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【無能唱元・伝法講義録 013】一喜一憂における天地人の位

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日常的心構えのあり方

古語に曰く「一喜一憂することなかれ」という言葉があります。これは、日常的な心のあり方、その心構えを示したもので、要するに、心の落ちつきの必要性をいったものです。

「いたずらに、軽々しく、物事に喜んで有頂天になって、我を忘れたり、また逆に嘆き悲しむあまり、自己を見失ったりしてはいけない」と説いているのです。

また同様に「得意冷然 失意泰然」などの言葉もあり、物事がうまく行っている時こそ興奮せず、冷然と構え、うまく行かない時も、平気な顔をしていなければならないといっております。

一々もっともであり、また、人間の態度として、それは一種の理想的な姿勢のあり方を示しているのではありますが、これらの説に対して、反対の意見を述べる人もあり、それを「人間的でない」といって非難することもあるのです。
「嬉しければ素直に喜び、悲しければ素直に泣けばいいではないか。それが偽りのない人間の姿というものだ」

また、前記の理想的な自己コントロールは多分に現代の人間の精神状態に悪影響をおよぼし、ノイローゼや精神分裂などの原因となっている例も多いのです。いわゆる完全主義者といわれる人たちが一歩あやまると、この落し穴にはまるのがそれです。

「一喜一憂」この言葉に対し、わが円成会の理念は、前記二者の内どちらを選択するのでしょうか?

実は円成会では、心のあり方について、三段階の漸進的なコントロールの仕方を説いているのです。そしてこれを「天地人の三つの位(くらい)」と呼んでおります。

まず最初の「人の位」は、どんなものかといいますと、それは、「一喜すべし一憂するベからずと示されます。これは、円成会の入門したばかりの初心者に対し繰り返し説かれる教義です。

アラヤ識論の部分を思い出してみてください。「因果は同類による」ということを学徒の皆さんはこの講座の最初の項において学ばれた筈です。そして、この場合の類とは二つの類、すなわち「陰と陽」でした。

「原因が陰の類であれば、それはアラヤ識を経由して、陰の結果として現れ、逆に原因が陽であれば、その結果も陽になる」というのがその基本理念です。

そこで、もし、将来の自分に幸いをもたらそうと願うならば、現在の自分の情念はぜひとも「陽の類」の中に置いておかねばなりません。そこで、古来から宗教では、感謝の生活を説き、何ごとにも有りがたさと尊さを見出すよう努めることを勧めているのです。

つまりは、日常の自分の思念を常に「陽」の内に置いておく、そのために「一喜すべし、ただし、一憂はすべからず」とこうなるのであります。

ところが、これでは円成会の教義理念においては、「人の位」すなわち、初心者の段階に過ぎないのです。今、学徒の皆さんはすでに「声聞関」を透過され、更にもう一段上の心境にまでたどりつかれて参りました。

ここで当会は、その上の段の自意識、心の在り方について説く時を迎えたのです。今や、皆さんは、一見矛盾するがごとき当会のこの教説を充分に理解し得るものと信じ、これを述べて行きたいと思うのです。

「人の位」を出て、「地の位」に至るとどうなるのか?それは「一喜一憂することなかれ」となるのです。皆さんは多分、ここで意外に思われるでしょう。なぜなら、これでは古来からいわれている世間的なそのことわざと同じに戻ってしまうからです。

しかし、それが違うのです。というのは、声聞関の「一喜すべし、一憂はするベからず」の心境をすでに得られた後、この境地にたどりついた「一喜一憂することなかれ」は、世間一般的なそれとは、大きく異なっているのです。

簡単に、この二者を比較説明しますと、世間的なそれには「忍耐」「我慢」があり、一方、円成会のそれには「瞑」あるいは「放念」の状態が示されているのです。

入門時において、学徒の皆さんは「宇宙は陰と陽によって発現し、存在している」ことを学ばれました。そして、その陰と陽のコントロールは、自己の意識によってなされることも知りました。

次に大切なことは、このようなコントロールは「陰陽ともに、いまだ発せざる機、すなわち、空(くう)の境涯において最も良くなされる」という悟りも得られている筈なのです。

「空の境涯」これこそ、般若の智恵として、古来より仏説にくり返し述べられている仏教の根本的理念です。これは形の上でいえば「瞑想の姿」です。自己を整え、自己を離れ、宇宙の普遍意識により近づいた心境であります。

そこで、その心を現わすものとして「一喜一憂することなかれ」が登場してくるのです。これを禅の方でいえば「無念無想」の言葉に当りましょう。すなわち「不思善悪(ふしぜんなく)」であり、常識智の脱落であります。そして、ここにこそ、初めて「安心不動の境地」「深遠なる平安」が展開するのです。

では次の「天の位」とは一体どんな心境になるのでしょうか?それは「一喜すべし、そしてまた一憂もすべし」ということになるのであります。

ここに至って、多分、みなさんは面くらってしまったのではないでしょうか?なぜなら、これでは心の修養など全然できていない凡人と同じになってしまうからです。

ところが、これが実は似て非なる姿なのであります。というのは、この天の位は、その前の地の位を透徹してはじめて得られた心境なのだからです。

地の位は、いわば「瞑」にあたります。そして、瞑で安心の境地を得たその後に、そこへ自在の「想」をえがき出すのです。

ここで一切の気取りや、つっぱりもなく、ごく素直に笑い喜び、かつ泣き悲しむという自然人の姿に戻るのであります。しかし、凡人と異なる点は、例えば中国の聖人、孔子のいったごとく「その行い矩(のり)を越えず」なのです。

「悲しんでも、悼(いた)まず」
「楽しんでも、溺(おぼ)れず」
「親しんでも、狎(な)れず」

というように、ごくごく自然に自己コントロールが出来、そしてその中で、人間らしい感情の発するままに「一喜し、一憂する」人生を展開できるのであり、これこそが、「天の位」の心の境涯なのであります。

このような天の位の心境になると、日常の言動からこだわりが取れ、この世はすべてあるがまま、という、いわゆる「洒々落々(しゃしゃらくらく)」の人生観が得られ、「全肯定」すべて一如の世界に入ることになるのであります。

ここで、学徒の皆さんは、よろしく修養を重ねられて、このような境涯を得られるよう、なお一層の努力をお勧めしたいのです。

最も大切なことは「すべては変化しつつあることを悟る」ことです。

無常つまり「常なるもの は、この実在界に一切ないのです。これを体得するならば、一切のものにこだわらなくなります。右も左も、そして真中も、どれにもこだわらず、そしてこれがまた大切なことですが、必要とあれば、どれにもこだわるという、自在の境地へ達することとなるのです。

世の多くの人は、「無常迅速」といい、それを、老いや死の現象にのみ捕え、とかく否定的情念に陥りやすいものですが、これは誤りです。これでは、「無常」を「無情」のように一方の極へ偏して考えているのです。

変化は死ばかりにあるのではなく、誕生にもあるのです。秋に枯葉の変化も、春に開花の変化も、等しく無常の流れの中にあるものです。この両者、すなわち「陰陽」の二極をあまねく見て取り、そこに大いなる希望を描き出すことこそ、当会が主張して止まない世界観なのであります。

では今夕の講義の最後は、次に引用した詩を熟読玩味してくださいますように。

全ては変らざるを得ず

ベナド・アクグナー 詩
無能唱元 訳

全ては変らざるを得ず
止どまるものひとつとしてなし
全ては変り行き
止どまるもの更に無し

若きは老い
秘儀いま明らかとなる
時の流れのさだめとして
変らざるもの、人、また更に無し

人の世にあまたことあれど
確かなるは有り得ず
されど雨は地をうがち、日は空に輝き
小鳥はさえずり、小鳥はさえずり、舞う

冬は春へとめぐり行き
傷つきし心は癒やされ行く
君よ急ぐことなかれ
全て変らざるもの無きが故に

[出典:唯心円成会伝法講義]

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