無能唱元

【無能唱元・伝法講義録 069】憑依的現象と啓示的現象の違い

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想念波動には陰もある

呼吸術による指先きから陽気を放射と違って、想念によって生ずる波動は「陰陽」の二種があるのです。
なぜ、この二種があるかというと、それはこの波動を起こすには

思考+感情=想念

つまり、感情が必要であり、そして感情にはご存知のように、否定的なもの(陰)と肯定的なもの(陽)があるからです。

したがって、恐怖に震えている時の想念も、喜びに満ちあふれている時の想念も同様に波動となつて体外に放射されるのであります。

まず第一に、はっきりだれか他人に向けられた思念を考えてみよう―だれか他のひとにたいして愛情か感謝の(ときのはもしかして不幸にも妬みかしっと)思念を送りだすときのような。
そのような思念は、ほかのどんな思ともまったく同じように、放射する場をつくり出すであろう。したがってその範囲内にある人びとの心に同じ波動を再生産することになるであろう。しかし思念がつくり出すところの思念像は、(このばあい)いわばはっきりした意図でされているのである。それは思念者のメンタル体とアトラル体から離れるやいなや、まっすぐ思念が向けられた相手に向って進み、かれに付着する。

これを充電したライデン瓶にたとえるのも、あながち不当ではないだろう―からだをつくっているメンタル界とアストラル界の物質は、瓶に象徴され、そこにこもっている思念の波動エネルギーは充電された気する。もし思念を向けられた人がそのとき受け身の状態であれば、あるいは、かれの心のなかに、向けられた思念と調和する性質をもった活発な振動があれば、その思念は直ちにかれの上で放電する。当然その結果は、前になにも波動を持っていなければその思念に似た波動をひき起こし、もしすでに同じ思念がそこにあれば、それを強めるであろう。もしそのとき人の心が、振動が入りこめないほど何かほかのことで一杯になっていれば、思念像はかれの周りにただよって、放電する機会をうかがうのである。

第二に思念がだれかある人に向けられないで、主として思念する人自身に関したものであれば(実際たいていの人の思考はそうであるが)、波動はいつものようにあらゆる方向に拡散する。
しかし思念像は、それをつくり出した人のすぐ周りにただよい、いつでもその人に反応しようとする傾向がある。かれの心が仕事やなにかほかの考えですっかり満たされているかぎり、そのただよう像はただ足ぶみしているだけであるが、かれの一連の思考が尽きてしまうと、つまりかれの心がしばらく休むと、その像は反応する機会を見つけ、直ちに同じ思念を繰りかえし始める―すなわち、かれの心に前にふけったことのある思念を繰りかえさせる。
多くの人は、そのような思念像の外被に包まれているのが見られる。かれはしばしば、自分に圧力がかかるように感じるであろうが、それは周りにある一定の思念の、絶えることのない示唆なのである。そしてもしその思念がよくないものである場合には、たいてい、悪魔によって誘惑されているのだ、と信じてしまう。しかし事実は、(もともと)かれがかれ自身の気分の原因なのであり、その懸念は、まったくかれが自分でつくり出したものなのである。

第三に、思念者の周りにただよいもせず、特別だれかに向けられたのでもない一群の思念がある。この場合につくられる思念像は、思者の周りにもとどまらず、特別ほかの人に向かって引きつけられもせず、ただ、用もなく、それがつくられたところにただよっている。
ひととはそれぞれ人生を生きてゆくとき、こうして三群の思念像をつくり出しているのである―それらは、かれから離れ、ある決った対象を目指してまっすぐに飛んでいく、かれの周りにまつわり、かれが行くところへはどこへでも随いていく像、および、かれの行路を印しづける一種のたなびきとしてかれの背後に残されるである。

大気全体はこの第三のタイプの、ぼんやりした、あいまいな思念によって満たされている。したがってわたしたちは、歩んでいくにつれてこれら膨大な量の思念のなかを、いわば思念に触れながら進んでいるのである。
もしわたしたちの心が、すでにはっきり(ほかの考えによって)占有されていなければ、これら人の思念の、ぼんやりした、さまよう"かけら"にひどく影響される。それらは、ほんやりしている人の心のなかを突きぬける。しかしそれらの大部分は、たぶん特別な興味をひき起こすことはない。
しかし時として注意をひく思念が入ってくると、心はそれとくっつき、しばらく楽しんだあとで、それを入ってきたときよりももう少し強化して放出する。もちろんこの多くの発生源からの、混じりあった思念には、とくべつ一貫したものはなにもない―当然ながら、これらのどの一つからでも一連の観念の連想が始まり、かれの心は自分から思考しだすかもしれないことは忘れてはならないが。

ある人が通りを歩きながらフト気を取りもどし、「なにをわたしは考えていたのだろう。そしてそれはなぜだろう。わたしは考えつづけているうちに、どうしてこの特定のことを考えるようになったのだろう」と自問するなら、またもし、かれがそれまでの十分間の思考の筋道をたどり返してみるなら、かれはたぶんその間に、どれほど多くの、無駄で無用な思念が心のなかを通りすぎたかを知って、ひどくびっくりするに違いない。それらの四分の一も、かれ自身の思念ではないのである。
それらはただ通りがかりに取りあげた思念のかけらにすぎない。たいていそれらは全く無価値である。それらの一般的傾向としては、間違いなく善よりもはるかに悪いほうに傾いている。

[出典:「神智学入門」C.W.リードビーター著、たま出版刊]

この引用文で解ることは、私たちは、その思考の波動を、ある心像のかけらのように絶えず周囲に放散しつつある、ということです。
そして、それらと共振同調する相手と出会うと、それはその相手の心内に、その心像のかけらを再生するのです。
これが、古来からいわれる「以心伝心」であり、またテレパシーの原理でもあります。
私たちの日常の思考および感情が否定的なもので占められているならば、それは外部からくる否定的な波動と周調し、それを自分の内部に受け入れます。
それは、恐怖、不安、怒り、恨みなどの陰的想念であり、これらの類にとりつかれた人は、外部からの同類の波動に対し、自分の家のドアを解放して持っているようなものです。
ですから、不安は不安を呼び、怒りはまたあらたな怒りを呼んで増大して行くのです。
しかし、また、逆も真で、私たちが日常の自分の思考と感情を自らコントロールして、肯定的なものへと整えてあるならば、その人は、外部からのすべての良き波動を受け入れるのでもあります。
そして、その人は、成功、健康、愛情、富などの肯定的結果を得て行くことになるのです。

霊波体の働きについて

さて、当会は、人間の肉体の中には「眼に見えない部分」があり、そのものについて、世界中の数多くの仮説を収集し、あらたな、そしてより合理的な形而上学的思惟を行ない、ここにひとつの仮説を打ちたて、それについて、何回か言及してきたのであります。
そして、それは、易から難へと道をたどるため、初めのころは、ごく単純化して、その外廓を話し、ついで、徐々に複雑さを加え、よりやさしく、学徒のみなさんの成長度にあわせて説かれたのです。
しかし、それは段階的に理解しやすく説かれたため、初期の際に用いられた考え方や術語に多少の混乱や誤解が、あとの方の講義になって生じてきたことも懸念されます。
そこで、ここで、この「眼に見えない物質」についての当会の考え方を整理し、より明確にすることと致しましょう。

五つに分類された、これらの「体」は、陰のグル—プが、より定着的であるのに対し、陽のグループは、より浮遊的であり、気まぐれのように、肉体の内外に飛翔しがちです。
そして、霊波として、自分自身および他人へ働きかけるものは、アストラル体とメンタル体の合成であり、中でもアストラル体の部分が圧倒的に多いのです。これは、アストラル体が感情面によって造り出される波動体であるからで、これが思念を形成するエネルギー源であることを示します。

それでは「思念」とはなんであり、それはどのように作用するのか。ざっとでも神智学の書物に眼を通した人なら、わたしたちの太陽系の、相互浸透している各世界に応じて、ひとはそれぞれひとつの媒体を持っていることを知っている。また、アストラル体は、かれの欲望・情熱・感情の媒体であり、かれの思念はわたしたちがふつうメンタル体と呼んでいる、いっそう織細な物質できたより高位の媒体を使って作用していることも知っている。

思念が最初に透視家の眼にうつるのは、このメンタル体のなかでであり、その物質の振動としてあらわれる。この振動はさまざまな効果を生じるが、それらはすべて、この物理界な効果と非常によく似たものである。

第一に、メンタル体自体に生じる影響がある。これは、習慣をつくる性質のものであることが解る。メンタル体には多くの異種の物質があり、それらはおのおの、もっとも慣れた固有の振励数を持っているようにみえる。したがってそれら個々の物質は、その固有の振動にたいしては容易に反応し、ある強力な思念、あるいは感情がおこってそれから外れたときは、できるだけ速く、その固有の振動に帰ろうとする傾向がある。十分に強力な思念は、メンタル体の全物質をしばらくその同じ度合いで振動させることができる。そういうときはいつも、繰り返しが少し容易になる。つまり、その同じ度合いで振動する習慣がメンタル体につくりあげられ、ひとはすぐにその特定の思念を繰り返すことになるのである。

第二に、密度に応じてメンタル体の上と下にある、人間の別の媒体に及ぼす影響がある。物理界では、ある一種類の物質をかき乱すと、それは容易に別種の物質に伝わる。たとえば地震は、海に巨大なうねりを生じさせ、あるいは(別の側から)あらしによる空気の撹乱は、直ちにその下にある大洋に波を、やがて大きなうねりを起こさせるであろう。
それとちょうど同じように、人間のアストラル体の動揺(ことばをかえていえば、わたしたちがふつう感情と呼んでいるもの)は、メンタル体に振動を与え、その感情に応じた思念をひきおとす。

逆に、メンタル体の動きは、もしその動きがアストラル体に影響するような種類のものであれば、それに影響する―つまりこれは、ある種の思念は容易に感情を刺激することを意味する。ちょうどメンタル体の振動が、それより濃密なアストラル体の物質に伝わるのと全く同じように、それより繊細なコーザル体の物質にもまた、必然的に伝わっていくのである。このようにして、慣的な思念は、かれ自身の「エゴ」の特質をつくりあげていく。
これまでのところ、わたしたちは人の思念が自身に与える影響について考えてきた。わたしたちはまず第一に、同じ思念が繰り返される傾向があり、第二に、思念はかれの感情に作用するだけでなく、かれという人間自体のうえにもまた、永続的な影響を及ぼすことを知った。
さてこんどは、かれ自身の外部に与える影響、つまり、ちょうど大気がわたしたちをとり囲んでいるように、わたしたちみんなをとり囲んでいるところの、メンタル物質の海に与える影響について考えよう。

そうすると、第三に、あらゆる思念は放射性の波動を発生している。その波動は、それを生じた思念の性質に応じて、単純であったり複雑であったりする。
この振動は、ある場合にはメンタル界にとどまっているかもしれないが、ある場合にはその上と下の界にも影響を及ぼすことがある。もし思念が純粋に知的で、非個人的である場合―たとえば、ある哲学体系について考えたり、あるいは代数幾何の問題を解こうとしているとき発生する波動は、メンタル物質だけに影響するであろう。もし思考が霊的な性質のものであれば、つまり、もしその思考に愛やあこがれ、あるいは深い献身的な感情が混じっているなら、その波動はメンタル界の領域にまで上昇し、さらには、いくらか直観界レベルの荘厳と栄光をさえ、取り入れるかもしれない。この組み合わせは、その波動をひじょうに強力なものにする。これに反し、もし思念がいくらか自分自身のことや個人的な欲望に色づいていれば、その振動は直ちに下降して、その力の大部分をアストラル界で費消する。

これらの波動はすべて、ちょうど光や音の波動がこの物理界で作用しているのと同じように、それぞれのレベルで作用する。波動はあらゆる方向に拡散するが、その力は発生からの距離に応じて減衰していく。しかし波動は、わたしたちを取りまいているメンタル物質の海に作用するだけでなく、その海のなかを動いている。ほかのメンタル体にも作用していることを想起すべきである。
わたしたちみんながよく知っている実験に、ピアノの鳴る音や、バイオリンの鳴る弦が、まったく同じピッチに調整された、別の同種の楽器に、その対応する音を生じさせる実験がある。ちょうど一つの楽器から発生した振動が空中を伝わって別の楽器に作用するのと同じように、一つのメンタル体でつくられた思念の振動は、周囲のメンタル物質によって伝達され、ほかのメンタル体で再生されるのである―このことは、別の観点からいえば、思念には伝播性があることを意味する。
わたしたちは後からこれについて考察しよう。

第四に、すべての思念は振動だけでなく、像(フォーム)もつくる。その像は、はっきりした、独立した物体であって、ある種の力とエネルギーをもち、多くのばあい、一時的に生きもののような行動をする。それは振動と同じように、メンタル界だけにとどまっているかもしれないが、もっとしばしばアストラル界のレベルまで下降して、感情の世界でその主な影響を与えることが多い。

[出典:「神智学入門」C.W.リードビーター著、たま出版刊]

憑依現象について

以前、私は霊について、ある人から「よくいわれる、他の霊が人にとりつくなどということは本当にあるでしょうか?」
という質問を受けたことがあります。これについては、非常に誤解や混乱を生じやすいので、私は不用意に答えないようにしております。7
というのは、もし「ある―と答えれば、世によくいわれる「憑依(ひょうい)現象」というものを認めたように解されてしまうからです。
他の霊がある人にとりついて、その人の人格にとって代ったり、またその人の人格に苦痛を与えたりする、といった考え方に、当会は同意しないのであります。

私たちの霊が、他の霊に影響を受けるということは事実です。しかし、それは他霊そのものが、私たちの体内に入ってきて、私たちの意識活動に介入するという意味ではないのです。

これは、他者の霊の発した思念波を私たちの意識が囘調して捕え、それにある種の反応をするということに他なりません。

この時、それに反応するだけでなく、それに対して怖れを抱いていると、その反応を増幅拡大し自己暗示を強化して行って、遂には自己判断性を失ってしまうというのが、要するに「憑依現象」なのです。

ここで重要なことは、それは「他霊の意志によって、あやつられているのではない―ということです。これはあくまで、自らのえがき出した自分の影におびえ、それに踊らされているに過ぎないのです。

無意識的な自己催眠

例えば、ある人が、自己重要感の充足がうまく行かず、劣等感に悩んでいたとすると、それへの反発として、突然、まるで宗教の教祖になったような言動を始めることがあります。

態度が非常に尊大になり、人々に命令をくだしたり、おどしたりするようになります。
これは、その人には多分に、その種の宗教的な前暗示があり、それが、ある時期に、日常、自分の劣等意識を強く刺戟する外的条件が起こり、その時、ある否定的な思考念波に同調して、自己催眠的な状態に落ち入ってしまうのです。

これは、そもそもが、自己の劣等意識をカバーするための無意識的衝動から出たものであり、それが嵩じて、誇大妄想狂となって、教祖を自作自演しているので、他霊がとりついて、その人を動かしている訳ではないのであります。
一般的に世にいわれる「憑依現象」というものは、おおむねこのようなものです。
以上のことから、結論として知って頂きたいのは、「私たちは、他人の思念波の影響は受けるが、他の霊にそのままとりつかれてしまうなどのことは殆んどない」ということです。
この憑依現象の他に、ある「神的な啓示」というものを受け、それによって、教祖的な言動をする場合もあります。

啓示とは

実際のところ、憑依的現象も、啓示的現象も、それを一つの現象として捕える時そこに殆どの違いはないのです。
それは両者ともに、幻覚あるいは幻聴を体験する故にです。
人間がある種のことに、考えを集中しておりますと、次第に表層意識が没我状態になり、四つの感官は眠ったような、または麻痺したような感じになってきます。
この時、内部の集中された情動が表層意識へ登場してくるのです。すると、空間にただよっている他の人の思念的振動波とそれは同調し、次第にそれは大きく増幅されます。
すると、その人の内部意識は第三者的な働きを起こし、それを映像か音声かにして、その人にそれを体験させるのです。
これが幻覚または幻聴であり、そしてまた、憑依あるいは啓示の実体であります。
次の引用文は、「見仏(けんぶつ)」という、念仏三昧中に見る仏陀の姿についての記述です。

「どうしてこのような修行をするのですか?|
記者は、光明会・高槻道場の別時に参加した時、その主宰者である井藤舜匡師に尋ねた。
「人間には三つの性が与えられています。天性と理性と霊性です。天性は教えられなくとも生まれながら備わっている自然の性質です。赤ちゃんが母親の乳を飲む術(すべ)を知っていることや、年頃になれば異性に憧れるなどこの天性によるものです。理性は動物にはなく人間だけが持つ特性で、これは生まれた後の教育で身につけたものです。この天性と理性を働かせれば社会生活に支障はありません。ところが、深い精神生活をするためには、天性と理性だけでは足りないのです。そこで、人間に与えられている第三の性、つまり霊性によって生きるというのが悟りの世界なのです。釈尊は、霊性を開発してその世界で生きなさいと説かれました。法然上人や弁栄上人は、霊性を開発する手段こそお念仏ですよとお教えくださっているのです」
これが師の答えだった。
「念仏をして、霊性が開発されたという具体的な証(あかし)が実際にありますか?」
「それは見仏です」
「見仏?」
「仏を見ることです」
「仏を見る?師は見ましたか!J?
「何度も見ました」
「どんな風に見えるのですか?教えてください」
かすみ
「お念仏をあげる声が消えると、眼の前に乳白色の霞がかかり、そのなかからそれは美しい阿弥陀如来のお姿があらわれます。それはどこかの山頂でご来光を迎える状態とよく似ています。短い時で数秒、長い時で数分、その三味があってまたお念仏をあげている自分に戻ります」
「その啓示によって、私たちは霊界に仏が存在することを察知するのです」
「……】
「信じられませんね」
「信じられる人には信じられます。曼荼羅は想像を絵にしたものではなく、実際に見たものを功徳として絵にしたものです」
ということであった。

[出典:「地湧」1984年3月号、弁栄上人伝聞記]

このような場合を、啓示的現象というのです。
しかし、このような幻覚的現象が、憑依であるのか、啓示であるのかを決定するものは、その幻覚そのものよりも、それを体験した以後の言動によるのであります。
すなわち、その体験後、その人が
①周囲の人に悩みを与えるならば、それは憑依であり
②周囲の人に喜びを与えるならば、それは啓示なのです。

そして、この二者の違いはどのようにして生ずるかといえば、前者は自己中心的言動をし、後者は博愛的行動をとるのであります。
例えば、幻覚体験後、この二者は、教祖的言動をしたとします。
この時、前者は、他人を自分のもとに寄せ集めようとして、人々にそれを強要するのです。そして、大言壮語をしたり、人を脅したりし、人々に気味悪さや恐怖感を与え、その結果、人々はこの人の周囲から逃げ去ってしまいます。
これに対して、後者は、人々にその啓示についての利益あるいは恩恵を分け与えたいとは思いますが、決して、人々に対し、自分のもとに集まれとか、自分の話を聴いてくれなどということを強要しません。
というのは、この啓示を受けた人は、世人は、これらのこと、つまり―私の話を聴いてくれ」などと求めれば、すぐ遠のいてしまうことを知っているからです。

啓示を受けた人の態度は、次のようなるものです。すなわち「われを求める者は来たれ」です。つまり、求める人にだけ話そうとするのです。そして、決して、求めない人へ、自分の話を聴いてくれ、などと強要しないのであります。

誇大妄想と謙虚さ

人にものを教えるという行動は自己表現の衝動を満足させる最も効果的な方法です。
自己重要感を充足させるものは、この自己表現という行動によるのですが、それにしても、それは人々によって迎え入れられなければ何もならないのです。
そして、それは何もならないどころか、かえって人々の心を閉ざし、自分の表現したものは宙に浮いてしまい、それに自分で気づく人は深い落胆を味わい、それに自分で気づくことのない人は、道化者として'周囲の人々に見られるようになってしまうのです。

話のひとり酔いはいかにも哀れ
「人は、なにかしゃべっている間は、学ぶことはできない」というが、まさに至言であると思う。そういえば、いつもひとりでしゃべりまくっている人は、学んでいる余裕がないわけで、人物は上底のネアサということになるのであろうか。

実際、多くの人とつきあってみて、いちばんへきえきするタィプは、自分の話に酔ってしまって、とうとうとまくしたてるか、あるいは延々ととめどなく話をつづけていく、ナルシス型(自己陶酔型)の人間である。ょくもまあ次から次へと話が出てくるもんだと思うくらい、生い立ちからはじまって、自分の履歴を全部語り尽さなければ気が済まない人は、世間には多いものである。それも殆どの場合、過去において自分は何をやってきたかという、栄光の思い出か苦労話であるのだが、本人にはたいへん印象深い話であっても、他人にとってはあまり関係ないことである。

とくに困るのは、説教ムードが相手に現われてきた場合である。そういう人は、自分にとって価値あるものは、他人にも同様に価値あるものと錯覚しているところに、問題がある。ダベリングサロンなど開催するとよくあることだが、みんなが会話を楽しもうとしているのに、こんな自己陶酔型がひとりでもいたりすると、その人の独壇場になってしまい、はじめから終わりまで座がシラケ放しになってしまう。気待ちがいいのは、しゃべりつづける当の本人だけというのが、主催者の立場からやりきれない思いをさせられるわけだ。
経験によると、こういうタィプは年配者に多いのだが、最近は、若者たちにもかなりふえてきた。
もちろん話の内容は、がらりと変わって雑学オンパレードといった感じである。
かれらの場合は、相手が聞いていようがいまいがいっさいお構いなしで、ひとり自分の声のリズ厶を、楽しんでいるかのごとくにしゃべりまくっている。その態度を観察してみると、あちこちから寄せ集めた知識を、人にひけらかしていくことに関心があるかのようにふるまう。しかも一見解説者か評論家風にやらかすので、たいそう歯切れがよくカッコいい感じである。

だがそこに、危険なおとし穴がかくされていることに、早く気づいて欲しいと思う。あなたのを聞く人がみんな、感心して耳を傾けていると思ったら間違いだ。なるほど一応はそういうポーズをとっていたとしても、心のなかでは、クールに受けとめていて、むしろあなたを哀れんでいるかもしれないのだ。

一言居士のように、物事をこうと決めこんでしまう人は、他の人の話を受け入れていくといった、柔軟な姿勢をとることができない。いわば、受け入れ機能に動脈硬化を起こしているのと同じ伏態だ。そんな若年老化のザマには、だれだってなりたくないのが人情だろう。
そこで、どうすればそうならないで労むかということだが、自己露出を控え目にするよう心がけることである。自分に興味があること、自分自身に関わりのある身辺的なこと、そのへんにことばが多くなっていくのは、人の存在を認めさせようとするデモンストレーションになる。
自己顕示欲が強ければそうしたい気ちになるのも、わからないわけではないが、自己PRするときは、おのずと限界があることをわきまえておくことが大切なのだ。話題はいくら豊富であってもよいが、自分自身のことに触れていくときは、なんでもかんでも盛りつけることをしないようにする。その心づかいがないと、なんだそんなことしか話題がない人物なのか、と軽べつされかねない。

[出典:「人づきあいが苦にならない法」青木匡光]

実際のところ、一般の人々は、自己重要感を自らの内で充足でき得ないで悩んでいることが非常に多いのです。
多くの人々は、自分の内にひそむ劣等意識を表層意識のラインまで上がってこないよう無意識の内に努めております。それはつまり劣等感を覚えたら、みじめな落ち込みを体験し、それはとても辛いことだからなのです。
しかし、このような抑圧は、しばしば人の心を不健康なものにします。
自慢をしたり、他人をけなしたり、求められないのに他人に教えを垂れたりするのは、正にこの症状を示しており、これらの人の殆んど、自己劣等意識への怖れに悩み、無意識の内に、自己救済を願って、人を不愉快にさせる行為をしてしまうのです。

誇大妄想狂はそれがあまりに嵩じてしまった例です。この患者は、自己の劣等感に深く悩み、それからの脱却を願って、突然、尊大になり、自分は偉大な人物だという空想あるいは錯覚に没頭してしまうのです。
これが、しばしば憑依的言動となり、教祖的言辞を弄するようになる場合もあります。
これらの狂人が、啓示を受けたとされる人との違いは、前者は多分に攻撃的であることに対して、後者は非常に謙虚であることです。

しかし、この世においては、この両者ともが、人々の教祖となることがあるのです。
というのは、人々の心の中には、暗く邪悪なる魔力を好む傾向もあり、他者への攻撃に快感を覚えるという退嬰的・破壊的願望も持っているからです。
勿論、より気高き境地を求め、そこに救いを見出そうとする人々も沢山おります。そして、これらの人々は、啓示を受けた先導者の言葉に聞き入るのです。

これら両者は、要するに、「陰と陽の対立」を示しております。すなわち、攻撃的言辞には暗い怒りや恨みの念がこもり、寛容的態度には明るく暖かい思いやりがこめられるのであります。
[出典:唯心円成会伝法講義]

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