無能唱元

【無能唱元・伝法講義録 076】鍼灸はなぜ効くのか?・真我と個我

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灸はなぜ効くのか

東洋医学として知られる鍼(ハリ)や灸は、その大きな効果は認められながらも、その効く原因やメカニズムについては、依然として不明なのです。
無論、それについて、幾つかの論説はあります。しかし、それも確たる証明によるものではなく、あくまで仮説の範囲を出ないもののようです。

例えば、灸はヤケドを生じ、そのヤケドによって白血球が増え、それが食菌作用その他の治癒効果を上げるのだという説もあります。しかし、これも、ではヤケドをより多く作れば、白血球はより増え、治癒力がもっと上がるか、というと、そうもいえないようです。
また、ある人は、モグサの精分が浸透するからだ、という説を唱えます。しかし、これも、例えば血液検査などによる試験や実験を経た後、明らかにされた因果関係ではありません。同じく仮説です。これがハリとなると更に不明になります。ハリはただ刺すだけです。そこで多くの人は、それはツボや経絡(東洋医学独特の神経ライン)に刺戟を与えると、その神経機構がうまく働いて、治癒効果を現わすのだと、漠然とした答えしかいいません。
ところが、伝染病が出た地域で、ハリを日常うっていた人は、その病気が移らなかったという報告があります。これは、神経刺戟だけでは、うまく説明できない効果です。

これらの、緘灸の効果に対し、当円成会には独特の教説があります。
しかし、当会は、前記したような他の人の仮説(白血球増加説などの)を決して否定するものではありません。また、そのような効果も多分にあり得る、とその可能性を認めてはいるのです。
それに、当会のこれから述べる説も、同じように仮説なのです。しかし、それは、例えば犯罪立証における、物的証拠ではなく、状況証拠のようなものであるとしても、かなり確度の高い、理の通った状況証拠であるといえるものだと当会は信じているのであります。

ハリや灸を受ける時、その患者は、その心身が受容的であり、しかも施術中は軽いトランス状態にあるのがしばしばです。
それは、一種の軽い催眠であるともいえます。患者は、被暗示性が高くなり、そのハリや灸が効くことを期待するのです。

このような時、彼らの脳波はアルファー状態になっております。そして、前項でも述べましたように、このアルファー波形が作られている間、主として脳から「治癒物質は生産されている」のです!

ハリや灸は「体感覚」という、そこに精神を集中する方法により、その治癒物質をその患部に、より効率よく導くのです。
ツボというのは、患部へ最もよく、治癒物質を導き、集中させるための場所を、経験的に発見して行なったものでしょう。それは、しばしば、患部以外の場所であることもありますが、要は、体内に生じた治癒物質を患部に集中させるための「体感覚」を作り出すことに他ならないのであります。この意味では、手あて法も同様なことがいえます。

それは、前に述べたごとく、霊的エネルギーの陰陽のメカニズムによる効果は間違いないのですが、同時に、手が当てられている場所の体感覚が、そこへ治癒物質を集める精神集中法を行なっているとも考えられるのです。
更にまた、この考え方によれば、患部の発する痛みも、この体感覚集中が、自然生理的に行なわれているのであり、そこへ治癒物質が導かれるよう、体自身が働いているのだとも考えられるのであります。

催眠そのものの持つ効用

催眠の目的は、刷り込み用語によって生ずる後催眠現象による効果にこそある、と私は述ペました。
そして、催眠は、この後催眠現象を利用するところにこそ意義があるのであり、それ以外では、例えば、それをショウとしたりする目的などのためには用いられるべきではない、とも申し述べました。
これは確かにそのとおりであるのですが、しかし、催眠そのものにも、大きな効用があるのも見逃せない事実なのです。
それは、催眠中は意識が没我的になるか、もしくは脳波がアルファーになり、従って「自然治癒物質は体内に生産される」という点であります。

私は人に催眠術を施している時、しばしば、その催眠深度を調べるため、腕などに木綿針を刺してみることがあります。この時、催眠深度が深ければ、痛みもなく、血も出ませんが、浅い時は、血が吹き出たり、痛みをともないます。

これは、没我的意識状態にあれば、大脳より脳内麻薬物質がよく生産されてあり、これが、鎮痛や、毛細血管収縮などをよく行なうことの現れだと思われます。
すなわち、針を刺しても、被術者が痛がりもせず、血も出ない時は、被術者の体内に脳内麻薬物質と、それにともなった他の幾つもの自然治癒物質が生産されている状態だと考えられるのです。

このような時、施術者は手あて法を行なうと、ごく短時間で(数十秒から数分程度)大きな治癒効果を上げることが出来ます。

キリストが、病めるものに手をふれて、その病気を治したのも、この原理によるものと十分に考えられます。歴史に残る幾多の他の教祖たちも、この手法を用いたものです。

すなわち、患者は、没我的意識状態により、自ら治癒物質を体内に生産し、教祖は外部より彼の患部に手をふれ、そこに体感覚をとどめ、そこに治癒物質を集中させることができたものと思われるのです。
このように、催眠には、それ自体が被術者を健康的にさせる、という力も兼ね備えていることは大いに注目に値するところであり、これは是非とも善用すべきだと考えられます。

真我と個我

すでにくり返し、述べてきましたとおり、仏教唯識学では「我の否定、ということを、徹底的に行なっております。
それは、自我の否定であり、それでは「真我」の肯定はしているかというと、仏教ではあらゆる存在を空としても見ますから、従って、あらゆる我、つまり真我も空じられてしまうのです。
これに対して、同じインド哲学でも、ヨガでの考え方は「アートマン」といって、真我の存在を立てています。
では、仏教とヨガでは、この真我については相反する考えを持っているかというと、そうともいえないのです。それは、真我というものは「究極的主体」であるために、対象として、それを認知はできないものであり、この場合、言葉をもって、それを名づけたり、説明した途端、それは「客体」なるものに変化してしまう、という点に問題があるのです。
この点において、仏教では、あらゆる言説による説明と認識法を断つことにより、真の主体を悟らしめようとして「空観」の法を用いたのであり、一方、ヨガでは、あくまで「仮の言葉」として「真我」をたて、それを説明したものであります。
これは、ともに対象化できない「われ自身」を、人々に説こうとした。同じ目的を異なった方法を用いて説明したものと思われるのです。
では、この「我」という問題について、次の引用文を参考としてみてください。

一般に個別の我は、個我と呼ばれている。個我を自分だと思い込んでいる人は多い。ところが宗教や哲学の中には、個我を対象として知る主体のあることを認めるものがある。ヒンドウー教やヴェーダーンタではもっとも究極のアートマンと呼んだ。アートマンは、対象化することのできない認識主体である。
知ることの奥にある知る主体を、誰も対象化して知ることはできない。対象化されたものは、もはや真の主体とはいえない。そこでアートマンは「あらず、あらずのアートマン」のように表現された。否定を表わす語の繰り返しで絶対性を表わそうとしたのである。アートマンは、英語では、"self"と、日本語では「真我」と訳されてきた。以後は、アートマンを真我という。

言語は、すべてを対象化して相対的に説明しようとするために役立つ。そのような言語によって真我を完全に説明することは、不可能である。しかしながら真我に近づく手がかりとして、個我との概念上の区別を述べるなら次のようになるであろう。

(真我)(個我)
絶対……相対
無限……有限
唯一……無数
自由……束縛
不生不死……生まれて死ぬ
遍在……個別の肉体に限定される

無数の個我は、真我から生じる。そのために各々の個我の究極の主体は、真我である。それは光源である太陽から無数の光線が発するのに似ている。そこで永遠の生命、自由、意識、至福などを望むなら、M我を実現する必要があることになる。
この世界には、真我を実現するためのさまざまな行法がある。自己の内面に真我を探究することは、真我に到達して真我を実現させるための直線的な道になる。インドでは、ヴイチャーラと呼ばれる真我を探究する行法がジュニャーナ・ヨーガに伝承されてきた。

シュリ・ラーマナ・マハーリシは、伝統的なヴイチャーラよりも安全で確実に進步でき、しかもどのような宗旨や信条の人でも修行できる直線的でありながら普遍的な道を示した。それをインドではやはりヴイチャーラと呼ぶが、英語では"Self-Enquiry"と訳された。筆者はそれを、自己の内面に真我を探究するところから、「真我の探究」と訳すことにした。
真我を探究することは、真実の我は誰かを明らかにしようとすることである。「真我の探究」では、言葉によって「我は誰か」を自問するのではない。「我」という想念の生じる源を内面に辿るのである。

個我のある人には、「我」という想念がある。その想念は、真我とは異なる。「我」という想念は、真我から生じて個我の基盤となり、真我に覆いをかける。すると個我を真実の我であると間違えるようになる。そこで「我」という想念の生じる源を内面に辿ることが必要になる。それによって、「我」という想念の生じる源に到達することができれば、覆いはなくなる。それにつづいて「我」という想念は消え、本来あった真我は現われることになる。

[出典:「現代瞑想の世界・真我の探究」橋本創造]

一つの考え方として「個我は顕在意識(日常的思考意識)の領域に属し、真我は潜在意識を通じて達し得る処にある」ということも出来ましょう。

この故に、私たちは、瞑想あるいは催眠などによって、顕在意識の働きが抑制されると、その真我の領域により近づくということが考えられるのであります。
顕在意識であれ、潜在意識であれ、意識活動を生じさせる根元的パワーは「霊的エネルギー」によって起こされるのです。
そして、この「霊」それは一つの力でもあるのですが、この力は「真我」そのものと不可分なのです。そしてまた、この真我は、宇宙を創造した究極の意識と不可分なるものでもあります。
ヨガでは、真我をアートマンといい、宇宙意識をブラフマンといいますが、同時にこの二者は一つのものだともいっております」
これを敢えて図式に現すと、次図のようになるでしょう。

この図において説明したいのは、真我から顕在意識へ霊力は一方通行として流れ、更にそれは顕在意識から潜在意識へと流れているという点についてです。
つまり、これは顕在意識からは真我を対象として見ることが出来ないという意味なのです。
そしてまた、潜在意識はその活動として、顕在意識の方を見ることは出来ないのです。すなわち、潜在意識は顕在意識からは受容的に、その情報を受けとるだけで、潜在意識からの情報は「顕在意識が活動している間においては」逆流しないようになっております。
ただ、この顕在意識の分野(それは主して五感的知覚の活動を示す)が、活動を鈍らせると、象徴やィンスピレーションとなって、情報が逆流してくることがあります。
それはつまり、瞑想や催眠による「トランス状態」(没我状態)下において、しばしば生ずることです。
このような場合、私たちの意識は、より真我へ、そして宇宙意識へと接近しつつあるのです。

[出典:唯心円成会伝法講義]

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