哲学

【ざっくり哲学解説】イマヌエル・カント(Immanuel Kant/1724~1804)

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イマヌエル・カント(Immanuel Kant/1724~1804)

プロイセン王国(ドイツ)の哲学者であり、ケーニヒスベルク大学の哲学教授である。
純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』の三批判書を発表し、批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらした。
批判哲学の「批判」とは、あるものの正しさや根拠を原理にさかのぼって吟味することをいう。カントは理性の正しさの根拠や理性の能力の及ぶ範囲・限界を批判的に検討した。

カントによれば、自然(事物)がどのようにあるかを認識するためには感性と悟性が必要である。

① 感性による受容:認識に至るには、まず感性が対象を受容する。
② 悟性による構成:次に感性が受容した対象を概念によって構成する。これによって認識が成り立つというのがカントの考えである。

ピンクのチューリップ→触発(刺激)→感性…直観の形式(空間と時間)[対象を受け取る]=受容→悟性[受け取ったものを思考する]=構成する、組み立てる=認識の成立(事象の認識や科学的認識の成立)
★概念を用いた認識の例:( )内が概念
①私は(ピンク色)を感じている。
②私の観ている(チューリップ)は(ピンク色)である。
③(このチューリップ)は(ピンク色)である。

[出典:よくわかる倫理 (MY BEST) /学研教育出版]

思考が介在しない肉体レベルの感覚器官で刺激を感受した後(直観の形式)、次の段階では精神レベルの思考に移りそれを概念によって構成して認識します。
ここでいう思考とは、言葉による思考ではなく、構成する・組み立てるという意味で用いています。

コペルニクス的転回

認識は通常、私たちの外にある対象(自然や事物)をそのまま受け取ると考えられていた。これに対して、カントは人間が自然の立法者であり、認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従うのだと主張し、従来の考えを逆転させた。

認識の対象は主観から独立して規定されている=模写説
認識の対象は主観により構成される=構成説(対象が認識に従う)

[出典:よくわかる倫理 (MY BEST) /学研教育出版]

いままでは、認識は対象に従う⇒対象をそのまま受け取ると考えられていたのに、カントは逆に、対象が認識に従う⇒認識の対象は主観により構成されると考えました。その発想はなかった!

……というより、ぼくたちの主観が対象を決めてるなんて、そんなことあるんかいな?ホンマでっか?と。
それじゃあまるで催眠術をかけられたお笑い芸人が、チューブ入りわさびを甘~い生クリームと思い込まされ至福の表情でちゅぱちゅぱしているような地獄絵図を想像してしまうのですが。
あたしだけ?(だいたひかる)

主観が対象を決めるのであれば、別に催眠術師の力を借りなくても出来そうな気がするんですが、そうは問屋が卸さない!ときたもんだ。

いくら主観をフル稼働してもでぶでぶのこの身体はスマートにみえない。濡れ落ち葉の旦那に胸はときめかないんで・す・YO!(あーいとぅいまてーん)

ということで、ちょっと何言ってるか分からないこのあたりを理解するため、さらに深く考察してみたいと思います。

理論理性の限界

ものごとの認識能力としての理性である理論理性(科学的認識)が対象とできるものは、感性によって対象として与えられたもの、すなわち経験できるものだけである。
神や自由、霊魂といった経験を超えたものについては、理論理性は扱うことができず、これらは実践理性*(道徳)の扱う問題である。

*実践理性:人間に先天的にそなわっている、善を実践しようとする道徳的な意志能力で、良心・善意志とも呼ばれる。

[出典:よくわかる倫理 (MY BEST) /学研教育出版]

このように、カントは『理論理性(科学的認識)』と『実践理性(道徳)』というように理性を2つに分類して考えています。

自然法則など、それを超えた神・自由・霊魂などを扱うのは実践理性の分野であって、科学で扱うことはできないということです。

このようにカントは、科学の分野で認識できる範囲⇒理論理性の分野において『コペルニクス的転回』と言っているわけです。

で、先程の『対象が認識に従う』というところなんですけれども、

認識する主観が、外界に実在する対象(客観)に一致するという伝統的な立場を逆転し、対象が主観の認識の枠組みに一致するように構成されると説いた。
[出典:倫理用語集 第2版/山川出版社]

別の解説をよんでも、催眠術ショウのシーンしか思い浮かばなくて、やっぱりちょっと何言ってるか分からない。

バナナの映像が眼を通して入ってきてバナナとしてそのまんま映る。これまでの説:模写説だったらストーンと腑に落ちるんです。

で、カントの構成説というのは、模写説と真逆!のように考えてるから、立場を逆転したとかコペルニクス的転回!とかゆうて大げさに表現するから、ちょっと何言ってるか分からなくなるんです。

すこし落ち着いて冷静になって考えてみましょう。

カントの構成説というのは、受け取った刺激(信号・データ)を、そのまんま映しているように思えますけれども、そうではなく脳がデータを処理して再構成して、その後にはじめて対象認識しているということです。

脳には絶え間なく膨大な情報がバラバラに入ってきます。それを脳が処理・再構成した脳内イメージを見ている。つまり人間は外界の対象をそのまんまみているわけではない、とカントは言っているのです。人間は対象を直接見てるのではなく、脳内の表象を見ているのだと言っているのです。

我々が認識しうるのは、物自体としての対象ではなくて、感性的直観の対象としての物、換言すれば、現象としての物だけである。
……ところで、我々はこの同じ対象を、物自体として〈認識する〉ことはできないにせよ、少なくともこれを物自体として〈思惟する〉ことができねばならないという考えは、依然として保証されている。さもないと現象として現れる当のものが存在しないのに、現象が存在するという不合理な命題が生じてくるからである。

仮象・現象・物自体
対象が我々に現れるままに表象する、というのが私の言い分である。しかしそう言ったからとて私は、これらの対象を単なる仮象であるというつもりはない。現象においては、対象はもとより、我々が対象に帰する種類の性質もまた現実に与えられている。
しかし、かかる性質は、主観と与えられた対象との関係において、主観の直観様式によってのみ規定せられるのである。したがって、この与えられた対象は現象であって客観自体としての対象からは区別せられる。
*
カントによれば、世界についての人間の認識が成立するためには空間・時間は不可欠であるが、世界そのものが成立するためにそれらが不可欠であるとは言えない、ということになる。客観的存在としての時間・空間ではなく、世界を時間・空間という人間認識の枠を通して見る、ということなのである。
では、時間・空間という枠を通さない世界そのものはどんなようすなのであろうか?
それこそが物自体であって、そんなもの自体がどんな様子をしているか、などいうことは、我々人間には知りえないのである。
我々人間が正当に知り得るものは、時間と空間という枠内にある存在、つまり「現象」だけなのである。
*
では時間・空間が、人間の認識の主観的条件なのであって、物そのものの側に付属したり物そのものを成立させている条件ではないとすると、人間以外の存在者にとって、時間・空間は無意味であり、無であるのだろうか。
我々で言う〈遠方〉にいる者に出会うために、距離や空間の中を移動する必要があるかどうか、分からない。
我々人間にとっては、世界は、時間と空間という形式のもとに存在している。
世界とは、我々にとっては必ず時間的であり、空間的なわけである。
しかし、天使にとって世界がそうである、とは限らないし、そもそも世界自体が、時間的・空間的様相で存在しているとは決して断言できないわけである。

[出典:カント『純粋理性批判』入門/黒崎政男]

天使とか霊的存在は、私達が認識しているような時間と空間の中に存在してない、ということはつまり、人間が認識できない別次元の時間・空間の中で生きているということです。

ですから、彼らにとって遠方の人に会うために距離や空間の中を移動する必要はないのです。会いたいと思ったらその人の前に忽然と姿を現します。

これらのことを理解するために、エマヌエル・スヴェーデンボリ(Emanuel Swedenborg/スウェーデンボルグ:スエデンボルグ)の本を読まれるのが良いと思います。

 

みずから直観するような悟性(知性)を想像してみよう。
このような悟(知)性は、神的知性のようなもので、それは、与えられた対象を表象するのでなく、自分が表象しさえすれば、それによって同時に対象が与えられる、つまり産出されるような知性であろう。そして、このような認識にとっては、カテゴリーはまったく意味を持たないだろう。

時間・空間、そして因果関係などは(通常は)、人間の存在に関わらず、世界そのものが成立するための条件だと考えられている。人間がいなくとも、時間・空間はあるし、因果関係も、世界そのものの側に属する法則である、と考えられている。

カントは、否! と言う。
そうではないのだ。

それらは、人間が世界を認識するための〈主観的〉条件であって、我々の認識を離れてはそれらは無なのである。

[出典:カント『純粋理性批判』入門/黒崎政男]

カテゴリーとは、時間・空間の形式とか因果関係のような形式で、悟性概念というような意味合いです。そういったものは全く意味を持たないだろうと。なぜなら、思ったものが出現してくるのですから。

どら焼きが食べたいと思ったらどら焼きが目の前に出でくるわけです。瞑想の達人なんかになると、トランス状態に入ってあちらの世界にトリップすると本当にそうなるそうです。

それは神的知性のようなもので、自分が表象しさえすればそれによって同時に対象が与えられる、そういう知性だというのです。

そして、カントは物理学者がひっくり返ってぶっとびそうなことを言います。
それらは、人間が世界を認識するための〈主観的〉条件であって、我々の認識を離れてはそれらは無なのである。

物理学の法則は人間の主観を離れて存在しない、客観的な世界として存在してるわけではないというのです。恋人に会いたいと思って、相手もそう思えば瞬間逢瀬が可能な世界が、物理学の時間・空間・速度の法則にあてはまるわけがないのでうら、まさに霊的世界を現代の科学では解き明かせないという証左です。

また、光の速度を最高速度とするアインシュタインの相対性理論もまた霊的世界には当てはまらないでしょう。なぜなら、どんな遠くにいたとしても時空を超えて一瞬で通じるわけですから。

太陽の光が地球に届くまで8分19秒もかかるような距離でもテレパシーなら一瞬です。いっこく堂の「あれ?…こえが?…遅れて?…聞こえ…」るようなことはないのですから、光(電磁波)の速度を超えて交信ができるなんてことは、物理法則にあてはまりません。それは私達の世界だけに通用する物理法則で、霊的世界にはまったくあてはまらないのです。

対象を単に受動的に受けとるのでもなければ、知性が表象するだけで対象を産出してしまうのでもない。能動性と受動性のぎりぎりのせめぎ合いの地点に、『純粋理性批判』の認識理論は成り立っているのである。
このように考えてくると、カントの言う「コペルニクス的転回」の意味もだんだん分かってくるだろう。世界そのもの、つまり、物自体が私たちの認識に従う、と言っているのではない。それは、自分が思うことがそのまま「その対象の産出」につながる神的知性の場合の話である。
だが、時間・空間、およびカテゴリーによって初めて成立する対象世界、つまり現象世界なら、それは人間の認識形態が成立させた世界であり、それについてなら、人間はア・プリオリ(先験的)に認識することが可能となるのである。

[出典:カント『純粋理性批判』入門/黒崎政男]

私達が見ている対象というのは、私達が受け取った外界の情報を脳が構成をした世界、それをを私達は見ている。脳はカテゴリーにより、純粋な悟性概念によって受動的に構成するので、つまりそれは経験によるものではない。

なぜなら、もし経験によって構成するのであれば、一人一人見てるものが違うということになります。それが受動的に構成されているからこそ、世界の認識が共通しているからこそ、会話やコミュニケーションが成り立つのです。

カントの「コペルニクス的転回」とは、私達の脳が構成しているその世界を見ているということを言っているのです。

本書、第一章で見てきたように、現象の成立には、感性と悟性の両方の協力が不可欠である。『純粋理性批判』によれば、客観的認識が成立するためには感性と悟性という二つの「契機」が必要であり、この「まったく異質な」二つの契機がしかも「合一することによってのみ認識は成立する」とされているはずだった。

[出典:カント『純粋理性批判』入門/黒崎政男]

インド哲学では、根元の物質原理である自性じしょう(プラクリティ)というエネルギーの大本になるものがあってそれが3つから成り立っていると考えられています。
意識・心(精神)・物質

3つのグナ
意識:サットヴァグナ(明るい性質)により意識が出現
心:ラジャスグナ(激しい性質)により心が出現
物質:タマスグナ(安定した性質)により物質が出現
※意識は単独でひとつですが、心と物質は切り離すことのできない一対の実在。

デカルトは、精神と肉体をそれぞれ独立した存在として分けていますが、実際には精神と肉体は相互の関わりを持って存在しています。

私達のずっと長い間思い込んできた誤りは、心が主体で物質が客体ということ。心が物質を見るんだと思いこんでいることです。

たとえば瞑想や内観などで、心を見つめるなどといいますが、主体である心が主体である心を観ることはできませんから、なにが心を見つめているかというと、それは主体である意識です。

これらは心と意識をごちゃまぜにしていることから起きる誤解で、『意識』が主体で『心(精神)と物質』が客体になります。

カントの場合は、物質側に感性、心(精神)側に悟性があるとして、これが合一したときに認識が起こるとしていますが、何がどのようになることが合一なのか?感性と悟性の合一とはどういうことなのか?なかなか腑に落ちない理解が難しいところです。

ひとつの考え方として、意識というのは、光を照らす照明作用のようなものだと考えてみると合点がいくかもしれません。感性と悟性の合一というのは、そこに光を当てるということです。

光がなければ視覚情報を得ることができません。真っ暗闇の中で明かりがついて初めて何があるかわかるように、外界のモノを感性が受け取り、次に悟性が脳の中で再構成します。その再構成されたものに意識の光が照明されることで認識されるということです。

ここで、あのあまりにも有名な(といってもカント研究者の内輪の話かもしれないが)カントの言葉が思いうかぶのである。
人間の認識には二つの幹、つまり悟性と感性があり、これらの幹はおそらくは、一つの共通な、しかし我々には未知の根から発している。(『人間学』第31節参照)
まったく別物であったはずの〈悟性〉と〈感性〉は、実は、〈共通の根〉から発している二つの幹に他ならないとカントは言っているのである。
この「未知の根」とは「構想力」のことなのだろうか。
もし、感性と悟性が何らかの共通の根から発しているならば、感性と悟性の〈二元論〉は崩れる。それは〈根源的な未知の根〉一元論となってしまうだろう。

[出典:カント『純粋理性批判』入門/黒崎政男]

削除された構想力

感性と悟性の共通の根である構想力について言及していたのですが、考えが変わり第二版ではそれを削除してしまったというのです。

さて、では、第二版における書きかえ問題に入ろう。
カントは『純粋理性批判』の第二版において、「悟性概念の演繹の晦渋さを取りのぞく」という理由で、第一版の「演繹論」をほとんど書きあらためてしまった。
*
ところで悟性と感性とは、それらが同種のものでないにもかかわらず、しかも私たちの認識を生ずるにあたっては、おのずから同胞の契りを結ぶ。
それはまるで一方が他方を、あるいは両方が一つの共同の幹を、その根源としているかのようである。しかしこんなことはありえないことだし、少なくとも私たちは、いかにして異種のものが同一の根から発生するかを理解することは出来ない。(『人間学』第31節 Aka. VII.177)
*
「感性」と「悟性」という二元論
それを媒介する「構想力」
こんな面白い構図をヘーゲルが見逃すわけはない。若きイエナ期ヘーゲルは、最初期からこの「構想力問題」の核心をとらえていた。
*
ヘーゲルはカントにおける感性と悟性の関係を次のように述べる。

”ここから明らかなように、カントの直観形式と思惟形式とが、ふつう考えられているように特殊な別々の能力としてまったく分離してあるのではない。”(信仰と知)

*
つまり、感性も悟性もそれぞれ別個に存在するのではなく、むしろその根底には「根源的綜合的統一」すなわち、対立するものから生みだされた所産としてではなく、対立物の真に必然的で絶対的な、つまり根源的な同一性として把握されねばならないような統一が存していなければならない。そしてこれがカントにおける「産出的構想力の原理」なのだ、とへーゲルは解釈するのである。

[出典:カント『純粋理性批判』入門/黒崎政男]

当初『純粋理性批判』の第1版では『構想力』という共通の根が先にあり、ここから精神と物質が分化したという概念について記述したのですが、第2版ではそれを削除してしまいました。
ヘーゲルは、カントが削除してしまった『構想力』、実はそれこそが正しかったのだと言っているのです。

さらにヘーゲルは言います。

だから、「構想力を、実在的で絶対的な主観と絶対的に実在する世界との間に、あとから挿入されるような媒介項」と考えてはならず…
…構想力は第一のもの根源的なものであって、そこから初めて主観的な自我と客観的な世界とが必然的に二分化された現象および結果として分離してくる。
…このようにしてカントは実は「いかにしてア・プリオリな綜合判断は可能か」という自己の問いを解決してしまっているのだ。
ア・プリオリな綜合判断は、非同一なものの根源的絶対的同一性によって可能なのである。
*
しかし、カントは、「産出的構想力」を、ヘーゲルが解釈した「超越論的構想力」という、いま見てきたような形で積極的に展開することは結局できなかった。
ヘーゲルの言葉で言えば、カントは「真にア・プリオリなものを再びただの統一に、つまり根源的綜合的ではない統一にしてしまった」(同309頁)ということになる。
*
つまり、固定化されていた主観性と客観性の絶対的対立を、より根源的な絶対的同一性の〈契機〉としてとらえる可能性を、カントはさまざまな箇所で呈示しながらも、結局は固定的な二元論的思惟にとどまったのだ、とヘーゲルは述べていると言えよう。

[出典:カント『純粋理性批判』入門/黒崎政男]

もともとひとつだったものが2つに分かれた。だからこそ感性と悟性の合一による認識が起こり得る。固定化されていた主観性と客観性の絶対的対立を、より根源的な絶対的同一性の<契機>として捉える可能性である『構想力』をカントはさまざまな箇所で呈示しながらも、結局は固定的な二元論的思惟にとどまってしまった。『構想力』という概念を破棄してしまった、というのがヘーゲルが考えたことです。

ヘーゲルは後の『哲学史』において次のように言っている。
確かに、カントはさらに進んで直観的悟(知)性の考えに明確に到達する。
……しかしこの原型的知性が悟性の真の理念であることに、カントは思いいたらないのである。
奇妙なことに、カントはこの悟性の理念を持ってはいるが、なぜそれがいかなる真理性をも有してはならないのかという点については、ただ我々の悟性はその悟性とは別様に作られているからという以外、(カントにとっては)何等の理由もない。(ズールカンプ版ヘーゲル全集第20巻379頁)
*
カントのこのような態度は、ヘーゲルにとっては、もうただ「奇妙」である以外にないのだろうか。確かに、もうこの次元においては、両者の間には物の見方の根本的な違いが存するとしか言えない側面が存しているとも言えるだろう。

[出典:カント『純粋理性批判』入門/黒崎政男]

経験をどこまで先取りできるか

この問題を、カントが「知覚を先取り的に認識することと名づけた箇所」で見てみよう。
経験の〈対象〉は、我々が作りだしたものではないから、これを経験にさきだって先取することは、人間の(有限的)認識には不可能である。
つまり、「経験のまさしく内容に関わるものは、経験においてしか得ることのできないもの」である。
だから、「現象のうちには、ア・プリオリには決して認識できないもの」が存在していて、それは「いつでもア・ポステリオリに経験において与えられなければならない」。
つまり、〈感覚〉は、知覚の「質料」であって、これは、具体的に経験によって初めてえることのできるア・ポステリオリなものなのである。

[出典:カント『純粋理性批判』入門/黒崎政男]

ア・ポステリオリは、ア・プリオリの対語で、経験に由来という意味になります。
人間は何かに接したり触れたりして感性を経由しなければ、絶対に認識ができない。もしそうでなければ、直接モノ自体を認識することになるわけですから、絶対そんなことはできない、それは絶対ありえない!とカントは言うのです。

何かモノをイメージすればそれが対象として目の前にポンと出てくるような、自分が想像したとおりのものになってしまう、思考は現実化するみたいなことが何の努力もなく瞬間にすべての人に起きてしまうような……そんなことは絶対ありえないと。

たしかに、それはありえないと思います。ですからカントの考えは肉体的・物質世界においては正しいのです。しかし、神々や天使、霊的世界では通用しないのです。エーテル体の意識レベルでは、直接モノ自体を認識できるのです。霊的存在は、脳の中で再構成することなく、対象を直接見ているのです。

カントの認識は、肉体をまとっているレベルでの認識であって、ある意味正しいのです。
ところが人間が死んで霊になると、メンタル体・アストラル体・エーテル体意識・肉体意識が重なって霊体意識になりますから、認識スタイルが変わります。

人間や動物だけが特殊な認識の仕方をしてるのです。モノを直接見られないのです。再構成したフィルターを通したモノしか認識ができないのです。(ただし、エーテル質の視覚を持っているような霊能者は、モノ自体を見ることができます。)

カントは、構想力という悟性の概念を持ってはいるけれども、なぜそれがいかなる真理性をも有していないと考えたのかといえば、我々の自然を認識する物質的な認識力というのは、神々や天使とは違う認識力であるとカントは考えたのです。

そして、晩年にカントは全く別のことを言い始めます。

以前には不可能と思われていた経験的諸表象の体系をア・プリオリに獲得すること。
および、経験をその質料面に関してまで先取すること。これらの可能性が生じる。

我々人間は有限であり、感性に対象は〈与えられ〉なければならなかったはずだ。それなのに、肥大化した自我は、経験を作りだす、とさえ言いはじめているのである。
これがカントの最晩年の姿である。
ここにいたっては、悟性や理性は、世界を認識するために感性的契機をもはや必要としない。『純粋理性批判』においてのテーゼ〈悟性と感性の合一〉こそ、人間認識成立の根本だったはずだ。対象はもはや〈外から〉与えられる必要はない。
理性がおのれの限界を超えて肥大化するときには、真理は、経験の地平での検証による獲得という性格を失い、すべての経験とは離れたところで〈体系〉が構築される。

[出典:カント『純粋理性批判』入門/黒崎政男]

著者は『これがカントの最晩年の姿である』と、さもカントが落ちぶれたような言い方をしていますが、逆にカントは深い気づきを得たのではないでしょうか。

カントの『純粋理性批判』というのは、あくまで物質次元の認識のあり方を説明したものなのです。しかし人間は肉体的物質的次元の認識だけではなく、エーテル次元・幽体次元の意識、心、身体を持っています。

ただ、通常認識出来ないだけで、霊的次元での認識はインスピレーション、ひらめきというカタチでやってくるものです。誰もが経験しているのではないでしょうか。晩年のカントは、自分の認識論が肉体レベルで収まらないことに気づいたのだとおもいます。

若き日のカントは、スウェーデンボルグを徹底批判しています。

カントは、スウェーデンボルグのことを「われらの夢想家」「著述家の夢想」とレッテルを貼り、「彼の個人的幻視はそもそも証明できない」と述べました。

また、幽霊物語、死霊の出現、霊的存在などの問題は「哲学的学説の洞察の限界」「憶測するだけで、積極的に考えられない」「おのれが死後も存在するという心をなごませてくれる期待から、おそらく生まれた」と。

さらに「彼らを病院に送りこみ今後一切この種の探求をおやめになってもけっして悪くとったりはしない」「かつてはこの種の人々を焼き殺すことが必要であると思われたが、いまでは彼らの腸内を下剤で浄化するだけで十分であろう」と、さんざんなこき下ろしかたです。

そして最後のとどめは、
「われわれはおのれの幸福の心配をしよう。庭に行って働こうではないか」

霊だの霊界だの言ってないで、もっとやるべきことがあるでしょ?と、現実しっかりみなさいよと、まるでスウェーデンボルグを脳病院から抜け出してきた人のように蔑み、霊的世界など考察もせずハナから否定しているのです。

若き日のカントは、こんな感じでしたが年を重ねるうちに、気づいでしまったのではないでしょうか。版を重ねるたびに言うことが違ったり、削除したりと……気の迷いが感じられます。

スウェーデンボルグを徹底批判、というかけちょんけちょんにこきおろしてしまった若気の至りを恥じてか、いまさらながらスウェーデンボルグを認めるようなことは書けないと、思ったのかどうか知りませんが、いずれにしても最晩年のカントは肉体レベル・物質レベル以外の世界があると考えていたのではないでしょうか。

 

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