アイデンティティ感への欲求
それは慈善団体、ロータリー・クラブ、PTAなど特定グループへの献身によって、あるいは特殊な職業への専念などによって得られる。あるいはそういうこととは別に、独自な自己同一性感情への欲求。
このアイデンティティ自己同一性という言葉は、実際のところ、日本人の思考表現の言語の中には無いように思えます。
この言葉を辞書で引くと、「同一であること。同じ人物であること。本人であること」などとあります。しかしこれだけでは、現代科学でいうアイデンティティの語に対しては、きわめて狭義の解釈になってしまいます。
これはいってみれば「自己というものがここに存在しているという感覚であり、自己の身心の所有感、すなわち自意識の基本性であります。
「あの分子がひしめいている所で間断なく起こる細かな変化にもかかわらず、われわれの基本的行動パターンの記憶、個人として統一された存在感覚」は持続する。われわれは成長し変化はするが、しっかりと自己であり続ける。つまり端的に言って、自己同一性の感覚、一個人の人格としての感覚は身体のもつ物質のみに依存しているわけではないいぅことだ。何らかの形でどこか別のところで統合されているにちがいなく、われわれを機械以上のものにせしめている何かがあるはずだ。カントも言ったように、われわれは自己目的化された存在なのである。
[出典:生命潮流 Jライアルワトソン/工作舎]
この自己囘一性は、別の見方からすると、それは一個の個体認識であり、他との差異を識別する認識作用であるといえます。いわばそれは「個我」と呼ばれるべき自感覚かも知れません。
自我と真我
因体の一部である「自我」は、霊休の「心」と「知」の間にあって、感覚器官からの信号受けとりと、行動司令を行なう直接の責任者です。
そして、その本性というものは、おおむね動物本能的なものであり、その外部への対応の仕方は、いわゆる「快楽原則」にのっとったものです。すなわち、好むものを欲し、嫌いなものを排する心です。
鈴木大拙(たいせつ)師(禅の研究家として海外に有名)は、この自我を「生物我」あるいは「個我」と呼んでおりますが、師の言葉を次に引用してみましょう。
近時の科学は価値の世界に対してさらにさらに深い恨本的な研究をなすべきことを忘れて、己の生物我ないしは個我の研究をその出発点としているがために、今日の科学の進歩というものは単なる事実の世界に対してのみ成功して、われわれの内面的な欲求の世界に対してはなんらの糧をも提供してはいないのである。われわれは真の自我でないところの生物我を殺さない以上、または科学の故も恨本的なその立脚点を改造せぬ限り、人間はやがて全部滅亡するものだと自分は考えている。
[出典:「禅とは何か」鈴木大拙/角川文庫]
ここで、大拙師は「生物我を殺せ」という物騒ないい方をしておりますが、これは禅宗独特の表現方法で、禅ではよく「殺せ」とか「殺しつくせ」とかのようにいうのです。しかし、それは必ずしも、滅し、無くしつくしてしまえといっているのではなく、「大死一番、絶後に甦る」などのようにもいうのであります。
ここで、次に、フ口イ卜(心理学者、潜在意識の発見者として有名)の言葉も引用してみましょう。
フロイトは、心の内部を扱う精神的地理学として
「エゴとイド」という本を書きました。このイドというのが、「生物我」また「マナ識」というものと共通すると考えられます。そして、エゴは、ここでは単に「自己」という意味で、普通、世間でいわれるエゴイズムのような、利己的という意味ではありません。
解りやすくいうならば、イドとは「本能的自我」で、エゴとは「抑制的自我」ということになりましょう。
本能的自我と抑制的自我
イドはわれわれの動物的欲求、われわれの原始的欲望および衝動が宿っている人間精神の原始的な場所だと、彼は説明した。どの人間にも、この暗いジャングルの場所があってここには欲望と憎しみの感情が宿っている。この感情は、かっては人間が動物と同様に、心のなかに抱いていたものである。
この精神の部分、つまり、イドの暗いジャングルのなかには、思考は存在せず、ただ、原始的で野蛮な欲望だけが生きている。それは、渴望して「私が欲しい」というだけの原始的な傾向で、この傾向ゆえに、かつての朱開時代の人間は、動物とちがいがなかった。— 中略 —
かつては、人類には思考する精神がなく、たんに暗いイドがあるだけだった。そして、狩をし、勝手に殺し、森の野蛮な動物のような生活をしていた。
それから、百万年以上も前に、これら原始的動物の一種である人間の無思考精神のなかに思考の最初のひらめきが生じた。それは他の人たちとグル—プをなして生活するのが安全だろうという 考えであった。— 中略 —
こうして、原始的な人間精神の原始的なジャングルのなかに、小さい場所が切り開かれ、ここに文明化された観念が成長してゆくという事態になったのである。ジャングルの一隅に開拓地が形成されたのだった。
この開拓地をフロイトは「エゴ」とよんだ。こんなわけで、人間の心に二つの領域が共存することになった。— 中略 —
すべての人間で、イドと「エゴ」の闘争は進行する。つねに人間的願望に充ちたイドは抵抗する「エゴ」に向かって原始的願望を圧し進めようと試みる。イドのなかには、人類を生かしておく本来のエネルギーが、すべて蓄えられている。
— 中略 —
野蛮な願望がイドから突進してくるとき、心の、思考する場所たる「エゴ」は、その願望を操作するとかコントロ—ルする。今日でも、人間は怒ったときに、原始時代のように、他人を殺すこともある。殺したいという気持をもつにちがいない。これはイドの原始的な願望である。しかし、「エゴ」は、この原始的願望をひき戻す。「エゴ」は、そのエネルギ—の方向を何かほかのものに向けさせようとする。敵を殺すかわりに「エゴ」はいう。
「彼を理解するように試みよ」と。— 中略 —
原始的な力を新しい利用法に切り替えること、イドの野蛮な力を新しい目的に転じてゆくことをフロイトは「昇華」とよんだ。われわれが文明の仕事を創り出してゆくのは、われわれの原始的願望を昇華させることによるのだと彼はいった。
— 中略 —
偉大な人は、内部に大量に蓄積している野蛮な衝動を飼いならし、方向づけ、上昇させ、昇華させる力と意志を発達させた者である。その際、これらの広範囲の力は人類に有用な目的のために変化するのである。
犯罪者は、本来の力を飼いならせずに、そのイドの衝動をそのままに放出して人間に害を与え、狂人は自分自身に向かってそれを放出するわけである。
[出典:「フロイトその思想と生涯」ラッシュル・ベイカ—著(宮城音弥訳)講談社現代新書]
フロイトのいう、この場合のエゴは、霊体の持つ、もう一つの面、すなわち「知的活動」の頜域に属するものとも考えられます。
また、イドとは無限のエネルギ—を秘める一大パワーでもあり、そして、エゴとは、それを直接コントロ—ルする立場にあるともいえましょう。
しかし、当然のことですが、この「イド」と「エゴ」の二者は、ヨガ哲学でいう『ア—トマン」「真我」に匹敵するものではありません。
真我は、それらの背後から、じっと見ているものであり、コントロ—ルは、エゴを通じて間接的に行なうものだといえましょう。
仏教的な見方
この個我に対して、仏教、特に禅では、それを悪者ときめつけ、それの除去をもって修業の第一歩としているようなところがありますが、この個我の否定、そしてそれをもって普遍的意識への開眼は、人間の霊的向上にとっては甚だ有効なる方法であり、またそれが故に、この方法を取り上げ、推奨したのではありますが、しかし、それは一つの修業的段階として、それを取り上げたのであり、当会の学徒のみなさんは、更にその上の段階へ至ったものとして、敢えて、この「個我の否定」を超越せねばならないのであります。
この個我というものは、今までに当会がくり返しふれてきた「自己重要感」と非常に大きな関係があり、「自分という存在が妥当なものである」という確認を常に求めたがるのです。
それで群居衝動の五つの側面の内の第四番目の欲求となってそれが説明されました⇒アイデンティティ感への欲求。それは慈善協会などの各種団体への奉仕、あるいわ特種な職業などへの専念などによって得られる…。とあるこの項は、社会にあって、自分は人の役に立っている、自分は生きるに足る存在である、と感じたい意欲を示しております。
●われわれが人格をもっているのは脊椎のある特別の形態のおかげだとえるが、このことから生じた結果を慎重に点検してみてはどうだろう。植物や無脊椎動物の個体には固有の自己同一性がなく、魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類にはみなそれがあることをまず確実に認識すべきだろう。
●脊椎動物が他に類のない形態と特別の自己同一性をもつに至った進化の発展途上におけるもうひとつの段階が自己意識である。
●われわれ個々の独自性とは性的生殖を通じて起こる遺伝子配合の直接的結果であり、個体性は化学的パターンの結果だとも言えよう。そしてさらに、意識は特別な種類の個体内で起こる電気的パターンの結果なのである。
●「自己を経験し意識をもつことが重要なのは、それによって新しいさまざまな状況への適応がずっと効果的に行なえるよぅになるからである」
[出典:生命潮流 Jライアルワトソン/工作舎]
以上のことがらから考えてみて、古来の仏教でいう「個我の否定」すなわち、個我そのものを「悪」であるときめつけたかの感のある考え方は、今はそれを取らないのです。
個我と宇宙普遍意識と対立させてみると、これがよく解ります。個我を滅して、宇宙普遍意識に至るという方法も確かに、自己覚醒の一法なのでありますが、これは片手落ちという弊害もまた生じ易いのです。
自己重要感は個我に属し、群居衝動は普遍意識に属します。しかし、この二者は非常に緊密な関係にあることは前に述べました。
当会の考え方によれば、「個は陰であり、普遍は陽であります」つまり、陰陽二者ありて初めて万象の発現はあるのです。この意味で、仏教教学が、個すなわち陰を悪ときめつけたのは、あくまでも方便というものに過ぎないのです。
禅家のいう、自我を殺せ、殺しつくせというのも、この方便の一つとして用いられているに過ぎないといえましょう。「陰は嫌うべきものでなく、それは整えるものである」というのが、当円成会の教義の一つであることを思い出してください。
陰気整うべし
人々が各自の自己の欲望を、その抽象的概念より具体的行動へ移す際には、その「目標設定」に関しての配慮が必要になってきます。
私たちは、生命の火を燃やすためには、まず欲深くあらねばなりません。
しかし、その欲の深さは、その時点、その境遇を考慮して、あまりにも非現実的な大きいもの、髙いものを目標設定して、そこを目がけて、一気に駆け上がろうとするような行為を意味するものではありません。
イカロスは、ロウで作った羽で、天空目がけて飛びつづけ、遂に、太陽熱で、そのロウが溶け、墜落してしまいました。
この神話は、教訓として、
「天空のような神聖な場所を侵してはならない」とか「人間あまり髙望みをしてはならない」などと世の人々は受け取っております。
しかし、私は、天空を目指すこと自身に誤りがあるとは考えないのです。だが、具体的にそれを達成するには、現在の自分の物質界における力量というものを考慮に入れなければならないと考えます。
簡単にいえば、目標物と自分との距離です。究極的な望み、それはしばしば理想と呼ばれるものですが、そこへ一気に駆け上がろうとすれば、無理が生じ、イカロスの羽のロウのように溶け、墜落してしまう。
ここで、考えられるアイデアは二つあります。
その一は、羽を改良すること。すなわち、道具を改良すること。すなわち、道具の改善です。
その二は、究極的理想の以前に、もっと身近な目標を定め、そこへまず到着してから次の段階を考えることです。
宇宙ロケットは、地球帰還の際に、大気圏内に突入するとその空気との摩擦熱のためにロケットが燃えて溶けてしまう。それを防ぐために耐熱性の塗料や、タイルが外側に張りつけてあり、これでその熱を遮断できるそうですが、これなどは、その一の「道具の改善」にあたりましょう。
また、遠い宇宙の彼方へ旅をするには、中途にまず宇宙ステ—シヨンを作って、そこを基地とする。これはその二の「身近な目標設定」にあたりましょう。
今、ここに一本の棒磁石があると思ってください。
ご存知のように、棒磁石には両極があり、プラス(陽)とマイナス(陰)に分かれております。この棒の中間には、陰陽の合体を許さない異和の原因でもあるのでしょうか?。とにかく、この両者のパワーは、この棒の内部でへだてられたため、その外部の空間で交わろうとするのです。
この時、陽極より出た陽のパワ—は、陰との結合を求めて、空間にその磁界を放出します。一方、陰極は、一種の空間ともいえる磁場を作り、その中へ陽のパワ—を迎え入れようと待つのです。この場合、陰極は、あたかも一個の容器のように思えます。陽気は、この容器の中の空白部の広さに応じて、そこに収められるのです。
これは、いい代えると、この棒磁石の磁力の大きさは、陰極の容器の大きさによって左右されるとも考えられるのです。例えば、陽気がいくら強く大きくても、受け入れ側の陰の容器が小さければ、そこに生ずる磁力すなわちパワーは大きくなり得ないのです。
棒磁石は、その棒自体が大きくなれば、その磁力はそれに比例して大きくなります。これは、その陽気の増大とともに、陰の容器の内容空間も拡大していることを示すものです。注意して頂きたいのは、この「陽と陰のバランス」です。自然界では、この釣り合いがよくとれており、その秩序のもとに運動が行なわれております。つまり、これは宇宙の法則の一つである「調和の原理」なのです。
陰の容器とは何を意味するものでしょうか。それはこの場合あなたの肉体を指すものです。あなたの力、あなたの智力、あなたの能力を意味しているのであります。
1リットルのビンを海に投げ入れても、1リットルの水しか、その中に収めることは出来ません。もっと多くのものを得るためにはビンを大きくする。すなわち、あなた自身が大きくならなければならないのです。
これは、いってみれば、「陰を整備する」ことです。私たちは、陽気を欲深く発動するとともに、この陰気をよく整えなくてはならないのであります。
ここでお勧めできる一つのテクニックがあります。それは「長期目標と短期目標の使い分け」です。
期目標とは、いってみればそれは理想的なものです。それは、それで定めておき、そこへ達するための手段、または段階として、現在の自分の能力で考えてみて、手のとどく距離のところにあるものへ目標を定めるのです。これがすなわち短期目標です。
古い諺に曰く「千里の道も一歩から」という言葉がありますが、千里とは余りに遠く気が遠くなるような思いがするものなら、せめてまず、十里さきを、第一目標に設定すれば良いと思います。
そして、焦らず、休まず、一歩一歩足を進める。見つめるのは十里さきで良いのです。それからさきのことは、そこへ到達した時に考え初めれば済むことです。
ヒケツは、次のように要約されましょう。「まず欲をふるい起こし、同時に、自己を整えよ」と。
ひとくちに、陰の状態といっても、それは一様ではありません。
例えば、しなやかな身体つきの黒ヒョウが、ゆっくりゆっくり歩いていても、その四肢の筋肉には力がためられており、いつでも反射的に跳躍出来る瞬発力が秘められております。これは明らかに疲れ切った人間が、足をひきずるようにして歩いている場合とは異なるものです。
単に、静かに歩いているという陰の状態でも、このような違いがあるように、見た目には同じように見える陰の状態にも、好ましい場合とそうでない場合があるものです。
好ましい状態と好ましくない状態とは、例をあげれば、次のようなものです。
「知足」と「絶望」
あることを諦め、それに対しての欲望を捨てるに際しても、「足ることを知る」には、自己の心情をリラックスさせるセルフコントロ—ルの努力があり「望みを絶つ」には、自己の心情に無念さを残した、すなわち緊張の状態のまま放置されたありさまがうかがえます。
「我慢」と「許容」
これも似て否なるものです。
誰れかが、あなたに何かひどい仕打ちをしたとします。そして、あなたがじっとそれに耐えたとすれば、それはあまり好ましい状態とはいえないのです。なぜなら、口惜しさ、恨みの念がそこにこもるわけで、これは心的要因となって、あなたを病気にさせたり、不運をかもし出すかも知れないからです。
これに反して、「相手を許してしまう」
その許し方は、その相手の仕打ちに対するものの考え方、解釈の方法によって、色々違いますが、ここにも必要とされるのは、セルフ,コントロ—ルです。
ここまでお話しすれば、もうお解りでしょうが、要は、自分の心を自分でコントロールする、すなわち、自己支配を用いて、「陰気を整える」
このようにすることによって、陰かならずしも否定さるべきものではなくなってしまうのであります。そして、このようにして、陰気を整えることこそ、前述した「陰の容器を拡大させる」具体的な方法なのです。
さあ、これで、大いなる陰の容器を得ました。あとは、盛んなる陽気を発して、それをこの容器に取り込むことです。
仏教では古来「小欲知足」を唱えてきました。しかし.、私は声を大にして、皆さんにこうお勧めしたい。
「知足大欲」と…。
そして、平安と健康の日々の中に、欲望の火を燃しつつ、力一杯生き生きと人生を過して行って欲しいと願うものであります。
[出典:唯心円成会伝法講義]