別がつかないような心の姿勢が見られる。私は、この現象は「外なる神」に心を奪われ、「内なる神」を見失った人々に共通の態度であり、「外なる神」が強い力を持つと、もはや宗教と政治権力とは区別のつかないものになることを示すよい例であると思っている。

第十六章: 「内なる神」と「外なる神」との葛藤

多くの宗教の歴史を見渡してみると、この個人の「内なる神」が、組織や団体の「外なる神」と一致せず、葛藤を起こし、それが宗教の内粉を引き起こし、宗教改革的な動きを起こしてきた。

「外なる神」が「内なる神」を支配する時
「外なる神」と「内なる神」の葛藤を最も鮮明に見せたのは、他でもないイエス・キリストである。イエスが生きていた当時の「外なる神」は、ユダヤの伝統的指導者たち、ファリサイ派の律法学者たちが教えるユダヤ教の神であった。それは当時の国家とユダヤ民族を統一するための宗教であったが、「外なる神」の常として、個人の信仰の自由より、戒律による信仰と信者の生活の統制を強調した。宗教活動は形骸化しており、一般大衆の心からは隔離していた。それに対し、イエスは形ではなく心の内側の信仰を説き、個人の神との関係、個人の救済を教えた。その意味で、イエスの教えはまさに「内なる神」の復興であった。

このイエスの教えは、使徒パウロに受け継がれて発展した。そこでは、もはやユダヤ人と異邦人との区別はなくなり、全ての信者はキリストにより罪をあがなわれて救済されることになる。「外なる神」が弱められ、「内なる神」が強調された時、宗教が民族の宗教から全人類の世界宗教に普遍化したのは偶然ではない。

イエスもパウロも共に、「外なる神」を固持する支配者たちにより迫害された。これは「外なる神」が「内なる神」を支配する典型的な出来事であり、これも決して偶然ではない。同じことがほとんど全ての宗教において見られるからである。ほとんどの場合、「外なる神」はそのような個人的信仰を排除するために、「異端」を理由とする。異端の概念は、「外なる神」による社会の統一を維持するために頻回に使われる、不可欠で重要なである。

イエスとパウロの時代以降におけるキリスト教の発展の歴史を見ると、元々「内なる神」の復興であったキリスト教が、数百年を経ないうちに、すでに「外なる神」の支配に変わっていく様子がよくわかる。中世ローマやビザンチンを中心とする強力な宗教政治組織となったキリスト教会は、「外なる神」としてヨーロッパの宗教、文化、政治に支配的な力を発揮し、宗教は再び形骸化し、「内なる神」は忘れ去られてしまう。これもまた、「外なる神」が「内なる神」を支配する典型であった。

これに対し、形骸化した教会の状況に抗議して、十六世紀初頭のドイツでプロテスタントの宗教改革を始めたのが、マルティン・ルターであった。当時の教会が免罪符を発行し、信者に対して金銭で罪の赦しを売りつける腐敗した姿に対し、ルターは、救いは信仰によってのみ与えられると唱えた。ここでもルターは、イエスやパウロと同じように、教会という「外なる神」を通しての救済ではなく、個人の直接的な信仰とそこから来る救済を提唱した点で、「外なる神」の支配から、「内なる神」の復興を唱えたと言えるであろう。そして、ルターもまた、イエスやパウ口と同じように、異端として迫害を受けるのである。

このような、「外なる神」による「内なる神」の支配は、キリスト教で特に顕著であった。仏教でも常に新たな宗派が誕生し、支配層から迫害されたが、多くの場合、そのような運動はより寛容に扱われた。このような違いは多分、キリスト教において、「外なる神」の力が仏教に比べて非常に強かったことが理由として考えられるであろう。一般に「外なる神」が強まれば強まるほど、宗教的統制、異端の弾圧、非寛容も強まるからである。

「外なる神」が支配するもう一つのよい例として、キリスト教系の新宗教である「エホバの証人」の内部で起こった、同じ性質の改革と弾圧の事件を紹介しよう。「エホバの証人」は、十九世紀の後半にアメリカで、終末論を唱えるアドベンティスト派から派生した、キリスト教系の一派であった。他のキリスト教には認められていない独特の聖書解釈により、三位一体の否定、神の名として「エホバ」を使うこと、輸血拒否、間近に迫ったハルマゲドンとその後に来る信者のための地上の楽園、などのユニークな教義を作り上げてきた。信者は、喫煙の禁止、国歌国旗の禁止、祝祭日の禁止など様々な生活上の戒律に従うことを求められ、長時間の家から家へとまわる伝道活動が、信者の生活の中心となる。日本でも一九八〇年代から急成長をとげたことと、輸血拒否により信者の死者が出ることで有名になっている。

エホバの証人の歴史の中で興味があることは、このようなユニークな教義と成律から、彼らはキリスト教の主流からは一般に「異端」と見られ、迫害もされて来た。しかしその一方、エホバの証人の内部においては、やはり非常に厳格な統制がとられ、内部での個人的で独自な信仰を許容せず、教団に対しそのように不忠実なものを、「背教」の名の元に容赦なく排斥し、信者の親族友人から絶交させるという罰を与えてきた。すなわち、彼らはキリスト教全体の「外なる神」から「異端」として排除されると同時に、自分たちの「外なる神」を内部で構築し、信者の「内なる神」を排除してきたのである。

1980年には、エホバの証人の最高宗教指導者(「統治体」と呼ばれる)の一人であったレイモンド・フランズが、この背教の罪で他の統治体員から排斥され、親族を含む一切の信者から断絶されることとなった。その当時、アメリカのマスコミはこの問題を大きく取り上げた。フランズは、エホバの証人の宗教組織である「ものみの塔聖書協会」が自分たちを「神の組織」と称して第一にし、聖書による個人的な神やキリストとの関係を忘れていることを指摘していた。すなわち、「神の組織」が決めた戒律が、世界中の信者を一律に支配することによる様々な矛盾を、フランズは統治体員として目の当たりに経験していた。それらの矛盾に対する彼の個人的意見が、組織による彼の迫害に至ったのであった。

フランズはその後、この体験を「良心の危機」という著書で詳細に語っている。興味あることは、その内容はまさしくその表題が述べる通り、彼の個人的な良心が、組織の大名目のために押し殺される危機の経験なのである。この例もまた、「良心」つまり「内なる神」が、宗教組織すなわち「外なる神」の大義名分の元に、押し潰され支配される見事な例と言える。

エホバの証人は先程述べたように、キリスト教界では異端と考えられているが、その一つの理由は、彼らがイエス・キリストと聖霊が神(エホバ)と同格であるという、三位一体の教義を否定していることによる。このことは、エホバの証人の宗教では、他のキリスト教に比べて、キリストと聖霊の重要性が少なく、純粋な一神教であるユダヤ教により近いことを意味する。このことと、この宗教の非寛容性とは偶然の一致ではない。次の項では、「外なる神」の強さ、一神教の度合いと、宗教の非寛容性との関連を検討してみたい。

一神教と多神教、独裁主義と民主主義
ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の一神教において、唯一の人格を持つ神が、同時に複数の信者の中に入って個別に働くという、「内なる神」の概念が直感的に受け入れ難いことは先に述べた。ユダヤ教の伝統を受け継ぎながら、新たにキリストによる救いの教えを導入したキリスト教において、普遍的に存在する「聖霊」を神と同格に扱い、その価在性と信者への内在化を教えたことは、それまで絶大な力で信者全体を支配していた「外なる神」から、信者個人の「内なる神」への転換をはかるのに、どうしても必要なことであった。そして、この無数にどこにでもいる聖霊と、信者の心の中に宿るイエスが、全て「内なる神」であって、それまでの伝統的な一神教の神との同一性を堅持するには、四世紀頃にどうしても三位一体の教義を導入する必要があったのである。これは宗教の「進化」に伴い、いかに「神」そのものまでが進化する必要があるかを示すよい例であろう。

これに対し純粋で絶対的な一神教として、唯一で永遠の神のみを信じ続けるなら、そこには進化も改革もあり得ない。そのような「外なる神」は人間の事情によって改革されるものでもなければ、変わるはずのものでもないからだ。そのような一神教の社会には「進化」も「改革」もほとんど無く、他の全ての世界が進化と変革を遂げているにも拘わらず、太古の民族宗教としての習慣を堅持し続けるのである。ここに、世界の各地で見られる一神教原理主義信者による、果てしのない矛盾と紛争が続く理由があると私は見ている。

これと正反対なのが仏教である。特に大乗仏教以後、仏は無数に存在し、人々によって作られ、変容する存在であったため、個別化した「内なる仏」は問題なく受け入れられ、確立された。従って、一神教にある、「内なる神」を認めることによる深刻な多神教との板挟みは、仏教にはない。

このように見てくると、一神教の度合いが強ければ強いほど、「外なる神」は強まり、「内なる神」は弱められ、個人の状況に応じた柔軟性のある信仰は否定され、制度と戒律による宗教社会全体の、上からの統一が第一になってくると結論されよう。そのような宗教では、少しでも統一を乱すものは迫害されて排除され、異論を唱える者たちは外に投影された悪魔として、戦いの対象として扱われる。これは全て、部族同士の抗争を続けていたこれらの宗教の太古の揺籃期と全く変わっていない。

これと対照的に、一神教の度合いが弱まるほど、「外なる神」は弱まり、「内なる神」に基づいた独自の神、独自の仏と、独自の信仰が許されることになる。このことが、多神教的な仏教と、三位一体の導入により実質的な多神教の試合を導入したキリスト教、特にその中でも個人の自由な信仰を重視するプロテスタントにおいて、無数の細かな教派が分かれた理由なのである。

この一神教と多神教との違いは、独裁政権と民主主義との違いに似ている。一神教の伝統を強く受け継ぐ西欧社会では、「多神教」という言葉はほとんど差別用語のように人々の心に響く。何千年の伝統が、人々の心に、多神教イコール異端という図式を植え付けてしまったのだ。しかし、西欧社会の社会体制や人々の心は、一神教的な一党独裁政府が一方的に大衆を支配する体制を嫌い、個人の自由な思想と言論に基づいた、寛容で多様性を持った民主主義社会を求めている。

本書の冒頭で述べた、エルサレムの悲劇、すなわちユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三つの大きな宗教の共通の聖地であるエルサレムで、何千年にわたって決して平和が来ない事実は、この三つの宗教が、絶対的、純粋的一神教の同じ母体から出てきたことと、決して無縁ではないのである。

第十七章:宗教者、無神論者、不可知論者、無宗教者との対話

宗教者 (有神論者)たちとの対話
無神論者たちとの対話
不可知論者たちとの対話
無宗教者たちとの対話

エピローグ「内なる神」を最愛の友として

幾つかの疑問に対する答え
私は本書の冒頭のプロローグで、幾つかの問題提起をした。ここまでの、脳と宗教に関する長い検証と考察の旅をしてきた今、私はあの問題提起に対してどのような答えに到達したであろう。私の最大の疑問は、人に愛と憐れみと平和を説く多くの宗教が原因となって、なぜこれだけの悲劇が地球上で繰り返されるのかという問題であった。この疑問は最近の世界を展望した時に、特に深刻な疑問である。そしてこの疑問を裏返して考えれば、人に愛を説く宗教と明らかに関係のない所で、多くの人が愛と憐れみと平和をその人生の中で実践している。それはなぜなのだろうか、という対になる疑問も上げられる。

今の私は、これらの現象は全て、人間の脳の機能から考えを進めれば、説明がつくと考えている。つまり、全ての人に少なくとも潜在的に備わっている「内なる神」は、現在の組織化された宗教より前からあり、宗教と独立して機能できるがゆえに、ある人々は「善」を宗教と関係のない所で行なってきたのである。一方、現在の世界にある宗教組織は、「外なる神」として「内なる神」から独立して一人歩きをし、ついに「内なる神」の上に君臨するようになったがために、人々を傷つけ、悲しませ、ついには死にまで追いやることになったのである。

しかし、「外なる神」は「内なる神」を迫害し、押し流すかもしれないが「内なる神」は決して死に絶えることはないと私は考える。なぜなら、それは人間が生きている限り、少なくとも一部の人々の脳の中に必ず生き続けるからである。

もう一つの私が考えた問いは、宗教が脳に基づいているとしたら、全ての他の脳の機能と同様、宗教が「病気になる」ことはあるだろうか、という疑問である。この答えを出すには、今の所、まだ医学的なデータが乏しいと言わざるを得ない。しかし、私は全ての脳機能に病気の状態があると思うし、宗教という脳の回路もその例外ではないであろうと考える。ただ、何が病気で何が正常かは、精神医学の世界の中でいつも大きな論争になる問題で、大きな価値観が付加されている宗教の問題では、決して誰もが納得する答えは出せないであろう。

しかし、宗教以外の他の人間の行動や精神活動の中で、その背景にある神経回路網がよく知られている現象を考えてみると、答えがある程度見えるかも知れない。私はこの点を最もよく理解できるのが、人間の恋愛、性愛行動であると思っている。視床下部と大脳辺縁系にある神経回路朝は、ホルモンの分泌を制御しながら様々な性に関係した行動を起こす。それは、詩歌や小説で理想的に描かれるプラトニック・ラブから始まって、人間の種族の維持に不可欠な基本的な生殖活動から、姦淫や強姦、性風俗、更には社会に受け入れられ難い、いわゆる異常性愛行為から性犯罪まで、広い範囲の人間や社会の行動が含まれる。しかし、それらは全て元をたどれば、人間の視床下部と大脳辺縁系とで作られる複雑な脳内神経回路によっている。

これらの様々な性愛の行動や感情が、女神エロスの働きでもなければ人間の内に宿る欲望の思魔の仕業でもなく、脳内の神経回路網の活動の反映であることを理解することは、人間の性行動の理解をどのように変えたであろうか。一つは、行き過ぎた耽溺行動の原因を知ることで制測しやすくなったこと、ある場合には異常行動の病態が明らかにされ治療可能になったこと、そして健全な性行動に対しては逆に偏見がなくなってきたことであろう。人々は、昔の知識の無かった時代に比べ、より開放的に「罪の意識」を持たずに性を論じることが出来るようになった。私はこれらの変化に、医学や科学による人間の性愛機能の解明が大きな役割を果たしてきたと思っている。

そうであれば、宗教が脳内の神経回路の活動で説明された時、やはり同じように、人々の宗教に対する見方にある程度の変化が出てきても不思議はないであろう。すなわち、行き過ぎた宗教、病的宗教の本態が神経科学で明らかにされると共に、健全な宗教の重要性もより明らかにされ、宗教に対する偏見も少なくなっていくのではないだろうか。本書で紹介した神経学的神論の一つの試論が、そのような動きの先駆けとなれば、著者の本望とする所である。

神は死んではいない
ドイツの実存主義哲学者、フリードリヒ・ウィルヘルム・ニーチェは十九世紀の終わりに、「神は死んだ」と宣言した。しかし、ニーチェは単に神を否定して、虚無の世界を提唱したのではなかった。彼は「神」に代表される、ヨーロッパのキリスト教会に基づいた伝統的価値体系が、人々の人間性を失なわせ、一人一人の人間を疎外していることを嘆き、「神」よりも「人間」の復権を叫んだのである。

ニーチェがもし生きていたら、本書が展開した「脳の内なる神」と「外なる神」の議論をどう考えたか、私は知らない。しかし、私はニーチェが「死んだ」、あるいは死んで欲しいと思ったのは、神経学的神論における「外なる神」ではなかったかと考える。ニーチェが復権を提唱した、人間性の復権の象徴となる「超人」の概念は、「神」の概念にこそ触れてはいないが、実は「内なる神」に通じる所があるのではないか、と私は考えている。

ニーチェが「神は死んだ」と宣言した、十九世紀の終わりから現代まで、西欧の世界では、組織化された宗教に属する人々の数は横ばいであり、「無宗教」を標榜する人々は地えてはいるが、個人的な宗教や形而上的問題への関心は決して減ってはいない。このことは、日本でも同じであろう。ニーチェの言葉にもかかわらず、少なくとも「内なる神」は生き続け、今後も直ぐに死ぬ気配は見られない。私は、その事実もまた、「内なる神」が外側から入された、単なるレッテルのようなものではなく、深く人間の原に刻まれた医学生物学的構造に基づいていることのはであると考える。

唯物論者カール・マルクスは十九世紀の半ばに「宗教は人民のアヘンである」と書き、その立場は宗教を否定する無神論者、唯物論者たちの象徴的な言葉となった。確かに、組織的宗教が人の心を麻痺させて、それを利用して信者たちを宗教組織の奴隷としてきたことは、間違いのない事実である。宗教が人類に役に立たないという、マルクスの結論はよく理解できる。しかしマルクスは、その後アヘンがどれだけ人類の福祉に貢献することになるかを予測はできなかった。

現在では、科学がアヘンの脳に対する効果を、分子レベルで解明した結果、アヘンとその関連物質を楽として制御しながら使うことにより、人々の苦痛を有効に、副作用を避けながら取り除くことができる。興味あることは、正常な人間の脳が、アヘンと同じ作用をするエンドルフィンという物質を作り出して、アヘンと似たような作用を自然に行なっていることがわかっている。

つまり「内なるアヘン」は「内なる神」と同じように実在することがわかったのである。マルクスから一五〇年近く経った現在、「アヘン」は人類の福祉にとって不可欠な道具となっただけでなく、人間の脳に必要な物質であることまでが明らかになった。

確かに現在でも、アヘンやその他の麻薬は、時には乱用され、悪用されて、人々を薬物中毒の奴隷にしたり、犯罪の道具となったりしている。しかし、それは何もアヘンそのものが悪い物質であるからではなく、あくまでもそれを使用する人間の問題によるのだ。

同じ事は宗教についても言える。宗教は、人類の脳が進化する過程で必然的に、そして普遍的に脳内に出現した現象である。奇しくもマルクスから一五〇年近く経った今、宗教もまたアヘンと同様、脳内の神経回路に内在することが神経科学的研究によりわかり、人にとって必要なものであることが明らかにされつつある。宗教に問題があるとすれば、それは宗教を「外なる神」として利用している人間の側に問題があるのだ。

今後の更なる研究は、宗教に係わる神経回路に起こる生理的な変化や、病気をも明らかにするだろう。更には、そこにおける遺伝子の働きから、生体分子レベルでの宗教の本態が明らかにされるかも知れない。その時、宗教が人類の心に不可欠な活動であることが解明されると同時に、宗教の乱用、悪用、中毒もまた、解明されることであろう。そのような知見は、宗教を制御しながら個人の生活に導入することを可能にする。それはちょうど、アヘンの脳内での生理、薬理作用の解明が、その鎮痛作用を明らかにし、制御した使用法を可能にしたのと同じである。

しかし、宗教と神という、本来物質を超越した形而上の事柄が、最終的に脳の化学物質と電気活動によって説明され尽くされた時、そこに残るのは、コンビューターのような脳を持った、ロボットに似た機械のような人間に過ぎない、という恐れは消えない。これは視床下部の性愛行動に関係する神経回路網が解明されると、ラブストーリーの感動が無くなるという恐れと同じで、非現実的な恐怖であると私は考える。しかしそうであっても、古代のわれわれの先祖が築き上げた豊かな宗教の精神世界を保ちながら、神経科学の進歩と宗教とを調和させる努力が常に求められている。その意味で、「脳に内在する神」への回帰は、むしろ科学による「生ける宗教」の復興の可能性を広げる方向に発展していくことを、私は希望している。

宗教は、科学的解明により消え去るのではなく、逆に人々の健康的な精神生活の一部として、定着する可能性を残していると私は考えているし、そうなることを希望している。

宗教の未来
私は預言者でもなければ、預言のような大それたことをする積りもない。しかし現在、宗教も、科学も、そして世界全体も、加速がかかったようにめまぐるしく変わっている。何が近い将来変わるかは、現在の変化の方向性を見れば、投げられたボールの軌跡を延長してその行く末を推測するようなもので、ある程度は可能であろう。

先ず宗教の分野では、宗教の多極化はますます進むであろうし、それは時代の流れとして通らえない。この神経学的神論の見方が社会に受け入れられれば、それもまた多様化、多極化の一つの引き金となるであろう。

しかし、その一方で宗教同士の対立、いがみ合い、更には戦争に至っている宗教分立抗争時代を嘆く声も、ますます高まっている。宗教合同の動きも活発になるであろう。宗教間の寛容と合同は、「外なる神」の仮面をかざしている限り、決して達せられないし、これが世界平和への最後の妨害になるかも知れない。なぜなら、現在の多くの「外なる神」は、太古の時代の部族宗教の名残を残す、唯我独尊の排他主義的神であるからだ。そのような部族間抗争に使われた「外なる神」をそのまま振りかざす限り、宗教戦争は決して無くならない。世界各地で現在憂延しているテロリズムのように、神の名の元に人を殺したり制圧したりする行動も、「外なる神」の仮面を取らない限り、決してなくならないであろう。そのような時に、世界中の人間が、草の根運動のように、「内なる神へ帰れ」と呼ぶことが、宗教間の違いを超えた宗教合同の動きに役に立つのではないであろうか。私はそうなることを切に希望している。

先に紹介したように、精神医学者、カール・ヤスパースは世界の大宗教の基盤が出来上がった紀元前八百年から二百年ぐらいの間を「軸の時代」と呼んだ。それは、人類の脳が一定の進化を遂げ、現在の普遍的大宗教の基盤を編み出して、維持する能力が出てきたからであると考えられる。そうであれば、それから二千年たった現代において、更に進化した現代人の脳に合わせて、宗教も神や仏の概念も、再度変革を遂げて不思議は無いはずである。過去数世紀にわたって、ますます激動化し多様化する世界の中で、宗教問題はますます深刻な問題になっている。人々の心の中から、世界的宗教改革が起こる必要があるのではないだろうか。神経学的神論は、そのような宗教の変革の引き金になるかもしれないし、そうなることを私は密かに希望している。

神経科学の将来を展望してみると、これを書きつつある現在でも、更に新しい脳の機能の研究方法が開発されつつあり、毎日のように新しい研究結果が報告されている。近い将来、それらの研究が、人間の心の働きを、分子のレベルまで引き下げて、完全に解明する時が来るであろう。

その時には、人の性格、嗜好、情動などの、心理現象の多くが完全に解明され、それと同時に人が信仰をもったり、奇跡や迷信を信じたり、逆に信仰を捨てる時、脳がどのように働いてそうなるかが完全に明らかにされるかもしれない。また、全ての他の脳機能と同じように、「病的な」宗教活動の実態も脳の解析に基づいて、明らかにされる可能性は高い。

現在の宗教者の方々は、その日に向けて心の準備をすることをお勧めしたい。その同じ将来、かなり高い可能性で、生命体の試験管内での人工的創造が可能になり、地球以外の遠い惑星における生命の発見も行なわれるかもしれない。キリスト教について言えば、これらの将来の出来事が、聖書を文字通りに解釈することに信仰のより所を置いている、原理主義の一部のキリスト教教派を、大きな岐路に立たせるであろう。イスラム教世界も、特に原理主義に近い部分は、同じ問題に直面するであろう。偉大な「外なる神」の陰に隠れて見えなくなっている「内なる神」の再発見とそこへの回帰が、信者たちにそのような危機からの脱出の道を与えるかもしれない。

それに対し、日本を初めとする仏教の世界は、適応が早いと私は考える。それは、「内なる神」の概念は現在の仏教の教えに近いものがあり、すでに多くの人々の心に願染んでいるからだ。東洋の世界では「外なる神」の危機はそれ程大きな影響を与えないのではないかと考える。実際、日本人は第二次世界大戦の後、「外なる神」すなわち「現人神」であった天皇体制の危機を通過した経験を持つ。その際、日本人は当時の「外なる神」を「象徴」に変えて、実際に日本人を支配する神としての天皇から、国民の心の拠り所となる「象徴」としての天皇、すなわち国にとっての一種の「内なる神」へと、比較的スムースに移行することができたのである。そのような経緯を考えると、東洋人、特にわれわれ日本人は、世界の宗教的な和解と平和を唱える最先端に立つのに、最も適しているのかも知れない。

神経学的神論のすすめ
本書を締めくくるに当たり、最後に神経学的神論が、あなたの宗教と人生にどのように影響を与えるかについて考えてみたい。あなたがもし、ある組織化した宗教の信者として、日常の宗教活動に参加しているのであれば、私は神経学的神論者として、それを止めなさいとか、別の宗教に行きなさいとは勧めない。またあなたがもし、宗教に関係の無い無信心の人なら、私は神経学的神論者として、あなたに直ぐに宗教に入りなさいとも勧めない。はっきり言って、どの宗教団体に属するか属さないかは、脳内の神の神経回路にとって本質的な問題ではないからである。神経学的神論が勤めるのは、あなたの「脳の内なる神」を再発見し、その「神」を最も大事にして、その神を友として生きていくことである。

その「内なる神」は、どのような仮面を着けているかは大きな問題ではない。私の「内なる神」はキリスト教の仮面、あなたの「内なる神」は仏教の仮面、別の人の「内なる神」はヒンズー教の仮面を着けているかもしれない。また別の人の「内なる神」は、「神」とはされず、仮面のないただの「良心」「正義」「憐れみの心」かもしれない。これらの仮面の裏にある実体は、みな夫々の人の脳の中の、同じ神経回路に存在するのである。その外側の仮面の違いは本質的な問題ではないし、多くの場合、人々の間に不要な障壁を作っているのが実態である。

人々がこれらの「脳の内なる神」を愛して大事にし、それを毎の友として生きていくこと、これが人類の原始宗教への回帰であり、最も健全な宗教のあり方であろうと私は考える。宗教の外側の仮面は、地理的、歴史的、民族的な伝統や人種の違いから起こってきたものである。それに対し、仮面の内側にあるあなたの「内なる神」は、脳に深く埋め込まれた、人類共通の基本的な生理的メカニズムなのである。それは、あなたの健康で平和な生活のために、進化の過程で備えられたものである。その「内なる神」をあなたの最愛の友とし、その教える所に自分を従わせること、これが太古の昔から人間の歴史を通して、多くの宗教者たちの実践してきた、幸せな人生の秘訣であったろうと私は信じている。

あとがき

29年前(1974年/昭和49年)に私が医学部を卒業する数年前から、私は「脳の医者」になろうと決意した。以来、私の興味は一貫して脳と、それが生み出す数々の驚異的な現象に吸いつけられてきた。それらは、神経機能、認知機能、精神現象であり、脳の病気が引き起こす様々の不思議な症状であった。
そして究極的にたどり着いた結論は、人が人であること、そして人が最も価値を置くもの、それが脳に存在することであった。人類の歴史を通して一貫して人々を動かし、喜ばせ、また不幸にもしてきた宗教が、やはり脳にあったことは当然の結論ではあるが、改めて脳の神秘に眼を見張るばかりである。
私が学生時代以来続けてきた、紆余曲折の神を求める心の旅の果てに、私は今ようやく目的地が見えてきた思いがする。私の感動を、本書を通じて読者の方々と少しでも分かち合えれば幸いである。

私は最初、本書を日本人に問うべきか、それとも過去二十年間私自身の文化圏となっているアメリカの聴衆に向けるべきかを迷った。結局私は日本語によって私の考えを、先ず日本の一般の方々に問うことを選んだ。その最も大きな理由は、この書の内容が、一神教の伝統を持つ聴衆、特に原理主義的色彩の強いアメリカのキリスト教、ユダヤ教、イスラム教徒の方々から激昂を買い、一蹴されることを恐れたからだ。仏教や神道など、汎神論の色彩が強い日本の伝統の中で、「脳に内在する神」の概念はより受け入れられやすいのではないか、更に言えばもしかしたら歓迎されるのではないか、というのが私の推測である。

またそれと同時に、アメリカで二十年間にわたって脳の医者として宗教を考察した末に、私は最近、日本人のいわば「脳に刻まれた伝統」に新たな誇りを感じ、それをしっかりと見直したいと思うようになった。これが日本で上梓を決意したもう一つの理由である。


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