第二次世界大戦とは何だったのか:戦争指導者たちの謀略と工作
はじめに
歴史著述の本質は世界各地の事件の連鎖を合理的なロジックで描写することにある。関連性のない独立した事象に見える事件も、当時の政治経済思想や宗教観あるいは人間関係などのファクターを通して俯瞰すると、思いもよらない「真の歴史の姿(相互関連性)」が見えてくる。
筆者はかつて島原の乱(1637-38年)は、ヨーロッパで続いていた三十年戦争(1618-48年)の局地戦であると指摘した(宮崎正弘氏との共著『戦後支配の正体』ビジネス社)。
カソリック(カトリック)教徒とプロテスタントの壮絶なヨーロッパでの戦いは、島原の局地戦ではプロテスタントの勝利となった。徳川幕府軍に与したオランダ軍船からの砲撃は、原城に籠る切支丹(カソリック教徒)の戦いの意志を挫いた。オランダが徳川幕府から、唯一国、貿易を許されたのはこのときの功績による。
英文資料には、このことを示す記述はあるが、日本側の資料にはオランダ軍船の艦砲射撃があったことはほとんど語られていない。資料は幅広く渉猟しなければ深い理解ができない典型例である。
本書は、新発見の、あるいはこれまで省みられなかった資料を利用し、おざなりの(リベラル歴史家に都合の良い)解釈で終わっている重要事件の深掘を試みるものである。たとえば、米国(マシュー・ペリー提督)による日本開国事業だが、米国の真のターゲットは太平洋貿易ルート構築(真のターゲットは清国市場)にあり、日本には太平洋ハイウェイ(清国に至る蒸気船航路)の給炭の役割を期待していただけであった。この事実を知るには、米国の「日本開国プロジェクト」に関わる公文書を読み込まねばならず、当時の米国政権要路の発言や新聞の論説を読み込んだうえで、初めて合理的推論として提示できる(拙著「日本開国」草思社文庫)。日本側の資料やペリーの書いた(実際はフランシス・ホークスに代筆させた)航海記録などを読むだけでは導き出すことはできない。ペリーは、士官や水兵の日記等による航海記の発表を禁じていた。それでも数人の士官らはその禁を破っていた。彼らの記録や当時の米国の政治事情、あるいは米英両国のアジア市場(とくに支那市場)をめぐる鍔迫り合いの歴史を歴史解釈のファクターにすることで、ようやく米国の日本開国事業の本質が見えるのである。
また、明治維新期における日本の国づくりが、英米の経済思想の対立(英国:自由貿易帝国主義、米国・保護貿易主義)と密接な関わりがあったことは、拙著「日米衝突の根源」(草思社文庫)で示した。このことは、かつて英国の植民地であった米国の経済学者が、「米国には英国を上回る工業立国の潜在的力があることを確信し、米国の将来のためには徹底的に国内の幼稚産業を保護しなくてはならない(工業立国化)」とするアメリカ学派を形成していたこと、日本の明治の指導者となる木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らはそれを当時の米グラント政権が派遣した経済学者エラスムス・ペシャイン・スミス(外務省顧問)から教えられた。明治の偉人たちはアメリカ学派の経済思想を学んでいたのである。日本の明治期の発展は、米国経済思想との深い関わりのなかで初めて正確に理解できる。
歴史解釈には縦糸と横糸がある。縦糸が事件の連鎖とすれば、横糸はその連鎖を読み解くカギとなる政治経済思想や人脈などである。筆者は前述のように、縦糸と横糸のバランスをとりながら合理的推論に基づく歴史描写に腐心してきた。その作業は、縦横の糸で織物を掴む作業に似ている。捨象できない歴史の細部も多く、大部の書にならざるを得ない。日本の開国以降の歩みを著した「日米衝突の根源」も「日米衝突の萌芽」(いずれも草思社文庫)も大部となったのはそれが理由である。
また筆者は、第一次世界大戦の惹起にウィンストン・チャーチルが深く関わっていたこと、そして彼の暗躍(自己栄達のための悪意)がなければ、あの大戦はヨーロッパ大陸の局地戦に終わっていた可能性を論じた(『英国の間 チャーチル』ビジネス社)。この書でも、チャーチルの人物像を描き出すために、当時の英国上流階級の文化(英国貴族と米国新興富裕層との関係、英国上流階級の倫理観〈不倫は文化〉、英国社会におけるユダヤ金融勢力とチャーチル家の関係など)を横糸にした歴史著述を試みた。これも大部となった。
筆者が翻訳を担当したハーバート・フーバー大統領の回顧録(「裏切られた自由 上・下」草思社)にも歴史の見直しを迫る多くの新発見がありながら、リベラル歴史家による積極的な解釈の見直しの動きはない。
「丈夫な縦糸」の重要性
本書は、新発見の、あるいはこれまで省みられなかった資料を利用し、おざなりの(リベラル歴史家に都合の良い)解釈で終わっている重要事件の深掘を試みるものである。
たとえば、第二次世界大戦の前哨戦ともいわれるスペイン内戦だが、その実質は共産主義政府(スペイン共和国人民戦線政府)に対する反共産主義勢力(フランコ反乱軍)の戦いであった。しかし、一般書ではスペイン政府を「共和国」と記述するばかりで、当時の共和国が実質「スペイン社会主義共和国」であったことを書かない。スペイン内戦には、共産主義思想に心情的に共鳴した多くの欧米文化人が共和国情に肩入れし、中には義勇兵としてフランコ軍と戦ったものもいた。その結果、多くの人がフランコ軍を敵視し、フランコ軍を支援した独伊両国を批判的に見る。人気画家ピカソも作家ヘミングウェイもフランコ批判に一役買った。
しかし、スペイン内戦の解釈に、リベラル的プリズムによる偏向を排除すれば、独伊両国のフランコ軍支援は、ヨーロッパ大陸の西端に、世界に史上二つ目の共産主義国家が登場するのを防いだ価値ある戦いであったことがわかる。スペインの共産主義体制が盤石となれば、すでに左傾化していたフランスにも共産主義国家が成立していた可能性さえあった。このとき、英国はヨーロッパ各国をロンドンに集め内戦非介入を合意(ロンドン条約)させながら、独伊の介入を黙認した。英国も、スペインが共産化することを警戒していたからである。一般の史書では、このときの英国外交の「正しさ」に触れない。
スペイン内戦という事件は、先に書いた比喩でいえば、歴史の「縦糸」にあたる。縦糸が細ければ(事件の考察が甘ければ)、いかに立派な「横糸」を使って織物(歴史記述)を編んでも、たちまち綻ぶ。本書は、読者に「丈夫な縦糸」を提供しようとするものである。スペイン内戦の例でいえば、ピカソは、一九四四年には自身が共産主義者であることを宣言する文書を書いた。ヘミングウェイは、アルゴ(ARGO)なるコードーネームをNKVD(ソビエト内務人民委員部、のちのKGB)から与えられた工作員であった。
また、第二次世界大戦期およびそれに続く冷戦期において、米民主党政権(ルーズベルト政権およびトルーマン政権)内に多くのソビエトスパイが潜入していたことを示すヴェノナ文書が発表されており、ソビエト崩壊後の1990年代から多くのソビエト側資料も出ている。これにより、一般歴史書の記述の修正が必要だが、リベラル歴史家による積極的な解釈の見直しの動きはない。
本書によって、読者の歴史観は少なからず立体化し、合理的歴史解釈醸成の一助となるだろう。
目次・概略・ガイド
序章:スペイン内戦と作品に隠された政治思想
・共産主義者ピカソ
余は如何にして共産主義者になりし乎(1944年10月)
私は共産主義者になりました。なぜなら、私たちの党は、世界を知り、構築し、男性をより明確な思想家にし、より自由で、より幸せにするために、他の誰よりも努力しているからです。私は共産主義者になりました。なぜなら、共産主義者は、私の母国であるスペインと同じように、フランス、ソビエト連邦で最も勇敢だからです。入党して以来、これほど自由で完全な気分になったことがありません。スペインが私を再び連れ戻すことができる時を待っている間、フランス共産党は私にとって祖国です。
[出典:Pablo Picasso, Why I became a Communist, October 1944
http://www.idcommunism.com/2016/04/pablo-picasso-why-i-became-communist.html]
・「ゲルニカ」を描かせたスペイン共和国政府
・「崩れ落ちる兵士」の嘘
1936年8月5日、ナチスを嫌うユダヤ人の男女二人がパリからスペインに発った。ロバート・キャパとゲルダ・タローである。二人はマドリードを経由して、戦いの激化する南部コルドバの戦線に向かった。無名の戦場カメラマンに便宜をはかったのは共和国軍宣伝部であった。
「戦争の残酷さを示す素材」はどこにでもあった。当時のスペインにはカソリック司祭は11万5000人いたが、7937人が共和国軍に殺害されていた。内283人尼僧だった。二人はこれを被写体にする気はなかった。あくまで「ナチス(に支援されたフランコ軍)の非道」を撮らなくてはならなかった。しかし、適当な被写体は容易には見つからなかった。
9月4日、二人はエスペホの村にいた。コルドバの前線からは五〇キロメートルも離れていたこの地で戦いが起こるはずもなかったが、二人は、共和国軍の兵士に頼み込み、戦いの真似事をさせた。見事な演技で倒れ込む兵士を撮った写真が「崩れ落ちる兵士」である。
このフェイク写真は、「ライフ」誌などに掲載され、反フランコ・反ナチス感情を煽った。キャパは一躍時の人となり、戦場カメラマンのスターとなった。この写真がフェイクであることは、写真背後の山並みから撮影地が特定されたことで露見した。ここでは、撮影の日に戦闘はなかったのである。
「崩れ落ちる兵士」は、ピカソの心を動かした。彼の「名画」ゲルニカ制作の動機がここにもあった。戦争報道写真には、プロパガンダがつきものだ。歴史研究者が疑い深くなくてはならない理由がここにもある。
[参考文献:吉岡栄二郎「ロバート・キャパの謎」青弓社]
第1章:ソビエトのスパイ工作とルーズベルトの能天気
・「疑似共産主義政権」であったルーズベルト政権
・ソビエト型計画経済に憧れた米国の経済学者
・盗まれた米国の最新航空技術
・『ニューヨーク・タイムズ』の怪しいジャーナリスト
・選挙に関するスターリンの「名言」
・トロツキーとスターリンの対立
・トロツキーと恩人の妻との不倫
第2章:日米開戦前夜の事件
・戦間期の二十年
・排日移民法の愚
・無念の人としての渋沢栄一
・ハーバート・フーバーを貶めたフェイクニュース
・日本の少年への米副大統領メッセージ
・宣教師による反日プロパガンダ
・明るかった一九三九年 ニューヨーク万国博覧会
第3章:英米の工作と真珠湾攻撃
・第二次世界大戦を読み解く六つのファクター
・大義を忘れたチャーチルの
“WE SHALL NEVER SURRENDER"演説
・米駐英大使館の暗号解読事務官の突然の逮捕
・米共和党候補選の怪
・チャーチル一族の究極の「不倫」接待
・ハワイの地方紙が予告していた「真珠湾攻撃」
The media was also aware that an attack from the Japanese military was imminent and had published headlines as a forewarning.Here’s a headline provided by the Hilo Tribune Herald on November 30, 1941.
Here’s another headline from the Honolulu Advertiser from November 30, 1941.
[出典:https://pandorasbox2014.wordpress.com/tag/november-30-1941/]
・なぜか黙殺される「風」暗号の傍受
・対日外交交渉記録の破棄、改竄疑惑
・敗者ウィルキーの再利用:中国支援
・チャーチルの娘を抱いた男の運命
・日米で異なる近衛文麿の評価
・パットン将軍の怒り
第4章:原爆投下をめぐる狂気
・アインシュタインの原爆開発提案
・原爆実験成功の報で蘇ったトルーマン
・原爆無警告使用を決めたスチムソン
・「悪魔の涙」―京都、広島の命運を分けたもの
・チャーチルの歴史的大罪と嘘
・民間人を殺すロジック
第5章:戦争指導者たちの死
・「偉人」の死に様
・キツネノテブクロとルーズベルトの最期
・スターリンの妄想による医師団粛清
・「息ができずに死んでいくようだった」
・政界に居座ったチャーチルの晩年
終章:戦争のリアリズム