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【無能唱元・伝法講義録 001】目的は手段である

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人生の目的

S子さんはとても小柄で、ほっそりとした優しい感じの女性ですが、彼女の当面の目的は、あおむけに寝た自分の腹の上を、自動車に轢かせるということなのです。

呼吸術できたえると、2t車が腹の上を通過しても、全然平気なのだそうです。この驚くべき、そして一見奇異とも思える行動を、なぜS子さんは人生の目的の一つとして選んだのでしょうか?

S子さんは幼少より虚弱でした。風邪や病気になりやすく、とても苦労したようてす。それがこの仙術を学び、呼吸法の訓練をするようになってから、見る見る身体が丈夫になってきたのです。そして、工ネルギッシュになり、バリバリと働けるようになりました。ここでS子さんは大いに意欲的になりました。

よし、自分も肉体の限界に挑戦してやろう、と思ったのです。この呼吸術をマスターすると、筋肉は強力になり、例えば刃物で突かれても刺さらなくなり、自動車で腹の上轢かれても平気だといいます。そこで、「よし、これに挑戦してみよう!」と思い立ったのです。そして今、彼女は日夜、呼吸術の錬磨にいそしんでおります。

このS子さんほど変った目的でなくても、世間の多くの人々は、それぞれの願いや目的を持つております。

有名な心理学者アドラーは、人生の目的あるいは生きがいというものを、「その人のハンデキャップを充足しようという意欲から始まる」という意味の言葉を述べています。

これは、アドラー自身が幼少の頃、せむし気味の容姿であったことから、周囲から受けた屈辱感を克服しようとして、高名な学者になろうと努力したことで説明していますが、確かに人の一生を客観的に眺めると、他人より自分に劣っている部分があると、それを克服しようとしその部分をうめようという行動が、すなわち、その人の人生の目標となるようです。

この意味で、昔は立身出世主義が立派な行為でしたし、貧乏な家に生まれた子が、家を興し、財を築き、もって両親を安ずるということが、いわゆる「家貧にして、孝子出ず」という言葉になったのでしょう。

これも、自己重要感を高めようという無意識的な意欲の現れであることは間違いありません。その人にとって、強い欠乏感となるものから、その人にとっての目的が生まれます。その目的は、ほとんどの場合、次の四つの分類のどれかに入ります。

①健康
②愛情
③富
④成功

これらの範疇に含まれる、それぞれの目標に人々はマトを定めて、努力を重ねている時、その人の身心は張り切って、生き生きと働いているのです。たとえ、その目標が、どのように奇異に思われるものであれ、また、通俗きわまると思われるものであれ、です。

マトに向って弓をひきしぼるという行為は、充足感を我々に与えます。その反面、挑戦的努力のない日々は、ともすれば、流れが停滞した水のようによどみ、にごり、腐りがちとなります。

目的は手段である

しかし、人生、目的さえ持てばそれでよろしいかというと、必ずしもそうとはいえないのです。というのは、目的に向って遜進している人々も、次の二者に分けられるからです。

その二者とは、日常の心情が「陽の内にある人」と「陰の内にある人」の二者であります。解りやすくするため、次のような例をあげてお話ししてみましょう。

今、ここに若いサラリーマン二人がいて、かりに、AとBとします。
二人とも、百万円のお金を貯めようとしていて、毎月のサラリーから、倹約を重ねて、二、三万づつ貯金をしているのです。

ところが、毎月一定の金額を残そうとしても、なかなか思うようには行かないものです。冠婚葬祭でお金を包まなければならないなどの、思わぬ出資というものもあるものです。それで、ある月は、一万円しか貯金できなかったとします。

二人の青年は、貯金通帳の残高欄を眺めます。そして、A青年は「チェッ!今月は一万円しかたまらなかった。まだまだ百万円までは遠い」と思います。

ところが、B青年は「いろいろ出資がかさんだが、ともかく、一万円はたまった。これで目標の百万円ヘ一歩近づいた」と思うのです。同じ一万円たまったという現象に対して、二者の心情のあり方には天地の聞きがあることによく注意してください。

A青年のそれは、焦りと怒りがともなった、すなわち、陰なる情念であり、一方、青年のそれは、喜びと充実感のともなった、すなわち、陽なる情念であります。

確かに、目標を達成するには、いわゆる「ハングリー精神」というものは必要なのですが、しかしまた、そのハングリー感に、自己の心情がスポイル(台無しに)されてしまってもいけないのです。

A青年は、一日を不足感にさいなまれ、焦りと怒りの内に、その日一日が暮れるのです。すると、その日一日はA青年にとっては「不幸な一日」となるのです。そして、その翌日もそうであれば、それは不幸な二日間になり、そして、一カ月続けば「不幸な一カ月」となり、一年続けば「不幸な一年」となり、こうなると、たとえ百万円の目標を達しても、それまでの日々はすべて不幸の連続となるのです。

それだけではありません。たとえ、百万円の目標に達しても、A青年の目的はそこで終りということにはならず、更にあらたに、五百万を目指すでしょう。こうして、A青年にとっては、また新しい陰の心情の日々への旅立ちが始まるのです。

一方、B青年の方はどうでしょうか?B青年はA青年と同じケースにありながら「今月は、ともかく一万円たまった。これでまた百万円の目標に一歩近づくことが出来た」と思い、喜ぶのです。

A-B二者の違いは、Aが「一万円しかたまらなかった」と考えるのに対し、Bは二万円がたまった」と考えた一点にあります。つまり、Aは否定的であり、Bは肯定的なのです。

いいかえれば、Aは陰の心情の内にあり、Bは陽の心情の内にあるということになります。
当円成会の根本教義の一つであるアラヤ識論は「陰の因より陰の果は生じ、陽の因より陽の果は生ずる」とし、これを因果の理としております。

A青年の場合、陰の心情にありながら、陽の果である百万円を手に入れるので、これは一寸矛盾したように思えますが、これはそうではないのです。

一つの執念というエネルギーを燃やし続けることによって、成程、目標の百万円は達成できるかも知れません。しかし、連日の陰の心情によるアラヤへの影響は、他の面における陰の果となって現われずにはいないのです。

それは、あるいは人的関係の不利かも知れず、病気かも知れず、災難あるいは身内の不幸かも知れません。いずれにしても、A青年は、陰の因縁を、陰の結果として受け取らずにはおられないのであります。

一方、B青年は「現在にまず満足感謝」して、自分の心情を陽に整え、ついで、未来の目標に対して、明るい意欲を燃え立たせております。陽の因縁によって、陽の縁は起こり、陽の果、すなわち「健康、愛情、富、成功」はB青年の未来において結実するのです。

ここにおいて考えつくことが一つあります。それは、百万円という「目的は手段」でもある、という点です。

[出典:唯心円成会伝法講義]

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