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【無能唱元・伝法講義録 006】神秘学徒と宗教的信者の違い

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神秘学徒とは

まず最初に明確にしておきたいのは、神秘学徒と、宗教における信仰者との違いについてです。厳密にいえば、信仰を有している神秘学者もいれば、宗教家が神秘主義者である場合もあります。しかし、神秘学と宗教の間には明らかな一線が画されているのです。

宗教について、まず考えてみましょう。
多くの宗教とは次のような発生と発展の形態をとるものです。すなわち「一人の啓示を受けた者が、万人にその啓示を分け与える」という形です。

啓示は、私たちの意識が構築する実在の世界の外から、ある一人にもたらされます。そして、この一人は教祖となるのです。

たとえば、イスラム教の創始者マホメットは、夢の中に天使ガプリ工ルが出てきて、天啓を与えられたといいます。そして、彼がその啓示によって得たものは、ゴランに詳しく記載されて、中東諸国の人々に伝えられて行くのです。こうして、一人の教祖をトップとするピラミッド的階層が築かれ、それは教団となります。

一方、これに対し、神秘学の方はどうでしょうか?
この場合も同じように、一人の者が実在外の世界より啓示を受けるのです。ただし、その啓示を受けた者は、その啓示を万人に分け与える、という形をとるのではなくて、その啓示を得る方法について、万人に説くのであります。

つまり、宗教の場合、啓示は教祖によって独占され、その占有物が教祖より万人に分け与えられるのに対して、神秘学の場合は、その最高指導者と同じく、万人もそれぞれ自分自身でその啓示を得るべく、さまざまな秘儀を伝えられるのです。

この意味では、神秘学では、最高指導者とその学徒すべては、同一の次元に立とうとするのであります。つまり、すべてが啓示を受けたる者となろうとするのです。
宗教では、禅のやり方が、かなりこの線に近いものといえましょう

おもしろいことに、あらゆる宗教の教義は一人か二人の特別な人間が直接天から啓示を受けたと称し、その啓示が信仰として他の人々に伝えられるという形をとっている。したがって、自分も直接の啓示を得ようとする神秘義者は従来の宗教では異端となる。キリスト教世界では中世の神秘主義者、イスラムの世界ではスフィ教徒、ユダヤ教ではカパラ説がその異端分子であった。いまはその異端が世に出る時代であり、伝統宗教の教義が影を潜め、知ることが信じることよりも意義があると考えられはじめた。
[出典:「アクエリアン革命」マリリン・ファーガソン著/実業之日本社刊]

われわれ人類を、愛と希望のこもった肯定的な目で見るならば、人類は確実に進化成長してきたものと見ることが出来ます。今や、文明は人間をして、地球上を支配させ、他の動物群をほぼ完全なまでに制圧できました。もっとも、ある否定的心構えの人々は、人間は昔より愚かになったのだ、と主張してもいます。

こういう人は昔の聖人賢者を礼讃するあまり、現代人の愚行ばかり目につき、人間は退化したような錯覚に陥っているのです。

ごく客観的に眺めるならば、一千年前の人類は、山野や森林に住む動物群よりはるかに秀れた頭脳を有した生物であり、そして、現代の人類は一千年前の人々よりはるかに秀れた能力を有していることは疑いのない事実です。

ごく簡単に考えても、現代の軍事装備を有する十人の兵士は、一千年前の軍隊と戦った場合、一万人が相手でも、これを制圧できる筈です。いかに難攻不溶を誇る巨城も、原子ミサイルの前には一瞬の内に破壊されてしまうことは自明の理です。

私たちは、一千年前の人間より、物理や科学や数学につき、はるかに多くの知識を得、そして、より複雑かつ精妙な分析や解明ができるようになっております。私たち、そう、私たち一人一人が、すでに昔よりはるかに秀れた能力の持ち主になっているのです。

私たちは、自分の能力をもって、宇宙、人生、あるいは神について考えることが出来るようになっております。それらの考えることは依然として、人類にとって謎であるとしても、私たちは、かつての宗教がそうであったような、一人の啓示を受けた者、すなわち、教祖から授かった固定的教義を絶対的なものとして信奉する訳に行かなくなっている、少くともそういう時代を迎えつつあるといえるのではないでしょうか?

次にあげた引用文は、正にこの未来の宗教あるいはそれに類したもののあり方に対する洞察を行なった、アルビン・トフラーの「第三の波」からの抜粋です。

新興宗教をも含めて、人間に構造を与えてくれる諸機関に、われわれは新鮮な目を向けねばならない。良識ある社会は、自由形式のものから緊密に構成されたものまで、さまざまな段階の諸機関を提供じ得なければならない。伝統的な学校だけでなく、公開講座も必要であろう。

厳格な修道会(宗教的と在俗的を含めて)も必要だろうし、出入り自由な組織もまた必要であろう。新興宗教が提供する絶対構造と、日常生活の中に見える構造の完全不在とのギャップが、大きすぎるのである。

多くの新興宗教が要求するような完全従属を却けたいなら、構造なき自由と構造緊密な強制集団の中間に位する半宗教-結社とでも呼ぶべきものの結成を促すのが望ましい道ではないだろうか。

宗教団体、菜食主義者、その他さまざまなセクトやグループが、ゆるやかなものから緊密なものまで、人々の好みに合わせた構造を持つ共同体の形成に向かって、実際に進んでいくこともあり得よう。そのような結社は、肉体的・精神的暴力、横領、搾取、その他の行為を行わないことを保証するため、免許制やモニター制が採用されるのではないか。そして、外的な構造を必要とする人々が、半年ないしは一年を限って入会することができ、圧力や非難を受けることなく脱退できる制度も可能だろう。

一時期は結社の中で生活し、やがて外の世界に戻り、さらにまた一時期再び組識に戻るというふうに、高度な構造の要求と、より大きな社会の自由との間を行きつ戻りつする人が出るかもしれない。そのようなことが可能になってもいいではないか。

第三の波の文明を築いていくためには、孤独との闘いを超えて進まねばならない。生活に秩序と目的という枠組を与えることに着手しなげればならない。なぜなら、意味と構造と共同体の三つは、希望を持って生きていける未来のための前提条件として、密接な相互関係を持っているからである。

多くの人々を悩ませている現代の苦悩-社会的孤立、人間性の喪失、構造不在、無意味感など-は、未来の暗示ではなく、単に過去の崩壊から来る症状にすぎない。
[出典:「第三の波」アルピン・トフラ-著、中央公論社刊]

この引用文の中に出てくる「外的な構造」という言葉を注視してください。これは、簡単にいえば、グループ活動のことといっても差しつかえないでしょう。

宗教団体から、生花の家元制度まで含めて、そのグループは一種の階級的構造をもって構成されていますが、これがいわゆる「構造」と、ここで呼ばれるものです。

[出典:唯心円成会伝法講義]

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