無能唱元

【無能唱元・伝法講義録 026】彼我の力を計測する

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当円成会の教義の中には「現実的生活」も尊重するという一大特徴があります。
これは、このようなマインドな世界を説く講座においては、甚だ稀有なことと申せましょう。なぜなら、宗教、道徳、ヨガ、神秘学、などの心の世界を説く教義の殆どは、その性格的特質からいっても「物質的世界を軽視」することによって、信者あるいは会員同志を、精神の世界へ引き寄せようと計るからです。

少数の例外を除き、殆どすべての宗教は人間欲望を捨てることをもって、「聖なる生き方」の旗印をかかげております。また、例えば、密教のように、人間欲望を最初から肯定しただけであって、ではその欲望をどのようにして充足させるか、という具体的な方法になると、やはりそれは世俗の仕事であるとして、あまりタッチせず、自らはもっぱら、滝に打たれたり、読経したりするという、いわゆる精神修業に没頭するのみなのです。

ところが、当円成会は、内面の世界と同価値をもって、外面の世界も重視しております。これは当会独特の哲学的態度であって、それは「内にかくあるごとく、外にもかくあり」すなわち、内外は一如であり、陰陽は本来、不二にして、空なるもの、そして、あえて、陰陽二極の一偏に片寄らざるようという、バランスを重視する考え方から発しているのであります。

当会は、従って、「生活術」の具体面について研究することは、心の世界を探究することに劣らず行なっておるのです。

さて、そのような教義の一つとして、当会には「身守術」という一分野があり、これは「成功術」を陽とすれば、陰の側に当たるもので、この陰陽の二者を整え、体得することによって、現世、つまり今生きてるこの世における幸福を手に入れようと計っているのです。要は、自分の身を守る方法であり、これを怠って、「成功術」の方ばかりに目が行っていると、自己破綻という現象を起こしかねないのです。

この点、世に多く出版された、いわゆる「成功法則」の手引き書は、積極的思考すなわち、自らの欲望をかきたてるという一面をのみ強調するあまり、つまり「攻め」を重視するあまり、「守り」の方をとかくおろそかにしがちであることも、当会は指摘し、警告せざるを得ません。

正義と戦い

「正義を主張し始めた瞬間から、その人の不運は発生する」と、これは当会独特の教義の最も初歩的なものの一つです。
正義を声髙く主張し始めると、必ず、他人との間に「異和」が生じ始めます。すなわち平和な雰囲気が乱れ始めるのです。これはなぜでしょうか?

それは、この行為は「他人の不正を非難する」という言動であるからです。すなわち、その本人以外に対し、それは間違っている、とその非を鳴らすことであります。
この瞬間、その話を聞いている相手は、その本人以外の者、つまり「他人」の範疇に入っております。そこで、無意識の内に、相手は自分が貶されたように感じ、そしてこの人の自己重要感は傷つけられ、低下させられるのです。不快感は発生し、こうして、この二人の間に異和は生ずることになります。

勿論、時に、人は正しさを主張することは大切です。
誤解してならないのは、当会は、自己の安全のためには、常に「啞」になれ、と主張しているのではない、という点であります。
また、人生は戦いであることも、当会は全面的に認めており、
戦いとは、ある見方からするならば、それは「分捕り合戦」いうことも出来ましょう。すなわち、「わかちあう行為の反対」を意味するものです。

人が自己の正しさを主張する場合の多くは、この分捕りの多寡に関係があり、すなわち、自分はもっと多くを取ってしかるべしだと唱えるのです。
そして、それは、公的な怒り、つまり公憤といわれるような場合でも、その根元となるものは私的な自己利益が幾分かでも含まれているのが殆どであります。

もとより当会は、それを間違っているというのでは決してありません。それどころか「人生は戦いの場」であることを肯定する立場にある当会としては、自己の取得分を多くするため、その正当性を主張することは必要である、とさえいっているのです。
この点は「むさぼり」を戒めている宗教や道徳と大きく、当会の主張の異なっているところであります。

彼我の力を計測する

しかし、ここで最も重要なことは、自己の捕り分を主張する際に「彼我(ひが)の力を計測する」ということを決して忘れてはならぬという点です。
つまりは、自分と相手の間における力関係をクリアー(明確化)にすることです。

ここで、話を解りやすくするため、次のような例え話をしてみましょう。
サル山のサルの中に、可愛いらしい子ザルがいて、このサルが見物人に食物をねだりまして、一人がポンとアンパンを投げてやりました。
子ザルがこのアンパンを取ろうとした時、その背後から、身体の大きなボスザルが近づいてきて、「ウウッ」と小さくうなると、子ザルはパッと逃げて、ボスザルはそのアンパンを取ってしまったのです。
この時、この子ザルは、「このアンパンは私のものだ。なぜならば、見物人は私の愛らしさに対し、このパンを与えたのであって、それをあなたが横から取り上げるのは不当である!」などとは主張しませんでした。なぜなら、そんなことをしたら、このボスザルにひどい目にあうからです。
この場合、子ザルは、ボスザルと自分の力関係を計測したことになります。そして、相手に対し沈黙を守ることにより、自分の身を災難から逃れさしたのです。

「強い者が、より多く取る」というこの現象は「自然の法則」なのです。

これに対して「その者の過去の実績、貢献度などに相応して、その取り分が定められる」という方法は「人為の法則」であります。すなわち、これが「文明」であり、この意味では文明とは、自然に反抗する「人工的」なものなのです。

功績あるいは能力に応じて配分されることは「公平」を期すことであり「平等」なあつかいがなされたことです。

これに対して「自由」とは、自然の法則に任せることであり、それは平等と相反するのであります。すなわち、自由とは「放」あるいは「陽」あるいは「自然」であり、平等とは「把」あるいは「陰」あるいは「人工」なのです。

陰陽のはざまに

忘れてはならぬことは、私たち人間は、この陰陽のはざまの中に生きているということです。
私たちは、道徳、正義などの「人工的」なものばかりの中では住めず、さりとて、自由、気ままばかりの「自然的」なものの中ばかりにも住めないのです。
ところが多くの人は、人工的なるものを、絶対的な「道」のように錯覚するのです。そして、それを立てようとして、しばしば「身のほどを知らずして」それを、自分より強い者に対して、激しく主張します。この時、この人は、自分と相手の力関係を、第三者の目をもって観察するという余裕を持っていません。

例えば、平の会社員が会社の上司に対して、その上司のとったある態度が、人間として下劣であると糾弾したら、どうなるでしょうか?
不快の念をもった上司は、他日、彼にその報復をすることでしょう。こうして、その人は「衰運の人」となるのです。

サル山のボスにあった自然の力は、私たち人間界にも依然として働いているのです。この意味で「私たちは決して自然を征服することなどは出来ない。ただ出来るのは、自然を利用することだけだ」といったある唯物論者の言葉にも耳を傾けるべきでしょう。

自然といえば、そびえる髙い山、あるいは大森林、また大暴風雨などのみ連想しがちですが、実はこんなところにも、自然の力、その法則は厳然として働いているのであります。

自然の力を無視し、人為の道をもって立とうとする者は「陰気」のみの世界を樹立しようとする努力家であって、それは「万象存在の法則」からいってあり得ぬことであり、これを強行する者はきっと身をほろぼすに至ります。
[出典:唯心円成会伝法講義]

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