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「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 完全翻訳版/シェリー・ケーガン (Shelly Kegan)【書評・レビュー・感想】

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余命宣告を受けた学生が、"命をかけて"受けたいと願った伝説の授業の完全翻訳版!
--人は必ず死ぬ。だからこそ、どう生きるべきか
縮約版では割愛せざるを得なかった「前半部分」
・二元論と物理主義(原書chapter2)
・「魂」は存在するか(?原書chapter3)
・デカルトの主張(原書chapter4)
・「魂の不滅性」についてのプラトンの見解(原書chapter5)
・「人格の同一性」について(原書chapter6)
・魂説、身体説、人格説―どの説を選ぶか(?原書chapter7)
と、「DEATHからさらに考察を深めたい人のための読書案内」つき!
※本書の第1講、第8講~第15講、「死についての最終講義」は、『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義〔日本縮約版〕』と同内容です。第2講~第7講の追加に伴い、原書に従う形で一部を再編集しております。

私が死んだのは一体いつ?
おおざっぱに言って、身体の機能が停止したときに人間は死ぬ。だが、機能といっても、「B機能(消化、呼吸など)」か、「P機能(認知機能)」か、はたまたその両方か?

「身体の死」VS.「認知機能の喪失や脳の死」
図2.2では、Dという新しい段階が加わった。P機能とB機能の喪失はばらばらに起こる。この場合、私はいつ死ぬのか?仮に、人格説を受け入れると、「私」が存在するためには、私の人格も存在しなくてはならないことになる。

「存在しないのに生きている人間」という矛盾
だが一つ、厄介な問題がある。おそらく私たちはみな、D段階では私の体が依然として生きていることに同意しているだろう。だが、「私」はどうだろう? もし生きていたとしたら、私は「存在しない」が「生きている」、と言っていることになる。

書評・レビュー

死についての論理的思考だというが、この論理に納得できる人はもともとそういう信条を持っていたか、おぼろげながらにそういう考えを持っていたのではないだろうか。

罪を犯し「死後地獄に行くのではないか」と怯えて暮らす人に、宗教家から「イエスを信じ悔い改めれば天国にいくのです」とか「懺悔して南無阿弥陀佛を唱えれば極楽浄土に往けるのです」とか説かれれば(聞かされれば)死ぬまでの間は、恐怖が和らぎ心が楽になるだろう。
だが、死んだら天国にも極楽浄土にも行けない。天国だの浄土だの方便なのだから……
だからといって嘘はいけないのではなく、心を安らかにさせてあげるには、嘘も必要なのだ!と、したり顔の誰かが云う。

この本に書いてあることも宗教家の云うこともしたり顔のおやじがいうことも、当然ではあるがひとつの考えにすぎない。
他人の考えで心を安らがせるのではなく、自分のアタマでしっかり考えて死に向き合うべきではないだろうか。
死より先に、「私とは何か」を明確にしなければ、いくら死を論理的に考えても無駄である。


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