無能唱元

【無能唱元・伝法講義録 060】エントロピー

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「時間」は我々が創る

テ—マは「大宇宙と人間の心」とに、しぼられてまいりました。これは当円成会の最も根本的な部分に到達したことを意味するものです。
では、今夕は次の引用文をまずお読みください。

ニュートン的な決定論的、可逆的な世界においては、確かに時間には過去と未来の区別はない。
方程式は過去と未来とで対称的な形をしており、時間をひっくり返す(これを「時間反転」と呼ぶ)ことをしても、理論的には同じ運動が許される。
しかし、方程式がどんなに時間の過去と未来に対称であっても、現実には許される運動はそのうちの一方だけのことが多いのはなぜだろう。
たとえば、ニュートンの世界では、ぬるま湯を熱湯と冷水に分離することが可能である。もしそれができるなら、わたしたちは海水から熱を取り出して動き続ける「永久機関」をつくれるはずだ。
しかし現実には、エントロピーの法則が、熱湯と冷水がまざってぬるま湯になることは許してもその逆の運動を禁止している。
その結果、「時の矢」は、熱湯と冷水がまざっていく方向に向くことになる。つまりエントロピーの法則が現実に許す運動の方向こそが、時の流れる向きである、とプリゴジン教授はいう。
こうして時間は、アインシュタインのいうような幻想ではなくなり、現実のものとなる。プリゴジン教授は、アインシュタインが「時は幻」と考えざるを得なかったのは、人間を自然から切り離して考える科学の思考方法にある、と指摘している。
十八世紀にニュートンが運勤の三法則と万有引力の法則を発見して以来、科学者は自然をわたしたちの存在とは別個なものとして考えてきた。
地球が太陽の周りをまわるのは、絶対的な真理であって、わたしたちとは無関係に、きまった軌道を動く。大砲の弾丸は、だれがそれを発射しようと、科学の法則にだけ従った弾道を描く。
自然はいつもわたしたちの外に一つの絶対者として存在し、それを観測して真理を見いだすのが、科学者の仕事だと考えられてきた。
結局、ニュートン的世界観によれば、自然は巨大な機械と同じである。それは昔も今も明日も、いつも変わらない原理のもとで動く。だから、過去から未来を予測することも、現在から過去を再現することもまったく同じように可能なのだ。
しかし、ニュートンの世界には、わたしたちの日常的な感覚と相いれないことが多い。時が幻というのもその一つだが、すべてが決定論的に決まっているとする世界にも抵抗があるに違いない。
明日のことが今日によって決まっているとするなら、わたしたちの精神の自由性をどこに求めたらいいのだろうか。
ブリジン教授は、わたしたちの存在を科学と切り離して考えるニュートン的世界観が、哲学と科学との対立を生み出してきた、と述べる。

二十世紀になってメルロ・ポンティが、
「科学と哲学の対立は、不毛である」と警告を発したが、いまだに「科学」と「哲学」との対話は途絶えたままである。
プリゴジン教授は、インドでの講演を締めくくるにあたってアインシュタインとインドの詩人・哲学者タゴールとの対話をあげている。

アインシュタインは、
「科学は、どんな観測者からも独立した形で存在しななければならない」
と強調した。
これに対してタゴールは、
「いかなる真理といえども、人間の心を離れてはありえない」
と述べた、という。

プリゴジン教授は、
「人間が自然のなかにあるという考え方を認めるめなら、自然の真理は人間の真理ともなる。わたしたちは、ニュートン世界から別れて、新しい人間を中心とした世界へと移るときがきていると思う」
と、いう。

タゴールはいつもこう言っていた。
どれほど実在のことを語ろうと、それは精神を通して初めてわたしたちに開示される」
そして、プリゴジン教授はフランスの作家ポール・ヴァレリーを引用して、こう結ぶのだ。

「明日は今日の続きではない。「時」は人によってつくられるのだ。だからこそ、わたしたちは人類全体に対して未来への責務を負うている」

[出典:サンデー毎日/1984.3.11号 サイエンス&テクノロジーより]

この記事の見出しには、「エントロピーの法則が、時の矢を決める」と書いてありました。
このエントロピーの意味は「物質が秩序あるものから、無秩序なものへと、時間がたつにつれて、くずれていく傾向」ということです。
この整然とした運行をもって示されている大宇宙も、最終的には、すべてが崩壊しさって、平均化された無秩序の世界になってしまうであろう、と考える人もおります。
このエントロピー的進行の中にあって、ただ一つの例外が「生命」である、ということが出来ましょう。
さて、ここに引用したこの一文から、その結論的なものを導き出すならば、それは、ニュートン的世界観への疑惑あるいは否定ということになりましょう。
それは、すべてが決定的に定まっている世界像の否定です。そして、それは「時間」さえも、常に、そして万人に対して一定のリズムで流れているものではなく、不安定で変化しつつあるものであると示唆しているのです。

時は幻か?

実は、この時間が万人に対して一定でないことは、アインシュタイン自身が発見し、それは、観測者(見るもの)被観測者と(見られる者)の立場で、つまり相対のあり方によって異なってくることを提唱したのです。つまりこれが有名な相対性の原理です。

しかし、その彼も、心(意識)が、時間あるいは世界)を変化させるところの元凶だとまでは見れなかったのであり、それは彼の科学者であろうとする心的態度が、そこにそのような限界をもうけたのであろうとは容易に察しがつくのです。
そして、それは、前記引用文中に指摘されているところの「科学と哲学との間の不毛」を示すのです。
神秘学の使命とするものは、正にこの点にかかっているのであり、当円成会の目指すところもここにそあります。
しかるに、世のおお方の人々は、科学は専門家に任せておけ、とか、宗教家は宗教のことだけ考えておれば良いなどといっているのです。

さて、前記引用文中において、アインシュタインが 時は幻」と考えざるを得なかったのは時間を自然から切り離して考える科学の思考方法にある、としておりますが、これも、ニュートン的世界観に反旗をひるがえしたアインシュタインも、やはり未だニュートンの影響下を脱し得ていことを示していると思うのですが……。
では、ここで、アインシュタインのいう「時は幻」について、次の引用文をもって参考としてください。 これで、その幻という意味の一端はつかめるのではないでしょうか?

今、あなたは、電車の中の中央あたりの席に腰かけています。
あなたの頭上には、特別の光を放つ電燈が一個、天井に設置されてあります。
この電燈から左右に、30メートル離れたところに、それぞれ、自動ドアがあります。そしてこの電車は走っているのです。
この二つの自動ドアは、変わったドアで、中央の電燈の光を受けると、それが開く仕掛けになっているのです。
そして、この場合、光の速さは、ぐっとスピードを落して、一秒間に30メートルの速さということに仮定して考えます。
さて、車掌が、スイッチを押しますと、中央の電燈が、パッとつき、その光は、左右のドアへ、30メートル走ってたどり着き、感光させて、そのドアを開かせます。
光速は、秒速30メートルですから、スイッチが入れられてから、ドアが開くまでは、ちょうど一秒かかることになります。
スイッチを入れる。中央の電燈がパッとつく。一秒ののちに、左右のドアが開く。とこういうことになります。
中央にかけているあなたは、その情景を、そのあるがままに見ております。すなわち、電燈がついた一秒後に左右のドアの開くのを見ることが出来るのです。
ところで、この電車は、秒速30メートルで進行しているとします。つまり光速と同じ速さです。
そして、あなたは、外側のプラットホームに立って、その電車の前を通過するのを見ているとします。
この電車の中央の電燈が、あなたの眼の前に来た時、車掌がスイッチを押しました。
すると、この場合、後部ドアのBは、一秒の半分、0.5秒で聞いてしまうのです。

なぜか?それは光の速さは秒速30メートルで、四方八方で拡がっていますから、後方へも当然、秒速30メートルで進みます。ところが、電車はその逆、つまり前方へ向って、同じく秒速30メートルで進んでいます。それで、後部ドアBは、電燈との間は30メートルでしたから、15メートル進んだところで、光が15メートル進んできたものと、ぶつかってしまうのです。
ドアBは左へ15メートル進み、光は逆に15メートル進んで両者が出会い、そこで、ドアBは開きます。それで、車がスイッチを押してから、0.5秒のちドアBは聞くのです。
これに反して、前部ドアはどうなるかというと、これはなんとかないのです。
つまり、電車の速度30メートル、光の速度30メートルですから、この同一方向への追っかけごっこは、30メートルの差が永久に縮まらず、この前部ドアAは、いつまでたっても聞かないことになるというのです。

観察者であるあなたが、進行する電車の中にいた時、二つのドアは、光が出た一秒後にその両方が聞きました。
しかるに、あなたが電車の外に出て、外部から、その進行する電車を眺めた時、片方のドアは0.5秒で開き、もう片方は開かない、という珍現象が生じたのです。

かって、時間というものは絶対的なものと信じられていました。時間は、すべての物、すべての場合において等しい速度の流れによって経過しつつあると考えられていたのです。ところが、アインシュタインは、この観念を打ち破ってしまいました。時間は、すべてのものに等しく流れる絶対的なものではなく、非絶対なるもの、すなわち、あい対するものの両者の位置によって変化してしまう。
「相対」
なるものだったのです。

これは、いい換えれば、観測者であるあなたと、見られる電車のドアの相対なる関係で、お互いの位置が変ると、時間の流れさえ変えられてしまう、ということになります。
逆に考えてみますと、観測者のあなたのも絶対的なものとはいえないことになります。
ドアが一秒後に開くのが真実か、あるいは全然ないのが真実なのか?
あなたの眼は、同一のドアを同一の時点(仮りにそういう)で見ても、異なった現象を見る可能性が生ずるとしたら、一体、どれが真実なのでしょうか?

一つ考えられることは、現象というものは、我々の外界に厳として存在しているものではなくて、我々と外界の何かと、つまり対なるものが、両者から何かの信号を送り、その交錯した点が、現象という意識が起こすのではないか、ということです。

外部における原因と内部における原因、これを、外因と内因と呼びまして、仮に外因側を送信者、内因側を受信者と考えますと、両者から発しられた電波(仮りにそういう)は、その両者の中において、交錯し、一つの現象を生じ、そこに働く映像を出現させる、とこのように考えられるのです。
観測者の位置が変わる、これはいうなれば内因の条件が変わることです。それで、内因の条件が変われば、すなわち、現象も変化せざるを得ないことになります。

[出典;新説阿頼耶識縁起―かくされたパワーを引き出すアラヤ瞑想術のすすめ]

アインシュタインのいう「時は幻」を更に延長拡大して考えられたものが、唯識思想です。
これはつまり、私たちが知覚し、在ると考えるものが、すべては幻であるというのです。このすべてとは、時間・空間のすべてであり、また、未来の世界、そして、来世、また地獄や天国なるものの一切を包含するものです。

以前にも触れましたが、来世や霊界というものが、すでに厳として、あらかじめ存在してあり、そこへ、私たちの霊は導かれるものではないのです。
実に、その来世、霊界そのものを、私たちのアラヤ識の共同思念体は造り出すのです。
これこそが、仏教でいう、一切は虚妄であり、在ると思うのは顚倒夢想であるという意味です。
そして、また、その虛妄こそが、また、私たちにとって、厳としてある「実在」でもあるのです。
この奇妙きわまる、そして矛盾した教説は、多分、みなさんには、まだ十分に納得の行かないことかも知れません。
しかし、当会の教義をなお一層と学ばれ、それを実修して行くうちに、この教説の真義を必ずや、学徒のみなさんは解明されるに違いないと、私は確信するものです。

相応の理とアラヤ識

ここでもう一度、スウェデンボルグの世界について考えてみましよう。
彼のいう「相応の理」は、当会の教説「アラヤ識こそすべての根元基体」であることと考えあわせると、見事にその意味が氷解してくるのです。
「この世にあるものは、あの世にもすべてある」と彼はいいます。
「人間界にある風景はすべて、霊界にも、ほとんどそのまま存在する。ただし、そこにあるものは現世より奇怪な形態に変貌していることが多い」

この現世より奇怪な形態に変貌しているというのは、アラヤ識の中にあった現世の記憶が投写されて表象となる際に、肉体を離脱して、より軽く精妙になった霊が、その自由さのゆえに、思考意識の変容を、より強力に投写させて、外境を感じたままに変容させるからだと考えられるのです。
また、スウェデンボルグは、地獄界へ行く霊たちは、他者の手によるのではなく、すなわち、西洋の最後の審判や、日本のエンマ大王の裁きによるのではなく、自ら好んで地獄へ行くのだ、と述ベておりますが、これなども、自らによる選択は、ただたんに地獄界行きを選ぶというだけではなくて、実にその醜悪きわまるその地獄界の風景自体を出現せしめているのであります。

また、スウェデンボルグのいう「霊界の太陽Iについても考えてみましょう。
霊界の太陽は、まるで各人に一個づつ所属しているようにさえ見えます。常に、その人の胸の髙さにあり、それより高くも、低くもならず、しかもどちらへ方向を変えても、いつも前面に存在しているというのです。

宇宙を出現させた(今生の)エネルギーは、私たち人類にとっては、太陽という媒体を通して、ふりそそぎ、私たちは、その陽的パワーを「気」として受け取っております。
これもやはり、アラヤ識の創出した方式の一部であって、あらゆるものの物質性(存在性)を維持するための一つの形態です。

この点において、霊界の太陽もその意味は同じです。それは、大宇宙の根元エネルギーである宇宙線を表現しているその形態が異なっているだけなのであります。
これが現世では、より粗大濃密な低位の振動波体にあっては、ただ一つの巨大な太陽によって表現され、霊界において、より高位なる霊の振動波体にあっては、その軽妙自由さのゆえに、個々の太陽となって表現されるものと推察されるのです。

すなわち、あらゆる存在は、その存在を表象せしめている根元的パワーを必然的に必要とし、それをアラヤ識によって、さまざまな形象を出現せしめているのであります。

他世界へ霊がまぎれ込むと、上、中、下、三世界では方位、方角の基準が違っているためその霊自身にも、またその霊と想念をかわした霊の中にも方位の錯乱といぅ混乱した現象が生じる。これは霊には、まさに死の苦しみを与えるほどのもので彼らはものを見る視力や視界、物事を判断する知性も混乱と錯乱の中にまきこまれてしまう。

霊が他の霊の世界へ入ると方位の感覚に錯乱がおき自分はもちろん他の霊たちにもその苦痛を与えることになる理由は霊界の太陽の非常に変わった性質による。つまり霊界の太陽は上世界ではつねに太陽として上世界の霊たちの眼に映っているが、下世界では、つねに光の弱い月となって下世界の霊たちの眼に映るのである。そして太陽は上世界の霊の右眼に見え月は下世界の霊の左眼に見えてその間には三〇度の角度の開きがあるため二つの世界には方位の基準の違いが生ずるのだ。

また中世界の霊にとっては、太陽は霊の霊的状態の如何によって太陽として右眼に見えたり、月となって左眼に見えたりする。このことは変化の海のところで述べたとおりだ。
このようなことがあるため、上、中、下三世界の間には交通、交流が許されていないのである。

[出典:私は霊界を見て来た/E・スウェデンボルグ(今村光一訳)]

死後の霊が、どのような来世へおもむくのか、という問いに対して、スウェデンボルグは、前記の「霊界の三つの世界」および地獄界について次のように述べております。

私は霊界には上、中、下の三世界があり、そのほかにも“地下の霊界”ともいうべき地獄界とい世界のあることはすでに記した。霊界のことを記す最後に私は人々のもっとも大きな関心事に対する答えを書いておくことにしよう。
人々のもっとも大きな関心事は、人間のときの生涯と死後にその人間の霊の行くことになる霊界の世界との間には何かの関係があるのか、あるとすればどんな関係があるのかということであろう。私はこれには次のように答えよう。
関係があるのかなどといったものではない。人間の時の生涯がそのまま死後彼が永遠の生を送るべき世界をほとんどきめてしまうのだ。

このように私がいうと人々には、それは宗教などの教えによっていいふるされたこと、宗教の教義のように宗教上の方便であって仮空のことを私もいっていると考えられてしまいそうだ。しかし、私のいうのは表面的には似ており、また結果的にも宗教の所と重なり合う部分はあっても根本的には宗教の説く所とは全く違ったものだ。このことはさきの地獄界の所でも少しふれたので人々には理解されるだろう。

つまり宗教の説く所は、その宗教の教義に合った正しい生涯を送れば死後その報酬として幸福な世界に入ることができる反面、その宗教の教義に合わない誤った生活を送れば、その罰として地獄に入れられ、永遠の罰を受けることになるというものだ。

しかし、霊界で霊たちが幸福な世界に入るのも、また逆に地獄界に入るのも別に人間のときの生涯の報酬や罰として入るのではない。それは人間のときの生涯において彼の内心が霊界のどの世界にもっともよく対応すべきものになっていたかということにより、死後の彼の自身が自分の意志によって、自分の世界を自由に選択するのである。

このとのことをもっと簡単にわかり易くいうとつぎのようになる。
霊界の上世界は中世界より明るい光に満ちた世界だ。しかし、明るい世界に住むには人間の例でいえば彼のがその光に耐えられないものとすれば彼はもう少し暗い世界を自分で選ぶことになるだろう。これと同じことで、上世界に住むには霊的な心の窓、つまり霊流を受け入れる窓がそれだけ開かれていなければならないことになる。

もし、中世界や下世界の霊流に合うだけの窓をもった霊が上世界に入れば彼はその霊の強さや光りの明るさに耐えられず苦痛を感ずることになり霊的な永遠の生を全うすることができなくなる。
要するに霊的な霊の窓の開け具合が彼の住む死後の世界を決めるのであるが、その窓の開け具合は人間だったときの生涯においてどれだけ霊的な心を聞いたかということの結果なのだ。

では、どのような人間の生涯が霊的な窓を開いた生涯であり、どのような生涯が開かない生涯なのか?ここへ来て人々はまた一つの疑問にぶつからざるを得ない。それは霊とか霊的な窓とか、霊的に眼の開けた人間の生涯などといってもに霊することは、あまりに深遠すぎ、また高い境地であって人間には考えることすらできないものだというような考えが一般になっているためだ。

しかし、私にいわせればこのような考え自体が、すでに「直ぐなる心」を失いかけた人々の誤まった感覚に過ぎないのだ。なぜなら、人間はもともと肉体をもった物質界だけに属するものではなく霊界物質界の両方に属する存在であるから霊的なことを考えることは少しも困難ではないからだ。

霊的に心の窓が開けた生涯とは簡単にいうと世界の秩序を知り、これに素直に従った生涯を送るということである。そして霊界の秩序は人間にも素直な心さえあれば、その存在を感ずることも、その姿をもっと具体的に知性によって知ることも全く不可能なものではない。なぜなら、人間の住む自然界との間には、相応の理といって、多くの事物についての相応があるからだ。人間界自然界にあるものは、それに相応する対応物が全て界にもあり、早い話そのものが人間と実によく似た存在、つまり人間の相応であることはすでに人々には、私のいままで記したことからよく解るはずだからだ。そこで心を素直にして自然界を見わたしてみる。鳥や虫などの動物界樹木のような植物界にせよ全て生命あるものは、不思議な自然界の秩序によって生活している。この不思議な秩序に素直に感嘆し、この秩序の事に素直な心をもって生活しようとする人間は、すでにその心の中に霊界の秩序の事をある程度感じとっている人たちだ。

[出典:私は霊界を見て来た/E・スウェデンボルグ(今村光一訳)]

以上の引用文から引き出せる結論は、私たちの霊は進化向上しつつあるのだ、ということです。
そして、私たちの幸福感とは、結局、その進向の途上にあるという自らの実感であり、そしてその逆の不幸感とは、進化への逆行すなわち、退嬰的感情にとらわれてしまった状態である、といえると思うのです。
この意味で、この世においても、あの世においても、天上界も地獄界も共にそれは存在しているのであり、そして、その両世、両界自体さえも、宇宙の根元意識と一如にして不違なるアラヤ識によって、演出、表現された幻の姿と見ることが出来るのです。
そして、真の意味で、これを知り、全身全霊をもって、それを解した時、私たちはそれを「覚醒」あるいは「悟り」と呼ぶのであります。

[出典:唯心円成会伝法講義]

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