無能唱元

【無能唱元・伝法講義録 079】唯識学における心の分類・八識説

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この縁覚関で、みなさんが学ばれたものは、主として「縁」というものについてでした。縁とは何かという命題をめぐって、あらゆる角度からそれを考察してきたのです。そして今、みなさんは、その縁の理について「覚り」つつあります。すなわち「縁覚関」の境涯に達しようとしているのであります。
縁とはーロにいえば「空性が何かの他力を縁として、空華を咲かせ、それを実在として私たちに感じさせる、結びつきの力」とでもいいましょうか?
縁はまた時間と共にあって、それは時間の同義語ですらあります。
「すべての事物(空華)は縁によって生じ、縁によって滅びる」のです。そして、この生滅を感じ取る自分は何者なのでしょうか?
その答えは、やはり「縁によって生じたもの」であり、それは力の表象として、自分の肉体をあると感じさせ、力の象徵として、「霊」というものの存在を知覚させるのであります。

霊の働き

「霊」という言葉をいう時、その意味は、円成会でいうそれと、一般世間でいうそれとはかなり異なる考え方にあるようです。
まず第一に、当会で、「霊」という場合には圧倒的に「自分自身の根元体」という意味において使われているのです。

これに対して、世間でいわれる霊とは、一般に「守護霊」「背後霊」「先祖霊」「動物霊」などのように、自分以外の、そして主として死んでいるか、または生物以外のそれを指していることが殆どなのです。

当会では、まず「霊とは真我そのものである」と考えます。そして、この大宇宙を表象として現している根元力を「太霊」あるいは「宇宙意識」と呼び、この二者を対比させて考えてみるのです。ですから、当会における霊の定義とは「個霊(真我)と太霊(宇宙意識)のみであり、他のいかなるものも、この二者の霊の創り出す「空華」にしか過ぎない、と見るのです。

仏教唯識学の中心教義である「阿頼耶識」は、円成会の根元的思想として、それを取りいれております。

このアラヤ識論において、最も重要なことは、まず、「万象はアラヤ識によって出現せられる」ということと「アラヤ識は、見るものと、見られるものの二者を造り出す」という二点です。

「見るものと、見られるもの」という意味は、簡単にいえば、「眼」と、「色」です。すなわち、目と物質ということになります。しかし色の意味は、厳密にいえば、物質のみではなく、それは形のない「象」も含まれているのです。

話を解りやすくするため、次のようなたとえ話で説明してみましょう。
柳の木の下に幽霊が出たのを、見た、とします。この場合柳は「物」で、幽霊は「象」です。「色」とは、このような物象すべて、眼に映じたり、また、耳、鼻、舌、皮膚、すべてに感じとられる「信号」あるいは「刺戟」または「情報」をいいます。

さて、唯識学でいう「アラヤ識は見るものと、見られるものの二者を造り出す」とは、この場合「アラヤ識は、柳も幽霊も、そして、あなた自身さえ造り出したのだ」といっているのです。
つまり、柳と幽霊は見られるもの「客体」であり、あなたは見るもの「主体」であって、この客体と主体は共にアラヤ識によって造り出された「虚妄の実在」であり、それは仮りの姿「表象」として存在しているのである、というのであります。

主体である「あなた」は「色身」という表象をもって「在る」と感じさせられ、そしてその色身は、自分の周囲に客体が存在していると信じさせられているのです。そして、あなたの周囲の外境は、それは物象として存在しているのではなく、あなたの心の働きが、あなたに存在してあるように感じさせているのです。

といっても、外境には何も存在しない、といっているのではなく、そこには「因」として何ものか(たとえば波動体のようなもの)があり、それが心の働きによって「果」が生じ、その果がそれを「実在」と思わせるのだ、というのです。この意味によれば、柳も幽霊も共に「因」としてあり、それは実在していないものですから、「物」も「象」も同じく、心の働きによって生じた(ように思える)ものということになります。

さて、アラヤ識は、この外境も、そしてその外境の中にある「あなた自身」も同時的に発生させたのである、といいます。そして、それを発生させたものは、過去の記憶因子のさまざまなものが、熟成されたものである、としています。

この場合の記憶因子とは、勿論、この世における個人体験のみによるものではありません。「父母未生以前」といいます。つまり、自分の両親が生まれる前からの、一切の体験の記憶、これを「業」といいますが、この業の集積を因として、アラヤ識の内に貯蔵されており、それが「果」として現れる時、それはまさに「見るものと見られるもの」の二者を同時に造り出すのであります。

ですから、外境に因があって、それが自分の心の内に入ってきて、果になるのではなく、それは、見る方も、見られる方も、アラヤ識から、一つの果として、同時に発生したものであります。そして、見る方も、見られる方も、一つの心の働きによって生じたものだ、というまことに不思議きわまる論陣を展開しているのが唯識学なのです。

心の分類

この心の働きを、唯識学では七つに分類しております。この内、マナ識は深層意識にあり、それと自覚できないものです。
眼識は「見る側と見られる側」を共に発生させます。そして、他の耳鼻舌身の四識も同様に、外境と内境を同時に発生させます。というよりも、外境と内境は、ただ一つの識の働きであり、これを覚った時、それはr 一如の世界」になるのであります。

上部の六識、つまり五官と意識は、表層意識として、日常の体験を司っている識です。現世において、生を体験しつつある間、私たちは、この六識の活動ゆえに、それを知覚しているのであり、この六識の備っている状態を「色身」といいます。

「色」とは、識の働きによって、仮りに実在するかのように見える表象の姿ですから、この色身も、普通にいわれるような「身体」という意味ではありません。
さて、死という現象は、ともかくも、この六識が一旦消えるというより、アラヤ識にそれは包括されるといった方がよいでしょう。
とにかく、六識はなくなり、マナ識とアラヤ識は、あらたな「色身」のチャンスを求めて、しばらくは漂遊するのです。

[出典:唯心円成会伝法講義]

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