無能唱元

【無能唱元・伝法講義録 053】習気・二つの執受

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先回は「業報(ごっぽう)」すなわち「身口意(しんくい)の三業によって生じた因」が、今生(こんじよう)、来世(らいせ)、来世以後の三世(さんぜ)の場合において結果される、仏教古来の因果律における教説について講述しました。
そして、それをなす根元休は、アラヤ識であり、アラヤ識のイメージタンクの中にある因の記録、すなわち異熟は、一世で熟し切らない場合は、そのまま空界に、それを抱いたまま去り、再び来世、また来々世にそれを結実させるべく登場してくる、ということについても、学徒のみなさんは諒解されたことと思います。

来世自体もアラヤの産物

ここで、もう一つ明らかにしておきたいことがあります。
それは、業報が来世などに現れてくる、といった説明を受けると、アラヤ識の働きは、因を後世において登場させることのみのように解してしまいがちだということです。

これは、そうではないのです。アラヤ識とは「来世そのものを生じさせてしまう根元基体」なのであります。
前述のような業報についての説明を受けておりますと、一つの錯覚が生じてきます。それは、来世、来々世は一つの流れとして存在し、そこにアラヤ識の力によって業報が現れてくるように考えられてしまうことです。
すなわち、一切の未来世は、アラヤ識と関係なく、あらかじめ存在し、その存在の中にアラヤ識の力が働いているように錯覚してしまうのです。
もう一度くり返しますが、これはそうではありません。アラヤ識は、すべての現象の根元的基体なのであり、来世も来世以後も、そして過去世のすべても、その世界的存在そのものを生みだしたものなのであります。

これは、大きな河と、そこに浮かんでは消える泡をイメージして考えると理解しやすいでしょう。すなわち、その泡が業報のすべてではなく、その大河自体が、アラヤ識という基休によって発現されたものなのです。

これは大変考えにくいことかも知れません。というのは、私たちの思考意識そのものが、その大河自身であるからなのです。
そして、この大河は、私たち人間群のアラヤの共同思念体による合作物として発現しているものであります。

解深密経(げじんみっきょう)・講述

では、今回より、アラヤ識についての最古の経典といわれる「解深密経(げじんみっきょう)」についての抄訳と解説の講述をしばらく続けていきたいと思います。

解深密経とは、多くの経典がそうであるように作者名は解っておりません。その成立年代は、最初の唯識説をまとめた人として有名な竜樹(りゅうじゅ)菩薩(紀元200年頃)が没して間もなくの頃と推定されております。では、ここではまず、この解深密経の内の「心意識相品(しんいしきそうほん)」を抜粋して読んでみましょう。

<本文>
爾の時に、世尊、廣慧菩薩摩訶薩に告げて日はく、……吾當に汝が為に心意識の秘密の義を説くベし。
(そのときに、せそん、こうえぼさつ、まかさつに、つげてのたまわく、われまさになんじがために、しんいしきの、ひみつのぎを、とくべし)

廣慧よ、當に知るベし六趣の生死に於て彼彼の有情は彼彼の有情衆中に堕し、或は卵生に在り、或は胎生に在り、或は湿生に在り、或は化生に在りて身分を生起す。
(こうえよ、まさにしるべし、ろくしゅの、しょうじにおいて、ひびのうじょうは、ひびのうじょう、しゅちゅうにだし、あるいは、らんしょうにあり、あるいは、たいしょうにあり、あるいは、しつしょうにあり、あるいは、けしょうにありて、みぶんを、しょうきす)

<解説>
その時に、お釈迦さまが、広慧菩薩に申されるには……
「では、ここで、あなたのために、人間の心の働きについての秘密の教えを説いてさしあげましょう」といわれました。
「広慧さん。次のことをまず理解して欲しいのです」

「六趣の生死」

さあここで、普通人には理解しがたい仏教用語が出てきました。ここで少々、この用語についての解説を致しましょう。「六趣」の「趣」というのは「そこに趣き、そに住む」という意味です。ですから、まあ「場所」を示す言葉と解してもよいでしょう。

この「趣」を「道」として、「六道」という文字で表している場合もあります。「六道輪廻」がそれです。
では、この六道とは何かというと、
「人間が過去の業によって、趣き住む処を六種類に分けたもの」というとになっております。

それは次のように、下界から上界までの六つの世界となっております。

【地獄趣・餓鬼趣・畜生趣・修羅趣・人間趣・天上趣】

この六道を、人間の意識根元体は、普通は下から上に向って進化向上するのですが、時には、自らの重ねた悪業により、下の方へ堕ちて、再びやり直しということになることもあります。上下をぐるぐる輪転することから「六道輪廻」の言葉が生じたのです。
六地蔵とは、これら六種の場所に現れ、衆上(人々)を守ってくれる地蔵(それぞれのその地を守る)菩薩を意味しております。また、六観音、六道銭、六道の辻、も同様な意味から出た言葉です。
次に出てくる「彼彼の有情」これは「それぞれの人々」というとになります。有情というのは、感情を持った者の意で、この場合は人間だけではなく、生あるものすべてを指します。
しかし、有情はまだ空体であって、生物の体をまだ備えていない、つまり「霊的」なものを意味する場合もあります。そこで、ここで、
「有情衆中に堕し」というのは、「その霊的な有情が色々な生物の形を得て」という意味になります。

さあ、ここで再び、さっきのお釈迦さまの言葉をつづけますと
「広慧さん。次のことをまず理解して欲しいのです。六つのそれぞれの世界に生れ変り死に変ることによって、それぞれの霊体はそれぞれの生物体の形を備えます」
ここで次に、
「卵生」「胎生」「湿生」「化生」という四つの術語が出てくるので、これを説明します。
「四生」といって、生物を生れた時の形態で四つに区分しております。
① 卵から生れるもの
② 母胎から生れるもの
③ 湿地に虫がわくように生ずるもの
④ 幽霊のように体なくして現れるもの

「そして、四生の形態に自分の体つきを変化させて行くのです」
人間の胎児は十ヶ月間の母胎の中で、何億年と進化してきた歴史的形態をすべて体現した上で今日の人間の形となって誕生してくるのだそうですが、これはこの四生説に照し合せてみると真に興味深いものを覚えさせるではありませんか?

<本文>
中に於て最初に一切種子心識が成熟(じょうじゅく)し、展転和合(ちんでんわごう)し、増長廣大するは、二の執受(しゅうじゅ)に依る。一には有色(うしき)の諸根及び所依(しょえ)の執受にして、ニには相・名・分別の言説戯論(ごんせつけろん)の習気(じっけ)の執受なり。有色界の中には二の執受を具するも、無色界の中には二種を見せず。

<解説>
「さて、その変化の行程において、一切種子識つまりアラヤ識が熟成し、さまざまな因が混じり合ってだんだんとその勢いが拡大されて行くのですが、この運動作用は二つの執受によって起こるのです」

「執受」とは、外界の情報を取り集めて、それによって感覚を生ずることです。
「そして、その執受には二つのやり方があるのです」
次に出てくる
「有色の諸根及び所依の執受」について説明致します。

「有色の諸根」は「有色根身(うしきこんじん)」あるいは「有根身(うこんじん)」から出ています。これは要するに肉体のことを指します。 諸根は肉体の諸器官ということになりましょう。
「所依」の解釈はなかなか難しいところですが、 本来は「依りどころ」の意で、五感と意識の働きをよりりどころとして、意志決定や、 外境の存在確認、また自己存在の把握などを行なうことで、これはつまるところ第八識アラヤの上に形成された働きですから、根本的にはアラヤ識の機能ということになる、と私は考えます。

そこで、一の執受は肉体とその肉体を形成したアラヤ識ということになります。
「二には相・名・分別の言説戯論」
相はものの、名はそれについた名前、分別は比較分類する働き、これらは会話によって表現されますから、言説戯論。戯論というのは、そもそも実体のないものに対してあれこれと語っているさまを、ややけなしているいい方です。

「習気」 これは、記憶装置に染めつけられた状態です。 スキーを習う時、少しづつ、この習気がそこに貯えられて行き、だんだんと上手に滑れるようになる訳です。
この二つの執受(感覚機能の働き)を現代的に説明してみましょう。
これは、コンピューターのハードウェアとソフトウェアのあり方とよく似ております。
ハードウェアとはコンピューターの本体で、その機械的な働きです。 ソフトウェアはそこに入るさまざまな情報のことです。そして、この情報なくしては、コンピューターは全くコンピューターの用をなさないのです。

ですから、もっと簡単にいうならば、
「一の執受とは容器、二の執受とはそこに入れる内容物」という意味になります。
「有色界」「無色界」という言葉が次に出てきます。
「有色界」とは物質の世界であり、「無色界」とは空性の世界、つまり今日の言葉でいえばエネルギーの世界ということになりましょう。
物質は姿を消しても、その実質は消滅したのではなくエネルギーに姿を変えたに過ぎない、というのは現代科学の示すところです。
そこで、この二つの執受という現象は、物質の世界においては生ずるが、エネルギーの世界にはない、といっているのです。

<本文>
廣慧よ、此の識は亦阿陀那識とも名く。何を以ての故に、此の識は身に於て随逐(ずいちく)し執持(しゅうじ)するに由るが故なり。亦、阿頼耶識とも名づく。何を以ての故に、此の識は身に於いて摂受(しょうじゅ)し蔵隠(ぞうおん)し、身と安危の義を同じうするに由るが故なり。亦名けて心とも為す。何を以ての故に、此の識は色・聲・香・味・触等の積集(しゃくじゅう)し滋長するに由るが故なり。

<解説>
「広慧さん。この一切種子のことを、またアダナ識とも名づけます」
アダナの意味は幾つかあるのですが、ここでは「執持」つまり、何かに固執したり、その状態を維持する、といった意味にとっておきます。いうならば「保待」と同義で、しかもそれより堅固な状態を示しております。
「これはどういうことかといいますと、このは肉体上において、情報を追い求め、それにしたがい、それを堅固に保持するからです」
ここに出てくる「随逐」という言葉は、「求めしたがう」と解しておきます。次に
「これをまた、アラヤ識とも名ずけます。 これはどういうことかといいますと、この識は肉体上において情報を収集し(摂受)貯蔵し(蔵隠)し」

ここで、「安危の義」という言葉が出てきましたので、これについて少々説明致します。心下意識アラヤの内部に貯えられたさまざまな因が、安全な種類のものならば、つまり、その人の内が安全ならば、その人の外部すなわち、運命とか人生とかも安全である。また逆に、内部が危険なものので充満しているならば、外部も同じく危険なものとなる、という説、これを「安危同一の義」と申します。 そこで
「この識は、その人の内外の安全を同一のものとします」という意味になります。さてその次
「この識をまた、こころとも名づけます。なぜならば、このは、見るもの、聞くもの、かぐもの、味あうもの、さわるもの、などの情報を収集し、その信号を増幅し(滋長)するからです」

では、もう一度、 この項を通して訳してみましょう。 本文と合せ見ながら読んでみてください。

<本文>
廣慧よ、阿陀那識を依止(えじ)と為し建立と為すが故に、六識身が転ず、謂く、眼識と耳・鼻・舌・身・意の識なり。
此の中、識有り、眼と及び色とを縁と為して眼識を生じ、眼識と供に随行(ずいぎょう)し、同時同境に分別意識有って転ず。

耳・鼻・舌・身及び聲・香・味・触とを縁と為して、耳・鼻・舌・身の識を生じ、耳・鼻・舌・身の識と倶に随行し、同時同境に分別意識有って転ず。

<解説>
「広慧さん。このアダナ識をよりどころ(依止)とし、そしてアダナ識を成立させております故に、六識というものが変化して、現象というものを作り出します」

六識というのは
①見る、②聞く、③かぐ、④味あう、⑤さわる、⑥思う、という五感とそれをとりまとめる意識つまり考える力です。
「つまり、それは眼の意識活動と、以下、耳、鼻、舌、身体、そして頭の意識活動です」
識という言葉には広い意味があるのですが、この場合、解りやすくするため、たんに「意識活動」という狭い意味だけに捕えておきます。

「さて、この意識活動ですが、これが、眼と外界の景色との間に縁を結んで、眼の認識作用を生ずるのです。
そして、この眼の認識作用と一緒になって意識は共同作用を行ない、その瞬間、その場所にあって、他のものとの区別、判断などの活動を行ないます」

解りやすく、この部分を説明しますと、アダナはその活動をもって
①見るもの(眼)と
②見られるもの
の両方を生じさせた、といっているのです。そして、これが私たち人間に存在という象(すがた)を現している。すなわち「現象作用」である、というのであります。
「この眼の場合と同じく、意識は、耳、鼻、舌、身体などと、声、香り、味、感触などとの間に縁を起こし、耳、鼻、舌、身体などの認識作用を生じ、そして、この耳、鼻、舌、身体などの認識作用と一緒になって意識は共同作用を行ない、その瞬間 その場所にあって、他のものとの区別、判断などの活動を行ないます」

ここでいう最後の「区別、判断の活動」という表現では、「分別意識」をうまく説明し得たことにはなりません。この分別という言葉には、もっと深遠な意味があるのです。

仏教でいう「分別」とは、一口にいえば、それは
「錯覚」という意味に近いものです。すなわち、実体でないものを実体であるように思ってしまう意識の働きをいうのであります。
私たちの五感に感じられるもの、それを一語で「色」と表現しておりますが、それは本来は虚なるもので、それが実体あると思うのは凡人の夢である。般若心経においてくり返し述べられているのは正にこの点なのです。

私たちが、実体あると思っているのは、それは本来
「表象」なるものに過ぎない、と唯識は説きます。そして、そのような虚妄の姿を作り出すのは、正に「分別意識活動」であるというのです。

<本文>
廣慧よ、若しその時において、一の眼識が転ずれば、即ち此の時において唯一(ただいち)の分別意識のみ有りて現識と所行を同じうして転ず。若しその時において、二三四五の諸識身が転ずれば、即ち此の時において唯一の分別のみ有りて五の識身と所行を同じうして転ず。
廣慧よ、たとえば、大瀑水の流れに、若し一浪の生縁現前すること有らば、唯一浪にみ転じ、若しくは二、若しくは多浪の生縁現前せば、多浪の転ずること有るも、然も此の瀑水は自類恒に流れて断ずることなく、尽くること無きが如く

<解説>
「広慧さん。もし、その時に、一番目の眼の認識作用が活動を起こせば、この時に働きを同時に起こすのは、ただ一つ、この分別意識のみなので、それが前者と共同作業を行なうのです」
ここでいうのは、何か見たと感ずるのは、何かが外境にあって、それ見てとっている訳ではなく、その時に分別意識が活動を起こして、それが外境に存在するように思わせているだけなのだ、といっているのです。
「そして、その時に、二、三、四、五番目のそれぞれの認識作用が活動を起こせば、この時に働きを同時に起こすのは、やはり、この分別意識のみが働いて、前記五つの認識作用と共同作業を行なうのです」
二、三、四、五番目といっているのは、いうまでもなく、耳、鼻、舌、身体のことを指しています。
これらに感じられる、声、香り、味、感触もやはり、実際にそういうものが外界に在るのではなく、そこには、ただ一つ分別意識活動のみがあるのであって、それが、在ると思わせる活動を行なうのだといっている訳です。

「広慧さん。ここは一つ、例え話で説明してみましょう。
今、ここに荒れ狂う洪水の流れがあるとします。ここに、たまたま一つのが縁あって生ずるならば、それはただその姿が形象として現れただけであり、また、二つ以上のが縁あって生じたとしても、それもただ形象として現れただけであり、しかもこの洪水自身はずっと流れつづけていて、止どまることなく、絶えることなくあるようなものです」

この浪の姿をしばしば「表象」という言葉をもって仏教では教えます。すなわち、「実体」は虚妄であって、それは「表象」に過ぎないのだと……。
この部分は、かなり難解と思われるので、次にこの意訳をのせておきましょう。

<意訳>
「広慧さん。もし、その時に、一番目の眼の認識作用が活動を起こせば、この時に働きを同時に起こすのは、ただ一つ、この分別意識のみなので、それが前者と共同作業を行なうのです。
そして、その時に、二、三、四、五番目のそれぞれの認識作用が活動を起こせば、この時に働きを同時に起こすのは、やはり、この分別意識のみが働いて、前記五つの認識作用と共同作業を行なうのです。
広慧さん。ここは一つ、例え話で説明してみましょう。
今、ここに荒れ狂う洪水の流れがあるとします。ここに、たまたま一つのが縁あって生ずるならば、それはただその浪が形象として現れただけであり、また、二つ以上のが縁あって生じたとしても、それはただ形象として現れただけであり、しかもこの洪水自身はずっと流れつづけていて、止どまることなく、絶えることなくあるようなものです。

[出典:唯心円成会伝法講義]

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