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天皇のロザリオ(上)/鬼塚英昭【本要約・ガイド・目次】

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天皇のロザリオ 上巻:日本キリスト教国化の策謀

1949年6月8日、昭和天皇が大分県別府市、高崎山の麓にあるカトリック系小百合愛児園に行幸したとき、カトリック教会と米占領軍マッカーサー総司令官、そしてカトリックの吉田茂外相らが天皇をカトリックに回心させ、一挙に日本をキリスト教化せんとする国際大謀略が組織された。そしてそれは、ローマ法王庁による聖ザヴィエル日本上陸 400年記念の大がかりな祝祭と連動していた。
しかし、決定的な一瞬、天皇に同行した脇鉄一別府市長の機転でこの策謀は挫折した――と、別府出身、この町で竹細工職人30年の著者鬼塚英昭氏は推論する。
本書は、この事件とその背景を、「天皇教」や「キリスト教」と対決する「原日本人の古神道」に徹する立場からどこまでも深く鋭く追跡していく。かくして私家版「天皇のロザリオ」が約2000枚(400字)のほぼ半分を削って刊行されたところ、日本全国の熱心な読者に支持されて完売。
いま、割愛された原稿を復活させ、さらに増補稿300枚をくわえ、上下二巻900頁超の堂々たる姿で、日本の読書界に登場する。敗戦占領時代の本当の歴史を再構築すべき、全日本人必読の書である。
[太田龍『長州の天皇征伐』著者]

目次

第一章:幻の「別府事件」

・私はひとつの事件に気づいた
・「別府事件」へのアプローチ
・天皇の劇的な「回心」はなし

第二章:忍び寄るカトリックの魔手

・天皇、マッカーサーの奸計に気づく
・「別府事件」はどうして闇に消えたか
・天皇、キリスト教から遠ざかる

第三章:天皇教の国、日本

・ヒロヒトの恋、その波紋
・うごめく黒い龍
黒龍会玄洋社頭山満(暗殺者):三菱財閥と結びつく
北一輝:三井財閥からカネをもらう

北は頭山と同じように金を動かしていた。北が頭山とちがう点があった。北は天皇を軽くみていた。頭山は自分自身のためと、天皇のために金を使った。頭山が暗殺にかかわった事件で天皇を怒らせたものは一件もなかった。秘かに天皇は、頭山がらみの事件を嘉みし給うていた。天皇と頭山は深く一体だった。
田中惣五郎の「北一輝――日本ファシストの象徴」の中に北の最期が書かれている。

代々木の練兵場の片隅にあるバラックの仮刑場に立ったとき、西田税は天皇陛下万歳と三唱しようといった。北はしずかに制して、それにはおよぶまい、私はやめると言い、そのまま銃声とともに万事は終ったといわれる。

北は二・二六事件とは関係がない。ではどうして北が死刑になったのか。天皇の日本でなく、日本の天皇にしようとした思想のゆえであろうと私は思っている。昭和天皇はこの事件に激怒する。しかし、五・一五事件のときは平静であった。自分のやり方に反対する首相の暗殺には怒りを表わさなかったのだ。

北は死の直前に獄中で俳句を詠んでいる。
”若殿に兜とられて敗け戦”
若殿とは天皇裕仁。天皇の若き日の恋のために怪文書までも書いて尽くしたが、国民のための天皇たれとの本を書いたために、二・二六事件の首謀者にデッチ上げられて(誰に? 若殿にだ)、死刑となったのである。

叛乱を起こした若手将校たちは、その理由の一つに農村の射乏をあげている。だが、彼らの中の一人として貧農の出はない。中産階級や軍人の息子である。田中隆吉が書いているように「美妓」か「国体論」かである。彼ら将校たちを維持するために日本は大金を遣い、農村の窮乏は深まったのだ。この事実を知りえなかったがゆえの叛乱であった。本当に農村の窮乏を救うためなら、軍隊を去って、一人の貧しい娘のために命を投げ捨てるほうが日本国のためになるのである。

ねず・まさしの「現代史の断面二・二六事件」を見る。ねず・まさしの論はこの事件の核心をついている。

なぜ、天皇は確乎としていたのか。自分の統治権が犯され、統帥権が奪われようとしていたからである。これは天皇家の歴史的本能である。歴史上、天皇の統治権が脅かされ、また奪われようとしたときは、どの天皇も、それを維持する為に腐心した。成功、不成功は別として。天皇の伝統的本能、実をいえば、支配者としての本能が目をさまし、怒りくるったのである。

二・二六事件の第一報を聞いた天皇は、「ついにやったのか」と叫んでいる。天皇はこの日がやってくるのを予期していたのである。そして幾度も陸軍に鎮圧を命じている。ついに「朕みずから近衛師団をひきいて鎮定に当る」と言い出したのである。

私は天皇が若き日の恋の成就のために、右翼が台頭してきたのを苦々しく思っていたと推察する。その右翼を抑える役を頭山満に担したと思っている。ここから下克上の風潮が深まってくる。「ファッショ、ファッショ」の掛け声が色濃く流れていく。

この事件で死刑された将校の一人に磯部浅一がいる。河野司編「二・二六事件獄中手記・遺書」の中から磯部の日記を引用する。

”八月二十八日
……今の私は怒髪天をつくの怒りにもえています。私は今は、陛下を御叱り申し上げるところ迄、精神が高まりました。だから毎日朝から晩迄、陛下を御叱り申しております。
天皇陛下、何と云ふ御失政でありますか。何と云ふザマです。皇祖皇宗に御あやまりなさい。”

・「天皇陛下、マンザイ‼」

杉山茂丸の長男:夢野久作
天皇と頭山満は一体
頭山満と広田弘毅が二人三脚で秘密裏にナチと交渉を続け日本を戦争に駆り立てていった

広田弘毅は一九四八年(昭和二十三年)十二月二十三日、東京裁判の死刑判決によって処刑される。花山信勝の「平和の発見」の中に処刑の模様がくわしく書かれている。東条英機たちは「天皇陛下、バンザイ」と死んでいった。しかし、広田弘毅だけは「天皇陛下、マンザーイ」と言って死んだ。

第四章:昭和天皇は「神」でありしか

・御前会議

佐藤賢了の「大東亜戦争回顧録」によると、御前会議から帰庁した東条陸相が「聖上は平和にあらせられるぞ」と語る場面が書かれている。また、武藤陸軍軍務局長(武藤も御前会議に出席していた)が、「オイ、戦争なんぞ駄目だぞっ。陛下はとてもお許しになりっこない」と語ったと書かれている。
近衛も東条も武藤も、明治天皇の御歌を平和の歌とする点で一致する。彼らの本が戦後に発表されたから、多少変貌しているのであろうか。日本の学者たちのうちすべてが、この御歌を平和の歌としていて、戦争賛美の歌であるとはしていない。この点は一致する。
しかし、「杉山メモ」には、この御歌についての特別の感想が書かれていない。杉山も永野も前日に天皇に召され、「御下問」を受けている。二人が戦争の必然性を説いたとき、天皇は大声で「分かった」と言い、米・英との戦争を認めている。「国策遂行要領」を天皇が認めていることは間違いないのである。
天皇は敗北の可能性も考えて、二面作戦をとったのであろうか。反天皇主義者として名高い軍艦「武蔵」の生残兵の渡辺清が「私の天皇観」で、次のように書いている。

”ちなみに開戦決定時にあなたがしたことといえば、せいぜい御前会議の席上で、一同に明治天皇の歌を詠んできかせたことぐらいだったといっていいと思います。(略)
事実「極力喰いとめよう」とする気持があなたにあったのなら、その気持を遠まわしに歌などに託さずに、一言「否」と意志表示すべきだったと思います。当時その大権を現実に行使できるのは、元首であるあなたを他にいなかったのですから。”

同じく反天皇主義者井上清の「天皇の戦争責任」という本から引用する。井上は、五味川や渡辺とは少しだけだがニュアンスが違っているが、「四方の海」の解釈にはたいした差異はないと思われる。

”この会議における天皇の発言は、天皇がいかに平和主義者であり、あくまで日米戦争を回避しようとしていたことを示すものとして、天皇弁護者によって、大いにもてはやされている。しかし、天皇はこの日も、昨日の両校長、首相との問答でも、外交を主とせよと抽象的に強調しただけであって、日米交渉上の難点は何か、それを打開するために、日本がわではアメリカに何を譲歩できるかどうか、というようなことは全然間題にしなかった。
それに反して、作戦上のことについてだけは勝てるかどうか、熱心に戦術的なことまで質間している。そうして「大坂冬の陣」の話に耳を傾け、結論として、政府・軍部提案の「帝国国策遂行要領」を一字の修正もなく裁可した。すなわち戦争コースを定めた。”

井上清は「外交を主とせよと抽象的に強調しているだけで」と書いている。このときの御下間(九月五日)で天皇は、二人の総長に「成るべく平和的に外交でやれ。外交と戦争準備は並行せしめずに外交を先行せよ」と言っている。ただこれだけである。以下は私が書いたとおりの作戦論議を、延々と続けた。上陸作戦(九州での上陸演習)について専門的な発言を延々とする。天皇は机上でこの作戦に加わったことが分かるのである。
さて、井上は「大坂冬の陣」についても触れている。これは「杉山メモ」の中で以下のよう
に書かれている。

”永野軍令部総長は大坂冬の陣のこと其他のことを申上げたる所御上は興味深く御聴取遊ばされたるが如し”

「杉山メモ」なるものについて解説しておきたい。終戦の際焼却されたと思われていた重要書類が、実際は一部、ひそかにかくされていた。そのうちの一部がこの「杉山メモ」といわれるものである。元帥陸軍大将杉山元が参謀総長就任(一九四〇年1昭和十五年十月三日)以来、同大将が東条英機陸相と激論のすえに参謀総長を東条の兼任というかたちで譲り、その職を辞した一九四四年二月二十一日までの記録がいわゆる「杉山メモ」といわれるものである。
杉山元は一九四五年九月十二日、敗戦直後に夫人とともに覚悟の自決をした。偶然とはいえ、このメモは残った。これ以上の重要な「日本の最高戦争指導」の全容を記録したものはない。
終戦直前、焚書として黒煙の中ですべて焼却されていたと思われていたのだ。

天皇が側近でかためた大本営には、首相でさえ参加することができなかった。天皇は軍閥と財閥が複合体をつくり、二・二六事件が発生したことに危機感をおぼえた。そのために、軍閥と財閥の力をそぐために、外部に彼らを脅す組織が必要となった。
頭山満と徳富蘇峰が朝日新聞と毎日新聞で論陣を張ったのも偶然ではない。一党独裁体制ができたのも偶然ではない。頭山満の子分(あえてこのように書く)の広田弘毅が首相になったのも同じように偶然ではない。御前会議は単なる儀式のようなものであった。すべては天皇主導の大本営で決まっていた。
皇道派とか統制派とかで陸軍を考えようとするから分からなくなる。天皇直属の大本営こそ、日本国家最大にして最高の暴力装置であったのだ。
あえて書こう。ここから恐怖が流れ出した。そして多くの日本人が殺された。どこにいる人間が叫んでいるのか? 平和天皇論を叫ぶ人間の正体は暴かれるべきではないのか。

・明治天皇の一断面
・「四方の海」の歴史的考察
・「神」のつくり給いし財宝の行方

第五章:天皇とマッカーサーの神学的会見

・天皇、マッカーサーに会見を申し出る
・「キリスト教徒になりましょう」と天皇は言った
・かの日、日本は精神的に敗北した
・一九四五年九月二十七日の意味を問うべし
・天皇の秘密工作

第六章:変貌し続ける天皇教

・天皇はどうして戦犯免責をうけたか
・歴史線上の野坂参三
・「人間宣言」は「キリスト教宣言」への道であった
・天皇、巡幸に出て平和天皇を演出する
・「日本のキリスト教国化は近い」とマッカーサーは言った

第七章:象徴天皇とキリスト教

・象徴天皇の意味を問う
・マッカーサー、夢を語り続ける

一九四七年のクリスマスの夜、東京裁判の首席検事のキーナンは、高松宮ともう一人の天皇の御用掛ともいうべき松平康昌を自邸に招き、宴をはった。キーナンはお開きのとき、高松宮に、「天のいと高きところには神の栄光、地には善意の人々に平安あれ」との聖句を書いた紙を天皇に渡してくれと言った。そして付け加えた。「マッカーサー元帥も私と同じ気持ちです」。
天皇はキーナンの手紙を受け取り、この年も無事終わりそうだ、と思った。そして側近に、「もう少しキーナンを大事にせよ」と命じた。
この年の暮れの十二月三十一日、木戸幸一の弁護士の質問に、東条英機は答えた。

「我々(日本人)は陛下のご意志に逆らうことはありえない」

ここに、天皇教の信奉者たちは、天皇無罪の方程式が壊れていくのを見た。
天皇の最高の密使、決して高位の職につかなかったが、最高の実力者であり続けた松平康昌が、東名の口封じに動くことになった。松平は木戸幸一元内大臣に面会し、東条説得を依頼する一方、田中隆吉元陸軍少将にキーナン対策を命じた。
キーナンの生活は一変した。キーナンは田中に「強くなった」という隠語を発すると、田中は極上の女(キーナン自身がそのように語っている)を提供した。田中は宮廷筋から上流階級のすぐれた女たちを与えられ、キーナンに提供し続けたのである。天皇は最大の危機に直面した。
キーナンはますます「強くなった」を連発した。
その一方、東条は木戸や他の天皇教徒たちに説得され続け、ついに歴史の真実を封印する決心をするに至った。かくして、東条は「天皇を欺して」戦争の指揮を執ったのだということになった。

あの戦争は、「朕の戦争」ではなく、「東条の戦争」ということになった。多くの日本人が赤紙一枚で戦場に行ったのは、天皇のためではなかったという、世にも不思議な物語の誕生であった。後にウェップ裁判官は当時を回想し、マッカーサーと天皇の第一回会談について、こう語っている。
「支配者は侵略戦争を開始した責任を転嫁することはできない。生命の危機からそうせざるを得なかったと釈明することは許されない」
私は思うのである。何人があの戦争に反対しえたであろう。何人が天皇が平和を唱えたら暗殺しえたであろう。何人が平和を訴える天皇を精神病院に送りえたであろう。東条が東京裁判で言った言葉は重かったのである。「我々は陸下のご意志に逆らうことはありえない」

・世界史の中の天皇改宗問題
・かくて、皇太子はキリスト教徒になった

若いときからナポレオンの胸像を書斎に飾っていたのは有名な話である。二・二六事件当時の侍従武官長本庄繁の「日記」には、天皇がナポレオンの研究に専念した様子が具体的に描かれている。ナポレオンを通して天皇は奇襲攻撃のやり方を勉強した。若いときから机上作戦を繰り返していた天皇を知る必要がある。
ナポレオンの軍隊は、安上がりの徴兵軍であった。ナポレオンはこの軍隊を、愛国心に燃える兵隊の群れに仕上げた。日本の軍隊は葉書一枚で徴兵された「民草」といわれる雑草がごとき安上がりの人間による軍隊で、ナポレオンの軍隊以上に愛国心に燃えていた。ナポレオンは補給のほとんどを現地補給とした。天皇の軍隊はこれを真似た。ナポレオンは参謀部をつくり、機動力にまかせて、波状攻撃を仕掛けた。天皇は大本営を宮中におき、参謀部の連中と連日会議を開き、ナポレオンの波状攻撃を真似た。ナポレオンにより、ヨーロッパに「残酷な欲望」が拡大した。東条は参謀部から出た命令を忠実に実行しただけであった。これを疑う人は『杉山メモ』を読めば納得がいくであろう。
日本もまたしかりだ。あの真珠湾攻撃は、そして、フィリピン、ビルマ、タイ…での戦争は、ナポレオンの戦争とそっくりである。

天皇のロザリオ(下)

 

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