無能唱元

【無能唱元・伝法講義録 034】白日夢

更新日:

情解(じょうかい)

人間の感情について、少々考察してみたいと思います。
都会から田舎へやって来た青年が、しょっちゅう、せかせかと動き回り、また会話や態度もせかせかしているのを見て、その土地の老人が「なぜ、われは一向にそのように、しみじみとせんのか?」と尋ねました。
これは私が昔読んだある小説の一場面ですが、ここで注目したいのは「しみじみとする」という言葉です。

しみじみとするというのはどういう意味でしょうか?
それは何かを「深く賞(め)でる」ことであり、そしてそのためには、自己の心境が落ちついた状態になければならないのです。

例えば、花を見るのに、ただ漠然と見て、その場を通過してしまうのも、立ち止まって、じっくりと観賞するのも、これは同じように、「見る」という動作には違いはないのですが、明らかに後者は「賞でる」という心的態度がある点で、前者とはその心のあり方が異なっております。

おいしいものを食べるにも、目で味わい、風味をかぎ、じっくりと舌で味わうのは、いそいで、あるいは無感動に食事をすませてしまうこととは、やはり異なっています。

「理解」という言葉は、ものごとを理性の分野で判断することをいいます。それは、計算や言語を用いて、ものごとを分解整理し、はっきりと解ることです。

この理解に対し、わが円成会は、普通、世間では用いていない特別な術語「情解」という言葉を設定し、使用しているのです。

情解とは、感情の分野で、外界からの刺戟を深く、じっくりと味わうことを意味しております。

それは、言語や計算では、しばしば表現しがたく、また、他人にその感じを伝えるのに困難を覚える場合があります。

それは、混沌とした内的世界であり、しかし、この混沌の中より、さまざまなアイデアや、芸術も生れ出くるのです。

しかし、そこは、漠然とし、また不安定でもある故に、人間の不信を招く世界でもあります。人間は、その世界に意識がある時、しばしば、理由の解らない不安感に襲われることがあるものです。

そこで多くの人々は、理性こそ、信頼し得る唯一のより処であると思うのです。そして、合理的であることが、最高の価値基準の決定法であると信ずるに至ります。

これらの人々は、理性的であることに誇りを持ち、そして、理性的であることのみが、人間として必要であると考えております。

しばしば、これらの人々は、芸術的なものを蔑視するか、あるいは無関心ですが、これらは、それらのものが「非生産的なもの」であるという理由によるものです。

そして、このように、生産をすべてに優先させるという考え方は、明らかに理性的判断によるものであり、また、合理的な考え方をしているともいえるのです。

しかし、この点について、当会は、次のような重大な警告を発せざるを得ないのです。それは、「内面的世界をなおざりにしていると心が荒(すさ)んでくる」という事実です。

この内面的な世界の荒みは、普通、当人にはその症状が自覚されていないという点で、精神病者と似た一面を持っております。つまり卑俗的な言葉でいえば「気狂いは自分を気狂いだとは思っていない」のです。

しかし、その症状そのものは、確実に肉体的、あるいは現象的に現れてくるものです。
いらいらしたり、怒りっぽくなったり、どうきや冷汗が多くなり、何とはなしに息苦しくなり、気分は悲観的になります。また、人的関係にも調和の乱れが生じ始めることが多いのです。

一言でいうならば、人間は外面的世界にのみ生き、内面的世界をなおざりにしていると、逆に、外面的世界つまり日常生活上に乱れが生じてくるのです。

次の引用文をご参考ください。ここでは、外面的世界を「表現と判断」の場と呼び、内面的世界を「知覚を働かせる」場と呼び、その両者を活動させるものは、魂という一種のエネルギー体であると述べていることは、大変興味深いことです。

それはもし魂がもっぱら表象と判断だけの生活を続け、知覚を働かせる機会が少なくなりますと、その魂はだんだん枯渇し、弱くなっていくという事実です。
なぜかというと、判断というのは、ある客観的な結論だけで終わるのですから、その結論に魂が自分を無にして従わなければ、判断にならないわけです。

ですから何らかの意味で表象活動をする場合、数学の問題をとく場合でもいいし、あるいは人文科学系の思想書を読む場合でもいいのですけれども、そういうものを一生懸命読んでいる場合、その人間の魂の営みは、いつもなにか別なものに奉仕するというかたちをとりますから、前に述べたように、神経組織は活発に働くかわりに、新陳代謝や性的本能はそれによって弱まって~いくわけです。

ですから思考作業はわれわれの生命活動から言うと、死へのプロセスであり、それに対して情動作用は、知られざる無意識の深みから意識の方にあらわれてくる生へのプロセスなのです。

しかしこの営みは、主観的です。判断が客観的であるのに対して、主観的なわけです。それでわれわれはそういう矛盾した二つの精神の営みを持っていることになります。しかしこの二つは、或る別な第三の精神の営みによって統一されることができます。

それは情動作用がいったん知覚の門にぶつかって、そしてもどるときに、同時に判断が、客観的な判断が働いているような場合、しかもそのとき情動も満足をもって終わるような場合です。

それは美的体験、芸術体験の場合です。芸術体験がが生活体験に対してもっている意味というのは、そういうところにあって、それは情動の低さを基本としながら、同時に表象と判断をいつも伴っているために、客観的な結論と情動の満足とが同時にあらわれうる唯一の魂の営みなのです。

それ以外の場合には、一方では自分を客観的にする表象活動ばかりすることによって、たとえば偉大な学者になったり、社会人として立派な仕事をしたりはできるかもしれないけれども、当然その立派な仕事をすることの代償として、自分の内面生活をだんだん荒廃させていきます。

ところが他方ではそういうことを一切しないで、社会から眼をそむけ、自分の満足だけを追求していくと、こんどは自分自身が社会的な営みをもてないために、いわゆる良心の呵責を絶えず背負っていなければならなくなります。

この両方の均衡をとることが生活の知恵になるわけですが、それは特に、美的判断を働かせることによって可能になるのです。

したがって美的判断は、神秘学にとって一つの基本的な意味をもつようになります。芸術をやっている人は、神秘学に対して非常に感受性がゆたかになっているのです。

[出典:神秘学講義/高橋厳(角川書店)1980]

ここでは、外面的世界を思考活動であるとし、内面的世界を情動活動であるといっている点が注目されます。
更に衝撃的なのは、思考は生命活動としては「死へのプロセス」(進行過程)であると述べている点です。そして情動は無意識よりの誕生の故をもって、生への過程であるとしているのです。
そして、この相反する二つの精神活動を統一するのは、第三の精神の営みとしての「美的体験」である、としているのであります。

揺心の法(美的体験を増幅させる)

情解をうながす一つの手段として、わが円成会には「揺心の法」という自己意識コントロールの一法があります。
これはいわば、「花を積極的に賞でる」という心的活動を更に拡大したものなのです。これは、自分の心、感情面の働きを意志的にまず揺さぶりかける、そして、その情動をより大きく発展させようと計るのであります。
この揺心の法を最も効果的に行うためには一つの秘訣があります。それは、心的活動の際には、なるべく言葉を使わないということです。
勿論、全然、言語を使わない思考活動ということは殆どありえませんが、これをなるべく使わないで、「映像」をもって考えるようにするのです。

例えば、花瓶にささっている一輪の花を眺めている内に、昔、遊んだことのある湖はんや、そこでキャンプしたこと、友達とボートに乗ったことを思い出したとすれば、それは映像的にそれを思い描いているわけで、そこには、言語的思考の流れはかなり少なくなる筈です。

このような思考活動を自由連想というのですが、この連想を絵をもってつづって行く、そして時には、それが架空の想像にも発展して行く、とこのように意識を働かすのが、揺心の法の秘訣なのです。
この揺心の法を時々に行なうことは、日常生活における美的体験を増幅させることであり、それは私たちの感性の情解を助けるもととなり、ひいては、外面的世界に固執することによって招いた魂の枯渇を救う手段ともなるのであります。

夢心の法(白日夢のすすめ)

夢想状態というものが、心身のストレス解除に非常に有効であることが説かれてあります。
揺心の法とは、自分の感覚といいますか、その意識の部分を揺さぶり、快感のきっかけとなる情動を起こそうと計るところにその意義があります。
花を見た時、それを単に見るだけではなく、敢えてそれに接近し、それを賞でようと自分自身を動機づけるという行為がそれを示しております。

しかし、このきっかけをもって出発した自由連想も次々と発展して行きますと、それは夢想状態となり、あたかも、白日夢を見ているような意識感覚を体験するようになります。このような夢想状態は実は心身のストレス解除に非常に有効なことは、あまり人々に知られていない事実です。

無論、われわれは、日常生活において、いつでもどこでも夢想状態であっては困ります。それでは生産的な仕事や、緊急を要する仕事の場合の差しつかえとなってしまうことは当然のことです。
しかし、時にはこのような日常的な問題より、しばしわが身を遠去けて、白日夢にふけることは健康を回復させることに大きな力があるのです。

若い日、男女を問わず、ほとんどの人は空想にふけったものです。特に幼時は、物語の中の人物と自分自身をすっかり同化させてしまい、うっとりとその中に自分の時を過ごします。少年少女時代も、未来の自分の姿を空想の世界にダブらせたり、また活劇ドラマに自分を登場させたりするものです。
その青春の日々は、いかに生き生きとしたものであったか!若き日は夢想の炎で色どられ、私たちは身も心も浮きうきしたものでした。

そして、年をへるとともに、その夢想の炎は現実の冷気によって色あせ、すなわち、心の老化がそこに訪れるのです。
次の引用文は、実は私自身が若い日に書いた小説の一部分です。ここには、私の少年時代がいかに空想癖の強いものであったかが示されております。

僕は少し以前に見た、あるギャング映画のことを、色々、思い出してみる。それは、「湖中の女」という題名だった。最後のクラィマックス、ギャングは、いよいよ、その正体を現した。女は助けてくれと哀願する。非情なギャングは引き金を引く。銃声が一発、また一発。そして女は、両手で腹をおさえ、徐々に身をかがめて行き、床に小さくうずくまり、やがて、ぐたりと伸びて死ぬ。
一発、また一発。僕は、右手を腰に当て、人差し指を曲げ、架空の拳銃を乱射している。自分はそのギャングになってしまっているのだ。何の表情も浮べぬ、はちゅう類のような顔。冷めたい眼。
ぐい、ぐい、と僕は人差し指の引き金を引いている。ああ、その女は遂に死んだ。
僕は道路を見つめて、のろのろと歩いている。しかし道路へは眼が向いているだけで何も見てはいない。そして、そこは誰とも行き会わぬ山道だった。
僕は、遠い山波を眺め、ついで近くの町へその眼を移してくる。そして、僕の空想遊戯はここで先ず、一休みするのだった。
時にはこんな馬鹿げた真似をしている自分が恐ろしくいやになることもある。こんな、英雄ごっこをしている自分が実は臆病者であることを思い出すからだ。僕は自分が本当は気が小さいことを知っている。
だが、相変らず、僕はいつの間にか、空想をし始め、冒険の夢の世界をさまよっていた。

このような空想の内容は、年配者のそれとは当然異なるものです。少年の日の空想はそのまま年を取った世代へ受けつがれるものではないでしょう。
しかし、その空想は「取りとめがない」という点においては一致しているのです。そして、この取りとめがない、あるいは現実にはあり得ないようなことが空想の特徴とするところでもあります。
空想が心身の健康回復に力がある理由には、次の三つのことが考えられます。
その一は、まずリラックスしていることです。その二は、現実的問題から意識が離れていることです。その三は、心身に快感が生じていることです。
次の引用文を参考にしてください。


アメリカで注目!「白日夢」健康法

会社の机にすわって、ぼんやりと窓の外を見ていると、「おい、何をぼんやりしている?」と肩をたたかれる。ハッとわれに返って言う。「いま、ヨットに乗って海の上を気持ちよくすべっていたのさ」
こんなことを1日に1〜2回やってみたらどうだろう。「おまえ、どうかしちゃったんじゃないか」と驚かれそうではあるが、こうして現実を離れて白日夢を見ることは、心身の健康によいとシンガー博士(エール大学心理研究室)は言っている。
たとえば以下のような実用的な利用法もある。
やせたいと考えている人は、パイやアイスクリー厶の出る会合に出席する前に、自分がやせていいスタイルになり、友だちにほめられている光景をいろいろと空想してみる。その空想にひたってから会合に出ると、アイスクリー厶などには自然に手が出なくなるものだ。また、電話恐怖症の人は、自分がうまく、格好よく話しているところを空想することで、恐怖症の克服に役立つ。

こういった白日夢はストレスの痛みみから解放されるのにも役立つ。狭心症の人で、まるで象が胸の上に乘っているみたいだと感じている人に、ブレスラ—博士(「痛みを克服する法」の著者)は、象の体をとかすえさを自分が与えている白日夢を見させるようにした。すると象は小さくなっていき、痛みもそれにつれて消えてきたのだ。
フロリダ大学のモーガン教授は、白日夢の効用としてさらに、「隠れた自分を発見させたり、将来のプランのヒントを与えたりもしてくれる」と言っている。(プリベンション)
[出典:「健康4月号」主婦の友社刊 1957年]

以上の引用文が示すとおり、空想には心身を活性化させる大きな力があるのです。
そこで、わが円成会では揺心の法を更に延長拡大して、この夢想状態になる心的テクニックを称して「夢心の法」と名付けたのです。

笑心の法

ここでもう少し健康面についての解説を続けることと致しましょう。
次にご紹介するのは「笑心の法」です。
笑いは人間関係の潤滑剤として欠くことが出来ないばかりでなく、それは健康にとっても大きな影響力を与えるものであることは一般によく知られていることです。
大きく笑うことは、まず深呼吸させ、肺などの循環器系統に良い剌激を与えます。そして、胃を活動的にさせ、消化を助けます。そして、これは一般的にあまりよく知られていないことですが、身体の細胞を活性化させるための化学物質が体内で生産されるのです。

さて、人間は、その気分が陽である時は、外部からの悪い刺激に対しては、これを排除する抵抗力を持っており、それは体内で生産される種々の物質によって身を守っていることによるのです。
この逆に、気分が陰に落ち入る時は、かえって、身をそこなう化学物質を生産し、病気に対する抵抗力は大きく後退してしまうのです。
気分が陽であるか、陰であるかは、心のあり方、その動きによるものであり、それはあくまで内部的な問題なのですが、これを外部から人為的に矯正して行けるものは、自己に笑いをもたらそうという意志、すなわち「笑心の法」なのであります。
次の引用文をお読みください。

「実際には、われわれはいつも徽菌やウイルスにとりまかれています」とニューヨークのマウント・サイナイ医科大学精神医学部長マービン・スタイン博士は言う。「しかし、徽菌やウイルスに接したからといって、必ずしも病気になるわけではありません。しかし、不安や怒り等、好ましくない感情に支配されている場合には、それらに対する抵抗力が、少なくともある程度は弱められるようです。そうなると病気にかかってしまうわけです。
好ましくない感情が身体の抵抗力を弱めるのだとすれば、愛、希望、信仰、生き抜こうとする意志等、には、逆に抵抗力を高める働きがあるのだろうか?
一つの興味深い例を紹介しよう。かって「サタデー・レビュー誌の編集長だったノーマンカズンズは1964年に、体がきかなくなる、めずらしい不治の病気にかかって入院した。好ましくない感情が体に悪いことを知っていたカズンズは、それでは逆に好ましい感情を抱けば治療効果があるのではないかと考えたのだ。
カズンズは映写機を借り出して古い喜劇映画を見たり、ユーモア小説の類を読んでみたりした。
彼は驚くべき発見をすることになった。「十分間腹をかかえて笑うと、少なくとも二時間は、痛みにさまたげられることなく安眠できた」のである。彼は主治医と相談して作り上げた養生法の一部に笑いを組織的にとり入れてみた。すると驚いたことには、病状は快方に向かったのである。それから17年たった今も、カズンズはほとんど痛みから解放され、元気に活躍している。

[出典:リーダーズ・ダイジェスト/1982年7月号~心この神秘なるもの]

強制的に自分に笑いを課した場合ですら、このような素晴らしい治療効果を上げるのです。ましてや、心の底から笑うことが出来たら、人生の健康はこれに勝るものはありますまい。
このように、笑いという行為には、人間の肉体を健康にするのに非常に大きな力があるのですが、この他に、普通、人々によく知られているのは、人間関係の調和に関しても、好ましい影響力が強く働くという事実です。
すなわち、それは「ユーモア」と呼ばれるものです。

白日夢の技法

さらに、この白日夢を更に発展させ、それを「自覚夢」とし、そこに霊的な超能力を開眼しようという試みがあるのです。

まず、壁か柱に背をぴったりとつけて、円成会の瞑想ポーズをとります。
背中は、後頭部からお尻まで、ぴったりと壁にくっつけるのです。座布は薄いものがよろしい。
目を閉じて、数息観十句を行なってください。そして、全身の力を、両腕からだんだんと抜いて行き、静かに呼吸をととのえます。

次に、「体感覚」の移動を行ないます。
まず、目を閉じたまま、自分の額の中央を内側から見つめて、数秒間そのままに見ております。
次に、視線を一寸落として、眉と眉の間を見つめます。ここも数秒で、その部分にある感覚を得たら更に下にくだり、こんどは鼻の頭を内側から見つめるようにするのです。
次に、上唇の先端、そして、あごの先。このあとは、内側から見つめるというより、体表のそれぞれのポイントを感覚として捕えて行きます。
のどの中央、いわゆるのどぼとけの上へ感覚を捕え、この頃から、頭をやや前にうつむけて行きます。

次に胸の中央、そして、みずおち、更にくだって上腹部(みずおちと臍の中間)と移り、頭はだんだんと前にうなだれ、ついで、臍、下腹部の中央へ来て、ここで止まります。
この臍下丹田が、最後のポイントで、ここへ来たら、頭は首の力をすっかり抜いて、前にがくりと垂れるようにするのです。
体感覚の移動は、ポイントからポイントへ移るというより、ゆっくりと線を引いて流れくだってくるという感じにならなければなりません。

ここで、心の中で「夢を見る」と呟くのです。そして、ぼんやりとリラックスしたまま、何かの影像が湧き出すのを待ちながら、居眠りの状態に入って行くのであります。

どうも影像がうまく現われてこない場合は、もう一度、額の中央から体感覚の移動をくり返しても良いのです。
頭を前に垂れたまま、すっかりリラックスして、眠気がおとずれてくるのを待ちます。そして、待ちながら、影像が発生してくるのも待つのです。

この時、次のような言葉を心の中で吱きます。「私は夢を見ていることを知っている」
しばらくすると、何かの影像が現れ始めます。たいていの場合、それは断片的なもので、何の脈絡もない、景色や事物の一部分が、チラッ、チラッと見えてくるものです。
あるいは模様のようなものが現れるかもしれません。または、まだ明確な形にならないものが動いているように感じられることがあります。
多くの場合、それは予期しない、意外な形のもの、ある部分的影像で現れます。または見たこともない不思議なものであったりします。

この時、必要な心構えとして、ただそれをぼんやりと眺めている、ということが望ましいのです。
というのは、その出現した影像を、もっとよく見たいと思って、それに意識をこらしたりすると、せっかくトランス状態になった意識がまた目覚めの状態へ戻ってしまうからです。こうなると、その心的影像は、フッと消えてしまいます。
このあいまいな影像を、そのままに放置していると、影像は全体性をもった景色に変わってきます。あるいは人物が見えてきます。

この時、自分が今夢を見ているのだ、という意識がフーッと消えて行き、それに合わせて、その夢の像がはっきりとしてくるのです。つまり、「自覚と夢は反作用をもって、交互に登場しやすい」のです。

この相反する二つの意識を、同時的につなぎとめようとするのが、この白日夢のコツです。最初は当然うまく行きません。ただ、くり返し行なっていると、だんだん上手になり、自意識の操作、そのコントロールのやり方がのみ込めてくるものです。

焦りは禁物です。何かが出てこない、といって少しでもいらいらすると、トランス状態はただちに覚醒へと向いてしまいます。
ただ放置し、自然発生にまかせているという態度こそ大切です。こうしていれば必ず、何かの影像は得られる筈です。

やがて、その影像は、やや物語り的な流れを持ち始めます。
そうなっても、それをせんさくや分析をしないで、ただぼんやりと眺めていることが必要です。
以上が、この白日夢の基本的なやり方です。時間はあまり長くない方がよろしい。だいたい、五分から十五分間ぐらいのところで切り上げてください。
終わったら、大きく伸びをして、深呼吸をし、目をはっきりと覚めさせます。

ここで大切なことが一つあります。それは、今見た夢を、ノー卜につけておく、ということです。
これは、夢を思い出すという行為であり、これを必ずやるということは、自覚夢を上達させるためには是非とも必要なのです。
というのは、夢の世界というものは、目覚めの世界へ移る際に、多くの記憶を失わせてから、意識を解放するという特質を持っているからです。
つまり、夢の世界と目覚めの世界は、このようにして、ある境界線が引かれているのであり、その間に、ある通行路をつけようというのが、この白日夢の目的なのです。

白日夢への発展

次の段階へ進みます。
前記の白日夢がかなり容易になってきたら、こんどは、「見るべきものを指定する」のです。
指定するものは何でも良いのですが、ただ大切なことは、そのものがなるべく普遍性を持っている、という点です。例えば、「フネ」と指定した場合、それをただ、フネとだけ指定して夢に入るので、それが貨物船あるいはヨットなどのように、ある一種類のものに決めないことです。そして、夢に入ってから、どんなフネが登場してくるかは、夢の世界そのものの手にゆだねてしまうのであります。
では、ここで、アメリカのある瞑想センターで行なっている夢見の指導のありさまについて、少々次に紹介してみましよう。

クリフの指示が始まる。
「みなさん、一隻の船を想像して下さい。あなた方を旅につれていこうと待機している船です。あなたがたはその船へ乗ります。船はあなたがたをどこかへつれていってくれます。あなたがたが想像するどんなところへもつれていってくれます。あなたがたの一人一人は、おそらく別々のことが起こります。ある人々は目的地へ到着するでしょう。しかしまたある人々は、おそらくは、目的地へ到着しないでしょう。

あなたがたの心を、自由に遊ばせ、さまよわせて下さい。そして心がいきたいところへ、あなたをつれていかせてください。あなたがしたい、見たいことに制限をつけてはいけません。何を感じる、どこにいるということに制限をつけてはいけません」

部屋のなかには快い静寂と沈黙が憩っている。ときどき、深い呼吸音が静寂を破るだけである。
わたしたちはみんなじっと腰かけている。それぞれが特別の旅行の夢を昆ている。この本の読者であるあなたがどこにいようと、あなたがこの章を読み終えるまでの間、あなたもこの部屋の一同と同じように、旅の夢を見つづけているものと仮定しよう。わたしたちはたぶん、五分ないしもうすこし、腰かけながら夢を昆ている。実際にやってみれば分るが、相当に長い峙間である。しかし誰もそわそわ落ち着かない様子はしていない。五分ないし六分、七分経ち、クリフが、さあ現在へ戻りましょうと暗示すると、一同はむしろしぶしぶと眼を開けるのである。

クリフはすぐに一同に訊ねる。さあ、どなたか、いま見た夢の旅をみんなと共有したいと思う方はいませんか?たぶん一つか二つ手が上がる。しかしわたしたちのほとんどはおそらく読者もそうだろう―わたしたちの夢の航海が実に奇怪なひねり、ゆがみ、転回をしていることを知り、ショックをうける。わたしたちのはとんどは、特に最初二、三回の夢セミナーのときはそうだが、それぞれの人の夢が、あまりに突っ拍子もない内容なので、ときには卑猥な色彩すら帯びているので、その人のはいまにも泣きだしたいような、笑いだしたいような、切断点に近づいているに相違ない、とあなたは思うだろう。ところが、いますぐ分かるように、そんなことはまったくないのだ。
このこと―不埒なとんでもない内容の夢が例外であるどころかむしろ常態であるということこそ、わたしたちが読者に極力強調したいことなのだ。

影像は断片的

よく誤解されることですが、夢の影像というものは、決して映画やテレビのように、鮮明な画面が動き流れて行くものではありません。
それはむしろ、断片的な部分のつながりであり、それはスライドの差しかえ的な連続であることが多いのです。それはまた、紙芝居的でもあり、その画と画とのつなぎは、言葉あるいは思考の変化で説明されることが多いものです。
ですから、時には、影像があまりはっきりと見えないこともあります。この意味で、夢とは、ある思索の流れが、説明と画面でつづられたものであるともいえましょう。
そして、一つの場面が次の場面との間に、何の脈絡もないことが多いのです。
また、ある物語の間に、混信夢つまり無意識層より、ある信号あるいは警告が、象徴物に託されて、まぎれ込んできたりして、流れは一層複雑になります。
こんな訳で、夢の世界は、目覚めの世界とは違って、合理的な首尾の一貫性はありません。
これはいいかえれば、動的なイメージには、形のはっきりした画の場合と、それはあいまいだが動きの感じが、はっきりと印象づけられるという場合が交錯して起こることが多いということです。
そして、トランス状態が深くなればなるほど、形としての画面は一層鮮明になり、そしてその形の画の場合はぐっと多くなり、あいまいな動きの部分は少なくなって行くのです。
しかし、このようになればなるほど、「私は今、この夢を見ているのだ」という自覚意識がその反作用として薄れて行くのも事実なので、ここが実に難しいところなのです。

[出典:唯心円成会伝法講義]

スポンサードリンク

スポンサードリンク

-無能唱元

Copyright© 青樹謙慈 , 2022 All Rights Reserved.