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【無能唱元・伝法講義録 039】霊界の分類

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霊界の分類

現世で悪いこと、不道徳な生涯を送った者は死後は地獄へ投げ入れられ、そこで永遠の罰を受ける。これは西洋も束洋も問わず世界中の宗教などが説いている地獄の教えだから私がわざわざ取上げて紹介するまでもないことであろう。しかし、これは私に言わせれば宗教のうえでの必要から作った作り話で少しも根拠はない仮空の話である。

私の記す地獄は、これとは全く違った地獄であり、その地獄は別に現世の悪業の報いとして投げ込まれる地獄でもなければ、また地獄に住むというサタン(悪魔の大王)やデビル(凶鬼)などにより永遠の苦しみをえられるという地獄でもない。
私の記す地獄はさっきも少しふれたように霊界の中の一つの世界として現実に存在する地獄であるからだ。

人間の死後精霊となった者のうち、どんな者が地獄へ行くかを一口にいうと、つまりは霊に眼ざめず、霊界の存在が見えない精霊たちだということになる。だが、彼らとて宗教の説くように現世で悪業を重ねたために、神のようなものによって罰として地獄へ行くわけではない。彼らは彼らの欲するところによって自ら地獄へ行くに過ぎない。
ただ、これら霊に真に眼ざめることのできない精霊の中には確かに現世で悪業を行なっていた者は全て含まれるから、その点では結果的、表面的には宗教の教えと同じことになるように見えるが実際の理由は、宗教のいうところとは全く違うのだ。

地獄へ行く精霊は、現世にあったとき、たとえば物質的欲望、色欲、世間的名誉欲とか支配欲などといった人間の外面的、表面的感覚を喜ばすことばかりに心を用い、本当の霊的なことがらを極端にないがしろにした者である。これらの者は霊的事物には全く眼が開かれなかったため、精霊界に入ってもやはり開かれない者が多い。このようなわけで彼らの精霊としての心は霊界の太陽の光や霊流を自分の内部に吸収することができない。そして精霊界にどんな長い期間いても彼らは霊界の太陽の光や熱の与える幸福や霊的理性の輝やきを感ずるようにはならず、逆にその間に、地獄界の火に心をひかれ、地獄界の凶霊たちに親しみを感ずるようになる。この結果として彼らは、自分の希望するところにしたがって、その自然の霊的な心の命ずるままに地獄界へ入って行くのである。これは人間でも似た者同士が集まるのと理由は全く同じなのだ。

地獄界の凶霊は霊界の光や霊流から霊としての喜びや幸福を感ずることができない代わりに、自分の欲望を満足させることを喜ぶ。これらの欲望は、他の凶霊を支配したり、他の霊に悪業を働いたり、あるいは他の霊の賞賛を得たりしたいといった人間でいえば外面的、物質界的な低級な欲望ばかりだが、それにしても幾ら低級な欲望とはいえ、これを満足させることは彼らには喜こびであることには間違いない。そこで、彼らは、これらを彼の"光"として永遠の生を送ることになる。

[出典:私は霊界を見て来た/E・スウェデンボルグ(今村光一訳)]

死後の世界を、天国と地獄に分けるのは、スウェデンボルグも、従来の観念と変わりないのですが、彼は、更に、天国の方に、幾つかの段階的なグループのあることを主張しているのです。
簡単にいうと、霊的グループと、天人的グループがあり、後者は前者よりもはるかに霊格が髙いのです。そしてしかもそれぞれのグループにも、第一天国、第二天国のように向上して行くべき段階があるのです。
死後、精霊界に入った霊が、天界へ行くか地獄への道を選ぶかは、「まったくの自由意志によって決められる」という彼の主張は一驚に値いするものです。

退嬰的願望と地獄

ここで特に注目すべきは、地獄へおもむき、そこで暮らすようになった霊たちは、そこにおいて地獄の暮らしに喜びを覚えているという点です。
彼らは、ののしりあい、傷つけあうことに快楽を見出し、その優劣をきそっているのです。
実は、考えてみれば、このような地獄は、すでに現世においても存在しているのであります。そして、このようなことに快感を覚えるのは、人間には「退嬰的願望」というものがあるからです。
殺す喜び、復瞽の快感、などのすさまじいものから、口論でやりこめること、皮肉や悪罵をあびせることなどの日常的なものまでが、この退嬰的願望の範囲にあるものであり、その願望を充足せんとして発動された行為であるのです。
すなわち、みなさん。「地獄は生きているうちから、すでに始まっている!」のであります。
そしてこのような日常生活の持ち主に「霊格の上昇はない」のです。そして更に、このような霊格の上昇なきものは、死後、自らの好みと選択において、地獄行きを希望することになるのです。
しかしながら、この退嬰的快感は、乱の内にある時は(これがすなわち地獄ですが)、一時的にそれを得ても、その直後に、虚しさ、やり切れなさなどの不幸感にさいなまれるのであり、この意味では退嬰的快感とは、あたかも麻薬的なものといえましょう。
すなわち、やはり古来からいわれるとおり「地獄の業火で身を焼かれる」ということはある訳です。
[出典:唯心円成会伝法講義]

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