無能唱元

【無能唱元・伝法講義録 057】片寄りは必要

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さて、ここで、前回の振子型の修正をもって、この問題に対処してみましょう。
私たちは、すでに意識の内に「差別とは悪であり、平等とは善である」という観念が植えつけられております。
しかし、「一切無自性」であるという考え方の枠組みをもってするならば、「差別も平等も、本来的な悪も善もない筈」なのです。それは時に、人間たちにとって不都合(悪)になり、また別の時には、都合良き(善)ものになるだけなのです。

これを知った上で、平等へ片寄り過ぎた社会的意識の振子を、少々、差別の方へ戻してみようではありませんか?

「校内暴力」がはびこる原因、背景は複雑だが、ある教師OBから「暴力生徒は教師のコピーである」と投書があった。それによると、自戒をこめてちょっと数え上げただけでも「七つの大罪」を教師は背負っているそうだ。

①乱れた服装の罪→それがガクランスタイルど生徒の服装の乱れをうむ。服装は自由だと赤シャツ、ジーパン、スポーツウエアで授業をする。流行の先端をゆく"目立った"服装をする。先生の服装も学習環境の一つだ。男の生徒がガクランで、女の生徒が長いスカートで"目立とう"としても、それを「いけない」とはいえまい。

②乱暴な言葉遣いの罪→暴力生徒の"隠語"の流行につながる。「コラッ」「バカー」「うるせえ」「てめえ」など粗雑な日常語を使って生徒と親しもうとする。言葉が乱れると行動、態度もラフになる。くだけた言葉で馴(な)れ親しんだと錯覚に陥っていると、規律を強制せねばならぬ場合に生徒がいうことをきかない。

③反権力こそ正義だみたいなポーズの罪→生徒が先生に反抗的な態度をとるようになる。例えば奈良の大仏は人民のドレイ労働で作られたとか、四日市公害訴訟のような公害問題とか、歴史、社会の出来事を特定の史観に立って説明し、権利主張を一面的に教えると、生徒は先生を権力とみて反抗する。

④人間すべて平等だと先輩の意見、経験をないがしろにする罪→「センコーもオレも同じ人格」とばかりに先生を尊敬しなくなる。

⑤違法ストの罪→学校の規則が守られない。

⑥能力差を認めない罪→戦後教育では、人間だれも無限の能力を潜在的に持っていて能力差はないのだ、という建前で能力差を認めず平均化しようとするから、かえって"落ちこぼれ"が出る。

⑦組合に寄りかかる罪→暴走族や非行グループ、暴力団などと関係のある先輩に寄りかかって暴力行為に走るようになる。教師が「おまえたちはみな平等だ」とキレィごとをいっても、生徒は先生の姿勢を見抜いてしまう。先生自身が自分たちの能力差を認めたくなくて互いにもたれ合っているのだ、と。

[出典:束京新聞「筆洗」欄より]

面白いことに、この引用文に示されているのは、なんと「平等による罪」なのであります。
太平洋戦争を境として、日本人は戦前から戦後へ、まるで振子のように社会的意識が変動しました。それは
①規律から自由へ
②国体主義から個人主義へ
③差別から融合へ
となって現われ、家長や上司の権威は弱くなり、個人の行動的許容範囲は非常に拡大されました。
つまり、これは、陰より陽へ振子が振れたのです。
しかし、これは、すべてのものを肯定的に見ているともいいかねるのです。なぜなら、そこには「差別の否定」があるからです。一つの池に円いハスの葉と、とがったヒシの実が共に浮かんでいるのが、自然ありのままの姿である、と古人はさとしました。宇宙の存在の発現は常に、陰陽の二をもって行なわれているのです。
一方がなければ、他方もないのであり、一を否定すれば、両者は消滅するのであります。
この意味で、一つの方法というものは、常に方便の一つであり、それを立てる時は必ず二極のどちらかに傾かざるを得ません。
大切なことは、一法は方便の一つにしか過ぎないことを自覚して、その必要なる個所へそれを用いることです。そして、自在心をもってそれを統御し、そこより弊を除き、益を得るよう努めることが肝心なのです。

以上のことを解し、現状の社会的意識の片寄りにのぞむならば、その振子的修正は次のようになりましょう。

①上下の階級差別は必要
②長幼の序は守るべき
③能力差は判定され
④下の者は上に礼儀をもって接し
⑤人々は規律にしばられ
⑥以上に反するものは処罰され
⑦以上を守れないものは除かれる

という厳しく、冷酷な設置が必要となってくるのです。
重要なことは、次の結論です。

すなわち「何が正しいか、ではなくて、何がその時、その場所に適当か」ということなのです。つまり、こういうことです。

「偏らざる心を現わすには、時には、片寄るという行動が必要である」

この意味は、左右の一方へ傾いた舟を立て直すため、反対側の方へ体重を移すことと同じことです。すなわち、振子的修正は、人生または社会においては、軌道修正の一環として、どうしても必要になってくるのです。

ただこの時、非常に注意深くあらねばなりません。というのは、しばしばそれは、社会の態勢に抵抗することになるからです。この時、いたずらに、その体制の欠点をあげつらい、攻撃するならば、必ずやその人は周囲からボイコットを食ってしまうでしよう。
こういう人は、いつの世でも「先覚者」と呼ばれるのですが、しばしば、この先覚者が不遇な人生を送るには、以上のような訳があるのです。

私たちは、周囲の人々と調和し、平和の内に自分の群居衝動を満足させる必要があります。そして、それと同時に、社会の共同的心的態度が、陰陽いずれかの極へ傾き過ぎた時、それを是正する必要もあるのです。

[出典:唯心円成会伝法講義]

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