霊とは何か
「霊とは何か?」と問われれば、当会の答えは次のようになります。五根と意識、マナ識とアラヤ識、これら八つの識の統合体そのものが「個霊」である。そして、この個霊を変転させる根元力は、大宇宙を統括する「太霊」にある。
しかし、個霊と太霊は結局のところ、二つのものではなく(不二という)、一つのもの(一如という)である。ただ、個霊はある「偏向」を示し、太霊は「普遍」を示している。前者は有限であり、後者は無限である。そして、極小と極大は、結局のところ同意義であり、ゼロと無限大は等しいもの、すなわち、一如なるものである。
そして、私たちの個霊は、一路、無限大への彼方に向かい、進化の旅を続けているものである。それは、個より普遍への旅であり、太霊への同化を指向するものである。以上が、当会の定義する「霊」というものに対する見解であります。
個我とは真我
「個霊」とは「真我」である、と当会は定義します。
この真我がアラヤ識を抱いて変転して行くのだ、と考えると理解しやすいでしょう。
すでにくり返し述べてきたように、アラヤ識は、すべての表象を造り出すのです。それは現世における諸現象も、そして、来世における、いわゆる「霊界」と呼ばれる世界も、そしてまた、永遠への未来世も含めて、一切がアラヤ識の内に貯えられた記憶潜勢力(業)をもととして、えがき出されて行くのであります。
来世が、現世とそっくりであり、人間と同じ形態のもの、また現世と殆ど同じ風景の山や川、建物があるという報告を、死から蘇った人々から聞くのは、正にこの意味を裏書きしているのです。
それは、アラヤの内にある業識が、この世で体験した情報によって占められているからなのです。
世の多くの人々の錯覚は、天国や地獄などの霊界が、あらかじめ存在していて、そこへ死者の霊がおもむいて行くというように考えていることです。これはそうではない、と以前にも述べたことがありますが、アラヤ識は、天国や地獄などの環境自身さえ造り出すのです。
これを逆に考えれば、現世のこの地球という環境もアラヤ識が造り出したということになります。そして、はるかな銀河系大宇宙さえも、アラヤ識の現した表象を、私たち(これもアラヤ識の造り出したもの)がみているのです。
正に、アラヤ識は万象の根元体なのであります。このアラヤ識は、それ自身には、自分をコントロールする力を備えておりません。それをコントロールするものは、あくまで真我なのです。
ですから、真我に目覚め、真我は独立し、自ら、すべてを選択し、良き情報、好ましい思いのみを、アラヤの内に刻印し、これを業識として行くならば、その人は自分自身の環境を天国として造って行くことになります。
我の存在否定
しかし、仏教においては、この「真我」というものの存在を肯定しておりません。というのは、仏教の教説は「一切の我の存在否定」から始まっているからです。
「自己の究極は何か」―これはインドのあらゆる宗教・哲学に共通する普遍的な問いであった。
インドの哲人たちは、この問題の解決のために、ヨーガ(瑜伽[ユガ])すなわち禅定の修業に励んだのである。自己の表層的精神活動を静め、自己の「こころ」の奥底に深く深く沈潜していったのである。
見方をかえれば、自己の「こころ」を宇宙いっぱいにまで広げていったともいえるであろう。そして、たとえば、ウパニシャッド哲学は、自己の究極はアートマンであり、そのアートマンは同時に大宇宙の真理・絶対者であるブラフマンと同一であると考えた。一般にインド思想は究極をこのアートマンいう語で表現する。
ところが、仏教は、そのようなアートマンすなわち「我」は存在しないという「無我」の主張をもって従来の諸思想に一大反旗をひるがえした。自己同一を保ちつつ永遠に滅することのない常一なる主体的自己などはどこにも存在しない、ただ存在するのは、一瞬一瞬に生じては滅し去る自己の相続体があるにすぎない、と仏教はいう。[出典:「唯識思想入門」横山紘一著、レグルス文庫]
仏教哲学の根元は、要するに「無常観」です。この無常とは「常でない」つまり、すべて変化しないものはない、の意味で、それは事物とその本質までを変化させてしまう、すなわち、一切の事物に自己主張的な性質などはないということになります。「一切の」というからには、当然、自分も含まれます。
例外は認められません。だから、自己同一性を保ちつづける「我」というものは存在しないのだといわざるを得ません。
有我と無我の間の矛盾
そして、我が存在するように見えるのは、荒れ狂う大河の表層に、瞬間的に生じては滅する泡のような幻影的存在にしか過ぎない、というのです。ここに大きな矛盾を感じ、大きな当惑を多くの人々は覚えずにはいられないでしょう。何故なら、仏教では、己れ自身を磨き、向上して、ほとけという最高的人格者になることを目的としているからです。もし、その己れ自身が存在しないならば、その存在しない己れ自身が向上したり、ほとけになる必要性、あるいは可能性もないことになってしまうからです。
しかも、原初仏教経典の「法句経」には次のような言葉がのっております。
おのれこそ、おのれのよるべ
おのれをおきて、他のいずこによるべあらんや
よくととのえられしおのれにこそ
またと得がたきよるべをぞ得ん
このように自分というものに絶対的な信頼をおけ、といいつつ、しかも仏教は「無我」を説いています。この矛盾は一体どのように解したらよいのでしょうか。
[出典:唯心円成会伝法講義]