潮の満干は重力の中和による
「重力とは、地球自身の引力ではなく地球を取り巻く空間の圧力によるものだ」ということでした。
これは、私たちの今までの物理学的常識あるいは、物理学的感覚をもってしては、なかなか理解しがたいことです。
物質は空間を押しのけ、外部に排除しようとし、空間は力をもって、そこに戻ろうとします。そして、地球などの場合、中心部を除いて、圧倒的に多いその隙間に、空間は入り込み、そこは物質と空間が同化し混ざり合っているのです。
古来から、潮の満ち干は、月の引力で、潮が引っぱられ海面が高くなるのだ、と考えられてきました。しかし、これも、月と地球との間にある空間の歪みがなせるわざなのだと考えられるのです。
即ち、地球へ向かって押している力と、月へ向かって押している力が、交叉している地点が、その力を相殺しあい、空間歪曲がある程度、中和されるため、海面への圧力(と、いうことは、地面も含まれているのだが、水は変容しやすいので)が減り、その分、海水が盛り上がるのだ、と考えるのです。
更にこの考え方を発展させて考えますと、この月と地球との間で、相互の重力が中和され、無重力地帯が発生し、月と地球は相引き合って遠くへ離れて行かないという作用も理解されるのです。
これを更に、原子の場合にあてはめてみましょう。
原子核と電子との間にも、この空間歪曲と相互重力の中和が考えられます。この故に、電子は、その原子核に所属し、そこに1個の原子は構成されているのです。
ここに一つの原理が考えられます。
それは、「物質は空間を排除したがり、つまり物質同志は寄り集まろうとし、空間は物質を拡散させ、それをより空間的にしようとする」すなわち、物質と空間の二者は相反関係にあるということです。
回転運動
原子核の陽と、電子の陰は互いに結ばれたがっているのです。あたかも、人間の男女がそうであるように……。
その間を、押しへだてているのが空間です。そして、この空間内にも、原子核と電子の二者による空間の歪みがあると考えられます。あたかも、月と地球がそうであるように……。
すなわち、原子核の周囲にも空間の歪みがあり、電子の周囲にも空間の歪みがあるのです。そして、この二者の間に、重力の中和地帯があり、この無重力点を境として、両者は離れすぎもせず、近づきすぎもせず、ある一定の距離を保ちつつ、電子は原子核の周囲を回転するのです。
太陽と地球に、自転と公転があるように、原子核と電子も自ら回転しつつ、電子は原子核の周囲を回ります。
これらの運動については、次のような二つの考え方ができます。
①粒子の回転は、原子内空間に波動を生じさせる。
②原子空間内に起きた波動は、粒子に回転運動を行なわせる。
これは、どちらの考え方が正しいとは、現在の段階では、いいかねるのです。
更に、これについての推測をもう一歩前進させるならば、
「空間の波動が粒子を出現させる」のだとも考えられるのです。あたかも、大河の荒れ狂う波の上に、泡が生じたり、消えたりするようにです。
一つの考え方として考えられるのは
「宇宙の実在とは、円環運動が形象化されたものである」という点です。そして、この円環運動は、空間の波動の力が原動力になって引き起こされているのです。
そして又、この円環運動は、空間の歪曲によって生じた重力波の軌跡を、リズミカルに過去のルー卜へ発信し、残しつづけながらすすんで行くのです。
この円環運動とは
「終りは常に始まりにつながる」という、果てしなき運動のことです。すなわち、それは有限の形(粒子)をもって、無限の働き(円環運動)を示しているのであります。
波動と円環運動
空間に動きが生じ、そこに粒子が創られると、空間は粒子外に排除されます。そして、空間は、その粒子の中部に戻ろうとして、粒子に圧力をかけます。つまりこれが重力波です。この重力波が粒子に押し寄せると、その粒子を回転させるのです。つまり、粒子の回転とは、波動の現れなのです。
これは、重力波は、一つの遠心運動を粒子に与えている、と考えることもできます。すなわち、粒子は放っておくと、どんどん縮んで、密度が高くなりすぎてしまうのを、回転で遠心力を起こし、粒子を外側に拡げようとするのです。
これは、自転の場合の遠心力で、原子核も電子もこのようにして、自分自身を縮み過ぎないようにしているのですが、これを公転の場合も同様に考えることができます。つまり、電子が原子核の周囲を回るのも、遠心力を用いて、原子核に引き寄せられてしまわないようにしているのです。
このような働きをするのは重力波であり、そしてこの重力波とは、空間の歪みがもたらした波動です。空間は、あらゆる手段を使って、空間の領域を拡げようとするのです。回転も、遠心力も、この空間の意欲の現れと見ることができます。
一方、物質の方は、求心的です。物質は、より小さく固まり、身内から空間を閉め出そうとするのです。
もし、物質がこのようにして、縮小化を無限に続けるとしたなら、どうなるでしょうか?
その答は、「消滅」です。物質がどんどん小さくなり、途方もなく密度が高くなって、重くなっていくと、遂には、ゼロになって消えてしまうのです。
天文学では、これを「ブラック・ホール」と呼んでいて、実際にその存在を星空の中に指摘しております。
一方、空間の力が勝り物質が空間の浸透によって拡大すると、これも無限に拡散して行き、遂に、物質としての機能を失い、消滅してしまうのです。
すなわち、物質の縮小による「有限の究極」はゼロになり、また物質の拡大による「無限的拡散Iは同じくゼロになるのであります。
これは、求心の極限と、遠心の極限は、共に等しく、空間という出発点に戻ることを意味しているのです。
さて、ここで一つの公式というものが見出だされます。それは「求心力の強さは、遠心力の強さに比例する」という公式です。つまり、物質が縮まれば縮まるほど、空間は外に排出され、その結果、空間の復帰力は増大され、重力波は強くなるのです。
これを、原子核と電子の場合にあてはめて考えてみましょう。
もし、電子の密度が高くなれば、電子の周囲にある重力波は強まります。そしてその電子の重力波は、原子核の重力波とは反対の方向に動いているものですから、この場合、遠心力は強まり、電子は原子核から、より遠のくと考えられるのです。
このようにして、電子の重力波がどんどん強くなれば、原子核よりぐんぐん離れ、遂には遠くどこかへ行ってしまいます。
これがつまり「遠心の極限」なのです。
これに対する「求心の極限」とは、原子核の収縮と、その周辺の重力波の増大で、つまり、ブラツク・ホ—ル的な最後になるのです。
UFO
UFOは、なぜ空中に浮かんだり、物体運動法則の慣性を無視して、直角に曲がったり出来るのだろうか?という疑問に対する謎ときです。
なぜ、UFOは空中に止まっていられるのでしょうか?
最も可能性の高い答えは、地球への重力波に対抗するため、UFO自身が、自分に対する重力波を造り出しているという考え方です。つまり、自分自身が、小さな地球になると考えると理解しやすいでしょう。
地球の中心には、途方もなく密度の高い物質があって、それが空間を外に閉めだし、そしてその閉めだされた空間は、そこへ戻りたがっている、これが空間の歪曲であり、その空間の歪曲が地球の中心へ向かって重力波を出している、という点については、みなさんはもうよく了解されていることと思います。
さて、そこで、仮に、この地球の中心から、この密度の高い物質を少し取り出したと想像してみます。
それは小さな、そうウズラのタマゴほどのものでも、何千トンの重さのあるものでしょう。つまり、それほど、原子核と電子との間の空間が極限的にせばまっているのです。
そこで、この物体には、その周囲には締め出された空間が歪曲して存在することが考えられます。
今、この物体を、「X」と名づけて、考えてみます。
その余りに高い密度のため、Xの回りには強い空間の歪みが起こり、重力波が生じます。そして、それは地球の重力波と相殺作用を起こし、Xと地球との間には、無重力帯が生ずるのです。これは、Xの側から見ると、地球へ対する反発力とも考えられます。この反発力は、地球の大気圏外から、Xが地球に段々近づいてくると、地球の重力に反発して、その力が高まって行きます。
月と地球の例で考えて見れば、この二つの間の距離は、ほぼ一定を保っております。これは、物質同志は結びあいたがり、空間はそれをへだてたがり、その二者の中間の緩衝地帯があって、それを保ちつつ一定の距離が守られているのです。
そこで、このXも、地球上から一定の距離の所に浮かび、放っておけば、地球の自転に合わせて、公転運動をする、即ち人工衛星的なものになると予想されます。
ところで、ここで、Xより生ずる重力波を制御できる方法があるならば、その重力波の低下にともなって、Xは地球に引き寄せられて行く筈です。このXがUFOに取り付けられてあり、そして、UFOにはXの重力波をコントロールする装置があるとすれば、UFOは無重力的行動をとれるわけです。
では、その重力波の制御装置とは、一体どんな方法で行われるのでしょうか?
それは多分、回転運動だと想像されます。
ご存知のように、コマは回転の際に生ずる遠心力で重力に対抗し、ある種の無重力地帯をコマの周辺に作り出し、その故にコマは倒れないのです。
コマにも、外側に円形の枠があって、この枠の中でコマが回転するという構造のものがあります。
この枠の部分は回転しないのですが、中のコマの部分が回転すれば、コマ全体が立っていることができます。
このように、UFOの場合にも、本体は回転しなくても、内部にコマのような回転部分を設置して、これを回転させれば、Xの重力波あるいは地球の重力波、またあるいは、この二つの緩衝地帯に何らかの制御を行なうことができるとも考えられます。
UFOは、こうして空を自由に飛んでいるのではないでしょうか?
ここでXという高密度の物体について考えられるのは、それを合成する手段があるか、ということです。
もし、原子内の空間を外に排除できる技術があればXの製造も可能になるわけです。このようにして、重力波というエネルギーを得ることができるようになれば、人類は全く新しい文明の夜明けを迎えることになります。
というのは、現代における戦争の直接的原因はエネルギー源の争奪戦にあるからです。それも、今のところ主なるのは石油です。それから、原子力です。
これらのエネルギー源には大きな問題が二つあります。それは「有限」であること、そして「汚染公害」の問題です。
ところが、重力波は無限エネルギーであり、また廃棄物が出ないので、大気汚染の心配もありません。
かつて人類は火を発見しました。そして近代にいたって、原子力を発見しました。
そして今「空間と重力」というテ—マを前にして、そこにたたずんでおります。
そう遠くない未来において、人類はこの問題を解決し、重力波エネルギーを手に入れるかも知れないのです。
ここに人類が生き残り、なお大いに発展するための希望があるといえましょう。
存在と非存在
粒子と波の問題は、抽象的にいうならば、それは「存在と非存在」の問題ということになります。
外見的には矛盾し、両立しがたいような概念が、じつは同一世界の異なった側面とみなされる例は、相対論の四次元世界だけではない。おそらくそういったケースでもっとも有名なのは、粒子と波の概念の統合だろう。
原子のレベルでは、物質は粒子でもあり波でもある。どちらの側面を見せるか、それは状況しだいだ。ある伏況では粒子としての側面が支配的だが、べつの状況では波としてふるまう。この二面性は、光電(磁波)にもみられる。たとえば光は「量子」光「子)の形で放出され吸収されるが、この粒子が空間を伝わっていくときは、波のもつあらゆる特徴をそなえた振動電磁場としてふるまう。電子は一般には粒子と考えられているが、この粒子束が小さなスリットを通ると光と同じく回折現象をおこす。電子も波のごとくふるまうのである。
この粒子と波の二面性はじつに驚くべき事実だが、量子論を体系化するうえで原動力となった数多くの「量子論公案」の生みの親なのである。つねに空間的広がりをもつ波の像と、明確な所在を示唆する粒子の像は、本質的に異なっている。にもかかわらず、物質がたがいに排他的とも思える形をとる事実、粒子が波であり、また波は粒子でもあるという事実を、物理学者が受け入れるには長い時問が必要であった。粒子と波のふたつの図を見たとき、専門外の人ならつぎのように考えたくなるかもしれない―波動とは水平に波状に動いていく粒子を示すものと考えれば、粒子と波の対立は解決される、と。
しかしこの論法は波の性質の誤解からきている。波状に移動する粒子などは存在しないのだ。たとえば水波を考えてみる。この場合、水の粒子は波にそって移動するのではなく、波が通り過ぎるとき円運動をするだけである。音波の場合も同じで、空気の粒子は単に前後に振動するだけだ。波に乗って運ばれるのは波動現象をひきおこす乱れであって物質粒子ではない。だから量子論で「波は粒子でもある」といっても、粒子の軌跡について述べているわけではなく、波全体が粒子のあらわれだと言っているのである。このように、移動する波は移動する粒子とはまったくべつなもので、ヴィクター・ワイスコフの表現を借りれば、「湖上の波と、それと同方向に泳ぐ魚の群」ほどの違いがある。物理学ではいろいろな伏況で波動現象が顔を出すが、つねに同じ数式で表現される。光の波、振動しているギターの弦、音の波、水の波、すべて同じ式である。景子論で粒子と関連した波を記述するときも、やはり同様な式が使われる。ただこの場合「波」といってもはるかに抽象的なものだ。
それは量子論のもっている統計的性格、つまり原子的現象は確率でしか記述できないという事実と深いつながりがある。粒子の確率に関する情報は、確率関数とよばれる量のなかに含まれている。
この量の数学式が波の式になっていて、他のタイプの波の式に類似しているのである。ただし、粒子の波は、水や音の波のように本当の三次元の波ではなく「確率の波」であり、さまざまな場所で多様な特性の粒子を見出す確率に関する抽象的数学量である。確率の波の導入によって、粒子が波であるという。パラドックスは新たな状況におかれ、ある意味ではそのパラドックスは解決されたともいえる。だが一方ではそこに「存在」と「非存在」というさらに根本的な対立概念が生まれる。この対立もまた、原子の世界では超越されてしまう。粒子が特定の場所に存在するなどとは絶対に言えないし、また存在しないなどとも言えない。粒子は確率である。粒子はさまざまな場所に「存在する傾向」があり、「存在」と「非存在」の間で不思議な物理的世界を現出する。粒子の状態を固定的な対立概念で描写することができないのはこのためである。粒子は定まった場所に存在するわけでもないし、存在しないわけでもない。またその位置を変えるわけでも、静止したままでもない。変わるのは確率であり、「存在する傾向」なのだ。ロバート・オッペンハイマーはいう。
たとえば、電子はおなじ位置にとどまるかと問うなら、「否」と答えねばなるまい。では電子の位置は時間とともに変わるのかと問うなら、「否」である。電子は静止しているかと問うなら、「否」と言わねばなるまい。では電子は運動しているかと問うなら、これも「否」である。
[J・R・オッペンハイマー]原子物理学の世界は、東洋の神秘思想の世界同様、対立概念という狭い枠組を超越している。オッペンハイマーの先の言葉は、「ウパニシャッド」の言葉そのままである。
それは動き、しかも動かない。
それは遠く、また近い。
それはすべての中にあり、
またその外にある
[ウパニシャッド]力と物質、粒子と波、動と静、存在と非存在。これらは現代物理学において超越される対立概念の一部である。このなかでは「存在」と「非存在」がもっとも本質的なものだが、原子の世界ではそれさえも超越しなければならない。それは量子論の特徴であるが、きわめて難解なためにその解釈が議論されている。「存在」「非存在」という対立概念の超越は、東洋の神秘思想のもっとも難解な側面のひとつでもある。東洋の神秘思想家は、まるで原子物理学者のように「存在」と「非存在」を超越する世界と直面し、その事実の重要性を強調する。アシュヴァゴーシャは語る。
「あるがまま」とは、存在するものでも非存在でもない。また存在かつ非存在でもなく、存在かつ非存在ではないものでもない。
[アシュヴァゴーシャ][出典:タオ自然学―現代物理学の先端から「東洋の世紀」がはじまる/F・カプラ著、工作舎刊]
現代物理学は、奇しくも、仏教やヨガ、また中国の老子の思想などに代表される東洋の一如の考え方に近づいてきてしまったのです。
それは、例えば般若心経などに示される「空観」そのものを説明しているような錯覚にさえ捕らわれそうな気がします。
また、それは「主体と客体の否定」も示し、これは仏教本来の根本教義である唯識学そのものの考え方にさえなってしまうのです。
正に現代は、東西の思想、その二大潮流がドッキングを始めた時代であり、人類の文明史に、思想的な意味での「元年」を迎えつつある時でもあると考えられます。
すなわち、今、文明は地球的な一本の統合されたものに開花しつつあるのです。
[出典:唯心円成会伝法講義]