無能唱元

【無能唱元・伝法講義録 048】業報

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死後の世界の形象

人間が死んで、肉体が滅した後も、同じような肉体の形が霊として形成されてあり、死後も生活がつづくという考えは、確かに奇妙な感じがあります。
また肉体的なものばかりでなく、この世にあった自然界から人工的な、たとえば森や草花から家のようなものまでが、その形として存在すると聞くと更に不思議であり、また疑問さえ抱きたくなるのも無理からぬことです。

しかし、これらの説には、死後よみがえった人の話や、いわゆる霊体離脱をした人々の話を総合すると確かにそこには共通する一つの視覚的世界があり、それは驚くほど現世のそれと酷似しているのです。

その一番いい例は、スウエデンボルグのいう霊界の太陽です。これは、太陽という形象を表しながら、それが全然別物であることを示しております。
だがしかし、それは完全に同じともいえないのは、似て非なる形象も多くあることです。
また、同じ山や谷でも、それは人間界のものとは似ていても、はるかに広大であったり、また流動的であったり、また空間に浮かんでいるなどのように、重力法則からはずれていたりするのです。
これについては、スウエデンボルグは「相応の理」という言葉を使って説明しております。すなわち、この世にあるものはすべて、その対比として、あの世にもすべてあるのだ、という意見です。

ここで当円成会の独自の考え方が出てくるのですが、このような相応の理のような現象は「現世の風景が土台となって造られるのである」というふうに考えるのです。
これは換言すれば「現世の記憶意識がそのもととなっている」ということです。すなわち、これは「意識の働きが来世を造り出している」ということになります。

意識が来世を創造する

ここで、次の引用文を一つ読んでみてください。
これは、スウ工デンボルグが霊界を遍歴していた際に、ある時、中国人の一団と遭遇したくだりです。

私は、ある朝、遠くから聞こえて来る合唱の声をきいた。そして、その声の中に、牡羊、黍の餅、黒檀のヒ(あいくち)などが見えて来たのを私は心の眼で見た。そして、同時に空に浮いている楼閣のようなものも私の心の中に現われて来た。私はこれらの表像から合唱の声の主が支那人であることを感じた。

やがて彼らは近づいて来たが、やはり一団の支那人の霊であった。彼らは私をすぐ目前に認めるとともに、私に対し、心のうちに少し嫌悪の情を感じたようで、これは私にもすぐわかった。だが、これは、彼らが世にあった時、キリスト教徒は、彼らより不善の生涯を送るものと聞かされていたためだとわかった。
彼らとも、支那のこと、アジアの国々のことなどにつき色々と話したが、いまは、その一々を上げるのは省略しよう。

[出典:私は霊界を見て来た/E・スウェデンボルグ(今村光一訳)]

この一文を読んで、特に注意して頂きたいのは、情報量が非常に少ない、という点です。つまり、支那人である描写のポイントが少ないのです。
その上に、特に注意を引くのは、最後に、支那のことアジアのことについて色々と語ったが、その一々は省略しよう、といっていることです。
これは、スウエデンボルグの生きていた時代とその地域性を考えると、容易にその理由の察しがつくのです。
1700年代のヨーロッパ人は、アジアについての情報が貧弱であったことは容易に想像がつくのです。
ですから、記憶にある印象が、せいぜい牡羊、匕(あいくち)、楼閣ぐらいのものであるとしても、それは仕方のないことです。また、彼らがキリスト教徒でないということも、明白なことです。
つまり、スウ工デンボルグは、ここでは支那人について当時知られていたことばかりを述べているのであって、この時代において驚くような新情報に接しているわけではないのです。
だから、彼はハワイの現地人にも、アメリカのインディアンにも霊界で会ってはいないこともこれでうなづけます。
一口にいえば、霊界を造り出す材料も、過去に貯えられたイメージ・タンクを必要とするということであります。

時空を超える根源体意識

ここで再び、円成会の根本教義の一つであるアラヤ識論を思い出して頂きたいのです。すなわち、それは「アラヤ識は万象を造り出した根元体である」という考えです。
この場合、この万象とは、何も現世のみにおける、すなわち現実的な事象だけを指しているのではない、という点に注意してください。

アラヤ識は表層的意識を生み出し、そしてその表層意識に影響されて、常に新しい表象を生み出して行くのです。
アラヤ識の働きは、時空に対する人間的な観念を超えたところにあるのです。

それは「肉体という表象」も生じさせ、また滅しさせ、あらたなる何か(生命的なもの)を生起(しようき)させるのです。そして、次のその何かを生起させる刺戟材あるいは影響力は、カルマと呼ばれる、すなわち「業」(ごう)であります。

今、何をなし、それによって何を考えたかによって、未来の業は定められて行きます。
これを仏教では「業報(ごっぽう)」と呼んでおります。
曹洞宗の正法眼蔵(しようぼうげんぞう)には、これについて次のように説かれてあります。

「無常忽ちに到るときは、ただ独り黄泉(こうせん)におもむくのみなり、己(おの)れに随い行くは只これ善悪業等(ぜんなくごっとう)のみなり。
今の世に因果を知らず、業報(ごっほう)をあきらめず、三世を知らず、善悪をわきまえざる邪見のともがらには群すべからず、おおよそ因果の道理歴念として私(わたくし)なし」

業報(ごっぽう)とは、業を困として、その報いを受ける、という意味です。
人間は死んで後は、物質的なものは何一つ持つては行けないが、この業報だけはたずさえて行くのです。
業報とは、それまでに貯えられたイメージ・タンクの内容であり、それはすなわち、アラヤ識に貯えられた異熟そのものです。

前記の正法眼蔵には、つづけて「ひとつには順現報受(じゅんげんほうじゅ)・ふたつには順次生受(じゅんじしょうじゅ)・みつには順後次受(じゅんごじじゅ)、これを三時といふ」といっております。
これはどういうことかといいますと、順現報受というのは、現世で生じた困が、その一生の間、つまり生きているうちに、その果が現れるという意味です。
そして、順次生受が来世において果が生じ、順後次受は来々世以後のはるかな先きにおいて果が出てくるという意味です。

では、この一番目の順現報受について、次の引用文を参考としてみましょう。

四歳の少女、可愛いマギーが母親ブラック夫人の前を、アイスクリーム・パーラーに向かって走ていた時、モデルをしているグラマーなホワイト嬢の、下ろしたてのバックレスの靴のかかとを踏みつけました。そのため、ホワイト嬢は前のめりに倒れて鼻を折ってしまいました。誰が見てもその子の方が悪かったのです。モデル嬢は相当の金額を要求してブラック夫人を訴えました。しかし、私たちの調査は次の事実を明らかにし、事件は結局示談によって落着しました。
私たちが発見したことは、ホワイト嬢が幼少の頃から、母親に「顔が財産ですよ」と教えられてきたことです。彼女は貴重な顔が傷つくことを恐れていました。
事故の約六ヵ月前、カリフォリニア・ロングビーチの店で前記の靴を買うとき、彼女は店員に向かって、「この靴を最初にはいたとき、もしかしたら、私前向きに倒れて鼻を折るかもしれないわ」と冗談まじりに話していたのです。彼女の心に潜在し、奥深く根ざしていた顔面傷害の恐れは、このようにして、知らずしらずのうちに実現していったのです。
一方、ブラック夫人に関する意識の要因を考えてみましょう。
十三歳といえば、少女が初潮を経験して女性に目覚める傾で、どの少女にとっても感覚が一番デリケートな時期と言えます。その年に、彼女はガールフレンドと一緒に、アリゾナの小さな鉱山町のメイン・ストリートを歩いていました。やがて二人は、大勢の男たちがいつものようにたむろしている集会場にさしかかりました。その時、まったく途方もないことが起きました。彼女のパンティーのゴムひもが切れたのです。しとやかにそして何気なく、彼女はパンティーをそのまま脱ぎ捨てて歩きだしました。もし、四歳になる妹のスージーが現われなかったら、この事件は気づかれず忘れ去られたことでしょう。

ところがスージーは、姉に喜ばれたい一心から、ついた下着を拾いあげ楽しそうに打ちふりながら、恥しさと恐しさにぞっとしている姉の後から、「パンティーを落っことしたわよ!」と大声で叫んだのです。その時のブラック夫人が数十人の大人たちの楽しそうな笑い声に、死ぬ思いをしたのは当然でした。

長い間、彼女はこの出来事を意識的に忘れていました。しかし、彼女の潜在意識は、スージーのような小さい天使から、公衆の面前で死ぬような恥しさを味わわされたことを記憶しており、さらにその恥しい記憶を恐れ、養い続けてきたのでした。ブラック夫人の娘マギーは、四歳までは連れて出歩くのが楽しみな子でした。その後、偶然のように母親を困惑させるようなことをしはじめ、怒った母親は、平手打ちのおしおきをしなければならないようになりました。

こうしてマギーは、母親と一緒に出かける時は、いつも打たれることを意識するようになっていたのです。事件の当日は、それでも特に良い子だったので、ブラック夫人はアイスクリームをご褒美にあげようと思っていました。
一方ホワイト嬢は、ブラック家の近くのアイスクリーム店でしか買えない特製のアイスクリームを買うために、三二キロメートルもドライブしてやって来ました。彼女はブラック家の真正面のわずかなスペースそこしか空いていなかったので駐車しました。

ちょうどその時、ブラック夫人は家のドアを開け、マギーというはしゃいだ活発な誘導ミサイルをホワイト嬢に向けて発射したのです。互いの恐れと期待は、こうして具象化しようとしていたのですが、そんなことを彼女はまったく知る由もありませんでした。マギーは的をはずさず、念入りにホワイト嬢の靴のかかとを、あたかも命令されたかのように踏みつけたのです。

次の諸点に注目してみましょう。
三人が共通してもっていた意識的要因は「恐怖」でした。ホワイト嬢は美貌とモデルとしての生計を失うことを恐れていました。ブラック夫人は、公衆の面前で恥かしめられたり、自尊心や気品をなくすという恐怖にコントロールされていて、この恐怖の連想は、彼女の妹から娘へと移転していました。マギーはそれにひきかえ、人前でぶたれることに対する恐怖心を植えこまれていました。

特に指摘されるべきことは、三人がそれぞれもっていた恐れは、不自然であるか、または教わったものであるということです。
たとえば、ホワイトのケースがこれ以上長く続いたならば、潜在意識は支配的な信念の効果をどこまでも拡げていこうとするために、彼女は致命的な事故をおこして、彼女の生活を永久になくしてしまう程度まで顔を傷つける情況をつくり出したかもしれません。

マギーの潜在意識の中では「肉体的な苦痛」と「公の前にいるという状況とが結びついていますが、それが変わらない限り、彼女は成長するに従って、体に痛みを感じるもっと重大な場面を次々とつくり出していくでしょう。このままの状態が続くならば、彼女の意識が、実際どのような形で具象化していくかを予測することができます。
また、この事件に現われる日時を検討してみると、潜在意識は時間というものを認めないことがはっきり描き出されています。

私たちがホワイトに、彼女自身の意識がどのようにして事故の一因になっていたかを説明した時、彼女はブラック夫人に対する訴えを取り下げ、損害の実費だけで解決することに同意しました。
ブラック夫人とマギーは、事件に関連する要因をすべて理解したのちは、マギーが四歳になるまで存在していた母と娘との幸せな関係を、再び取り戻すことができました。

[出典:トーチェ氏の心の法則/あなたの知らない“あなた”]

前記引用文において感じられるのは、さまざまな人々の因が寄り集まって、そこに人生模様という表象が描き出されるという事実です。
その朝、互いに見も知らなかった人々が、その夕方、ある事件を契機として、人的関係が生じます。これは、それぞれの因が、それを果とするべき人縁を求めあって、そこに結び合わされたのです。

ではここで、前記引用文中における因と、その縁と、また果について少々分析してみましょう。
まず第一の因は、ホワイト嬢が幼少の頃から、母親に「顔が財産ですよ」と教えられ、その顔が傷つく恐れを潜在意識にインプットしてあったことです。
この「顔が傷つく恐れ」は、ホワイト嬢が成長し、また、モデルという自分の姿態を資本とする職業について行く内に、心下でだんだん大きく熟成して行きました。
この幼少の頃の心への染めつけを「根元因」とするなちば、次に「助長因」あるいは「外縁困」として、事故の六カ月前に靴を買った際の「この靴を最初にはいたとき、もしかしたら、私前向きに倒れて鼻を折るかもしれないわ」が、果の実現のためのマントラ(言葉または呪文)として登場するのです。

次はブラック夫人の恐れです。
少女時代に受けた恥辱の傷が、ともすれば心下意識から、娘のマギーによって、再びその姿を現そうとします。それは無意識の内に恐れとなって、マギーをぶつのです。
それも、パンティを落とした時のように公衆の面前にくると、なぜかマギーをぶちたくなるのは興味深いところです。
一方、マギーは、公衆の面前、そして平手打ちというパターンを恐れています。
そして、その恐れのため、公衆の面前へくると、いつでも母親の手から離れて、駆けめぐるということを繰り返していたのです。

こうして、三つの恐怖心は、その因を具現化するために、相引き寄せられ、人縁を形作って行きます。そして最後に一点に会した三つの恐怖心は、ホワイト嬢の人身事故を引き起こし、その後の補償問題までを含めて、ここに一つの果の実現をもたらしたのです。

ここにおける教訓は、このように「因」を発見出来れば、その因の縁を自己コントロールをもって絶ち切ることが可能であるという点にあります。
「悪しき因縁」と呼ばれるものは、このようにして、知識も分析の力をもって解決できる場合もあるのです。

しかし、これは、その人の生きている間に生じ演じられた「因果作用」つまり、前記しました「順現報受」の例です。
このように一代において、因果の働きが両方とも完成されてしまう場合もあれば、それがその人の死後にまで持ち越される場合も当然考えられるのです。

I子さんが女学生時代、私に語った彼女の男性理想像は、
がっしりとした体格、さっぱりとした気性、優しくて、お金もある中年の男性」でした。なかな堅実な考え方といえます。
ところが、二十五才になった時、好きになってしまったのは、十八才の少年でした。何年かの同生活のあと、これではいけないと感じたI子さんは、その少年と別れようとしましたが、少年の方が夢中で、自殺未遂、家出などを図り、家族間で大騒ぎになりました。
ところが、その後も、このI子さんの少年または、うんと年下の男性を愛する嗜好性は変らず、年上の男性と結婚したこともあるのですが結局はうまくいかず離婚となり、次から次へと、年下の男と恋に落ちるという生活をくり返しつつ、遂に中年を迎えることとなってしまいました。
この間も、I子さんの理性における男性理想像は依然として
「力のある年上の男」であるのです。そして、そういう男性と結婚しようと努力もするのです。
ところが、彼女の感情の方は、常にそれを裏切り、年下の弱々しい男に魅かれてしまうのです。
そして肉体関係を結ぶのですが、これまたうまくいきません。なぜなら、彼女の理性が、これではならじとそれを拒否し、その関係を清算しようと図るからです。こうして、トラブルはしょっちゅう生じ、そこに家庭的平和などは望むべくもないという一生を過ごすこととなりました。
なぜ、I子さんは、このように理性と感情の間に踊らされ、悩まされ続けたのでしょうか?
ことに、一つの注目すべき事実がありました。
それは、I子さんの母親のことです。I子さんは赤ん坊の時、遠縁の家からもらわれてきた子供なのです。その遠縁の家の娘は、未婚であるのに妊娠してしまい、その処置に困ったのでした。そして、その娘の相手が、なんと、ぐっと年下の少年だったのです。つまり、I子さんの父親は、うら若い少年であったことになるのです。
I子さんの実の母親が年少の男の種を宿した瞬間から、その種、つまり、将来のI子さんの体内に、その記憶が植えつけられ、異性に対する愛情の一つの嗜好性として、それは相続されたのです。
このように、アラヤの中に、異熟の一形態として投入された因は、それが特に、非日常的なものであったり、非社会的、不道徳的なものであったりした場合、それは特殊因子となり、長く消えることなく、温存されて、次代へ、また次々代へと伝承されていくのです。例えば、人に殺されたり、人を殺したり、一生を牢獄で過したり、水死や焼死したりした先祖の記憶因子は異熟の中に刻みつけられ、その異熟は人体細胞一つ一つに宿っていて、それが子孫の細胞内へと伝く、とこう説明すると、納得してもらえましょうか?
また、一般に、恐怖の思いをもって見られている病気、例えば、ガンなども、その先祖にあった場合、かかりやすいということも、世間では知られているということです。

[出典;新説阿頼耶識縁起―かくされたパワーを引き出すアラヤ瞑想術のすすめ]

I子さんのお母さんが、年若い少年を愛する困を持っており、それがわが子のI子さんに伝えた、ということは、I子さんの上にその因の縁が生じた、ということになります。
ところが、ここで、当然、次のような疑問か生じてきます。
それは、その因はI子さんのお母さんのものだけではなく、I子さんの前世のものが、現世に継承されたものもあるのではないか、という疑問です。

これについては次のような考え方で説明されます。
「すべては偶然によって起こるのではなく、それは、因を縁として果が生じ、そしてまたその縁によって消滅して行く」と述べた釈迦の一言葉を是として考えるならば、I子さんの前世の霊が、I子さんのお母さんの胎内に生じた生命休に、偶然入ったのではなく、そこには、二者の縁を媒介(ばいかい)する因があったと考えられます。

すなわち、I子さんにも、年下の少年を愛するか、またはそれに準ずる何らかの因が介在したのです。
そして、その因を成就させるためのボディを求めた時、類友の法則のもとに、I子さんの霊は、後年お母さんとなるべき女性のその胎内に引き寄せられたのです。
つまり、その因はI子さんの霊にも、お母さんの霊にも同じような類の形で存在し、その二者が結ばれて新生の生命の誕生はなったのです。

ところで、新生のアラヤ識は生じた時は、無覆無記(むぷくむき)といって、まっさらで、まだ何の染めつけもしてない状態です。そして、前世の記憶のほとんどは失われ、そこに記してはないのです。(ただ少数の例外を除き前世の記憶を受けつぐ人もあります)

しかし、今度は、お母さんから、その因をアラヤ識の中に与えられることになります。
こうして、I子さんの前世のその因は、お母さんの同類のその因の助けを得たことによって、果の実現へと向かうのです。
以上のことがらからいえるのは、私たち人間は、自分の親を選択して生れて来たのだ、という事です。
すなわち、内臓する自らの因縁をそこに求めたのです。ですから、子供が不貞くされて、親に対し、「何も産んでくれと頼んだわけじゃあない」というようなことは誤りなのです。彼らは正に、その親に対し、産んでもらうよう依頼して、この世に産んでもらったのであります。
つまり、これが順次生受、来世においてその果が成就するの例です。

何代か前の先祖に火つけマニアがいて、その子孫に、やはり火つけ犯が出たという記録が外国にあったのですが、この場合、非常に興味深いことが起きているのです。
それは、火つけ犯の兄が、優秀な消防士であったことです。
兄が消防士、弟が火つけ犯というこの皮肉な組み合せは、世の中にままあることなのです。

これは共通の因に対し、兄はその因縁を克服し、弟はその因縁を成就させてしまったことを示す例です。
このように、ボディの方(先祖)の何代か前にその因がある場合もあれば、霊(そこに宿る)の方の過去世に何らかの因が存在した可能性も考えられるのです。そして、類友の法則によって、そのボディと霊の二者は引き寄せられ、さまざまな因の具現化へと向かうのであります。
これがすなわち、「順後次受」の業報(ごっぽう)のあり方なのです。

しかし、ここで錯覚してならないのは、この現世ばかりが、アラヤ識の表象の世界ではない、という点です。
もし、このような考え方に捕らわれるならば、古くさい輪廻転生の固定観念の枠に、私たちは閉じこめられてしまうのです。
ここでぜひ記憶して頂きたいのは「現世とは、霊の進化向上過程における、ほんの一段階にすぎない」ということです。
私たちは無始のはじめより、終りなさ未来ヘ進化向上しつつある旅人なのです。この世はそのための、ほんの一地点であり、また人の一生とは、一時の仮の宿であるともいえるのです。
私たちのなすべきことは、悪しき因縁を正し、良き因縁をもりたて、もって自らの霊格の向上を計ることではないでしょうか?
[出典:唯心円成会伝法講義]

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