無能唱元

【無能唱元・伝法講義録 073】遍計所執相・依他起相・円乗実相

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すでにご存知のように、このお経は、当会の根本教義の一つとしているアラヤ識について記した最古の経典でありますので、学徒のみなさんには、是非ともこれを読み、これについて思索して頂きたく思うのです。
さて前回の解深密経は「心意識相品」でした。今回の講述される部分は「一切法相品」と申します。

<本文>
解深密経:一切法相品

爾の時に、世尊徳本菩薩に告げて日く、……汝、應に諦かに廳くべし、吾當に汝が為に諸法の相を説くベし謂く、諸法の相に略して三種あり、何等をか三と為すや。一には遍計所執相、二には依他起相、三には圓成實相なり。

<解説>
その時に、お釈迦さまが、徳本菩薩に申されるには……「徳本さん、よく聞いてください」といわれました。「私はここであなたに諸法の相というものについて説明いたしましょう」

「諸法」この言葉は、もう学徒のみなさんはよくご存知のことと思います。
「法」とは、法則などのように、抽象的な概念だけを現すものではなく、宇宙の原理(すなわち法)によって造り出されたすべてのものを指しています。したがって、この場合の諸法とは、「万物万象」を意味し、古い言葉では「森羅万象」がこれにあたりましょう。
ですから、この場合の「諸法の相」とは、いってみれば「宇宙において実在するもの一切の姿、およびそのあり方」といった意味になるでしょう。

「さて、その諸法の相とは、簡単にいうと、三つの種類があります」と、お釈迦さまは続けられます。「その三種とは何かといいますと、一は遍計所執相(へんげしょしゅうしょう)、二は依他起相(えたきそう)、三は円成実相(えんじょうじっそう)、以上の三つです」

「遍記」というのは、ある事象の周遍を計量するという意味で、比較分別の働きを示します。そして「所執」は「執せられた所」つまり、そこに所属するということ、これは「思量」するという意味になります。

そして、この時「計るための文字や記号」が用いられますので、これを意訳すると「言語をもって概念化された」といったことを表しているのです。

私たちの知覚は、外部からの情報を得た瞬間、ただちに心的活動が起こり、過去の記憶の何かと「ひきあわされて」それが何であるかということを知ろうとする、いわゆる「認識作用」というものが生じます。
例えば、ネコを見たとしましょう。最初、ネコの姿を見ると、過去の記憶のあるパターンに所属されている「ネコ」という言語が、殆ど同時的に認識されるのです。
そしてまた殆ど同時的に、可愛らしい、あるいは憎たらしいなどの感情や、またネコにまつわる過去の記憶についての思考も生じてきます。
しかし、これらの心的活動は、殆ど言語を用いて、その思考過程が流れていることに気がつきます。このように言葉をともなって概念化された事象を「遍計所執相」というのです。

次の「依他起相」とは「他の力によって生起した性質のもの」という意味です。
あらゆる事象は、因果作用によって、私たちに体験されるのだ、というのが仏教の根本教義です。
現在、体験しつつあることは、決して、偶発的に、今生じたことではなく、過去にその原因があって今生じた結果なのです。そして、その原因とは、さまざまな幾つもの因がより集まり、つまり縁となって、現在の自分の体験という結果になった訳です。
すなわち、あらゆる事象は、それ自身の現在のみで成り立っているものではなく、過去の「他の力によって生起したもの」なのだとそれは説明されるのであります。

因なきところに、果は生じない。つまり、この場合、因が他の力ということになります。

三つ目の「円成実相」とは「円満」「成就」「真実」の三つの意昧を要約したものと解されます。現代的にいえば「完成された究極の真実」ということになりましょう。
これは、要するに「主体」(自分、知る側)と「客体」(知られる側)との一体化された世界を意味し、これを体得するのが、すなわち「悟り」あるいは「覚醒」と呼ばれる境地です。

<本文>
云何が諸法の遍計所執相なりや。謂く、一切法の名仮安立(みょうけあんりゅう)の自性と差別となり乃至言説を随起せしむる為なり。云何が諸法の依他起相なりや。
謂く、一切法の縁生の自性なり、則ち此有るが故に彼有り、此生ずるが故に彼生ず。謂く無明は行に縁たり、乃至純大苦蘊を招集す。

<解説>
「では、すべてのものの遍計所執相とは、一体どういうことでしょうか?」
とお釈迦さまはいわれます。
「それは、森羅万象の、仮につけられた名前と、その名前から生じた性格と、そして、それを他ののと区分けして見る分別です」
「名仮安立」とは、仮にそれに名前をつけて、そのものの個性を立て、意識内に安定させるという意味です。

「あるいは、そこに言葉を用いた意識活動を行なわせるための、その言葉を生じさせる根元のものでもあります」
「では次に、すべてのものの依他起相とは、一体どんなことをいうのでしょうか?」
「これは、すべてのものに、縁を生じさせるための基盤となる性質のものです」

この「縁生の自性」とは、要するに「因」のことです。因が縁を得て、やがて果を結ぶのですが、その縁が生ずるのは、さまざまな他の力の集合によるものですが、その中心的かつ直接的なものは、この「因」です。

次の行の「此有るが故に……」の部分は、サンユッタ・ガーヤという古い経典にのっている言葉を引用したもので、これは原典では次のようになっております。

これある故に彼生じ
これなき時、彼なし。
これ生ずる故に彼生じ
これ滅する時、すなわち彼滅す。
[サンユッタ・ガーヤ]

つまり「因をあらしめれば、果は生ずるが、因を消し去れば、果の現れることはない」と述べているのです。
「無明」とは、この因果の理に暗いことで、この理を知らないことで、人間の悩みは発生するのですが、この無明も、日常の行動によってそれが起こるのであります。
「純大苦蘊」は、要するに人間の五感的知覚によって、集合作成された情報によって、もたらされた苦しみのことです。
この「純大」は、多分、純粋に五感的知覚によるもので、他の例えば思索によって生ずる悩みを除いたものの意味と思われます。
この部分を、もう少し平易にしますと「無明とは果で、それは、日常の行(それは因果の理に無知のまま行なわれるもの)を因として生じます」という意昧になりましよう。
「そして、純大苦蘊は、その招集が果で、そのもとの五蘊の働きが因です」

<本文>
云何が諸法の圓成實相なりや。謂く、一切法の平等の真如なり。此の真如に於て諸の菩薩衆は勇猛精進を因縁と為すが故に、如理作意と無倒の思惟とを因縁と為すが故に乃ち能く通達す。此の通達に於て漸漸に修習し、乃至無上正等菩提を方に證して圓満す。……と。
<解説>
「では、すべてのものの円成実相とは、一体どんなことなのでしょうか?」
「それは、一切のものは、すべて平等であるという真の姿のことです」
ではここで「平等の真如」 について、少々考察してみましょう。
この場合の平等とは、一語でいえば「彼我一如の世界」を現しているのであります。
「自分と、自分を取り巻く世界は、別々のものだ」と、当然、人はそう思っておりますが、それは錯覚(顛倒夢想)である、と般若心経に説かれてあります。
「見る側と見られる側は、 共にアラヤ識より生じた」と唯識学は規定しており、本来はそれは「一如」すなわち「ひとつのごときもの」だというのです。
私たちの五感的知覚は、物質と空間 (色と空)が、敵として二者としてあると思っています。
しかし、現代物理学も、最も先端を行くものは、どうやら「色空一如」の考え方に近づきつつあるようにも思えるのです。 ではこれについて、次の一文を参考としてみてください。

最近ベストセラーになった「エントロピーの法則」 の中で、著者、J・リフキンは次のように述べている。
「科学者たちは自然界の根本原理を求めて、物質を構成する究極的な存在を永々と探ってきた。しかし、そこで気がついたことは、微細なものを追求すればするほど、より微細なものがあらわれ、キリがないということだった。そのような時、科学者たち全員が赤面する事態が発生した。不確定性理論の登場である。そして結局は、宇宙に翻弄されていたことが、おぼろ気ながらわかりかけてきたのである」

自然界の究極構造を探る方法としては、マクロ(宇宙)か、あるいはミクロ(核物理学の世界の大きく二つに区分される。リフキンがここで言っているのはミクロの分野で、従来の科学者たちは物質(万物は究極的に何で構成されているのか、それを突き止めれば、自然界を構成する根的な仕組みも自ずと明らかになってくるはずと考えてきた。そして原子が発見され、一時期、それ究極物質と思われていたが、その後、内部があり、また、核を構成する、より細なもの粒子など)が続々と発見され、結局はキリがないということがわかりかけてきた。

そのような時、科学者たち全員が赤面するような事態が発生した。「不確定性理論」の登場である。不確定性理論を簡単にいえば、物質(万物)は、ミクロの究極において、全て波動化してしまうと言うことである。端的にいえば、物質ではあり得なくなるというものである。

もっとわかりやすい譬えで表現してみよう。ここに氷塊がーケあるとする。もちろん氷は物質である。これを水に入れれば溶けて無くなってしまう。それと同様に、物質もミクロ的に追求すると究極には氷が溶けて消え去るように、水の波動のような何か影(二次的な表面現象)に化してしまうのである。つまり存在が不確かになるというのが不確定性理論というもので、専門的にいえば"量子力学"ともいう。

つまり、現在の考え方のままでは、物質の究極の姿はつかまえることはできない。極端にいえば、究極物質は自然界に存在しないとなってしまうのである。正に、J・リフキンの言うように結局は宇宙に翻弄されてきたことを、科学者たち全員が、おぼろ気ながらわかりかけてきたことになる。現状は正にその通りであって、科学者達は自然の仕組みのあまりの精緻さと幻想的ともいえる結論に、ただ立ちすくんでいるのである。

しかし、素朴に考えれば、万物つまり我々は厳として存在している。そして存在するからには必ず根源的な存在の理(究極のもの)があるはずである。なのに、そのようなものは存在しないというのが現代物理学の最先端の考え方、結論なのである。なぜ、そのような馬鹿なことになってしまったのか、結論は一つしかない。

それは、現代物理学には何か決定的な誤謬が存在するのではないかと宮うことである。しかも単純明快で肝心なことが、死角的作用によって見過ごされてきたのである。

[出典:「UFO大予言―ファチマ預言に隠された驚異の真相」コンノケンイチ著、紀尾井書房刊]

円成実相

「円成実相は一切法の平等の真如なり」とは、要するに「二見の対立を斬り捨てた」ことであり、この二見の対立を捨てた段階において生ずる境地を「円成実相」の所と評しているのであります。
すなわち「昼と夜」「美と醜」「善と悪」などの客体自身の陽と陰の区別と、主体の「自分」と客体の「自分に知られるもの」の二見を一如となした心的境地です。
「このような境地へ至ろうとして、多勢の菩薩たちは、一所懸命に修行します」そして、「如理作意(にょりさい)」この言葉は「宇宙の原理のごとく、わが意をなす」というように解釈したらよいと思います。すなわち、自戒的、分別的な意識をのり越えた宇宙根元的意識に従って考える、という意味になりましょう。

「無倒の思惟」は、顛倒夢想が分別心の働きであり、その反対の倒れていないですから、二見対立を越えた空の思索ということになります。
「一心不乱の修行と、この宇宙原理にもとづく空の思索とを用いて、あらゆる現象をよく理解できるようになります」とこういっているのです。
ではここで、次の引用文を参考としてみて下さい。

仏教においては、この認識主体の関与の度合いが、西洋以上にもっと徹底している。西洋においては、どちらかといえば真理はこころによって発見され認識されるものと考えられている。イデアは理性によって想起される。神は直観的理性によって観想(テオリア)されるのである。神を究極的真理とするキリスト教においては、神と人間とはあくまで隔絶されており、人間は神を見る、真理を見ることしかできないのである。

これに対して仏教のとく真理はどうか。結淪から先にいうと、仏教では、「自己が真理に成る」のである。仏教の究極的真理は、仏・涅槃・空性・真如などのことばで表現されるが要は自己が「仏に成る」「涅槃に入る」「空に成りきる」「真如と一体になる」ことである。

とくに、識の存在のみ、つまり自己の<こころ>の存在のみしか認めない唯識思想では、真理は絶対にこころを離れては存在しない。「真理」(真如)は「こころの本性」(識の実性)である。
したがって真理を発見する(証悟する)とは、とりもなおさず、こころを変革して、そのような本性に成ることである。

仏教は、一般に真理を否定的に表現する。<無常>にしても<無我>にしてもそうである。有名な空ということばは、元来はゼロという意味である。涅槃というのも「火が吹き消された状態」をいう。

否定に徹したのが空の論理に裏づけされる「般若経」の思想であり、それを実践し理論化したのが中観派の人びとである。しかし、中観思想といえども、否定しつくされたところに現われる肯定的な何ものかを、「真空妙有」「諸法実相」という語によって言い表わそうとしている。

いま、ここでガスの充満したタンクから、真空ポンプによって内部のガスを全部取り除く場合を考えてみよう。ガスが無くなったタンクの内部は、次の二つの特性をもっている。
⑴ガスはない(空である)。
⑵真空という状態がある。

つまり、ガスはない(無)という一面と同時に真空がある(有)という一面もそなえているのである。
仏教の説く「空」や「無」を右記した二つの面のうち⑴の立場のみでとらえるとき、それはややもすれば虚無主義に陥る危険がある。しかし、仏教のとく「空」や「無」つまり真理は、ただ単なる否定のみではない。否定し去ったところに現前する新たな何ものかを肯定するのである。

その意味で、唯識思想では、空性には、
空性―無
└無の有
という二面があることを強調する。たとえば「無」とは所取・能取が無いことであり、「無の有」とは、所取・能取が無いということが有ることである。
この「無の有」はもちろんたんに論理的に頭の中で考え出されたものではない。それは、かならずや体験に裏づけされたものである。思い切り連動をやったあと、あるいは何かに専心してそれをやりとげたあとのあの爽快さ、何のわだかまりもなく、鏡のごとくに澄み切ったこころ―それは、日常の自己と異なった新たな自己の誕生である。

仏教の一大目的は、現実の、苦しみに満ちた自己を否定して、やすらぎに満ちた新たな自己に成ることである。

「無いものを有ると見、有るものを無いと見る誤謬にみちた認識(顚倒の見)を変革し、物事をありのままに見る(如実知見)力をつけること」
であり、存在的には、「自己存在の根源である阿頼耶識から、それに付着している汚れをまったく取り除き、自己を根源から清浄なるものに変革すること」である。
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[出典:「唯識思想入門」横山紘一著、レグルス文庫]

この二見空と見る修行を段々に積み、また、無上正等菩提を身をもって証明して、円成実相を完成するのであります」……と。
「無上正等菩提」とは、菩薩行として最高なる行為という意昧です。

<意訳>
その時に、お釈迦さまが、徳本菩薩に申されるには……
「徳本さん、よく聞いてください。私はここであなたに諸法の相といわれるものについて説明いたしましよう。
諸法の相とは、簡単にいうと三つの種類があります。その三つとは、一は遍計所執相、二は依他起相、三は円成実相です。
では、すべてのものの遍計所執相とは、一体どういうことでしょうか?
それは、森羅万象の、仮につけられた名前と、その名前から生じた性格と、そして、それを他のものと区分けして見る分別です。あるいは、そこに言葉を用いた意識活動を行なわせるための、その言葉を生じさせる根元のものです。

では次に、すべてのものの依他起相とは、一体どんなことをいうのでしょうか?
これは、すべてのものに、縁を生じさせるための基盤となる性質のものです。つまり、因があるから果があり、この因生ずるために果が生ずるということです。
無明とは果で、それは日常の行を因として生じます。そして、五感の純粋に知覚的な意識活動を集めて、果を生じさせるのです。

では、すべてのものの円成実相とは、一体どんなことなのでしょうか?
それは、一切のものは、すべて平等であるという真の姿のことです。この真の姿において、真なるものの境地へ至ろうとして、多勢の菩薩たちは、一所懸命に修行します。そして、宇宙原理にもとづく空の思索を用いて、あらゆる現象をよく理解できるようになります。
この二見空と見る修行を段々に積み、また、無上正等菩提を身をもって証明して、円成実相を完成するのであります」……と。

[出典:唯心円成会伝法講義]

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