無能唱元

【無能唱元・伝法講義録 028】象徴の持つ二つの顔

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夢判断の警告

も前回に引きつづき、「夢」がテ—マとなり、今回は特に、夢を判断する際の手引き、あるいは事典のようなものを提示したいのですが、ここで、もう一度みなさんに警告したいのは
「夢のシンボルは、人が違えば、決して同じものを意味しない」という点です。
その夢が、その人の意識上に生じた時、その意味性は、他人のそれと全く相反する場合さえあるのです。
しかしながら、ユングの「六つの元型」でも示されるとおり、万物の持つ(というより、それに対して人間が抱く)象徴性は、大まかな分類は出来るものです。
問題は、その幾つかのベ—シック(土台的)なものを拾い出し、その人のそのケ—スに当てはめ、想像力を駆使し、活断を導き出す点にあるといえましょう。

象徴の持つ二つの顔

「象徴」この言葉の意味することから、まず考えてみましょう。
これはーロにいえば「名詞をもって、形容詞の働きをする」ということになりましょう。 例えば、今ここで、幾つかの名詞をあげ、それについての普遍的なイメージを考えてみましよう。

「岩」この名詞について、じっと考えてみます。まず、ごく当り前の形容詞として「固い」「ごつい」「不動の」「冷たい」などが思い浮べられるでしよう。

次にこれに、人間的感情の要素を加えてみるのです。いい代えれば、岩を擬人化してみるのです。
「岩の様相」について、イメージを浮かべてみましよう。
それは、まず男性的であり、強さ、意志力などを示していることが解ります。

ところで、ここで、この象徴性が示す重大な点について触れることになります。それは、この岩のイメージから「二つの相反する感情」が生ずる、という点です。換言すれば、これは、一つの象徴にはニつの答え」があるという意味です。

すなわち、岩のイメージは、その男性的、強大さ、意志力、などの様相から、その夢を見ている当事者は①頼りがいのある、と感ずるか、あるいは、②取りつくしまのない、と拒絶反応を覚えるかという二種類に分かれるのです。

つまり、ここにも、宇宙原理「陰陽の法則」は厳として存在しているのです。万物、万象の一つ一つには、それ自身、二つの顔、すなわち「陰」と「陽」の二面が備わっている、という訳です。

これをもっと簡単にいえば、岩は、ある時には笑い、ある時には怒っているのだ、ということになります。
ここで、この陰陽のいずれの面に、この夢の当事者はあるのか、ということを判断する必要性が生じてきます。

この判断をするには、まず、その人の日常的思考のあり方と、その夢の中にあった時の感情のあり方の二面から考察することが必要です。
その人の日常が多分に否定的な思考の連続であるならば、その夢は、マイナスの要素を示していることが多いのです。すなわち、岩の例でいうならば「取りつくしまのない」方を意味する可能性が強いのです。

そして、夢の中で見たその岩が、囘じ岩でも「ゴツゴツした肌ざわりの痛そうなもの」か「スベスベとした肌ざわりのよさそうなもの」か、などの点、つまり、その時の知覚的感情が間題になってきます。
すなわち、その時、受けた印象が重要になってくるのです。この印象のあり方を探ることによって、その岩は「笑っていた」のか「怒っていた」のかの判断がついてきます。

もう一つの例として「雨」について考えてみましょう。
雨はまず「恵み」が考えられ、豊かさ、繁栄の象徴であるといえます。それは大地<女性>と結び、新しい生命の誕生を暗示します。
しかし、この反面、ノアの箱舟に見るような破壊の力も示し、一切を洗い流してしまうようなところもあります。
この両者の違いも、その降り方を見た時の印象によって判断されます。つまり、それを見た時の情緖性が問題になるのです。

緑野にしとしとと降りそそぐ雨は「恵み」を示し、黒雲と共に荒れ狂う風雨は「破壊」を意味します。要は、その夢の際の、感情的知覚がそれを左右する訳です。

万有生霊

以上述べたことがらから、岩や雨などの無機物も、まるで生き物のような感じがすると思われたことでしょう。
これは正にその通りなのです。夢の世界では万物はすべて生きていて、そこに生命力あるいは生命的感情の動きが認められます。

仏教では「万有生霊(ばんゆうしょうれい)」といって、万物には、すべて霊というものが宿っているといっておりますが、これは少なくとも夢の世界では肯定できることです。
なぜかというと、夢の世界は、その夢見る当事者個人の世界であり、それは、その当事者自身の意識内において創造された「個人の世界」だからです。

そして、その夢の中に出てくるすべての事物は、その夢見る当事者の「分身」でもあるのです。
それらは、意識的、あるいは無意識的に演出された、その当事者自身の心の一部が象徴的表現されたものなのです。
これは夢の中の人物像についてもいえる訳で、例えば、そこに登場した他人は、自分の分身、あるいは自分の一部でもあるのです。それで、よく落ちついて、それらの人物を考察するならば、そこに自分自身の姿を写し出して見ることも出来ましょう。

また、それが、山や川、木や道具などの物であっても、それは、自分の心の一部の表現されたものである場合が多いのです。そして、その時、その象徴夢を知覚できた時、私たちは自分の意識下の世界のある動きをさぐり当てることが出来るのです。

以上の事柄から、夢の分析をする最大のヒケツは「万物を擬人化する」ことにあることが解ってきます。

すなわち、石でも、空でも、水でも、無機的なるものでも、すべては、感情、意志などを有し、その個性も有した一個の人間的存在のように、それらを見るのです。

そして次に大切なことは、そこに生じるイメージは、出来るだけ「普遍的なもの」であるよう努めねばならないという点です。つまり、それは、あなた一人の個人的なものでなく、出来るだけ多勢の人に共通なイメージでなければならない、ということです。

しかし、これも基本的にそうあるべきなのであって、夢分析を更に深く突っ込んで行くと、その夢の当事者が抱いている、あるものに対するイメージが全く普遍的なものと逆行する特殊なタイプのものであることがあり、こうなると、いわゆる元型としての分類法は誤りを生ずることさえあることに注意しなければなりません。

一例をあげれば、蛇は一般に「気味悪い」「不死身のエネルギ—」などを示すものですが、ある特別な人にとっては「愛らしい」「保護すべき」動物のように感じられる場合もあるのです。この場合、蛇に対する、この人のイメージは、特殊なものと考慮せざるを得ません。

イメージ・タンク

人間とは、内部にイメージ・タンクを抱いて生きているものだ、と考えることも出来ます。
私たちは、このタンクの中の内容物を材料として、さまざまな人生を創り上げてLtくのです。
タンクの内容物は、おおむね、他の人と共通する部分もあり、また、その人個有の部分もあります。前者は固定的であまり変化せず、後者は流動的で変化しやすいのです。しかし、この両者とも、その人の人生を動かして行く原動力であることに変わりはありません。

私たちは日常、目に見える世界で生活していて、目に見えるものが大切なものであると思いがちだが、実は目に見えないイメージによって物事を決定し、イメージによって行動していることのほうが、はるかに多いのである。

たとえば、ある人とは友だちになり、ある人からは遠ざかろうとするのは、ある人はあなたにとって好ましいイメージを待っているからであり、ある人はあなたにとって好ましくないイメージを待っているからである。また人が結婚するのは、二人で営む「将来」というイメージがあり、「家庭」や「子供」というイメージが心の中にあるからである。

電話で話をすれば、あなたの心の中には電話線の先で話をしている相手のイメージが絶えず浮かび上がっているし、旧友からの久しぶりの手紙を受けとれば、すなわち学校時代のその友人の悪童ぶりがイメージとして浮かび上がってくる。

昔、ロボット印という両刃のカミソリの刃があったが、たちまちフェザーというブランドによってて追放されて姿を消してしまった。ロボットという名前をつけた人たちは、ロボットのように機械的に精密にといったイメージをお客に訴えようとしたのだろうが、お客は、フェザーという、羽のように軽やかなタッチの刃ざわりのほうが好ましいと思えたのである。
[出典:夢の秘密―もう一人のあなたを探る/階喬(ダイナミック・セラーズ)1981年]

私たちは、自分の抱いているイメージによって、突き動かされ、日常生活をそこに展開して行くのです。
そして、夢がそれを一つの暗示として、私たちに教えてくれもしているのです。
自分の抱いているイメージがあまりに反社会的であったり、また、特定のある人との間に異和を生ずるものであったりした時、夢はそれを象徴をもって、その人に告げることがあります。
また、あるイメージが、その人の健康を阻害するようなものであった場合、それを夢は象徴をもって警告することもあります。
いずれにしても、夢に対して注意を払うという日常的態度は、自己の内面の世界に注意を払うということであって、ぜひそうあって欲しいものであります。
[出典:唯心円成会伝法講義]

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