哲学

【荘子】ざっくりまとめ学習ノート

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【荘子】前370頃~前300頃
名は周。宋の国の出身。その思想は『荘子』に伝わるが、実像は不明。賢人ゆえ楚王により高位をもって迎えられたが、悠々自適の生活で自由人として生きたと伝えられる。自在な筆法で、巧みな比喩や寓話に富む『荘子』33篇がある。
[出典:MY BEST よくわかる倫理/Gakken]

荘子』(そうじ)は、荘子(荘周)の著書とされる道家の文献。現存するテキストは、下記のとおり、内篇七篇、外篇十五篇、雑篇十一篇の三十三篇で構成される。

内篇:逍遙遊・斉物論・養生主・人間世・徳充符・大宗師・応帝王
外篇:駢拇・馬蹄・胠篋・在宥・天地・天道・天運・刻意・繕性・秋水・至楽・逹生・山木・田子方・知北遊
雑篇:庚桑楚・徐無鬼・則陽・外物・寓言・譲王・盗跖・説剣・漁父・列禦寇・天下

荘子という人は、顕在意識レベルからより深い潜在意識レベルの『道・理』に到達していたので内容的に相当深い。つまり論理を超える世界へ到達していたが故に文章は論理的ではない。顕在意識レベルの西洋思想と違って非論理的な文章こそ、ある意味東洋思想の真髄ともいえる。

ここで大事なポイントは、荘子が伝えたい内容(言葉にならないものを言語化)を受け取る能力・理解力が、こちら側にないといけないということ。理屈でなく素直な感覚で理解出来る人にとって、荘子は大変わかりやすいし面白い。
だが、論理的なものは理解できるが、非論理的、逆説的に表現されている荘子の世界を感得できるセンスがない人にとっては、『ちょっと何言ってるか分からない』状態になってしまう。

荘子の中心的思想

万物斉同(ばんぶつせいどう)
ありのままの実在の世界は、是非・善悪・美醜・栄辱(えいじょく)・生死などの対立・差別をこえた、本来斉(ひと)しいものであるという荘子の中心的な思想。
無用の用
世間からは無価値なもの (無用) とされるものの中に、あるがままの自然の真の価値 (用) があるという考え。人間が作為した有用・無用の区別は、人間にとって存在する相対的なものであり、自然のままの実在の世界は、分別をこえ、あるがままに存在すること自体に絶対的なよさを持っている。
混沌
混沌とは、区別がはっきりしないことであるが、『荘子』では、人間の分別する知恵の働きをこえた、万物が一体となった絶対無差別の真の実在の世界 (道) をあらわす。
[出典:倫理用語集:山川出版社]

荘子の中心的な思想:万物斉同

王陽明デカルトもまた、どんな人でも平等に良識・良知というものを持っているという思想だが荘子はさらに深く、人間に限らず生きとし生けるものはみなひとつの生命であり均しい。人間だけが持つ叡智が最高なのではなく、虫も猫もみな等しく叡智を持っている。人間だけが一番だと思っている人間のほうが愚かである。

ただし、”生死などの対立・差別をこえた……”といっても、生死がないわけではなく、生まれて死ぬということは厳然としてそこにある。死ねばまた別のなにかに生まれ変わるかもしれないわけで、今度は蝶に生まれ変わるのか人間に生まれ変わるのかはわからないのだから、それは自然に任せるということ。

”美醜の対立・差別をこえた…”ものではあるが、美醜はある。
”善悪の対立・差別をこえた…”ものではあるが、善悪はある。
世間さまのいうような、常識的、一般的、抽象的な”美醜や善悪”などというものはないということ。
可愛いさとか麗しさとか古今東西共通の美醜はないが、個々人にはそれぞれの美醜の基準はある。
宇宙自然森羅万象をひとつのものとして観れば、生死は超越しているが、個々人には生死がある。

「無用の用」の真意

世間さまから、用無し、クズ、ヤクタタズなどと後ろ指をさされるような無価値とされるものの中に、あるがまま自然の計り知れない真の価値があるという考え方。浅はかな人間の知恵を超えた価値があるということ。

”有用・無用の区別は、相対的なものだから、自然のままの実在の世界は、人間の浅はかな分別をこえ、あるがままに存在すること自体に絶対的なよさを持っている。”
とはいっても、たとえば、「原子力も自然にあるがままにある、絶対的に有用なものなのだから、原子力発電は有用なもの」というのは馬鹿げた屁理屈。
500年も1000年も人間が管理しなければならない毒を撒き散らしておいて、後の代まで処理できないようなゴミを残しておいて、自分たちだけ栄え、後はオラ知らね……って。

小学児童でもわかるような馬鹿げたことを平気やってのけているのに、それに反対できない人たちもいる。利権がらみの政治家、電力会社の人、マスコミ関係者、学者……
彼らは本当はみなわかっているのだが、自分の社会的地位立場とかお金のためにホントのことが言えない。

荘子や老子は人間の小賢しい知恵や文明を笑ってながめている立場なので、もし現代に生きていたら原子力発電には否定的であろうことは想像がつく。だからといって、原子力そのものを否定することはないはずだ。
自然破壊のように人間中心の愚かな行為が問題なのであって、もし原子力をすべての生命にまで含めた有用なものに活用できる技術が発明されたら、素晴らしいものになる。無闇に科学や文明を否定するものであってはならない。
人間の傲慢で小賢しい知恵が問題なのであって、良識・良知を身につけている人が扱う科学は、素晴らしいものになるのだから。

「混沌」の真意

混沌は、言葉の意味としては区別がはっきりしないことをいうが『荘子』では、良い意味で使われていて、人間の分別する知恵の働きをこえた、万物が一体となった絶対無差別の真の実在の世界のことをあらわしている。故に、人間の分別のレベルを超えた有用・無用の概念が出てくるということになる。

真人(しんじん)
ありのままの自然の道と一体となって生きる、荘子の生き方の理想像。至人ともいう。
逍遥遊(しょうようゆう)
逍遥とは、あてもなくぶらつくことで、ありのままの自然の世界に自己をゆだね、悠々と遊ぶ境地をさす。人間社会の人為的な価値観の束縛から解放されて、万物をありのままに生み出す自然の道に従う、無為自然の生き方をさす。それは、人為的な万物の差別の相に心を乱されず、万物すべてを善しと肯定し、思いわずらうことなく安らかに生きる境地である。
心斎坐忘(しんさいざぼう)
心から分別の働きを除いて、心を一つにして空虚にし(心斎)、自己の心身を忘れさって(坐忘)、無為自然の道と一体となる修養法。

思いわずらうことのない安らかな境地に至るための修養法が心斎坐忘。禅の先駆が荘子思想。

荘子には、王様から宰相として来てくれと言われたが断ったというエピソードがある。なぜ断ったかというと、理由は単純明快で荘子の価値観に合わなかったから、宰相として生きるということは自分の自由を捨てること、つまり宰相の地位より己の自由の方が価値が高かったからである。自分にとって価値判断基準の根本が直感知。この根源部分は論理で表せないレベル。

至人・神人・聖人

大地の北の果てに、暗い海が広がっている。天の池である。そこに棲む魚、背の広さは数千里、全長は何千里あるだろうか、これが鯤(こん)である。
また、そこには鵬(ほう)という鳥がいる。背丈は泰山(たいざん)ほどもあろうか、翼を広げれば、空は黒雲におおわれたよう。鵬は風に乗って旋回しながら、九万里の高さに舞いあがる。
スズメは嘲っていう。
『いったいどこへ行こうというのかね、五、六メートル飛びあがるのだって楽なことじゃないのに。こうして灌木の間を飛んでいれば、十分ではないか。』
大と小の違いがここにあらわれている。
知識をたくわえて役人となった者、実績をあげて代官となった者、君主に徳性を認められて一国の大臣となった者、かれらが自分をどう思おうと、しょせんはこのスズメとかわりない。
[出典:中国の思想「荘子」/徳間文庫]

スズメに例えられた『役人、代官、大臣』は、もっと大きな世界があることを知らないという。

宋の栄子(えいし)は、かれらを冷笑する。かれは世間の毀誉褒貶(きよほうへん)には、けっして心を動かされない。自他内外をはっきり区別し、栄誉や恥辱は自己にとって本質的なものでないことをわきまえていた。たしかにかれは世俗から超然としている。しかしまだ、真の自由を獲得したとはいえない。
列子(れっし)は風に乗って軽やかに空に遊び、十五日ほどして風の向きが変わると瓢然とまた地上にもどってくる。しかし、地上の世界に縛りつけられていないとはいうものの、風の力に頼ればこそ、それもできたのである。したがってかれもまた、真の自由を獲得したとはいえない。
天地の自然に身をゆだね、万物の生成変化に応じて無窮の世界に逍遥する者こそ、何物にもとらわれぬ真に自由な存在である。「至人は自己に固執(こしゅう)せず、神人は作為を施さず、聖人は名声に関心を抱かぬ」とは、このことを指す。
[出典:中国の思想「荘子」:徳間文庫]

栄子は、荘子以前の道家(どうか)の学者。

ここで、ニーチェが『ツァラストラはかく語りき』の中で語っている精神の三段の変化(ラクダ→ライオン→幼子)について参照してみたい。(参考:守破離

わたしはあなたがたに、精神の三段の変化について語ろう。どのようにして精神が駱駝となるのか、駱駝が獅子となるのか、そして最後に獅子が幼な子になるのか、ということ。  

駱駝の精神(肉体意識)

精神にとって多くの重いものがある。畏敬の念をそなえた、たくましく、辛抱づよい精神にとっては、多くの重いものがある。その精神のたくましさが、重いものを、もっとも重いものをと求めるのである。
どういうものが重いものなのか? と辛抱づよい精神はたずねる。そして駱駝のようにひざを折り、たくさんの荷物を積んでもらおうとする。どういうものがもっとも重いものなのか、古い時代の英雄たちよ? と辛抱づよい精神はたずねる。わたしもそれを背負い、自分の強さを感じてよろこびたい。

重荷の例として、「屈従すること」「勝利を捨てること」「試みる者(悪魔)を試みるために高い山に登ること」「真理のために魂の飢えに苦しむこと」等……の例をあげている。

 獅子の精神(エーテル体意識)

しかし、もっとも荒涼たる砂漠のなかで第二の変化がおこる。ここで精神は獅子となる。精神は自由をわがものにして、おのれの求めた砂漠における支配者になろうとする。
精神はここで、かれを最後まで支配した者を探す。精神はかれの最後の支配者、かれの神を相手取り、この巨大な竜と勝利を賭けてたたかおうとする。
精神がもはや主なる神と呼ぼうとしないこの巨大な竜とは、なにものであろうか? この巨大な竜の名は「汝なすべし」である。だが獅子の精神は「われは欲する」と言う。

「いっさいの価値はすでに創られてしまっている、――いっさいの価値――それはわたしなのだ。まことに、もはや『われは欲す』などあってはならない!」こう竜は言う。

「汝なすべし」という名のこの巨大な竜は、ごく一般的で世間的な政府や世間さまのいう価値感の象徴である。だが「われは欲す」の獅子の精神は、世間や政府が間違っていることは、間違っている!と吠える。自己の意志を貫き挑戦する。

 幼子の精神(顕在意識)

幼な子は無垢である。忘却である。そしてひとつの新しいはじまりである。ひとつの遊戯である。ひとつの自力で回転する車輪。ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である。

なにごとにも囚われず、無邪気に遊ぶ幼な子は『新しい価値観の創造』を象徴している。

以上のことから、ニーチェの精神の三段に対応する宋の栄子(えいし)の精神レベルは、おのずと獅子の精神ということがわかる。この精神レベルを荘子は聖人とした。列子は神人のレベル。そして荘子は至人(真人)のレベルにあるという。これは荘子自身が心斎坐忘によって得た最高の境地・悟りである。

心斎坐忘による悟り

聖人は情や欲を完全に超越できていないが名声に関心を抱かない
神人は作為(自分の意識)を為さない
至人は魂という意識まで超えている

道枢(どうすう)の境地

すべての存在は、「あれ」と「これ」に区分される。
たとえば生と死、可と不可、是と非との関係もまた然り、すべて事物は相互に依存しあうと同時に、相互に排斥しあう関係にある。
だからこそ聖人は、あれかこれかと選択する立場をとらず、生成変化する自然をそのまま受容しようとする。
「あれ」は是であるとともに非でもあり、「これ」もまた是であるとともに非でもある。つまり、「あれ」と「これ」との区別は存在しなくなるのである。
このように、自他の区別を失うことにより個別存在でなくなること、それが「道枢」である。
「道」を体得した者は、扉が枢(とぼそ)を中心として無限に回転するように、無窮に変化しつつ無窮の変化に対応してゆくことができるのだ。
[出典:中国の思想「荘子」:徳間文庫]

瞑想により、身体的感覚を超えた意識の境地から自然を見たとき、本質的に自他の区別がつかない。
胡蝶の夢:夢の中で胡蝶(蝶のこと)としてひらひらと飛んでいた所、目が覚めたが、はたして自分は蝶になった夢をみていたのか、それとも今の自分は蝶が見ている夢なのか。この説話のように、本質的に自分と蝶の区別をつけてない境地。「あれ」と「これ」の区別がつかない渾然一体の体験も超えて、身体が消えてしまう境地まで至る、これが道枢の境地。

天地は一指

指という概念を分析して、指ということばが存在としての指に一致せぬことを論証する者がいる。
これによってわれわれの認識能力の不完全さを明らかにしようと意図するなら、その方法はむしろ誤りである。
なぜならば、指という存在は指であってしかも指でなく、換言すれば、一本の指すなわち天地であり、万物なのである。

この万物斉同の理を体得した者は、あれかこれかと選択する立場をとらず、事物を「庸(よう)──自然の姿」のままにまかせる。
自然なはたらきには、無理がない。
自得して、いっさいの存在をあるがままに肯定する境地に至ったとき、われわれの認識は万有の実相に近づいたといえるのである。そして、自然にまかせようという意識さえない状態が、「道」との一体化にほかならない。
[出典:中国の思想「荘子」:徳間文庫]

名前というものは、対象となるもののある場面、ある一部の状態、ある側面に対してつけられたものであるから、決して全体を表すものではない。
『指という存在は指であってしかも指でなく、一本の指すなわち天地であり、万物なのである。』という非論理的表現は、『花がそのまま自然であり、そして神なのである』というスピノザの世界観:神即自然に通じる。その感覚はどうしても非論理的表現にならざるを得ない。
万物斉同:天地万物と一体というのは、すべての宇宙全体、見渡す限りの全てのものが自分の意識空間の中にすっぽり入っている感覚。別々のものとして認識しながら、一体感を感じている状態。

朝三暮四

自己の選択に固執して、あくせくと心を煩わせても結局は同じことなのに、われわれはこの道理に気づかないでいる。
猿回しの親方が、猿にどんぐりをあたえながらいった。
「これからは、朝に三杯、夕方に四杯やることにしよう」
猿はいっせいにいきりたった。
そこで猿回しは、「すまん、すまん。それでは、朝に四杯、夕方には三杯にする」
猿はたちまち機嫌をなおしたという。

実質上はなんの差異もないのに、いっぽうについては喜び、他方については怒るのは、なぜだろうか。やはり、自己の是とするところに縛られているからではないか。だから聖人は、是非の区別を立てず、いっさいを「天鈞(てんきん)」つまり自然の調和のままにまかせる。
[出典:中国の思想「荘子」:徳間文庫]

この話、おサルさんだからと思って笑っているかも知れないけれど、人間だってこのおサルさんと変わらない。腹黒い商人やら政治屋のペテンにまんまと騙されている人がおサルさんのことを笑っているのだから。

知の限界を悟ることこそ真の知

真の「道」は、概念では把握できない。真の認識は、ことばでは表現できない。真の愛には、愛するという意識をともなわない。真の廉潔(れんけつ)は、廉潔であろうと努めない。真の勇気は、他者と争わない。「道」は、道であると判断されたとき、「道」ではなくなる。ことば(概念)は、成立したとき、事物の実相から離れる。

つまり、人間にとって最高の知とは、知の限界を悟ることだといえる。それにしても、この「不知の知」を体得することは、なんという至難の業であろうか。
もしこれを体得したとしたら、その知は無尽蔵な「天の庫(くら)」にたとえることができよう。いっさいを受容し、事物とともに推移して、しかもなぜそうなるのか意識しない、これこそ、「葆光(ほうこう)」──無心の知なのである。
[出典:中国の思想「荘子」:徳間文庫]

『はじめに言葉ありき、言葉は神と共にある……』のような感覚でどんなものも言葉で表現できるというのが、西洋の世界観・哲学・宗教。ところが、東洋の世界観、哲学の本質は、『真の認識は、ことばでは表現できない』『ことば(概念)は、成立したとき、事物の実相を離れる』
たとえば仏教の空の思想、禅では、実相を伝えようとするがそれは言葉によって伝えられない。弟子を殴ったり払子で叩いたり突然胸ぐらつかんだりして訳のわからない行動をとるのは、それが言葉で伝えられないからである。

『AはAであって、且つAでない』という表現は、数学的には空集合(∅)となる。
これが論理的に整合するためには、それが物として存在してはならず空でなければならない。つまり、矛盾した概念であり空集合でなければならない。もし空でれば、どんな言明も正しいものとなる。

『Aである』といっても正しいし、『Aでない』といっても正しい……仏教の「空」の概念と近い、それが「道」である。空であるから、そこから何でも出てくる。出てきたそれがたまたま自分であって、あるいはもしかしたら、蝶が夢を見ているのかも知れない、本当は自分は蝶かもしれないと荘子は言う。

これが「道」だと断定した時点で「道」が「道」でなくなってしまう。言語化できないもの。言葉で表現できない「道」を老子・荘子は、あえて言葉で表現したものが「混沌」である。論理的な知ではない「無心の知」「不知の知」とは、誰もが初めから持っている、初めから知っている知=直観知である。

論理と直感

現象の世界、論理的な世界に生きている我々は、論理的なものは理解できるが、非論理的、逆説的に表現されている荘子の世界を感得できるセンスがない人にとっては、『ちょっと何言ってるか分からない』状態になってしまう。
見方を変えれば、そういう人は論理に騙されるということ。欲から離れてありのままに観れば、明らかに何が正しいかが直ちにわかるのに、欲があると人は論理にコロッとだまされる。

同じ論理でも人によって180度違う解釈になることもある。解釈をしたそれぞれの人が自分が正しいと考えているわけで、対極にある解釈のどちらが正しいという証明もできない。
たとえば般若心経。262文字の解釈は人によってまったく違うこともある。般若心経の解釈が正しいかどうかを判断するには作者の意図を理解しているかどうかにかかってくる。
では、般若心経の作者の意図と違った解釈が間違いかというと必ずしもそうとはいえず、信仰の観点からすればその人にとっては正しいことになる。あくまでも”その人にとって正しい解釈”であり真理であるといこと。でも正しいかどうかの証明はできない。一つの命題(真と偽が確定するもの)があったとき、数学的にそれは証明できないということ。

例えば、夕方西の空に見える『宵の明星』と朝方東の空に見える『明けの明星』は同一であるという命題(真か偽か)を考えてみる。
現代人にとっては、視え方の違いだけでどちらも金星だということを知っているから真と答える。しかし、昔の人は違う星だと思っていたから偽と答えるだろう。

同じものだとする現代科学の知見では、視え方が違うだけで金星という抽象的な実体を想定しているが、仏教では本体とか実体としての金星などそんなものない!と徹底的に否定する。
論理は、抽象化した背後にある実体というものの観念なしには絶対成立しない。そこには視えている現象しかないのだからその背後の普遍的な実体もない。

この例から科学と仏教は対立しているように見えるが、そもそも立場が違うのだからどちらが正しいかということ自体無意味。どちらも正しい。
科学は、この世界を論理で上手く説明できて、活用すれば便利な世の中にすることが出来る。
仏教のほうは、本来みな持っている直観を研ぎ澄ましていくことによって論理に縛られている不自由な世界から解放されて自由になり、生命力にあふれた生き方が出来る。
どちらも言ってることは正しいし、どちらが正しいということでもない。
倫理も大事だし直感も大事。バランスが重要。とても豊かな直観力を持ち、かつ明晰な論理性を持っていることが重要だということ。

では、論理と直感ではどちらが優位にあるかといえば、直観のほうが絶対に優位にある。
科学の世界では論理性を優位にとることが問題なのであって、論理は直感の補完という理解であればバランスがとれる。

逍遥遊と坐忘

子桑戸(しそうこ)、孟子反(もうしはん)、子琴張(しきんちょう)の三人が語り合っているうちに、誰からともなくこういう話が出た。
『無心に交わり、無心にふるまう奴はいないものか。俗塵を離れて天空に遊び、生死を忘れて永遠の世界に生きる奴はいないものか』
三人は顔を見合わせてにっこり笑い、心と心にうなずきあって、親友となった。

何事もなく時は流れ、やがて子桑戸が亡くなった。だが葬儀もせずに死体は放置されていた。それを聞いた孔子は、弟子の子貢をやって葬儀を行なわせようとした。
子貢(しこう)が子桑戸の家に来てみると、孟子反と子琴張が、ひとりは土間でむしろを編み、ひとりは琴を弾きながら、声を合わせて歌をうたっているではないか。

ああ子桑戸よ なれははや 生まれ故郷に帰りしに
われらなお 人の世をさすらう

「亡骸を前にして歌をうたうとは。死者に対する礼を何とお考えですか」
あきれた子貢は、もどるなり孔子に報告した。
「そうだったな。かれらは世俗の規範の外に生きている人間だった。だがわたしは、その枠内にいる人間だ。住む世界がまったく違っているにもかかわらず、弔問に行かせたりしたのは。なんともあさはかだった。
かれらは造物者の友となり、宇宙の根元に遊ぼうとする種類の人間だ。肉体を借物にすぎぬと達観し、生起しては消滅する無限の循環に身をゆだねる。こうしてかれらは、無心に俗世間の外を彷徨(ほうこう)し、無為自然の境地を逍遥するのだ。あくせくと世俗の礼を遵奉(じゅんぽう)して、世間の思惑に迎合しようなどと考えるわけがない。」
[出典:中国の思想「荘子」:徳間文庫]

これは老荘思想を奉ずる立場から儒家の人たちを見下ろしている寓話で、儒家というのはあくまでもこの世界この社会の中に生きていて、社会の規律を正そうとしている存在であるのに対して、我々道家はその枠外で天地一体となり社会の規範とやらに縛られないで生きていくのだ、と。そんな道家たちの世界観がよく現れている。

世間さまの道徳や常識にがんじがらめになってる人には、逍遥遊的-社会的な規範から自由になって、思いのままに気楽に生きるということができない。ガチガチの道徳レベルから意識を上げていくための最も重要なことが、坐忘。

顔回(がんかい)が孔子に告げた。
「わたしの修養も、だいぶ進んだように思います。わたしは、仁義を忘れることができました」
「なるほど、それは結構だが、まだ十分とはいえぬ」
他日、顔回はふたたび孔子に告げた。
「わたしは、いっそう進歩しました。
わたしは、礼楽(れいがく)を忘れることができました」
「よろしい。だが、まだ十分とはいえぬ」
他日、顔回は三たび孔子に告げた。
「わたしは、さらに進歩しました。わたしは、坐忘することができます。五体から力を抜き去り、いっさいの感覚をなくし、身も心もうつろになりきって、『道』のはたらきを受けいれることです」
「おまえはそこまで進んでしまったのか。わたしも、遅れをとらぬようにしたいものだ」
[出典:中国の思想「荘子」:徳間文庫]

顔回は、孔子の三弟子の一人。老荘思想では、仁義というものを忘れないと本当の仁義にならないと考えている。弟子が修行でそれを意識してる段階では、自分のものにならない、それを完全に忘れられるぐらい自分のものになったときに本物になるという。
顔回は孔子に、仁義を忘れることができた、礼楽を忘れることができたと報告する。顔回はさらに進歩して、坐忘(座禅)することができるという。それを聞いた孔子は坐忘まで至っていないことを告白する。

孔子を虚仮にしているようなこのエピソードは、儒家の意識レベルが道家より低いということを揶揄している箇所。
孔子という人物は道家から見たら、意識レベルは相当高いといえどやはり政治家の域を超えない。政治に極めて強い関心を持ち、支配者でありたい、統治でありたいという世俗的な欲が見え隠れする。そこを道家たちは見抜いた。儒家のいう徳は本物の徳ではないということを言い続けてきた。

盗人の道・五つの徳

あるとき、大盗賊盗跖(とうせき)に子分がたずねた。
「盗人にも道ってものはいりますか」
「あたりまえだ」と盗跖は答えた。
「人間、何をしようと道は必要なのだ。おれたちにとっては、獲物のありかを見抜く、これがだ。まっさきに侵入するのがで、しんがりを守って引きあげるのがだ。進退を誤らないように状況を正しく判断するのがで、獲物を公平に山分けする、これがつまりだ。この五つの徳を身につけないで、大盗人になれたためしはない」
このように聖人の道に依存するのは善人だけとは限らない。
盗跖のような大盗賊にしても、聖人の道によらねば大盗賊たり得ないのである。
してみれば、聖人は社会に貢献するよりも害毒を流すほうがはるかに多いといわねばならぬ。
したがって太平の世を実現しようと思えば、盗賊などは眼中におかず、まず聖人を根絶やしにすることだ。
[出典:中国の思想「荘子」:徳間文庫]

儒教の【仁・義・礼・智・信】五常を、文字として学問として頭の中にインプットしてそれを理想として生きようとすることが道徳であり社会的な規範という型にはめたものにしてしまえば、すべてが形骸化した儀式的なものになる。
それにキッチリ従うのが聖人だというのであれば、盗賊だって聖人ということになってしまう。
ベーコンは思い込み、既成概念、刷り込みとか、宗教、風俗、因習、慣習、世間の常識……いろんなシチュエーションでの偏見を4つのイドラとして分類したように、五常とか五徳といったものもイドラということになる。

「徳がないと大盗賊になれないぞ」と儒家を皮肉って言ってるのは、徳なんてものは儒家が勝手に作ったもので、盗賊がそいつをうまく拝借して詭弁として取り込んで大盗賊になっている、だからそんなことをいう聖人どもを、まず根絶やしにしなきゃいけないのだ。そうでないといい世の中にならないのだ、と。
では実際、道家は儒家をどう見ていたというと、そのまんま盗人として見ていた。

聖人が存在するかぎり、大盗賊はあとを絶たぬ。
それを防ごうと躍起になって、聖人の知を動員すればするほど、大盗賊は肥えふとるいっぽうだ。
帯止めを盗む者は極刑に処せられるが、国を盗む者は諸侯になれる。
国盗人どもはいずれも仁義を看板に押し立てて、諸侯の地位におさまっているではないか。
仁義・聖知を盗んだといわずに何といおう。
仁義を盗み、治国の法を盗む大盗賊の所行が、天下に公認されている時世に、恩賞や刑罰が何ほどの効果を持つであろう。
たかだかこそ泥を防止する程度の役に立つだけのことだ。
このように大盗賊をますます肥えふとらせ、悪を抑える術をなくしてしまったのは、ほかならぬ聖人の責任なのである。
[出典:中国の思想「荘子」:徳間文庫]

聖人の言葉はクソみたいなもの

斉(せい)の桓公(かんこう)が書斎で読書をしていると、庭先で仕事をしていた車大工の輪扁(りんへん)が手を休めてあがってきた。
「だんなさま、その本にはいったいどんなことが書いてあるのですか」
「これかね、聖人のおことばだよ」
「そのお方は今も生きておいでですか」
「いやいや、ずっと昔の人でもう生きてはいないよ」
「さようですか。すると、そこに書いてあることは、昔の人のクソみたいなものですね」桓公はきっと顔をあげた。
「クソ。大工ふぜいに何がわかる。申し開きができればよし、さもなくばただではすまんぞ」

「わたしはただ、長年の仕事の経験からそう思っただけです。たとえば、車の軸受けを削るとき、大きすぎてもいけませんし、小さすぎてもいけません。軸とぴたっと合わせる。これはよく呼吸をのみこんでいないとできない仕事です。そのコツはことばでは説明できませんが、けっして偶然に頼っているのではないのです。伜に何とかしてそのコツをのみこませようとするのですが、どうもうまくゆきません。そんなわけで、七十にもなったこの老いぼれが、軸受けだけはいまだに自分で刻んでいる始末です。
昔の偉いお方にしても、ほんとうのところはことばに表わせないままに死んだのではないでしょうか。してみれば、だんなさまのお読みになっている本も、昔の人のクソみたいなものにちがいありません」
[出典:倫理用語集:山川出版社]

学校で学んだことを一切忘れてしまった時に、なお残っているもの、それこそ教育だ。
[アルベルト・アインシュタイン]

 法隆寺専属の宮大工:西岡常一氏のエピソード

祖父の常吉から晩年、一人前となった父楢光と常一に西岡家に代々伝わる口伝を教えられた。これは一度しか口移しで教えることができない秘中の教えで、一つずつその意味となる要点を教え、十日後に質問して一語一句違わず意味を理解するまで次に進まなかった……その口伝に関する西岡常一氏の述懐。
「法隆寺の棟梁がずっと受け継いできたもんです。文字にして伝えるんではなく、口伝です。文字に書かしませんのや。百人の大工の中から、この人こそ棟梁になれる人、腕前といい、人柄といい、この人こそが棟梁の資格があるという人にだけ、口を持って伝えます。(丸暗記してしまうと)それではちっともわかってない。…そういうのはいかんちゅうので、本当にこの人こそという人にだけ、口を持って伝える。これが口伝や。…どんな難しいもんやろかと思っていましたが、あほみたいなもんや。何でもない当然のことやね」

 西岡常一氏の名言

「木を組むには人の心を組め。」
「個性を殺さず癖を生かす。人も木も、育て方、生かし方は同じだ。」
「学者は様式論です。…あんたら理屈言うてなはれ。仕事はわしや。…学者は学者同士喧嘩させとけ。こっちはこっちの思うようにする。」
「明治以来建築史学いうもんができたけれどね、それまでは史学みたいなもん、あらへん。大工がみな造ったんやね、飛鳥にしろ、白鳳にしろ、…結局は大工の造ったあとのものを、系統的に並べて学問としてるだけのことで、大工の弟子以下やというんです。」

「道」とは、どこにあるのか

東郭子(とうかくし)が荘子にたずねた。
「あなたのおっしゃる『道』とは、どこにあるのでしょうか」
「どこにでもあるよ。万物を万物たらしめる『道』は、万物に遍く内在し、万物との間に境界を持たない。もし境界を持つならば、それは他の物と区別される物のひとつとなって、『道』ではなくなるであろう。かといって『道』は、万物それ自体ではない。『道』と万物の境界は、いわば境界のない境界なのだ。万物の生滅をつかさどりながらみずからは消滅を超越した存在、それが『道』なのだよ」
[出典:中国の思想「荘子」:徳間文庫]

「いわば境界のない境界なのだ」……矛盾した論理的に意味不明な言葉だが、『道』を意識、場(フィールド)と例えれば幾分わかりやすくなる。顕在意識、潜在意識という身体と一体のものではない意識。

作為と真の順応

荘子が危篤に陥った。
臨終の床に集まった弟子たちは、立派な葬儀を出したいと願ったが、荘子はこれを拒んだ。
「天地はわたしの棺桶で、日月星辰(じつげつせいしん)は宝器、万物は会葬者なのだ。このうえ何をつけ加える必要があろう。このまま打ち捨ててもらいたい」
「それでは、先生のお身体が、鳥に食われてしまいます」
「地下深く埋葬したとて、いずれは虫の餌となるのだ。ことさらいっぽうから取り上げておいて他方にあたえるのは、不公平というものではないか。だからといって、公平であろうとして作為をはたらかせても、真の公平は得られないし、自然に順応しようとして作為をはたらかせても、真の順応は得られない。
が、聖知の所有者はただ無心に事物に順応するだけだ。だが、この道理を知らぬ人びとは、自己の判断に固執して作為を弄し、いつまでも束縛から解放されることがない。何とも哀れではないか」
[出典:中国の思想「荘子」:徳間文庫]

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