無能唱元

【無能唱元・伝法講義録 003】無目的という目的

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目標が見当たらないとき

ある人々は言います。
「人生における目標設定が大切なことはよく解る。しかし、自分には、自分が何をやりたいのか、さっぱり解らないのだ」と……。

これは、現代には特に多い徴候だといえます。泰平の世が続くと、怠惰の風潮が生じます。かつて江戸時代の元禄の頃がそうでしたが、現代が昭和元禄と呼ばれて久しいことは皆さんご承知のことでしょう。

「ほどほどの幸せ。あまり高望みはしない。分に応じた生活でよい」と、こういう言葉もよく聞かれます。これは、この人の心から出た、つまり現在の自分の身の上に対する感謝の念から出たものであるならば、それは問題ありません。いや、それは問題ないどころか、それは立派な自己コントロールでさえあります。

しかし、これらの人の多くの場合、口でそう言いながらも、何かいらいらしているのです。このイライラは、一体どこから起こるのでしょうか?

それは「自分には何かやるべきことがあるのではないか?」という疑念からなのです。

「何かやるべきことがあるのではないか?」無為に過ぎる一日は、充実した一日とはいいがたく、流れが止まり、よどんだ水のように、その人の気分をくさらせます。

「アンニュイ」とそれは呼ばれます。どうしょうもない倦怠感に満ちた空虚な気持ちです。このように、やるべきこと、願うべき目的を発見でき得ないでいる人々は、どうしたらよいのでしょうか?

実は、このような人々は、何も現代に始まったことではなく、昔から、ある人々を悩ましてきた命題でもあったのです。そして、このアンニュイの気分は、人々から生きる気力を奪い、時にはその人を廃人にしてしまうことすらあるのです。

これに対して、禅の師家(しけ)は、「人間本来無目的!」と喝破しております。これは一体どういうことなのでしょうか?

くり返し、私は人生における目標設定の大切さを説いて参りました。そして、その目的に向って、陽の心情の内において精進するところこそ、人間の生きがいというものがあり、またそれこそが現在における幸福感というものであるとも述べてきました。

しかるに、ここで、禅のいう「人間には本来目的などというものはない」という言葉も私は容認するのです。

では、この意味について、私の意見を述べる前に、少し、禅家のいう無目的の引例を次にあげてみましょう。

これは、生涯を無名利の内に生きたといわれる澤木興道師の講演から引用したものです。

昔、中国に或る和尚が山に住ひして居った。そこへ勅使が立った。その和尚山住ひをして、なんやら松茸小屋みたいなところに、ごもくを寄せて、そこで火を焚いて、芋を焼いて食って居った。
さうして、芋を焼いて食って居るところへ、お勅使が立ったところが、一向どうも取り合はん。ベったり青ハナを垂らして居る。
『和尚、ハナをかんだらどうか』『この忙しいのにハナをかむどころか』と言って芋を食って居った。
それから、そのことを天子様に申上げると、益々御帰依なされて、あの和尚芋が好きだからと言ふので、遠くそのぐるりに一杯、天然に生えたやうに芋を植ゑて、その和尚が芋に不自由せんやうにして、鹿の天然飼のやうな理屈に、和尚を天然飼にして、遠巻きに保護をなされたと言う話がある。これは近頃綺麗な話である。

このエピソードの中にある「この忙(せわ)しいのに」という言葉に、みなさん注視していただきたいのです。山の中で、何もすることなく、焚火して芋を焼いて食っている。それなのに、ハナをかむ暇もないといっている、これはどういう意味なのでしょうか?

では、もう少し、この沢木師自身の思い出話について聞いてみましょう。

わしが一番初めに伊勢の松坂の養泉寺に単頭(雲水の指導役)に招待されて行ったとき、三十四五になって居ったが、その時分に大概それ位の歳になって居れば、もう一人前の学者である。専門学校の教師として雇ひ手のある時である。それが幾ら貰うたと思う。-月給が。月給とは言はんけれども、大枚二円五十銭ぢや。それで日に四遍講義をする。朝は二時から起きて坐禅する。雲水は、『単頭さんにはかなはん。大体自分が坐禅や講義が好きなんだから、これには参った』と言う。好きだと言って感心もなんもせんで恨む。

自分達は朝寝と、遊ぶことと、うまいものを食ふことと、寝ることが好きなんだ。朝寝、昼寝、買食、時には生臭もの、そんなせのが好きなのぢや。
ところが、「単頭さんは、座禅や講義が好きぢゃからかなわん』と言ふ。成程、好きと言はれてもしゃうがない。朝二時から命がけで働くんだから、それをまあ好きと言はれても、しゃうがないナ。雲水から見た眼でさうだ。堂頭和尚いわく『君は精力家だね』と。今でもその顔を覚えて川る。それは.さう言ふのも道理で、堂頭さんは朝寝ばかりして居る。だがわしは自分の勉強もする講義は四遍する。坐禅もする。それはもう実に……

それで二円五十銭ぢゃ。そんなら、配当が多いか、配当ってありやせん。配当なしで二円五十銭チョン、それで終ひ。それからまあ暫らくはルンペンのやう、空き寺借りて、三年ばかり門を閉めて入って居った。

時々講演に行くけれども、その行く先はどこぢやと言うたら、第五高等学校、一文もお礼がない。お礼がないばかりではない。会費を出す。「和尚、印刷代だけはそっちで持ってくれるか」「よしよし」それでようシンシヨが持つなと思ふぢやらうが、それは恩給年金を貰うて居るからそれでつぎ足して居る。わしは日露戦争の傷痕軍人ぢや。それで、キツチリ一杯。恩給年金がなかったら、わしの生活は向ふ向いて行かん訳ぢや、そんならウマイものを食ったかと言へば、雲水と一絡に三国飯、粟のどっさり混った、麦のどっさり混じった……。それで生活して、月五円。

芸者が、一晩ピンピンやって、五六円になる時分ぢや。そこでわしは悟った。これは人間の値打は、銭の取り高の多い少ないによってきまるものぢゃないと。さうすれば、結局どうするのが本当なのか。自己に親しむ。自己の生活をする。自分に成り切る。これより外にはないのぢや。坊主は坊主に成り切る。わしは坐禅を勧めるのが務なのだから、坐禅を勧めることに一生誕を捧げる。

それこそ坐禅一方。正法を説いて坐禅をする。人にも勧める。それより外になんにも用事はないわけぢや。それは命がけぢや。誰がなんと言うても、それより外に用事はない。金みたいなものは要らん。金みたいなものを貰うてもしゃうがない。また持ったってしゃうがない。邪魔になる。
[出典:「禅談選集」沢木興道著/大法輪閣刊]

この話の中で感じられるのは、実に生き生きとした沢木師の生活ぶりです。

沢木師は、お金を求めない、名声も求めない。ただ坐禅して、講義をしているだけ。そして、それだけで充実している。すると皆さんは、それは、坐禅や講義という「やる目的」があるではないか、といわれるかも知れません。では、前記の山の中のハナをたらし、芋を食っていた和尚、これは一体どういうことなのでしょうか?

実は、禅家でいう「無目的」には、その字義通りの「何の目的もない」と意味に捕われてしまってはいけないのです。よく気をつけてみれば、彼らには目的があることが判る筈です。では、その目的とは?それは「無目的に徹する」という大目的なのです。

つまり、世間の名利一切を振り捨てる、ということに徹する。そして振り捨てるだけではいけないのです。捨ててなお一層「自己に充実感をもたらす」という意識行動を起こすのです。これを換言するならば、彼らは、生きること、すなわち「人生そのものの達人」になろうとしているのであり、それが彼らの大目的なのです。

これは当会の根本教義であり、くり返し主張することでもありますが、「幸福とは意識が陽の内にあることによって生ずるのだ」という点について、もう一度みなさんの注意を喚起したく思うのです。

つまり、人生の目的は究極的に「幸福の追求」であるならば、世間におけるさまざまな目的は、日常の心情を陽の内に置くための手段に過ぎないともいえるのです。

この意味では、お金をためることも、名声をあげることも、立身出世することも、それらの目的はすべて「自己意識を陽中に置くための補助手段にしか過ぎない」のです。

ですから、このような補助手段を用いなくても、禅僧は自己の人生の意識そのものを、じかに陽中に置いてしまうテクニックを身につけている、ともいえるのです。

生は陽であり、死は陰です。生きるということは陽中にあり、しかも、生き生きと生きるということは、より陽を力強く輝かすことに他なりません。

幸福は陽であり、不幸は陰です。これはつまり、自己の心情が陽中にある限りにおいて幸福であるといえます。では、このように、自己をして陽中の真只中に置かんとすれば、どのようにすれば良いのでしょうか?

その答えは「より一層賞でること」なのです。何を賞でるかというと、花を賞でるのです。物を賞でるのです。そして、自分の人生そのものを賞でるのであります。

このように心がける時、みなさんは、自己の人生そのものを幸福化するという一大目的を有したことになり、たとえば世間的な目的が見つからないなどといって憂うつになる必要は全くなくなるのであります。

結論としていうならば、みなさんは「人生の達人」という一大目標をすでに設定していることになるのです。

[出典:唯心円成会伝法講義]

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