無能唱元

【無能唱元・伝法講義録 014】スプーン曲げは何の役に立つのか

投稿日:

何の役に立つか?

念力でスプーンが曲がった、という話を聞いた時、ある女性が、「スプーンが曲がったからってそれが何の役に立つのかしら? と、私に訊いたことがあります。

この女性の質問は、世の常識家のそれを代表しているものです。そもそも常識というものは、物事の価値基準を選定するところがあって、またそれが常識というものの重要な役どころを為している訳です。そしてまた、常識には、しばしば「実利」という面を重要視するという特徴があります。

この実利とは、ほとんどの場合、物質的な効果で、それは目で確認できる利益である、というほどの意味です。

で、それを、「役に立つか?」という言葉で裁量することになる訳です。

これに対する当会の回答は、「役に立つ可能性がある」と答えます。なぜ役に立つ、と断言しないで、可能性があるなどという曖昧ないい方を、ここでするかというと、実は役に立たないどころか、かえって弊害を発生する場合もあるからです。

さて、人間の抱く不幸感には、さまざまな種類がありますが、その内の最も大きなものの一つとして「恐怖」があります。

実際のところ、二千数百年の昔、釈迦はこの恐怖感にさいなまれておったともいえるのです。すなわち、「生老病死」という四苦への恐怖感にです。そして、この恐怖から逃れようとして、その回答を求めて、修業の旅に出て苦行を重ねたのでした。

結果として、釈迦は、自分の持っていた恐怖自体が不幸感の源泉だったことに気がつきます。そして、この恐怖を振り捨てることによって、はじめて安心を得たのです。これを世人は「悟り」と呼びました。

私たちは、この釈迦ほど偉大でないにしても、それぞれ、無意識的に、さまざまなものに対する恐怖を持っております。

私の知っている人で、水を非常にこわがる人がおります。また、非常に清潔好きで、バイキンを恐れ、常に消毒薬スプレーを持って歩いている人もいます。

これらの人々から解るのは、その恐れは、「自己の肉体損壊あるいはその喪失への恐れ」すなわち「生老病死」への恐れであるということです。

この恐怖は、普通潜在的であるために、日常私たちはそれと気がつかないのですが、意外に根強く私たちの生命意識の一部に巣喰っており、時として、それが爆発してきて、その人を悩ませたり、また実際的な不運、不幸、災厄の原因ともなるのです。

そこで、この恐怖から逃れるという行動は、私たちの人生にとっては甚だ重大な命題になり、かつそれを為し得た時、大きな実利を得たということにもなるのであります。なぜなら、この恐怖から脱し得た時、それによって生じていた不運、不幸、災厄からも回避でき得るからです。

では、どのようにすれば、この恐怖から逃れることが出来るのでしょうか?

それは、不死なる生命が、私たちの内部にあることを知る、すなわち、「自己の霊性の把握」によって得られるのであります。

「霊性」これは、古代ヒンズー神話の次の詩がその特性を見事に歌いあげております。

あなたは決して生れなかった
あなたは決して死なない
水はあなたをぬらすことなく

火はあなたを焼くことがない
剣はあなたを貫くことなく
風はあなたを吹き飛ばすことがない

世の多くの人々は、この霊の問題については、敢えてあまり深く考えないよう努めております。その理由は、それがよく解らない、そして不確実なものだからです。それは、まず目に見えない、また手に触れられないものであり、これは例えば、「見ることは信ずることである」という西洋の格言の反対を意味しています。

それで、極端な少数の人々は、「霊などというものは存在していない」と断言します。これはつまり唯物論者で、こういう人たちは、世界をすべて機械的な物理現象で捕えようとするのです。

これほどではなくても、多くの人々は、そういうもの(霊)が、「あるのか、ないのか解らない」といいます。そして、その問題から回避して生きることが「堅実な」生き方だと考えているふしがあります。

しかし、そのものを、力と呼ぽうと、エネルギーと呼ぼうと、また、霊と呼ぼうと、それが、私たちの実在の世界の中に厳然と存在していることは、全く自明の理なのです。

それをはっきりと示しているものは、「生と死」という現象です。生物が死ぬと、そこからは、今まで示されていた力の表現が消滅します。

私たちは、電気というものの実体を知りません。それは目に見えず、また触れることも出来ません。でも、その力の発現を目で見たり、耳で聞いたりしています。ですから、現代人は、電気の存在を確認しております。電気はロボットを動かします。それは、電気力によってです。同様に、動物の体内にある、ある力は、その肉体を動かしているのです。電源が切れれば、ロボットが動かなくなるように、その力がなくなれば、肉体は動かなくなり、それは死にます。

これらの観察は、疑いもなく、その体内における「力の存在」を証明しています。そして、生物の場合におけるその力は、いかにも霊妙であるとして、それを霊力あるいは「霊」と呼んだのであります。

悟りへの第一歩

日常、この問題から回避し、自分では堅実に生きていると信じている人々は、実は堅実的ではなく、ただ、そこから目をそらして見ないようにしているに過ぎません。そして、目に見えるもの、すなわち、肉体の老い、死を前にして、ある人は意識的に、またある人は無意識的に、おびえ始めます。

これが、すなわち、恐怖の実体です。この恐怖は、そのままに、つまり恐怖という形態で人生の意識上に登ってくることは少く、さまざまに姿を変えて発現してきますので、多くの人々は、その実体に気がつきません。

無力感、自己卑下、うつ病、自殺願望、不満感、いらいら、などの否定的感情には、ほとんどの場合、かつて釈迦にとっての命題であった「生老病死」への恐怖がその根元体となっているのです。

さて、ここで問題を初めに戻しましょう。「スプーンが曲れば、何の役に立つか?」
それは、物理的な力を越えたもう一つの力の存在を確認することになるのです。

そしてそれは、自分の内部にあるもう一つの力の体得すなわち、身体をもって知ることを意味しております。この瞬間、その人は、目で見える、つまり死ぬ肉体とは異った他のものが自分の内にあることを知るのです。

そして、この霊妙なる力を、「霊」と呼び、その力の不死なることを信じた時、恐怖は消え去ります。そして、安心、大悟徹底への第一歩、その足がかりを得たことになるのです。

つまり、このようにして、スプーンが曲がれば、それは人生において、「役に立つ」のであります。

かえって害を生ずる場合

ところが、このスプーンが曲った段階において、それが悟りへの第一歩になるのではなく、かえって、「魔境への第一歩」を踏み入れてしまう人々もあるのです。

それは、この力の不思議さに驚いたあまりに、この力の世界に没頭して行き、日常性の世界のことを軽視し始めてしまうという点です。

たしかに、念力などの、いわゆる超常能力と呼ばれる力は魅力的であり、それは私たちの心を興奮させるものです。しかし、「常能力」つまり、日常、私たちが普通に行動している動きも、冷静に観察するならば、実はそれも驚くべき力なのです。

例えば、のどが乾いたと感じ、手を伸ばしてコップを取り、その水を飲む。
この行為が驚くべき精緻な、そして無駄のない動きで、しかも、やすやすと行なわれていることに気がつくならば、そして、それも内なる力、すなわち、霊の力によるものであることに気がつくならば、スプーン曲げの念力も、これも等しく「霊」の力であることを知る筈です。そして、この時、私たちは、いわゆる日常的なもの、超常的なものと、その二者を区別することなく二者共に対する敬意の念を覚えずにはいられなくなるのです。

ところが、ある人々は、それが一見超常的であるその魔力性に溺れ、霊感追求のみの世界に入って行ってしまいます。

次の言葉は、かつて神智学の世界で提唱されたものですが、これは当会も、くり返し引用し、学徒のみなさんへの警告としているのです。

「人は外面的世界にばかりその意識を置いていると魂が枯渇し、反対に、内面的世界にばかり意識を置いていると肉体が衰微する」

すなわち当会の考えは「外と内の二界は等しい価値において認識されなければならない」という点にあるのです。これは何となれば、私たちがこの世に生きている限り、心と肉の二者合体において、その生が表現されているのであり、この二者のどちらを軽視しても、生命への弊害が生ずることは自明の理だからです。

唯心的発想

ところが、ここで多分、みなさんはいくらかの矛盾を感じられるのではないでしょうか?
というのは、当円成会の根本教義の一つに「アラヤ識論」があり、これは、仏教教学の「唯識説」から出ているからです。

唯識というのは、要するに唯心です。それで、この教学では、「万象は唯心の所現」が根元的思想になっているのです。

また仏教に限らず、宗教というものの殆んどは、多かれ少なかれ、この唯心的傾向を有しております。すなわち、価値観においては「霊主体従」なのです。

心理学者のユングも、「すべての現象は心の働きに過ぎない」といっております。そして、当円成会も、これらの説に同意するものです。にもかかわらず、当会は、肉の面を依然として重視しており、霊的世界への没頭に対してくり返し警告を発しております。

これは一体、どういうことなのでしょうか?

では、この意味についての解明は次回にゆずることにしておきましよう。

[出典:唯心円成会伝法講義]

スポンサードリンク

スポンサードリンク

-無能唱元
-

Copyright© 青樹謙慈|アオキケンヂ , 2021 All Rights Reserved.