無能唱元

【無能唱元・伝法講義録 072】言語道断の境地

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一般教書の卷の一には、宇宙の一大原理であり、また当会の根本教義でもある「陰陽の対立発現こそが、実在的存在の意味である」ことがまず説かれています。
ただ、この段階では、このように弁証法的な言葉をもって説明されてはおりません。ただ、この世における二元対立的なものに、本来「善い」「悪い」などの性格はない、という示唆から始まっているのです。
「本来無自性(むじしょう)」と、仏教ではそういいます。そして、そのように理解しようとも努めるのです。

例えば、「欲望そのものは悪ではない」とか、「嘘も時には良い働きをする」とか、「時代や場所によって、善悪の判断基準は変化する」というように解説されます。
そうして、人々はそこで、一切が理解できたように思うのです。ところが、これはなかなか、そううまくは行かないのです。
それは、人間の思考というものは「言説(ごんせつ)と共にあって働くから」であり、そして「この言説あるところは、二元対立のどちらかに偏さずして、思考の働きは生じ得ないから」なのであります。

例えば、対立なき世界、あらゆる性格が発生していない世を称して、「無」と表現しても、それは「有(う)」に対する一極として、対極の片方に落ち入ってしまう表現性を持っているのです。
これは、いかなる偉人、聖人、賢人をもってしても、彼らが人間であるかぎり、「一言半句も用いれば、ただちに、この科(とが)に落ち入らざるを得ない」のであります。

「不立文字(ふりゅうもんじ)」と、禅の方では、これをそう評します。言葉は、真実の影にすぎないともいいます。
しょせんそれは、宇宙的存在の性質を説明することは(完全な意味で)できないのです。
ではここで、次に二つの例文を引用し、この意昧について、もう少し探つてみることに致しましょう。

私達は自分の考えがいかにも正しいように思っていますが、実はとんでもない間違いです。
今述べたとおり、ある人のよいと思うことを他の人はかならずしもよいとは思いませんし、ある人の美しいと感ずることを他の人も美しいと感ずるとはかぎらないのです。

このように各人各様考え方が千差万別だとすると、どれがもっとも正しいのかわからなくなります。答えはどれもこれも正しくないのではないでしょうか。なぜなら、みな自分勝手にそう決めているだけで、仔細にみてみれば、どれ一つとして永古不変の真理として私達の悟性の承認するものはありません。

真理は一つだけのはずで、対立するもののある以上は真理であり得ません。
ではどうして、私達は善悪、正邪、好悪、美醜などについてかくも各人各様意見を異にしているのでしょうか。それは人間の考える智恵が、本来は全く白紙であったはずなのに、後天的に周囲から教え込まれて身についたものだからです。

これについて中村天風さんがおもしろいことをいっています。つぎはその話です。

アダムとイブは人間界の風刺
人間の赤子はその心が淡として清らかに、秋水のように澄んでいます。心中にいささかの邪念もなく、一点の我欲もありません。汚ないといわれても怒らないし、ふんづけられても怒りません。

ただお腹がすけば母の乳房を求めるだけで、他の位物をとろうとする心がありません。
ところが成畏するにつれて.、ニ才三才となると、だんだん欲が生じてきて、母の乳のみでは満足しなくなり、他の食物を欲するようになります。

本来無心無我、純真無垢な赤ちゃんが、しまいにはどうしてこのような欲望のとりことなるのでしょうか。これは親ごさんが子供かわいさに眼がくらんで、「ホラ、ウマウマだよ」なんていいながら、いろんな食物を与えることから出発するのだ、と天風さんはいいます。

旧約聖書の創世記に、次のようなことが載っています。
悪魔がイブに「善悪を知る樹の実を食べよ」と告げました。イブはアダムにもすすめて、知恵の木の実を食べたら、悪魔の言ったとおり二人の眼はたちまち開けて、知恵が出てきました。初めて二人は自分らが裸体であることに恥の心が生じたので、木の葉を綴って腰をおおったといいます。

それまでアダムとイブは不老不死、いつまでも若いままの肉体をもち、悩みも苦労もない楽園の、生活を送っていたのでした。しかし、神がつねづね「知恵の樹に近づいてはいけない」と、さとしていたにもかかわらず、悪魔の誘いにのって、禁断の木の実を食べてしまったので神は怒って「汝らは苦労して企を獲れ、死亡も免れない。女は男に従い、懐妊して子も生み育てよ、労働もせよ」といって、園中から人間界に放逐して生命の樹にふたたび近づけなくしたとあります。

天風さんはこの話を中学生時分によんで、なんとバカげたことが書いてある。神さまともあろうものが、食ベてはいけない木の実をはやしておくのが第一の間違いであるのに、それをちょっと食べたくらいで、永久に苦労を免れないというはなはだ大きな罰を与えるとはもってのほかの矛盾である、キリスト教の教えはウソッパチに決っている、と考えてその本を投げ出した。

けれども長じてから、つぶさに人生の問題をみてみると、この話がいちがいに架空の偶話だと馬鹿にできないことが次第にわかってきたといいます。

この創世記の話は、先の幼児に知恵のつく話を譬喩的にいい表わしているもので、親がまず食物を子供に与えて、うまい、まずいの観念をはじめにうえつけるのは、ちょうど創世記で、悪魔が女に勧めて善悪を知る樹の実を食べさせたのと同じようなことです。

次には「ホラ、いいオベベだね」なんていって、よい、わるい、きれい、きたないの観念をうえつける。ついにはアダムとイブ同様、自分の裸体を恥じる心が生じ、あげくの果ては身をおおう衣まで撰り好みするようになり、長じては色欲までも生じ、あの女がよいとか、あの男が好きとかいうようにまでなります。

そして長ずるにしたがい極楽園たる父母の懐を離れて、人間社会の世界に入り、生きんがために労苦汗顏の努力を繰り返して、ついには死ぬのです。
その状、さながらアダムとイブが極楽圍から放逐された様と異なるところなし、と天風さんは述ベております。

なるほど、人間生まれ落ちたばかりのときは、純真無垢の一個の赤ちゃんにすぎません。幼児の無心に遊ぶ姿には、ふと神を感じさせられるものがあります。
その汚れをしらぬ美しい心が、なぜかくも醜い煩悩と葛藤に悩む大人になるのでありましょうか。
赤ちゃんは生まれ落ちたときは、全く無心の、おそらく本能的な吸乳欲しかありますまい。
このように気高いまでに素直な心から、計算に満ちた偽善と私利私欲の塊りへ変化してゆくのは一つの驚きでもあります。これは赤ちゃんそのものの罪でも、人間本来が内面に共有している罪でもありません。

罪は赤ちゃんをとりまく社会環境にあります。
この環境説に異論を感ずる人もありましょうが、赤ちゃんの「抱きぐせ」一つの例をとっても、周囲の環境が赤ちゃんの人格形成に及ぼす影響が実験的に証明できる事実なのです。
神から人間への転落は周囲の感化でそうなるのであり、教育ママの弊害をみるまでもなく、第一の元凶はその子を生んだお母さん達であります。

事実、人間生まれ落ちたときは純真無垢、なんの欲望も持たない一個の赤ちゃんであります。
これをそのまま自然に育めば天真爛漫、神のような心性の持ち主に育つに違いありません。

[出典:今すぐ幸せになる方法~禅の極意困ったとき、死にたくなったとき読む本/宮前心山]

ここで一つ明らかにしておきたいのは、私は決して、この文中にある中村天風氏や、この本の著者を非難しているのではないということです。初めにもいいましたとおり、一言半句でも言葉を用いれば、いかなる偉人といえども、対立の片方へ落ち入るという証明のため、あえてこの文章を引用させて頂いたのです。

では、前文に対し、次の一文を対比させて読んでみてください

渋沢先生は、新之助に、次のように説きました。

「人間はみな悪なんです。
悪が善を行なうことによって、人格が生まれます。
たとえば、赤ん坊は一番の悪です。自我のかたまりとして生まれるんですね。
赤ん坊は人の迷感など考えません。母親のからだが悪くて、お乳がでなくても、赤ん坊はそんなことおかまいなしに泣きますよね」

[出典:「浮浪雲」ジョージ・秋山著、小学館刊]

どうでしょうか。前文は、赤ん坊を神のような、と「絶対的善」にまで讃えているのに対し、後文は、悪魔の化身のように「決定的悪」とまで断じているのです。
これは、「性善説」と「性悪説「 として、中国では古来からよく知られた二つの哲学です。
この二つのものの見方は、当会の考え方によれば、それは「どちらも正しくなく、と同時に、それはどちらも正しい」のであります。
そして、前文の著者も、そのことは、当然熟知していたのです。もう一度、その冒頭を読み返してみてください。そこには「答えはどれも正しくない」とあり、また「対立するもののある以上は真理であり得ない」とも説明されているのです。

にもかかわらず、この著者は、赤ん坊の無垢さに「純真さ」という尊さを見出し、それを「善きもの」「正しいもの」という対立の一極に落ち入らざるを得なかったのです。

「諸法本来無自性」を説くことは、このように至難の技なのです。
それはなぜかというと、私たち人間には情動というものがあり、どうしても、その動きに左右されてしまうからなのです。
この情動とは、「赤ん坊を見た側の心に生ずるもの」であって、本来、赤ん坊に備わっているものではないのであります。
すなわち、ある人はそこに「純真無垢」な善を感ずるでしようし、他の人は、その本能的な吸引欲を「欲望のかたまり」として、悪を感ずるのでありましよう。
答えは、原因側(赤ん坊)にあるのではなく、結果側(見る側)において生ずるのです。
「一言半句でもあれば」と禅ではいいます。そして、その二元対立なき世界を知るには「言語道断」の境地において、はじめて得られる、としているのであります。
この言語道断という言葉は、現代ではただ「けしからんこと」の意味に間違って使われるようになってしまいましたが、その本来の意味は、この「絶対無」あるいは「絶対空」を解するための方策として、「ロゴス(言語)的思考を処断する」というところにあったのです。

さて、これまで、くり返し、くり返し、つきつけられてきた命題は、「空」というテ—マでした。それはまず「諸法無自性」である説明から「二元対立を斬り捨て」「色空一如」を覚り、宇宙の実在とは「仮和合」という五感の翻訳者による共同作業による影像的知覚に過ぎず、これらの見方(それは世間一般人の見方)は「仮観」という、仮定的な世界であり、それを空じて見るという体験を得た時、不動の安心感「涅槃の境地」に至る、等々の説法が、最初は暗示的に、徐々に明白、かつ、易から難へと、くり返し説かれてきたのです。
そして、最後に、それらの法説さえ、粉砕し去り、「言語道断」の空白地に至らなければ、なお、その「二元対立」を脱し「不二」あるいは「一如」の法門に入ることは不可能である、という結論にまで達したのであります。

老婆心

「無」や「空」を説く、禅の世界には、その言葉と裏腹に、おびただしい「禅書」という書物が出版されております。
そして、その中に説かれてあることも「言語を滅した世界、す.なわち、無言のうちの体験を指し示しているのです。
この矛盾した行為を称して、禅者は「老婆深切」あるいは「老婆心」といいます。いってみれば、余計な差し出口かも知れないが、何とか解らせようとして、不完全な道具と知りつつも、言葉というものを用いないではいられない、というのです。

では今回は、禅書のいう、この老婆心に少々ふれて、言語を絶した一如の世界をどのようにして表現しようとしたか、古人のその努力の跡をたどってみることに致しましよう。

犬にも仏性があるか
人は皆もともと仏であると教える禅であるが、はたして犬や猫にも仏性はあるのだろうか。ここに紹介する公案(祖師の語録)は単刀直入に犬に仏性ありやとたずねた僧の話である。中国の唐の時代に趙州和尚という禅師がいた。若くして南泉禅師という和尚さんの弟子として修業した後、六〇歳にして再修業のため行脚にでて、八〇歳にして大悟し、ーニ〇歳まで長生きした人である。その趙州に、あるとき一人の修業僧がたずねた。

「趙州和尚ちなみに僧問う。拘子に還って仏性ありや、またなしや、州いわく、無」
ちょうどそこに居合せた犬っころの中に仏性(仏の本注)というものがありますでしょうか、ございませんでしょうか、と聞いたわけである。趙州はいとも簡単にないよと答えている。さて、もともと釈迦は「一切衆生、悉有仏性」といわれた。つまり、一切の衆生、生きとし生けるものには悉く仏性あり、ということである。問を発した修行僧はもちろんそのことを知っていながらたずねたのである。ところが、趙州はこれに対して「無」と答えた。「趙州語録」という書を見ると、修行僧がさらに同じ質問をすると、こんどは「有」と答えたと書いてある。

あるときは有と答え、あるときは無と答えている。一般的な観念からすると、あることとないことが一緒であるとは考えられない。有は有、無は無であれば、混同することは考えられない。しかし、趙州は、有といっても無といっても、つまりは同じことを言おうとしているのである。われわれの常識からすれば、有と無を対立的に考え、そのうちの一方の立場をえらんで物事を考え、物を言おうとしているのである。

大体、犬に仏性があるかないか、とか有と無が同じであるとかいわれても、こんな問題は頭で考えてわかるものではない。したがって、禅宗では坐禅によって、趙州和尚言う所の無の本体を見極めようとする。つまり、坐禅中に「無」の字にすべての注意力を集中する。そして、ついには「無」と、それを見ようとする自己との対立が解消し、「無」すなわち自己、自己すなわち無となる。一体感、一如の境地までいけというわけだ。結局「無」は道元禅師のいう身心脱落と同様、禅の極致なのである。

すなわち、ここでいう無は仏性そのもののことであり、仏性とは真実の自己であり、本来の面目、空、無我といっても、また仏心、大先天性といってもよい。禅においては対象物と自己とは一体である。たまたまそこに犬っころがいたから、犬に仏性ありや、と聞いたものであって、猫であっても馬であっても、たとえ、桜の花でも石ころでもなんでもよかったのである。自己と対象物とが一体であるということ、つまり、物事を相対的二元対立的に見ないということは禅の最も大切な見方である。

不二の法門を説く『維摩経』

禅門で用いる経典に『維摩経』がある。『維摩経』は『維摩詰所説経(ゆいまきつしょせつきょう)』三卷のことで、『不可思議解脱法門経』ともいわれる。これは出家した坊さんの説いた経典ではなく、維摩詰という居士の説いた話をまとめたものである。究極のところは不二の法門yといい、有と無、自と他、生と死、善と悪、浄と穢等の二元対立的、相対的な観念を超越したものであると説いている。

娑婆の世界に住む凡夫は、あらゆるものを相対的に見て生活している、つまり、自己と他を比較し、一喜一憂するが如きである。あるいは桜と梅をくらべて優劣を競う。維摩の所説によれば、仏教の究極の境地は有と無、自と他などの対立のないところであり、これが万物の帰するところであるから、これを悟れば万事成道である、とするものである。

この不二の法門について、あるとき文殊菩薩が維摩に問うたところ、維摩は黙然として一言も発することなく、無言をもって不可言不可説の旨を示したので、文殊は「善哉、善哉、文字語言有ること無し、これ真に不二法門に入る」と感嘆したという。
この維摩が一言もいわなかったところをもって真に不二の境地を表現したものであるとして、禅門ではこれを「維摩の一黙雷の如し」という。究極の境地、不二の法門といってもその本性は空であることにかわりがない。

[出典:「禅のわかる本」菅原義道著、広済堂刊]

達磨廓然(従容録第二則)
梁の武常達磨大師に問う、如何なるかこれ聖諦第一義(しょうたいだいいちぎ)。
磨云く、廓然無聖。帝云く、朕に対するもの誰そ。磨云く、不識。帝契(かな)わず。遂に江を渡って少林に至り、面壁九年す。

碧巌録」では第一則「武帝問達磨」、「景徳伝燈録」には第三卷に出ています。しかしこの問答の前には、有名な「達磨大師無功徳」が出ています。

梁の武帝は仏教信仰に厚く、かなりの仏教事業をしておりました。そこで武帝は達磨に向って、
「自分は寺を作り、経を写し、僧を供養したこと数えきれぬほどある。どんな功徳があるか」と質問しました。達磨は無遠慮に「功徳はありません」と答えました。意味が分からなかったので武帝は、「どうして功徳がないのであるか」と再問しました。達磨は「あなたのなされた事業はみな有漏(うろ)の善因であるから、人天の小果は報われるでありましょう。しかしそれは一時的なもので、真実のものではありません。従って、真実の功徳という点からは無功徳となるのであります」といったように答えました。

「真の功徳とはどんなものか」。武帝は真の功徳とは何かを知りたくなりました。「真の功徳というものは、浄智妙円、体自ら空寂なもので、功徳の有無の相対を超えたものであります。ただ仏法の真理に体達したら本当の功徳が得られるので、決して世間的の善業行為で、真の功徳を求めても駄目であります。

ここ迄は「伝燈録」の解説で、これで見ても分かる通り、武帝は仏を信ずることが厚くとも、徒らに功徳を求める心を持っています。功徳を得る行をなすのみで、未だ仏教の根本義を得ていません。そこで武帝は「聖諦第一義とはどんなものですか」と「従容録」の本則になっている問を発したのであります。

「仏教の根本原理は何か」。ここでは世間法と出世間法の違い、つまり有為法に対する無為法の聖諦第一義といっているのであります。答えて「廓然無聖」。万有はからりとして何物でもなく、仏法は現前の草木瓦礫雨竹風松の間に躍勤しているのであります。

武帝はますます解らなくなってきて、「何物もない」といえば、仏もない、法もない従って修行の必要もない、それでは自分の目前にいるお前はどうか、修行して立派に悟りを開いたのではないかといいたくなります。そこで武帝は「朕に対坐している哲は誰ぞ」。達磨は平気で「知りません」と答えました。

この不識という意味は、唯だ単に「在じません」というのと違います。「廓然無聖」といい、この「不識」といい、学人が共に参究すべき公案とされるのであります。

即ち、文字とかことばによる聖諦第一義の追求詮義に終始する義学滞文の否定であり、聖諦第一義という絶対的なものへのとらわれの否定であります。

趙州(じょうしゅう)柏樹(従容録第四十七則)
僧、趙州に問う、如何なるか是れ祖師西来意。
趙州云く、庭前の柏樹子

ある僧が趙州に質問しました。「達磨大師が遠い印度から中国へ来て伝えた仏法の大意とはどんなものでしょうか」趙州は「庭前の柏樹子」。目の前の庭にあった柏の木を指してひょっと出た語です。この問と答の間に論理的な関係はありません。

柏樹子には西天も東土もなく、仏心も祖意もありません。唯庭前の柏樹子といったまでです。だから庭前の柏樹子が解れば祖師西来意が能く解ります。祖師西来意が解れば庭前の柏樹子が分かる、それは早くいえば達磨の全身です。達磨の全身は庭前の柏樹子、即ち柏樹子が増減なく、誤謬なく祖師西来意を全身にあらわしているのであります。あえて祖師西来意などとことあげしていう必要はないのであります。ただし、これは思惟を絶してはじめて証得される消息です。

[出典:「禅問答に強くなる本」原田弘道著、エール出版社刊]

世間一般の人は、禅問答を聞いたり、禅書を読んでも「ちんぷんかんぷん」だなどと表現し、いってることが少しも解らない、とよくいいます。

それは、論理を超絶した問題を、論理をもって解こうとするからです。

みなさんは「宇宙の実在の意味」「二元対立の意味」「色空一如の意味」などについては、一般世人の常識を超えて、それをある程度は、体的経験をもって知り得たものと、当会は推察しているのであります。

そして、実生活面でも、迷(めい)を解き、悩(のう)を脱し、よく人生の楽しみを得、また、他人をも助力救済し得る心境へ、一段と高く進まれたことと思います。
このことは、とりもなおさず、みなさんの霊格が上昇したことを物語るものです。すべての人の内にあるこの霊が向上することは、それ自体が、その人に喜びを与えつつあることを示すものです。
そして、みなさんは、正にその喜びの中にある、と当会は信じているのであります。

[出典:唯心円成会伝法講義]

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