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【無能唱元・伝法講義録 045】相応の理

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相応の理

しかし、考えてみれば、死後、肉体を離れた霊たちが、生前の肉体的特徴をそのまま備えているというのも妙な話のように思えます。
死後も霊が生前と同じ形態をとりつづけているという概念は古来から信じられており、この点はスウェデンボルグも肯定しております。
ただし、彼は、その霊の形態が変貌して行くことも述べてはいるのですが……。

それにしても、スウェデンボルグは、死後の世界は、現世の風景をそのままに引きついで、すべてがある、と述べているのは奇異に感じられます。
すなわち、人間界にある風景はすべて、霊界にも、ほとんどそのまま存在するというのです。ただし、そこにあるものは、現世より奇怪な形態に変貌していることも多いのですが、それにしても、木も森も山も、そして家、車、舟などすべてが霊界にも、相似の形として存在するといっているのです。
そして、これについては、スウェデンボルグは、「相応の理」という原理によるのだ、という説を唱えているのです。では、これについて、次の引用文をお読みください。

まず「相応の理」から説明しよう。この理はいろいろなレベルで考えることができることができるがもっとも簡単な心と形の世界、いうならば霊界と物質界(彼のいう自然界)の相応の例の一つには霊の表情と心の相応なども入ろう。表情は形であり、物質界の問題だが、それは心という精神界、霊的世界に相応して変化するのである。表情に現われるのは心だからだ。ことには二つの世界の間の「相応」があるわけだ。

「相応の理」がわからないと聖書の言葉の霊的意義などもわからないと彼が書いていることは前述したが、たとえば次の例などはそんな好例になりそうだ。
あの世の死者との交信記録として科学的な証拠でもっともよく裏付けられているとされているのが『レイモンド、その生と死』(1916年)だ。これは本格的心霊科学の誕生に貢献し、イギリス心霊研究会(SPR)の会長もつとめたロッジ(物理学者、バーミンガム大学総長)が第一次大戦で戦死したあの世の息子レイモンドと交信した記録である。この交信記録の中にあの世のレイモンドからの言葉でたとえばこんなくだりがある。

「こっちの世界にもそっちにあるものは何でもあるんだ。ウィスキーだってある。それはこっちの世界的なやり方でつくるのだ」
もちろん、あの世のウィスキーなんてものがどんなものかは確かめようがないが、こんな言葉を聞けば「相応の理」を知らない限りは読者も吹き出してしまうのではないか。しかし「相応の理」を知っていれば、それなりの理解は可能になる。つまりあの世にはこの世のウィスキーとはもちろん別のものだが、この世のウィスキーに相当(相応)する何かがあって、レイモンドはそれのことウィスキーといっているのだろうという理解のし方をしてみることができる。こういう理解のし方がつまりは「相応の理」に他ならない。ウィスキーと聞けば「琥珀色をしていていい香りのする液体でびんに入ったもの」というこの世的な受けとり方しかしないのはスウェデンボルグに合わせれば言葉の自然界的意義しか理解せず「相応の理」を知らないからだということになる。ウィスキという一つの言葉にだって霊的あるいは天界的意義という幾つかの意義があるのだこういうのが彼のいう「相応の理」なのだ。確かに彼のいう「相応の理」を知らない限り霊界のことは理解できないし信じる気にもなれないだろう。

フランスの哲学者ベルグソンは霊媒を通じてあの世の死者が伝えてくる界の話は「旅人の話」を聞くような態度で開き、「旅人の話」を理解するような理解のし方で理解しようとすればよくわかるものだといった。彼は今世紀の初め頃に有名なキュリー夫人とかサシェ(ともにノーベル賞を受賞したフランスの科学者)などと心霊科学の研究に取組んだ。ベルグソンのいう「旅人の話」説も実は要するに「相応の理」だといっていい。国が違えばも人情も違う。だからある未開人の国ではまん中に穴をあけた大きな石をかついで行ってそれを魚ととりかえてくるという話を聞いたからといって「何で石ころと魚をとりかえるのだ、魚をやったほうが損じゃないか」などと考える必要はない。その国では石ころはお金なのだ。要するに一つの国と他の国、この世とあの世の間にあるものが必ず同じものでなければならないということはない。二つの国の間には同じ意味を持つ相応するものがあれば、それでいい。国情の違う国を旅してきた旅人の話もそのような聞き方で聞けばいい、あの世のことも同じだ――ベルグソンはそういったのであり、これはつまり「相応の理」なのだ。

[出典:スウェデンボルグの生涯と夢日記/今村光一]

さて、この相応の理を、当円成会の考え方をもってするならば、それはすべて「アラヤ識の力をもって表象されたもの」ということになるのです

アラヤは無限輪廻の基体

アラヤ識とは、自己の根元基体であり、そこに投入された情報は記億となって貯えられ、それは一種のタネとして熟成され、やがて未来の表象として出現してくる、というこのアラヤ識論は、ご承知のことと思いますが、ここに引用文を読み、もう一度よく、アラヤについての概念をあらたにすることに致しましょう。

阿頼耶識の基本的特質
(イ)阿頼耶識は、あらゆる存在を生み出す根源体である。たとえば、ここにある鉛筆、眼という感覚器官、鉛筆を見る働き、これら三つは共に阿頼耶識より生じたものである。さらに一般的にいえば、自己をとりまく自然界(器世間/きせけん)、自己の肉体(有根身/うこんじん)感覚・知覚・思考などの主観的認識作用(諸識)はすベて根源体であるこの阿頼耶識から変化して生じたものである。このように、阿頼耶識はそのなかにあらゆる存在を、可能態として、いうなれば<種子>の状態として貯蔵しているから、また別名、<一切種子識>ともいわれる。阿頼耶識の阿頼耶とは、もともとは「蔵めること」「貯えること」の意味であり、したがって<蔵識>と漢訳する場合がある。

(ロ)また阿賴耶識はさまざまな経験の影響が貯えられる場所である。レンズを通して入ってくる風景のすべてが印画紙の上に刻まれるように、精神的あるいは肉体的活動のすべては、即座にその影響を種子として阿賴耶識の中に植えつける。そしてその植えつけられた種子は阿賴耶識の中である期間貯えられ、成熟し、その結果さらに新たな存在を生み出すにいたるのである。

---中略---

種子とはなにか

では種子とは一体どのようなものをいうのであろうか。
今、きのう歓談した友人の顔をふと思い出す。彼と別れてから今まで、かれのその記憶はどこか頭の中に眠っていたのである。現代の医学はこの記憶待の現象を生理学的に解明しようと努力し一ている。そのうち整理学者たちは、きのうの友人の顔は、かくかくのタンパク質の結合体として脳のどこそこに貯えられていたと説明することができるようになるであろう。
しかし、その時でもそれは、ただ記憶保持体が解明されただけであり、潜在的な記憶そのものが何であるかをつきとめたことにはならない。意識過程と同じく、記憶という心理作用についても生理的ないし物質的側面からだけではとうてい納得のいく説明はできそうもないようである。

これと同じく、阿賴耶識の種子に関しても、種子を何か物質的あるいは事物的存在と考えてはならない。専門的には、種子とは阿頼耶識の中にあって、自己の果を生み出す<功能差別/くうのうしゃべつ>であると定義される。
このうち功能とは「力」「能力」という意味、差別とは「特殊な」「勝れた」という意味であるから、「種子とは、自己を生み出す特殊な力」ということになる。つまり種子とは、いわばエネルギーのように、ひとつの力である。しかもそれは、もえ盛る火のような顕在的エネルギーではなく、原子核にひそむ核エネルギーのごとく、我われの心の奥底にひそむ潜在的・精神的エネルギーである。

---中略---

このように、精神的行為であれ、あるいは言語的、身体的行為であれ、あらゆる行為(身・ロ・意の三業という)はかならずその影響を行為者自身の中にとどめる。
このとどめられた影響を<種子>あるいは<習気/じゅっけ>といい、影響をとどめる過程を<熏習/くんじゅう>という。
この熏習という語は、もともとはインドの風習に由来する。インドで身体に塗る香油を製造するのに、胡麻に香華を加え、それを長時間にわたって煮つめた後、圧押して胡麻油を抽出するという方法をとった。このとき華の香りが油に熏じつくことを熏習と呼ぶ。ところで現行によって阿賴耶識に種子が熏じつけられる現象を、この油と香華との関係になぞって、熏習と呼ぶようになった。

---中略---

仏教はキリスト教とちがって神のごとき究極的実在者をたてない。ただ実在するのは、何ものかの流れ、それも果てることなく永遠に流れつづける流れである。唯識的にいうならば、さまざまなら精神活動の一大潮流である。現代的にいえば、エネルギーの絶えることなき活動である。このように、すべてを「流れ」ととらえる仏教的なものの見方からすれば、「初めなき永遠のむかし」(無始)はむしろ「神」以上に理性にかなった身近かな概念に感じられてくる。そして、現実の苦悩多き自己存在、否、自己だけではない、果てるともなく戦争・飢餓・虚無を背負って歩みつづける人類の一歴史を考えるとき、「無始以来の熏習」という言葉こそ、全存在の本質を鋭く指摘した素晴らしい説明であることに気づくであろう。

気が弱い、背が低い、と悩むこともよかろう。しかし、そのようなこと、さらに悩むこと自体も表層の泡沫にすぎない。我われは、もっと目を開いて、深層にある、永遠のむかしから流れつづけ, てきた底水に目を向けるべきである。それは、永遠につづく精神活動の一大潮流である。それも、直線的な流れではなく、一つの円環内を果てるともなく回りつづける円形の流れである。

今、全存在をひとつの循説的な流れにたとえたが、それは換言すれば、さまざまな背新活動が循環的に相続することである。精神活動は、一定の状態で停止していることなく、絶えず変化しつづけている。世親は、このような粘神の変化活動に<識転変/しきてんぺん>という名をあたえた。

[出典:唯識思想入門/横山紘一(第三文明社)]

円成会学徒にとって、アラヤ識についての学習は最も重要なるものです。それで、出来ましたら、みなさんは、会主・無能唱元の現わしました「新説阿頼耶識縁起―かくされたパワーを引き出すアラヤ瞑想術のすすめ」を読んでいただきたいと思います。

[出典:唯心円成会伝法講義]

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