無能唱元

【無能唱元・伝法講義録 037】退嬰的願望

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退嬰的願望とその快感

再び、心の世界についての講述へと戻りましょう。そのテ—マは、苦を快楽のように感ずる人間の不思議な欲望についてです。

五才ぐらいの少年が泣いております。
声をあげ、涙を流し、それは悲しそうにないております。
大人が慰めの言葉をかけました。すると、少年は一層声をはりあげ、涙を流して泣くのです。
そのくり返しが行なわれ、やがて、大人たちは、少年を放置してしまいます。少年はしゃくりあげながら、涙を流しつづけます。
この時、注意すると解るのですが、少年のこの泣くという行為には、一種の快感がともなっているのです。
その快感の原因は複雑です。大人たちを困らせているという、恨みをはらしている意識、自分を悲劇のヒ一口ーのように客観視して悲しみの涙を流している感情、それと、見のがせないことは、激情による気分の髙揚とそれによる生理的快感などです。

当会が、今までくり返し主張してきたことに、人間の持つ本能的欲求には、陽と陰の二つのタイプがあり、富や成功による喜びを望む陽的欲求と、失敗や死などの悲しみを追い求める陰的欲求があるのです。
この陰的欲求を「退嬰」あるいは「退行」的願望といいます。これについて、フロイトは次のような説明を与えております。

はるかな昔、生物がまだ生命を得ていない無生物であった時代を考えてみます。無生物がある理由により、生命を得た瞬間、そこには当然「緊張感」が発生する訳です。
緊張が一つの苦である時、生物は必然的にそこから逃れたいという欲求を持ち、この場合、もとの無生物に戻りたいという本能的な衝動を有しているというのです。
これが退嬰的願望で、その意識の働きには、死に対する願望が結びついています。すなわち、すベての生物は、生命のない(緊張のない)状態に戻りたいという根本的な衝動を有しているのです。
昔はやった流行歌に「アカシヤの木の下で、私は死にたい。雨に打たれ、朝陽の登る時、私の死体を、あなたは眺めて、涙を流してくれるでしょうか?」といった内容のものがありましたが、失恋の歌には、このようなパタ—ンのものが世界中にあります。

※⇒アカシアの雨がやむとき/西田佐知子(1960)

また、蛙などの小動物の中には、驚くと身体が硬直し、いわゆる「死んだ真似」という状が起きることがありますが、これも前記の説を裏書きしているものです。
また、仏教における「涅槃希求」も、この退嬰願望の一種と見ることが出来ましょう。

乱と整

誤解して欲しくないのは、当会は、このような退嬰的願望を、決して「良くないもの」として排除しようとしているのではないという点です。
陽陰はともに在りて、宇宙は発現しているのであり、その一方をのみ求め、他の一方をただ嫌うということは、宇宙の存在原理に反するのです。
躍動への願いと休息への望みは共にありて、リズムは創られるのです。同様に、生への執着と死への逃避の感情は、やはり生命感覚の一つのリズムを構成しているのです。
しかし、ここが大切なところですが、退嬰的感情の発生時点において、それには「乱」と「整」があるのです。そして、当会は、この乱を整えなければならないことを主張しているのであります。

芸術作品の多くは、それが何であれ、この退嬰的願望をその作品に表現することによって、その感情を昇華させたものです。
これは、その退嬰的感情が、よく整えられたことを証明するものです。
また、登山をしたり、都会から離れて淋しい土地へ旅行をしたりするのも、この退嬰的願望を処理しようという才覚の現れです。
一方、これが乱れると、それは自己をコントロールすることが出来なくなり、その人の生活は狂乱状態へと向かうことになります。
そして、不思議なことに、その当事者は、その狂乱状態を楽しんでいるようにさえ思えるのです。
そして、それは事実なのです。なぜなら、それらの人々は、退嬰的感情の快感に浸っているからなのです。

一口にいうならば、これらの人々は「みじめさを楽しんでいる」のであります。
例えぱ、自殺にも「つらあての死」というものがあり、これは、他人を自分の加害者とし、自分は最高に悲しい被害者であると考えた結果、この当事者の甘い悲しみの涙を求める感情は死の恐怖さえ乗り越えてしまうのです。
退嬰的感情の乱れは、さまざまな弊害をその人にもたらします。

仕事の失敗、人心の離反、災難、病気、そして、精神的障害がそれです。うつ病、分裂病的徴候が現れ、放っておくと、それは次第に嵩じて行くことになります。
そして、その行きつくところは、①狂人になる、②犯罪者になる、③自殺する、のいずれかになるのです。
このような乱れの進展をくい止めるのは、正にその当事者自身でしかないのです。医者も薬も、また精神修養も宗教も、それ自身は単なるアドバイザー(忠告者)にしか過ぎません。
ところが、当事者自身によるこのコントロールが実に難しいのです。なぜなら、そこには「生理的快感」がともなっているからです。
これは、かなり重症の精神分裂病患者の中にさえ見られる徴候で、たとえば、誰かが「だいぶ、病気が良くなったようだね」と慰めたりすると、それが大いに不満で、急に強い幻覚症状を示して、自分は依然として重症であることを証明したりするのです。

芸術への昇華

退嬰的願望における「乱」と「整」の区別は非常にはっきりしており、その見分け方は容易です。
すなわち「乱は、他人に不快感を与え、整は他人に好感を与える」ので、それを見れば、すぐ判るのです。
というのは、「乱」は自己中心的思考の中にこもって脱却できず、「整」は、自分の心より自分の真我が解脱して、自分自身を第三者の目をもって眺められる人によるからです。
前者「乱」は、退嬰的願望の直接的引き金である「怒り」「ねたみ」Iくやしさ」「恐れ」などの感情を、そのまま、もろに他人にぶつけます。そして、自身の心の乱れを、他人に伝染波及させようと計るのです。

「愚痴」「訴え」などの軽度のものから、「ヒステリー」「うつ痛」に進み、悪□雑言など、または皮肉屋、また巧みに人の心を傷つける話術などをへて、それが嵩じて手がつけられなくなると、狂人、犯罪者、自殺者などの廃人への道へと進んでしまうのであります。こうなると、正に手がつけられません。
一方、「整」のタイプは、まず,、自己の姿、自己の心情のあり方に注視するところから始まります。
そして、まず第一に注意することは、自分のその感情が、その表現に際して、他人の感情を傷つけたり、不快にしたりすることがないかと考慮するのです。

芸術的才分のある人は、それを作品にして昇華させます。激しい怒り、悲しみは、詩やドラマになって、しばしば、それを観賞する人々の心を打ち、快い涙を流させます。この時、この芸術作品は、その観賞者たちに、退嬰的願望を充足させ、その快感に浸らせているのです。

郷土! いま遠く郷土を望景すれば、萬感胸に迫つてくる。かなしき郷土よ。人人は私に情(つれ)なくして、いつも白い眼でにらんでゐた。單に私が無職であり、もしくは變人であるといふ理由をもつて、あはれな詩人を嘲辱し、私の背後(うしろ)から唾(つばき)をかけた。「あすこに白痴(ばか)が歩いて行く。」さう言つて人人が舌を出した。
少年の時から、この長い時日の間、私は環境の中に忍んでゐた。さうして世と人と自然を憎み、いつさいに叛いて行かうとする、卓拔なる超俗思想と、叛逆を好む烈しい思惟とが、いつしか私の心の隅に、鼠のやうに巣を食つていつた。

いかんぞ いかんぞ思惟をかへさん

人の怒のさびしさを、今こそ私は知るのである。さうして故郷の家をのがれ、ひとり都會の陸橋を渡つて行くとき、涙がゆゑ知らず流れてきた。えんえんたる鐵路の涯へ、汽車が走つて行くのである。

[出典:「純情小曲集」萩原朔太郎(大正13年)]

もし、このような芸術的才分がなくても、「整」のタイプの人は、その特徴として、「ものを賞でる」という性質を有しております。
例えば、美しい夕陽、澄み切った青空、雄大な山々の姿に、自己の退嬰的願望をダブらせ、そこに自分の感傷を昇華させるのです。
ふと見つけた路傍の小さな花に、美しさを見い出し、しばしそれを賞でる心のある人は幸いです。
「都忘れ」という紫色の小さな野菊は、多分、都会の生活に傷ついた人の心を、田舎生活において、慰めたところから付けられた名前ではないでしょうか?

[出典:唯心円成会伝法講義]

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