マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger/1889~1976)
ドイツの哲学者。フライブルク大学ではじめ神学を学び、のち哲学に転じた。
フランツ・ブレンターノや現象学のフッサールの他、ライプニッツ、カント、そしてヘーゲルなどのドイツ観念論やキェルケゴールやニーチェらの実存主義に強い影響を受け、アリストテレスやヘラクレイトスなどの古代ギリシア哲学の解釈などを通じて独自の存在論哲学を展開した。
1927年に主著『存在と時間』を発表して注目を浴びる。
ヘルダーリンやトラークルの詩についての研究でも知られる。20世紀大陸哲学の潮流における最も重要な哲学者の一人とされる。
現存在・世界-内-存在
現存在(Dasein/ダーザイン)
人間は、世界の内部のさまざまな存在者(事物)の一つにとどまらず、存在することの意味を了解し、常に存在に関心をいだいている。そのような「存在とは何か」という存在の問いを常にいだき、存在へとかかわる人間の際立ったあり方を、ハイデッガーは単に存在するだけの事物と区別して、現存在と呼ぶ。世界-内-存在
無世界的に孤立している事物に対して、現存在としての人間は常に世界の中でさまざまな道具存在としての事物(道具的存在者)を配慮し、それらと交渉しながら存在している。「世界−内−存在」は、部屋の中に机があるというような空間的な事物の関係ではなく、人間が根本的に世界へと開かれ、さまざまな事物とかかわりながら存在しているという、人間の実存の構造である。
[出典:倫理用語集 第2版/山川出版社]
ハイデッガー流文章の特徴~わかりみがなさすぎてぴえん
探求することとしては問うことは、探求されているもののほうから先行的に導かれる必要がある。だから、存在の意味はすでにある種のしかたにおいてわれわれの意のままになるものでなければならない。
われわれは常にすでになんらかの存在了解内容のうちで動いているということは、先に暗示されていた。その存在了解内容のうちから、存在の意味を表立って尋ねる問いと、存在の概念に達しようとする傾向とが生ずる。存在とはなんのことであるのかを、われわれは知ってはいないのである。
しかし、『「存在」とはなんであるのか』とわれわれが問うときにはすでに、われわれは、この『ある』についてなんらかの了解内容をもっているのだが、この『ある』が何を意味しているのかをわれわれが概念的に確定しているわけではあるまい。
[存在と時間:序論-第1章-第2節]
(志ん生風)ええ~、こういうのを言語明瞭意味不明の文章といいまして、昔の若者なら「わけわかめ」、今どきの若者なら「イミフ」とか言われてスルーされそうな文章ですが、しどいのになるってえと、てめえの読解力がなさ過ぎて理解できないことを棚にあげて「あたおか」なァんていうやつも出てくる。これじァハイデッガーさんも気の毒ですな。ぴえん。
*
現代っ子たちは、いいたいことを短くまとめるのが得意なようですが、ハイデッガーさんにはどうやらその発想はなかった!ようで。(ハイデッガーの文章が難解な理由は後述)
ちな、このわかりみ真逆な文章を頭ピーマンパリピな人にもわかりやすく要約してツイッター投稿したらこうなりました。
俺ら、あるとかないとか?存在的な?意味なんてマジ卍わかってねえし。てか、なしよりのあり.ありよりのあり.なしよりのなし.ありよりのなし.とか言ってる時点でなんとなく知ってんじゃね?
[ハイデッガー:存在と時間~序論-第1章-第2節] 意訳— 青樹謙慈(アオキケンヂ) (@aokikendi) June 5, 2021
「ひと」(ダス・マン/Das Man)
世間の日常生活に埋没して、だれでもと同じようにふるまいながら、実はだれでもないような匿名の非本来的な人間のあり方。ダス=マンとは、ドイツ語で「ひと」を意味し、ハイデッガーの用語では、自分自身の固有の存在を見失って、不特定の「ひと」にまぎれ込んだ匿名の人間のあり方をさす。「世人」でも「世間人」「誰でもない人」とも訳される。「ひと」
誰もが他者であり、誰一人としておのれ自身ではない。「ひと」でもって、日常的な現存在(人間の存在)は誰であるのかという問いが解答されたのだが、そうした「ひと」は、誰でもない者であり、この誰でもない者に、すべての現存在は、たがいに混入しあって存在しているときには、その都度すでにおのれを引き渡してしまっているのである。
[存在と時間]
ハイデッガーの言う「ひと」とは、世間体に気をつかい、いわゆる常識人のようでありながら、その実、だれでもないような匿名の非本来的な人間のあり方のことです。
『世間様/セケンサマ』の・ようなもの。
真実に向き合わず目を背ける「ひと」
人間にとって、死はいつやってくるかわからず、誰も死をまぬがれることはできない。しかし「ひと」はその不安から逃れるため、それから目をそらし、それをまだ先のこととして、目先の出来事や気晴らしに心を奪われている。
「ひと」としての人間は、日常性の中で、世間話や好奇心にかられた気晴らしや、あいまいさの中に紛れて非本来的な状態となっている。しかし存在の根底から現存在を襲う不安によって、こうした日常的世界は意味を失い、「ひと」は世界を世界として根源的にはっきりと認識し、無に直面する。
[出典:よくわかる倫理 (MY BEST) /学研教育出版]
「ひと」は、死に対する不安から逃れるために、享楽にうつつを抜かし、死と向き合うことを避け目をそむけている状態にあります。
ここで言う『無』とは、真理的な意味で用いられており、『孤独』と言い換えた方がわかりやすいと思います。心が外に関心が向いているうちは孤独ではありませんが、外に対する関心を失ったとき、たとえ人と一緒にいても孤独に陥ります。
心が内面に向かい、ひとはいつか死ぬという現実を直視、認識したとき無を悟ることになります。それがいやだから、そこから逃げようとするからこそ、気晴らしの娯楽に走ったり、あるいは酒に溺れたりするわけです。
このようなセケンサマから、離脱している人のことをキルケゴールは単独者といいました。
『真理を発見する原動力は情熱であり、実存する全ての問題は情熱的なものである』ということを重視し、この情熱を備えた上で、たった一人の者、たった一人で生きることに自信を持つ者、たった一人で生きることで満ち足りる『哲学の主人公』と呼ぶべき人物の事を単独者としたのです。
孤独を恐れて仲間とワイワイ!!群れて安心パリピ人。孤独が超絶苦痛。
一方、魂レベルで生きている人は、セケンサマとは関係なく自分の内側からの衝動、本心からの選択判断行動なので、不安を紛らわせるための娯楽などまったく必要としないのです。
死への存在
死の可能性を自覚することによって、誰とも交代できない、一回限りの、全体的な自己の存在にめざめる人間の本来的なあり方である。
死はあらゆる瞬間に可能であり、誰とも代わることができないもっとも固有な可能性だから、死の可能性と向き合うことによってはじめて、人間はもっとも固有な自己の存在にめざめることができる。
「死への存在」は、いつかは確実にやってくる死の事実を直視しながら、自己の真の実存を確立することである。
[出典:倫理用語集 第2版/山川出版社]
自分は死なないと思っていて、肉親や知人の死に接してもなお、自分以外の生命体はいつか死ぬとわかっていても、自分だけは死なないと思ってるような人が存在します。
ハイデッガーのような人は、死をいつも身近に、明日死ぬかもしれない、もしかしたら今日死ぬかもしれない。いつ死んでもいい存在として、毎日を真剣に生きています。
ハイデッガーの詩的世界観
ハイデッガーは、私たちにとっての"物"、机とか本とか花とかのことを、『存在者』と表現しています。そして、『ひと』に対立した存在が『現存在』というものです。
『ひと』は、世間に塗れながら生活し『現存在』とは何なんだ!?と問うとき、その存在を感じ取らせる何か……それが『存在者』です。ハイデッガーにとって単なるモノではないのです。
ハイデッガーが難解なのは、彼の表現が詩的だからです。哲学というより、詩として受け止めたほうが理解がぐんと進みます。
それらがよくわかる、ヘルダーリン(Johann Christian Friedrich Hölderlin)の詩を紹介します。
パンと葡萄酒
町は静かにやすらっている。ひっそりと街路に灯はともり松明をかざして馬車はときに音立てて過ぎる。
昼の喜びに満ち足りて人々は家路につき、抜かりのない商人はわが屋にくつろいでその日の損益を思いはかる。忙しかった広場にはいまは葡萄も花も手芸の品々もない。
だが、遠くの園からは絃のひびきがきこえてくる。おそらくは恋するもののすさびであろうか。それとも孤独な者が遠い友らを、また若い日を、偲んでいるのだろうか。噴泉は絶えまなくほとばしって、匂やかな花壇を濡らしている。
静かに暮れすすむ空にはいま打ち鳴らす錘がひびき、夜警は時の数を告げて過ぎていく。ふと風が起って林苑の梢をうごかす。
見よ、われらの大地の影像、月もいまひそやかに立ち昇る。思念に酔う夜が満天の星をちりばめてやってきたのだ。
われらのいとなみにはかかわりなく、この驚嘆すべきものは、人間の世に異郷の客としてかがやき出る、山々の背から、悲愁をおびて壮麗に。
冒頭部分がヘルダーリンが見た『ひと』の世界です。
この世の営みが、臨場感を伴って情緒豊かに表現されています。
後半、世人の営みシーンから一転します。存在がリアリティをもって迫ってきます。
”思念に酔うこの驚嘆すべき夜” が ”人間の世に異郷の客としてかがやき出る”
⇒まさに、詩人が現存在として、存在を感受している瞬間です。
すなわち、存在と人との間、パスカルのいう中間者としてそこにいるわけです。
ヘルダーリンは天上の世界でもない世俗の世界でもない、その中間者として留まり存在を見つめているという、そんな壮大な詩です。
存在忘却
ハイデッガーの用語で、日常の雑談や好奇心や曖昧さに埋没して、自己の固有の存在を忘れていることをさす。後期のハイデッガーにおいては、人間が存在するもの(存在者)を対象として制御し、支配することに心を奪われて、それらが存在することの真理(あらわれ)を忘れていることをさす。ハイデッガーは、それを故郷の喪失と呼び、人間は存在が明らかになる真理の場に立ち、それを見守る「存在の牧人*3」、存在について語る詩人としての使命をになっていると説いた。
*3 人間の役割は、ひたすら謙虚に「存在」が語りかける声に耳をかたむけ、存在のあらわれ(真理)を見守ることである。ハイデッガーはこうした人間のあり方を「存在の牧人」とよんだ。
[出典:倫理用語集 第2版/山川出版社]
人間の役割は、「存在」が語りかける声にひたすら謙虚になって耳をかたむけ、存在のあらわれを見守ること。私達の身近にいる「存在の牧人」は、たとえば、自然農法をやっているような農家さんではないでしょうか。
存在忘却とは、人間がモノを制御して支配することばかりに心を奪われている!という警告です。リルケの詩がそれを見事に表しています。
私は懼れる、人々の言葉を
人々の言葉を 私はいたく懼れる。
人々はすべてのことを あんなにはっきりと言い放つ——
「このものの名は犬と呼ばれ、あのものは家と呼ばれる、
そして始めは此処にあり、終はりはあそこに在る」と。彼らの心根、嘲りを以てする彼らの遣り方も私を不安にさせる。
彼らは何でも知ってゐる——成りつつあるものをも、
嘗て在ったものをも。
どんな山も、もう彼らには驚畏の思ひを湧かさない。
彼らの庭と地所とが、いきなり神に接してゐるといふふうだ。私はいつでも警告したい、制止したい——
「遠くに離れてゐたまへ」と。
いろいろの物が歌ふのを聴いてゐるのが私は好きだ。
君たちは物へさはる。だから物が凍結して押し黙るのだ。
君たちはすべての物をだいなしにしてしまふ。
いきなり神に接してゐる……まるで神からこの大自然や宇宙の管理人としての役割を与えられたかのようにふんぞり反っていると。それぐらい傲慢になっていると。
おまえらたいがいにしろよ!と。とっとどどっかに失せろ!と、リルケは叫んでいるのです。