無能唱元

【無能唱元・伝法講義録 005】観自在とは

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第三の変容

今回の講義のテーマは、「人間の変容の可能性とその限界」についてです。

自己啓発とか、自己性格改造とかいう言葉が喧しくいわれるようになって久しいのですが、世の人々は、それらの書を読む前は、性格改造などは無理であると考えており、そして、それらの本を読んだのちは、まるで百パーセント、人間の性格は変化させ得るような幻想によく陥るものです。

しかし、当然、ここにもそこには大きな可能性と同時に、いわゆる「肉体的限界性」のようなものが存在せざるを得ないのです。

各個人の性格形成を包括的に見れば、
①遺伝的なもの
②教育的なもの
③生活的なもの
の三つによって、その全性格が作られているように思えます。

①は先祖および親によってもたらされ、②は親および学校によってつちかわれたものです。これに対して、③は主として「職業の選択」によって生ずるものです。この意味では、人間は職業的環境によって、ある程度はその奴隷とならざるを得ないのです。

例えば、ある程度、自分の人間的感情や、道徳的感情を裏切ることがあっても、これは仕事なのだから、とそれを割り切って行なわなければならない場合もあり、それをくり返して行くうちにそれに慣れ、やがてその心的態度はその人の性格の一部となってしまうのです。

こうして、理性による職業的な冷たさというものは、その人の人生に大きな影響を与えるようになります。
これがすなわち、「第三の変容」なのです。

勿論、これには職業の種類によるその程度の強い弱いはあります。同じ銀行内で働いていても、預金係は人当りが柔かく、貸付け係は時には冷やかな態度が要求されるものです。警官や税務所員、が、温情主義ばかりであれば社会の組織は成り立ちません。

このようにして、人間は職業的変形の洗礼を受けざるを得ず、また、人生において、良きにつけ悪しきにつけ、その影響を受けざるを得ないのです。

S子さんは事務員で、主として簿記係りをやっております。十年以上のキャリアを持つ、有能な事務員なのですが、三年ほど前に強度のノイローゼにかかったことがあります。

このS子さんが、最近、頭がボーツとして、どうも集中力がつかないといって、私に相談にこられました。S子さんに接し、話をかわしているうちに、私は、彼女が日常生活の中において、十円のお金のやりとりもきちんとしておかなければならないという信条を持っていることが解りました。

更に深く話を聞いているうちに、お母さんはきちんとした厳しい性格の人であり、一方、お父さんは並はずれたのん気な性格で、ルーズな一面があり、S子さんは「私は、そういう父の性格が嫌いなのです」といったのです。

この意味で、S子さんはお母さんに同情しておりました。あのようなお父さんのおかげで、一生お母さんは苦労したのだ、と思っていたのです。

一方、S子さんは、自分自身の性格の中にも、お父さんからの性質がある程度受けつがれていることに気がついておりました。つまり、自分にもルーズな一面があるということを知っていたのです。「私はお父さんのようになりたくない」と思った時、S子さんの心の中では葛藤が始ったのです。彼女は、お母さんのように、きちんとした人であろうとしました。

S子さんの仕事、簿記というものは、最もきちんとした正確さが要求される仕事です。それは「コンピューターのような正確さ」を示しております。これは大げさにいえば、人間自身がコンビュターになることを意味しているのです。

しかし、仕事外において、人間はこのマシーン化から逃がれ出なければなりません。つまり、そこには感情が加わり、場合によっては多少ルーズにさえならなければならないのです。

この方法によって、昼の緊張は夜の弛緩にとってかわるのです。ところがS子さんは、仕事外の人間関係においても、その正確さ(彼女自身が正義としている)を持ち込んだのです。

彼女はお金についても、時間についても、約束についても「きちん」として十円のお金も、一分の時間もおろそかにしないようにつとめました。そして、それは彼女の美徳として、周囲の人々に賞賛されたのです。それで、S子さんの「きちんとすることに対する正義の念」は、ますます強固になって行きました。

こうして緊張は、常にS子さんの心身の内に残留しました。この残留緊張は絶えず蓄積されて行き、遂に彼女の神経を破綻させることになったのです。それが三年ほど前のノイローゼでした。

幸い、この場合は治療法が良かったので、短期間で回復したのですが、こんどは、簿記をしている最中でも、ボーツとして、頭がはっきりしないという状態が起きてきたのです。また、不眠に悩むようになり、熟睡したという感じがない、というのです。

そこで私は、S子さんに催眠をかけ、日常生活の中では、多少ルーズになっても、お父さんのような際限なしのだらしなさになってしまうことはあり得ないのだ、という暗示をくり返し与えました。

そして、緊張は自動的に排除され、心身は今まで感じたことがないほど、リラックスし、非常にすがすがしい気持ちになるという暗示を与えました。

結果はなかなか良好で、夜、ぐっすりと眠れるようになり、友人関係でも、どこか角がとれてきたようです。

反射行動は必要

よくいわれることですが、温泉などの宴会で、まるで下品な行為に及ぶのが、教師や医師だというのです。芸者たちに対して失礼なことをしたり、乱暴したりで、これで日常、どんな仕事ぶりをしているのか疑いたくなるとのことです。

しかし、これは生理的な反動なのです。現代ではその概念は薄れてきましたが、先生、医者、坊さんは聖職者と昔は呼ばれたもので、今でも、これらの人々は、日常の自分の姿を普通人よりも取りつくろわなければならない場合がずっと多いのです。

そして、それによって生じた緊張感は残留し蓄積されております。神経はその重圧に耐えていて、それが宴会などの場でリラックスすると、日頃の上品な態度に対して反動的に下品になってしまい、そして、その残留緊張は一気に排泄されるのです。

無論、これらの乱行は社会的に見て、決して誉められるべきものではないのですが、それにしても、精神的重圧から逃れる一手段であることも確かなのです。

ヨガの修業者は一般的にいって、日常人間が使用している身体の各部分を、その反対側に動かすような運動によって成り立っているようにも思えます。

例えば、背を反らせたり、逆立ちしたり、また、うしろ向きに歩いたりもします。これも人間の固定的変形化、すなわち肉体の片寄りを防ぎ、バランスをそこにもたらす方法であるといえましょう。

一週間を激しく働いたエリート・マンが週末を海や山で過ごすことは、時には仕事よりももっとハードな肉体酷使になり、肉体的疲労を覚えるかもしれませんが、しかし、このようなレクリエーションは、意識の転換となり、着実に彼の精神的緊張は癒されるのです。

結論的にいえば、次のようになります。
「私たちは、時には、自分の緊張している意識を主としてその反対的な意識に振りかえることによって、精神的安定を計った方が良い」
しかし、これは非常にしばしば良い、ということであって、必ず、そうしなければならぬという意味ではありません。

例えば、落語家で、仕事以外の時は、むっつりとして笑ったこともないような人もいますが、日常生活からして、落語を地で行くような滑稽な落語家もおります。要は、自分を内観して、どうも残留緊張がわざわいしているようだと気がついた時は、意識を反対側にし、行動も反対的にしてみることです。

これは、時には素晴しい効果をあげ、いきいきとした充実感を得られるものです。

それは全変容ではない

しかし、ここで生じやすい一つの誤解を、私たちは避けるよう注意しなければなりません。それは、この意識の反対化は、その人の性格を平均化するものではないということです。人間はすべて千差万別であり、各人各様の体型と精神的個性を持っております。

仮りに、ここに、平均的タイプという人間が設定され、より望ましい社会的人間像というイメージ、あるいはパターンが作られようと、私たちは、自己コントロールをもって、そのような人間に自分を近づける必要はないのです。

例えば、ここに痩せて神経質タイプの人と、肥ってのん気なタイプの人がいるとしたら、両者が、自分のすべてを欠点と見て、それをその反対側へ向けて矯正することはかえって弊害を招きます。

痩せて神経質であったら、それを無理になおそうとすると、そこに緊張を招き、また、肥つてのん気な人が、もっと、シャキッとした人間に変身したいと思うと、さまざまな異和感がそこに発生することになります。

現在の自分のすべてを変貌させようと思うこと自体に無理があります。
意識の反対方向への転換とは、要するにインスタントな、緊張排除の手段にしか過ぎないものだ、と考えておいた方が無難でしょう。

勿論、この方法によって、その人の欠点と考えられる性格の一部分を矯正することは可能ではあります。しかし、それにしてもそれは、あくまで部分的矯正であり、全人格の改変ではないことを明記すべきでしょう。

あえて申せば、私たち人間は、平均的タイプ像に対しては殆んどが「奇形」なのです。そして、それがまた自然でもあります。なぜならば、万物の顔はまた「千差万別」をもってなるからです。

観自在とは

大木に茂る葉は、すべて同形に見えて、一枚として同じ形がないように、人の指の指紋が一つとして同じものがないように、この世の中には全く同じ形というものがありません。この故に、幾何学では、同形のものでも、同じ形とはいわずに、「等しい形」といっているのです。

観自在菩薩とは、つまり「この世のあまねき姿を、千差万別に見てとり、また同時に、すべてのものを不偏平等に見なすことの出来る人」の意味なのです。

これは、時に人間には「差別」が必要であり、また時に「平等」が必要である、ということになります。差別が陰ならば、平等は陽です。陰陽のバランスを心がけることは、当会教義の第一義であります。

この意味において、私たちは、まず「自分が自分である」ことを容認しなければならないのです。

他人に比べて、不利な点を矯正することは自然の意欲であり、推奨できることですが、それは必ずしも、自分自身の全変容を意味するものではありません。

有名なアドラーという精神分析医は、人の一生は、自分自身の劣等意識を克服する意欲が原動力であるといいました。彼自身は若い時、軽いせむしであり、その劣等意識を克服するために「偉くなってやろう」と思い続けたといいます。

アドラーの例をもってすれば、人間にとっての必要な行動は、まず、せむしを治そうという行動と、次にはその屈辱感に対して耐性を持つようにするというこの点ではないでしょうか?

すなわち、体型(時には内的性質)を一般型に近づけるのが困難なら、いいかえれば、平等化が困難なら、その差別を受け入れる、つまり現実を「肯定」し、それに対して苦痛を感じないよう耐性を育てるしかないのです。

この耐性の築き方は、それこそ千差万別にあります。アドラーのように、名声を得る方法もあれば、莫大な心の眺望を得て、他人を許す方法もあれば、ボランティア活動で、他人を助けるというやり方もありましょう。

しかし、そのすべてを通じて、その前提条件となるものは、
自己の容認」であり、「すべてのものへの全肯定」なのです。

すなわち、「特性は特性そのままにしておき、しかも、その場その時において、できるだけ不都合なきように生きる知恵」が要求されるのです。

[出典:唯心円成会伝法講義]

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