無能唱元

【無能唱元・伝法講義録 054】私利私欲の善なる面

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先回にひきつづき、解深密経の講述に早速入ることと致しましょう。

<本文>
……是の如く廣慧よ、瀑流に似たる阿陀那識を依止と為し建立と為すに由るが故に、若しその時において一の眼識の生縁現前することあらば、即ち此の時において一の眼識転じ、若しそのときにおいて、乃至五識身の生縁の現前するとと有らば、即ち此の時に於て五識身転ずるなり。……と。 ……その時に、世尊、此の義を宣べんと欲して頌を説いて曰わく、阿陀那識は甚深細(じんじんさい)なり、一切の種子は瀑流の如し。
我は凡愚に於ては開演せず、彼が分別し執して我と為さんことを恐るればなり、と。

<解説>
このようにして、広慧さん。
洪水の姿にも似たアダナ識を依りどころとし、それを成立させるというその理由ゆえに、もしその時、眼の認識作用が縁を得て生ずるならば、すぐさまここで眼による意識活動が起こり、そしてもしその時に、五感の認識作用が縁を得て生ずるならば、すぐさまこの時において、五感による意識活動が起きるのです」と……。

さて、わが円成会では、この解深密経における「瀑流(ぼる)」に匹敵するものとして「宇宙振動論」という仮説を立てているのであります。
勿論、この論は、当会独自の考え方ではなく、主として西洋に伝わる秘密教義的なものからとったものです。ここで次の引用文をまず読んでみましょう。

今、ここに太鼓が一つあるとします。
この太鼓の皮が、右から打たれて、左にへこみ、ついで右側がふくらみ、もとの真中へ戻る、これが一秒間で終ることを、1サイクルまたは、1ヘルツといいます。
これが、一秒間に二回くり返すなら、2サイクル、三回くり返すなら、3サイクルとなるわけです。
太鼓の皮が動くと、空気をゆるがします。それは、池の中へ小石を投じたように、空気に波動を起こすのです。
この空気の波動は空中を伝わり、かすかながら、我々の肌に、その空気の動きを感じさせます。
この波動が一秒間に、20サイクル以上になりますと(人によっては、もっと低い周波数から)我々の聴覚、すなわち耳の鼓膜を共振させることになり、我々はそれを、音として知覚するようになるのです。
そして、20サイクルより、16,000サイクルまでの範囲を人間の耳は、その振動を聞き取ることが出来るといわれています。これを可聴周波数といい、普通には音波と呼ばれているものです。

20サイクル~16,000サイクル=音波

20サイクル以前は、その空気の動きを僅かに肌で感ずる程度ですので、これを、一部の人々は「触覚周波帯」と呼んでいます。

20サイクルとは、非常に低い音で、これより周波数が段々と増えるに従って、音も高くなってきます。ピアノの鍵盤に中央にあるドは256サイクルであり、その右側、一オクターブ上のドは、その倍の512サイクル、逆に左の低い方のドは、半分の128サイクルであるといわれています。
周波数が増し、非常な高音となっていった音は、一万六千サイクルを越える頃から、フッと耳に聞こえなくなってしまいます。これは当然、その波動が無くなったわけではなくて、人間の聴覚で捕らえられない程の高さになってしまったことを意味します。人間の耳には聞こえなくても、それ以上高い周波数の波動を、犬や鳩は聞くことが出来るそうです。
さて、この振動波というものは、何も、太鼓の響きだけから生じてくるものではありません。
それどころか、万物はすべて、何らかの振動波を発しているのです。
さきほど述べた、可聴周波、その一万六千サイクルを越えた後、周波数値がどんどん上昇していっても、人間の五官は、しばらく、それを知覚することは出来ません。そして、その数値が、二千七百億サイクルを越えたころから、熱線として、熱さを肌で感じられるようになります。
この可聴周波から熱線までの広域にわたる振動波を、人類は長い歴史の間、自己の知覚に感ずることが出来ませんでした。これは「間隙波(かんげきは)」として、長く放置されていたのですが、人類は、この波動を電気を用いて作り出し、この電気振動波をもって、電波と呼び、それを利用することによって、さまざまな文明の恩恵を受けるようになったのです。

オクターブというのは、倍数のことで、1の倍は2で1オクターブ。2の倍は4で2オクターブ、4の倍は8で3オクターブ。8の倍は16で4オクターブと増えて行くのですが、この方法によれば、天文学的な数を、比較的小さい数値で表現できます。それで、このオクターブを用いて、周波数を説明しますと便利です。
4オクターブまでは、触覚でそれを人間は認知できます。4オクターブから14オクターブまでは、音波すなわち聴覚で、それを知覚できます。14オクターブから38オクターブまでは、電気を用いることによって、その波動を人間は作り出します。つまり電波です。
次に、47オクターブまでは、熱線および赤外線で、その次の僅か3オクターブ、つまり、50オクターブまでの間が、「可視振動波帯」である光波なのです。
これは、虹の色が示すように、下は赤から始まり、上は紫になります。
それで、それより下に隣接するところを赤外線といい、それより上になったところを紫外線と呼ぶのです。あるフィルムの感光剤は、人間の眼に見えない赤外線を写しとり、また、人間の肌を黒く焼くのは紫外線であることは、今日、広く知られています。
紫外線の周波帯は、意外なことに、光波帯の七色全部合わせたより広く、50から56までの6オクターブもあります。
ところで、周波数もこのくらいの兆を超えるくらいの極超短波(周波数が高くなるほど波長は短くなる)になると、その振動数は物質をつき抜けて通過するようになり始めます。例えば、宇宙線は、その波長が物凄く短かいので、人間の肉体も、地球自身でさえも、一瞬のうちに通過してしまうものだそうで、事実、我々は常に宇宙から降ってくるのを身に受けているとのことです。
この宇宙線より周波数の低いレントゲン線は、その物質透過性において、肉は貫くが骨の部分はよく通らないというその性質を利用して、X線写真というものが作られたのです。要するに周波数は高くなればなるほど、他のそれより低い(つまり物質)と衝突することなく、楽々と交叉してしまうのです。
振動波は、その周波数を増して、無限大の数値へ向うにつれ、その長は逆に無限小へと近づきます。それは、宇宙線の段階で、あらゆる物質を何の抵抗もなく、瞬時に貫くようになるのですが、さらにそれより高次元の数値になるにつれ、それは、無始のはじめ、この大宇宙を創始した根元的なる意識
「ユニバーサル・コズミック・マインド(普遍的宇宙意識)」
とでも呼ばれる何かにつき当るのです。
この普遍意識こそ、極限的超短波であり、古来から、幾多の賢人が哲学的思惟の結果、そこに到達し、「この名前を付け得ざるもの」に、あえて名を付け、人々に説明せざるを得なかったものです。

[出典:「新説阿頼耶識縁起」無能唱元(竹井出版)]

大宇宙とは、その実体は「力の根元」のみであって、その力とは、この「振動波」というものによって運営されているのだ、と考えると、かなり納得が行くのです。
私たちの五感と呼ばれるものは、その振動波帯のある部分の数値(五カ所の)が、それぞれ、光・音・匂い・味・感触などという感じに変化され、表現されたものに他なりません。
これは、いわば「五人の翻訳者」が、本来は只の「力(パワー)」でしかない振動波を、光・音などに翻訳して、私たちに知覚させているのです。
あるいは「五人の芸術家」が、それを、さまざまな、景色・音楽・ご馳走へと創造し、私たちに提供しているとも思えるのであります。
このようにして考えれば、宇宙とは正に、大洪水にも似た振動波の氾濫に過ぎず、その波の数カ所の部分を見て、それをあたかも固定された実在のように信じているのが人間である、というのが仏教の根本的な宇宙観なのです。
般若心経では、くり返し、このことを強調しております。
日く「色不異空」(物質とエネルギーとは異なるものではない)「色即是空」(それは同一のものだ)とか、一切「顛倒夢想」(実在とは虚構の世界)とか説き、そこから生ずる二元対立の感情的思考を分別と呼び、ことの善悪、きれい、きたないなどは、迷いの所産に過ぎないとまでいい切っているのであります。

では、ここでまた解深密経の解説に戻りましょう。

「この時に、お釈迦さまは、もう一度、くわしく、この教えの意味を説こうとされましたが、その前に、次のような詩を吟じられ、人々にさとされました。
日く
『アダナ識の意義は深く、一切の因縁は大洪水のごとし
私は愚かなる者のためにこの法を説くことはしまい。
なぜなら、愚かなる者は分別、執着の心を起こし
アダナ識そのものを、自分自身であると信じてしまうことを、恐れるが故なり』と……。」

解深密経・心意識相品

<全訳>

その時に、お釈迦さまが、広慧菩薩に申されるには……
「では、ここで、あなたのために、人間の心の働きについての秘密の教えを説いてさしあげましょう」といわれました。

「広慧さん。次のことをまず理解して欲しいのです。
六つのそれぞれの世界に生れ変り死に変ることによって、それぞれの霊休はそれぞれの生物体の形を備えます。

そして、四生の形態に自分の体つきを愛化させて行くのです。
さて、その変化の行程において、一切種子識つまりアラヤ識が熟成し、さまざまな因が混じり合って、だんだんとその勢いが拡大されて行くのですが、この運動作用は二つの感覚機能の働きがあのです。そして、その働きには二つのやり方があります。

その一は、休とアラヤ識であり、その二は物・名前・分類などについての意識とその会話活動による記憶の素材です。
この二つの働きは、現象的世界にはありますが、空性的世界にはありません。

広慧さん。この一切種子識のことを、またアダナ識とも名づけます。
これはどういうことかといいますと、この識は肉体上において、情報を追い求め、それにしたがい、それを堅固に保持するからです。

そして、これをまた、アラヤ識とも名づけます。
これはどういうことかといいますと、この識は肉体上において、情報を収集し、貯蔵し、その人の内外の安全危険を同一のものとします。
そして、この識をまた、こころとも名づけます。なぜならば、この識は、見るもの、聞くもの、かぐもの、味わうもの、さわるもの、などの情報を収集し、その信号を増幅するからです。

広慧さん。このアダナ識をよりどころとし、そして、アダナ識を成立させております故に、六識というものが変化して、現象というものを作り出します。
つまり、それは眼の意識活動と、以下、耳・鼻・舌・身休、そして頭脳の意識活動です。さて、この意識活動ですが、これが、眼と外界の景色との間に縁を結んで、眼の認識作用を生ずるのです。

そして、この眼の認識作用と一緒になって意識は共同作業を行ない、その瞬間、その場所にあって、他のものとの区別、判断などの活動を行ないます。
この眼の場合と同じく、意識活動は、耳・鼻・舌・身体などと、声・香り・味・感触などとの間に縁を起こし、耳・鼻・舌・身体などの認識作用を生じ、そして、この耳・鼻・舌・身体などの認識作用と一緒になって意識は共同作業を行ない、その瞬間、その場所にあって、他のものとの区別、判断などの活動を行ないます。

広慧さん。もし、その時に、一番目の眼の認識作用が活動を起こせば、この時に働きを同時に起こすのは、ただ一つ、この分別意識のみなので、それが前者と共同作業を行なうのです。
そして、その時に、二、三、四、五番目のそれぞれの認識作用が活動を起こせば、この時に働きを同時に起こすのは、やはり、この分別意識のみが働いて、前記五つの認識作用と共同作業を行なうのです。

広慧さん。ここは一つ、例え話で説明してみましょう。
今、ここに荒れ狂う洪水の流れがあるとします。ここに、たまたま一つの浪が縁あって生ずるならば、それはただその涙が形象として現れただけであり、また、二つ以上の浪が縁あって生じたとしても、それはただ形象として現れただけであり、しかもこの洪水自身はずっと流れつづけていて、止どまることなく、絶えることなくあるようなものです。
このようにして、広慧さん。洪水の姿にも似たアダナ識を依りどころとし、それを成立させるというその理由ゆえに、もしその時、眼の認識作用が縁を得て生ずるならば、すぐさまここで眼による意識活動が起こり、そしてもしその時に、五感の認識作用が縁を得て生ずるならば、すぐさまこの時において、五感による意識活動が起きるのです」と……。

この時に、お釈迦さまは、もう一度、くわしく、この教えの意味を説こうとされましたが、その前に、次のような詩を吟じられ、人々にさとされました。
日く
『アダナ識の意義は深く、一切の因縁は大洪水のごとし
私は愚かなる者のためにこの法を説くことはしまい。
なぜなら、愚かなる者は分別、執着の心を起こし
アダナ識そのものを、自分自身であると信じてしまうことを、恐れるが故なり』と……。」

私利私欲の善なる面

最近のある雑誌に、私、無能唱元の教説「アラヤ識論」に対する批判がのせられたのですが、今回は、それについて少々考察することにより、学徒のみなさんに、改めて、円成会教義の根元的なる思想を、もう一度復習して頂きたいと思うのです。

「ムー」誌上でときどき話題になる「アラヤ識」について、私なりの考えを述べてみたいと思います。
まず、本誌でも紹介されたことのある無能唱元氏の「アラヤ識瞑想法」を例にすると、これはアラヤ識(潜在意識)の中に"囚"を入れ、結果的にそれが自分自身にかえってくるという"願望達成法"です。
氏によれば、これは大乗仏典に説かれており、「自己の運命を正し、よく諸苦を滅し、楽をもたらすに至る」というものだそうです。非常に魅力的な願望達成法ですが、そこには多くの人が見落としていることがひとつあると思い、それを指摘しておきたいのです。

もともと仏教とは、人の心と行いを正し、執着から離れ、煩悩にふりまわされている生活を"悟り"によって解脱することを目的としているわけです。ところが、アラヤ識の考え方は、場合によっては仏教本来の目的と正反対のこと、つまり、自分の欲望をアラヤ識に入れることによって執着をつくり出す、ともとれるのです。欲望の念が強ければ強いほど、願望を達成しやすいようなのです。これは執着以外の何ものでもありません。

この矛盾はどこに原因があるのでしょうか。先にも述べたように仏教の目的は"人の心と行いを正し、悟りをひらく"ことなのです。執着から離れ、煩悩を断ち切ることが目的なのです。
したがって、アラヤ識という想念の法則も、その方向にそって使われるべきものなのです。それを忘れ、私利私欲(欲望)のために用いようとすると、先に述べた矛盾が出てくるわけです。

[出典:「ムー」1984年3月号/オピニオン広場より]

さて、この批判文を読むと、ただちに、学徒のみなさんが感じられることは、このアラヤ識の有する魔障の面については、すでに、そしてくり返し私が指摘し、警告してきたことのむし返しに過ぎないということでしょう。
この批判者は、まるで、私がアラヤを完全に万能の善なる神であるように讃えているように誤解しているようにも思えます。
私がくり返し主張しつづけてきたことは、「アラヤ識には、善性もなければ、悪性もない、すなわち唯識学にいう無記なるもの」なのです。それは、人間にとって不利なるものも、有利なるものも、人間の思惑に一切頓着せず、結果を生じさせてしまうのであります。
次に、円成会の学徒なら、すでに悟ってしまったところの「一切無自性」の宇宙的原理について、この批判者は未だ到達しておらず、分別智すなわち常識の世界から脱却できていない点に、みなさんは気づかれることでしょう。

「中道」この不偏の精神、これこそが仏道の極意といわれる、この境地について、世の多くの人はあまりにも気づいていないのです。

宇宙存在の一切は、抽象的なことがらも、具象的なことがらも、すべては「無自性」つまり、ノン・キャラクターなのであります。

すなわち、本来的には、それは「空」なるものであり、それを、陽陰のいずれかの色に染め分けるのは、人間の心の働きです。
ここに、般若心経の説く「色即是空」の意味があります。すなわち、色は本来、空と異なるものではなく、それを善と見るのも、悪と見るのも、それはその時、その場における、その人の心的状態によって生ずるものであり、更には、心経では、それは「顛倒夢想」すなわち、心の迷いに過ぎない、とまでいい切っているのです。

では、ここでこの批判者のいう「私利私欲」について考えてみましょう。
ことは簡単です。他の一切のことと同じく、私欲にも自性はないのです。すなわち、それは、善いものでも、悪いものでもないのです。ただ、それを有する人間の心的状態によって、それは「善いもの、あるいは悪いもの」になるのです。

では、ここで、この私欲の善なる面について述べた一文を次に引用いたしましょう。

今よりもっと幸せな未来を楽しむためには、私たちは今までの態度を変えることを学ばねばなりません。あなたは「利己的である」ということで、他人を非難することを教えられてきたかもしれません。しかし、はたして利己的であることが本当に悪いことでしょうか?

小さな桃の種を考えてみましょう。
大地にまかれた種は、生きていくために地中から水分とミネラルを吸収しなければなりません。発芽した後は、土壌からだけでなく、太陽と空気からも養分を取ろうとして他の植物と競争します。

時間をかけ、苦労のすえ、生存競争に打ち勝って、桃の種はついに一本の木になります。
そして、やっと今度は「与える」ときを迎えます。しかし、初めての実りは乏しいでしょう。一個か、せいぜいニ個の小さな実をつけるだけです。

このように利己的に生きてきた植物は、木になってからもいっそう利己的になります。
深く根を張ってさらに水と養分を要求し、枝えだは光と空気を求めて伸び、茂ります。
ゆっくりと、しかし確実にこの小さな利己的な桃の種は大木にまで成長し、数えきれないほどの桃を年ごとにたわわに実らせます。

この果実の種が次々に幾百万の桃の本を育てて、長い年月には、幾千億の桃を実らせるのです。最初の一粒が利己的でなかったならば、このような恩恵はいったいどこから生まれてくるのでしょう。

また逆に、もしこの桃の種が非利己的であろうと決心し、生育に必要な正当な分けまえを他の種が奪い取るままにしていたら、その実りは、見る影もなくやせこけた、せいぜい2、3個の桃だけだったでしょう。

こうした観点からみると、利己的であることも、ある意味では充分価値あるものであることをあなたは同意してくださるでしょう。
利己的であることが必ずしも悪いことではありません。

[出典:トーチェ氏の心の法則/あなたの知らない“あなた”]

この引用文の素晴しさは、ものごとを肯定的に見ようとしている点です。いいかえれば、ものごとの「善なる部分」を見ようと、自己コントロールしているのです。
この点は、自己の人生を真に実りあるものにしようとする人々にとっては特に大切なところです。
すなわち、人生を肯定的・積極的に見ようとする人々は、肯定的・積極的な人生を歩み、その反対に、人生を否定的・消極的に見ようとする人々は、そのとおり、否定的・消極的な人生を歩むに至るのであります。

ここで、前記引用文の「私利私欲」について、円成会の思想的判断をもって整理してみましょう。
「私利を立て、利他(他人のためにつくす)を忘れるのは偏りである」しかし、世の一般の人は、その反対の次のことについて、しばしば盲目になっているのであります。
すなわち「利他を立て、私利を忘れるのも偏りである」なぜならば、利他のゆえに自己を傷つけるならば、それは、私利のために他人を傷つけるのと周じ意味になるからです。すなわち、それは「一方の利を立てるために、他方を害している姿」であるからです。

道元禅師は「自他は不違にして、同事である」と説かれました。

「自利、利他はあまねく一法である」このように自己の意識をよくととのえるならば、私たちは、対立する二極の一片に捕えられることなく「不二の法門に入ることを得」と、維摩経に記されてあります。

しかし、この不二の法門に入り、すべての偏りを脱した後、再び、人間的世界に戻るならば、これを敢えて、「肯定的」かつ「許容的」に見ることは必要なことなのであります。なぜならば、「生とは肯定的なること」だからです。もし、人が生きんとする、つまり生存本能に従わんとするならば、その必然的なりゆきにおいて、どうしても肯定的ならざるを得ないことも事実なのです。
「自己の分別智を一旦捨てる」これを禅の世界では「大死一番」といって、自己を殺すということだといいます。しかし、死んだ後、ただちに蘇って、こんどは、その分別智を自由自在に使いこなすようになるのです。

[出典:唯心円成会伝法講義]

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