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【無能唱元・伝法講義録 041】敗者には何もやるな

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今回講述致しますテーマは、多分、あなたにとっては驚くべき内容のものとなるでありましょう。
なぜなら、それは普通世間でいわれている論理、あるいは期待される社会像といったものと全く正反対の主張がそこに展開されるからなのです。そこで、あなたはもしかしたら、驚き、困惑し、あるいは怒りから反論の衝動さえ覚えるかも知れません。
しかし、最後まで、じっくりと今回の購義を読み終えるならば、当会がくり返し主張しているところの「身守術」について理解し、そしてその有用性また妥当性を納得してくださることと思うのです。
では、このような問題性のあるテーマに早速入ることに致しましょう。

敗者には何もやるな

「敗者」という意味は、広い意味での人生における失敗者のことを指します。
犯罪者が刑務所から出所したような重大な場合も、失恋して恋人を失った場合も、競馬などギャンブルで借金したものも、事業に失敗したものも、また、学校での問題児も、数え上げればきりがないのですが、要は何にせようまく行かなかった体験を有し、しかも、まだその件に関し、それを克服していない状態をここでは「敗者」と呼ぶのであります。
そして、当会は、このような敗者に対して何もやってはいけない、と一見実に苛酷極まりないことを主張しているのです。

「何もやってはいけない」とはどういうことでしょうか?
それは「お金」「チャンス」であり、場合によっては「なぐさめ」さえも与えてはいけないのです。
そして、次に重要なことですが、時によっては「愛」も、そして「憎しみ」も共に与えてはならないのです。この「愛憎共に断つ」という点は、この主張においては特に重大な意味を持ち、かつ難解なところでもありますので、これを記憶していてください。
ここで一つの事例を引いてみましょう。

山田大造さんは五十年配の事業家です。
数年前、彼の妹さんの夫が家を建てたのですが、そのローンが払えなくなって、サラ金から金を借り、やがてその利子が雪ダルマ式にふえてしまいました。
その夫の生活は荒れ、会社も退社になり、家庭生活は崩壊寸前となり、困り果てた妹さんは、兄の山田さんのところへ泣きついてきたのです。
そこで山田さんはまずそのサラ金を全部払ってやりました。そして次に銀行から金を借りてやり、それを住宅ローンの形式にして、毎月十五万円づつの返済ということに補償をしてやったのです。
更に失職していたその夫に、自分の会社での重要なポストを与え、月給でそのローンも払えるように配慮しました。

さて、みなさん、このような場合、この夫は、感謝の涙を流し、粉骨砕心、この救い主の山田さんのために働く、とお思いでしょうか?

答えは、ノーです。実は山田さんもそのようなことを期待して、この男に仕事を与えたのです。
最初のうちこそ、この男は感謝の意を表し、よく働くそぶりを見せたのですが、やがて会社の金を使い込み、在庫の品を横流ししたりして、会社に甚大な損害を与えました。
遂に、山田さんは彼に退社を命じ、その後、この男は、山田さんの悪口を他人にいいふらすようになったのです。

みなさん。私は人生相談の仕事をしております。そして、このようなケースについて何回も同じような話を聞いたものです。
何かに失敗し、困っている人間を救い、その人間に何らかのチャンスを与えた時、この人間は救い主の恩義にむくいるでしょうか?
いいえ、九十%の確率で、そういうことにはなりません。
それどころか、彼らは救い主に損窖を与えたり、迷惑を及ぼしたりするのです。そしてそのあげく、救い主を恨んだりする場合さえあるのです。

ではなぜ、このような状態が生ずるのでしょうか?
その答えは「敗者は常に敗者の特質を備えている」からなのです。
ここで当会がくり返し説いているところの因果律について思い返して下さい。

敗因

宇宙におけるあらゆる現象は、一つの因の果の姿であります。これはすなわち「因なきところに果なし」を示しているのであり、何事も原因なくして、その結果は生じ得ないのです。
失敗者についても、この法則はあてはまります。失敗者は、偶然に失敗したのではなく、その失敗する要因を一つのカルマ(業)として自分の内にかかえこんでいたのであり、その要因が縁を得
て発現し、その失敗という現象を体験したに過ぎないのです。
これはいい換えれば「敗者は敗因を内臓している者である」ということになりましょう。
その因の形とは無数にあり、すべてのケースについては説明しきれるものではありませんが、その最も大きな特徴として、しばしば見受けられるものに「他者に対する甘え」があります。これは他人は自分に尽くしてくれて当然である、という無意識的な固定観念がこの人を支配していることによって起こります。
「困っている人を助けるのは当然」とこのような人は考え、その困っている人に自分、あるいは自分の身内を適合させるのに、いささかのためらいも覚えません。これこそ、敗者が、その敗者になるための敗因の一大特質といえるのではないでしょうか?
これらの因が象となって現れているのを見抜くには、次のような行為があげられます。

①ひんぱんに遅刻する。
②安易に借金を申し込む。
③高いものを売りつける。
④恩を着せる。
⑤約束をたがえる。
⑥報酬に対して不平をいう。
⑦他人に金を払わせようとする。
⑧いいわけが多い。
⑨口と行動がともなわない。
⑩すぐ効果を求める。

ここにあげた十ヵ条は、すべて他者への甘えによって生じている行為です。
勿論、ここにある個条のどれかの部分が適合するからといって、それが即敗因となるものとはいえません。世間には、幾つもの他人から非難される悪癖あるいは悪徳といったものを備えつつ、それをそのままに超越して、成功者となっている人もおります。
しかし、それらの人は、そのハンデを越えるために、他の人の何倍もの努力、ある時にはそれは超人的でさえある努力をしなければならない場合があるのです。
敗因は無数にあり、甘えのみがその敗因のすべてではありません。しかし、それは人生における最も多いケースにおける敗因であることも確かなのです。

敗者は危険である

一般に世の多くの人々は、この宇宙におけるさまざまな現象を、その現象面として捕えることしかしないものです。
ということは、人々は、ものごとを結果としての面しか見ていないということであり、これは、とりもなおさず、肉眼で見える部分のみしか見ていないことになります。
宇宙の一大原理は「すべての現象は、原因があって生じた結果である」ということです。
失敗したものは、それがどのようなものであれ、そこには失敗した原因を自分自身に内蔵していた筈です。ところが多くの人々は、そして特にその失敗の当事者は、それを「ただたんに、運が悪かっただけなのだ」と思いたがるものです。これはつまり、それを偶然のせいにして、因果律というものを信じていないことになります。

前項の山田さんの例は、この失敗者を、その失敗の因縁をかかえたままの者に、そのまま重要なポストを与え、そして、その失敗をくり返す機会を提供したというところに、山田さんの失敗があるのです。

「失敗者は危険です」なぜなら、お金で失敗した者は、再びお金で失敗しやすい性質を帯びているからです。ですから、その失敗者に囘じお金に関して、あらゆる意味の援助を安易に与えることは、その失敗者に失敗のチャンスを与えるのと囘じことになってしまうのです。

敗者の側からの論理

一方、この考え方を、敗者の側から考えてみましょう。つまり、仮に自分が失敗者であるとして考えてみるのです。
原理は同じです。すなわち「敗者は、自らの敗因を解消することなく、他人による特別の庇護を決して求めてはならない」のであります。
肉親知人の縁故をたどり、その助けを得たとしても、自らの敗因を依然として自らの内に蔵してある間は、この敗者は再びその敗因によって敗れるのです。

敗者にとって、まず大切なことは「恐れないこと」です。現代文明社会では、まず飢死ぬということはありません。
そして、裸になることを覚悟するべきです。これ以上、他人に害を与えてはならないと決心するべきです。
それには、静かに坐り、瞑想内観をすることが最も大切です。
内観をして、自らの内にある敗因の一つ一つをさぐり出すのです。そして、それを除去すべく、自分の日常生活における言動をコントロールして行くことです。
次には、それを行為の上で実証して行くことが必要になってきます。つまり、自分の敗因となった性質を改めたという行為を自他に示して行くのです。
例えば、遲刻を決してせず、恩を着せずに感謝する、いいわけもせず素直に謝罪する等々です。
そして、希望は決して失わず、必ず再起のチャンスは来るのだ、というイメージを心にえがきつづけるのです。
やがて、小さなチャンス、それはとるに足らないぐらいのものかも知れませんが、それが来ます。
そこで、まず全力を傾け、それに成功するのです。

大切なことは特別の庇護なきもとで、この成功はなされなけれぱならない、という点です。
この成功は、心に一つの成功の記憧として刻印されることになります。そして、幾つかの成功が重ねられて行くと、この成功意識はその人のアラヤ難の中にしっかりと根をおろすことになるのです。この時、はじめて、その人の内部から、「敗者の因緣」が解き放たれつつあるのです。
すなわち、敗因は消えて行き、代って、「勝者の因縁」がアラヤ馘の中に生起してくるのであります。そして、こうなった時、この人は「成功への鍵」をはじめて手に入れたことになるのです。

問題から逃げる者

ある銀行の貸付係が次のような興味のある意見を私に語ったことがあります。
「過去において倒産した者にも、銀行は金を貸すことはある。そして、その人が新事業で成功するかどうかは、私にも解らない。しかし、私の長い経験からして、次のような人は、絶対的にまた失敗するだろうということが解っている。
それは、前回の倒産の折りに、債権者から逃げてしまった人である」

敗北は、人生における徹底的な壊滅を意味するものではありません。そこには、再起のチャンスは常に残されているのです。
しかし、それも、人生におけるその闘いの場から「敗走」してしまった場合は別です。
勝者になるための一大条件は、まず「逃げないこと」にあります。いかに恐ろしくとも、また恥ずかしくとも、その地点に止まることこそ肝要です。

Tさんは、数多くのホテルやゴルフ場を経営する大実業家です。
このTさんも若い日に一度倒産しているのです。しかし、その倒産に際して、Tさんのとった行動は、少々、常人とは異なっておりました。
いよいよ、翌日は、不渡り手形が出ると決定したその日に、Tさんはまず一番大手の債権者である銀行の支店長に会いに行ったのです。

Tさんは、銀行の前で待ち、その支店長が出てくると近づいて行き、あいさつをするやいなや、明日は倒産するということを告げたのです。
この支店長は、のちにこの銀行の頭取りになった人ですが、それだけに傑物でした。一瞬顔色を変えましたが、今から関西へ出張するのだが、君も一緒に汽車に乗りたまえ、といって、Tさんゆっくり会談してくれたのです。

別れる前に、支店長は次のようにアドバイスしてくれました。
「T君。倒産はもうしようがない。それはそれでいい。だが、ここで君に忠告しよう。
まず、決して債権者たちの前から逃げてはいけない。皆に、誠心誠意謝罪しなければならない。
みんなは君をののしり、侮辱もするだろうが、君はそれにじっと耐えなければいけない。そして、君は財産を処分して、小さな裏長屋か、アパートの一室に引越して、そこで貧乏暮らしを始めるのだ。次には、君は働いた内の金を、たとえ僅かづつでもいい。毎月、債権者たちに返して行くことだ」と……。

Tさんは、この支店長の忠言を忠実に実行したのです。
おそらく、数千円か数万円かの金額を毎月一回、債権者たちのところへ廻って、返して行ったのです。
最初の内は「馬鹿にするな!こんなはした金」といって、金を叩き返した人もおりました。それほどでなくても、殆どすべての債権者は不快の念を隠しませんでした。
しかし、それが、半年、一年とたつ内に、彼らの態度は変わってきました。僅かながら返済額もアップして行くことも出来ました。二年、そして三年、毎月一日と日は狂うことなく機械のように正確に、Tさんは債権者を訪れ、丁寧にあいさつをして、そのお金を返して行くのです。

四年目になると、彼らの目には畏敬の念が宿り始めました。そして、借金は君が再起した時まで待つから、もう返しに来なくても良いといってくれたのです。
五年目のある日、最後まで残っていた債権者は悲鳴のようにいいました。「もういい。T君、もういい。もう返しに来なくていいよ」そして、なんと、新しい事業をやるという噂だが、少し融資してやろうといいだしたのです。

こうして奇蹟は起こりました。以来、Tさんは、何回もの危機を乗り越えて、幾つもの事業を発展させてきたのです。
こエピソードから読みとれる教訓は、まず「誠意の表現も演出が必要である」という点です。
すなわち、他人に行為をもってそれを示し、証明しなければならないのです。

そして、それには真実の誠意と、絶えざる熱意と、決して失うことのない希望が必要なのであります。
さて、今まで述べてきたことは、決して、精神の世界における力についてではありません。
勿論、それは精神力というものが不可欠であって、その力なくしては、物質面における力の獲得が出来ないのも自明の理でありますが、それにしても、これは「地上の力」であり、私たち人間の肉体面におけるパワ—なのです。
しかし、当会がくり返し述べてきていることは「陰陽のバランス論」であり、この意味では、地上の力とは、正にこの陰力の面を充足させることなのです。
私たち人間は生きている限り、肉体面の拘束下にあります。そして、より大きな自由を得るためには、この面の力を強大化させることも、時には必要なのです。

[出典:唯心円成会伝法講義]

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