無能唱元

【無能唱元・伝法講義録 083】自我について空白で表現する

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さて、先回の終りにおいて残された課題は、仏教はなぜ、一切の我の否定をしたのだろうか?という疑問についてでした。今回は、この問題の解明につとめることに致しましよう。

主体は対象たり得ない

まず第一に考えられるのは、それが「自己そのもの」であるならば、それは客観的対象物とはなり得ない、という点が考えられます。
すなわち、主体は、自己の主体について思弁した瞬間、それは主体性を失ってしまうという点です。それは前にも述べたように、一言でも言葉をもって説明しようとした時、それは主体そのものではなくなってしまうのです。
ですから、真我の存在の有無については語れない、ということになります。

次ぎに真我は、
「生ずることなく、滅することもない」空性のものとして、存在する(実はそれは存在でもなく、非存在でもないのですが、仮にこういうより仕方がないのです)ので、この空性は、その空性なる性質の故に、言葉をもって説明がつかない、という点があります。
次ぎに、唯識学の始祖的存在であるナーガールジュナ(竜樹菩薩)の言葉を引用してみましよう。

「この世界の存在は、シュ—ニヤター(空)として存在する。
空というのは、無ということではない。また有という固定したものではない。
人が生きることに不都合を感じ、世界観を誤るのは、この空を体得できずに、一極に偏るがためである。
空というのは、生ずるのではなく、また滅してゆくものではない。減ったり増えたりする実在ではないのである。
空というのは、宇宙、または人間のなかに貫いて実在する、活動性の海なのである。
したがって、人は空を可視的な存在としてとらえるとき、空は不可視に滑り落ちてしまうのである。
人間の可視の範囲で、性質や、形態を論じることができないのが、空なるものである。
おおかたの学問も宗教も、この一点の心眼が開かぬため、部分を全体として拡げ、有限を無限に過用しようとして行き詰まる。
空を体得したとき、人は固定化と、執着の誤りを離れ、不生不滅の実在から、あらゆることがらを処す知恵が生まれるのである」

言葉は「有る」ものに対しては有効ですが、「無い」ものに対しては、その説明的機能を失わざるを得ません。

「世界が」
と、ナーガールジュナは弟子に語った。
「対立による弁証法にのっとって発展しているのはたしかであろう。しかし、完ぺきな自己、完ぺきな他者がありえず、自と他との融合がより本質的なもののあり方なのだ。はてしない対立が起こるのは、この本質のあり方を忘れ、自性にとらわれ、縛られるからである」
「世界の存在の実のあり方は、シューニヤター(空)でございましょう」
「さよう、存在と無との固定観念を克服しうるのは、空なる実在を感得した場合に限られる。空とはま無かったものが新たに生ずるのでもない。しかしまた、有ったものが滅するのでもない」

こうして、彼は不生、不滅、不断、不常、不一、不異、不来、不去の八つの否定に的をしぼって空なる実在を暗示しようとする。
それは自己と世界を一瞬に開いてみたとき、厳然として存在する、「混沌たる調和」とも称すべき充実であろうか。

人が空を語りながらさえ、ともすれば自己という我にとらわれ、実在から遠ざかってしまう傾向の強さは、まったくとまどうほどのものであった。
そのとき、ことばは空転を始め、人間から浮き上がった思想が自動運動を起こした。

「自由自在に生きるためには、人はおのれのなかに空を感得しなければならない。ために、一切の一現象を絶対視してはならない。川を渡るに使った船は、川を渡ったとき不用になるが、人は船にとらわれてしまうのだ」
ナーガールジュナは心を静めて、語った-。

[出典:「竜樹菩薩」池田得太郎著、第三文明社]

水墨画の空白部分

水墨画や墨蹟(書)では、余白の部分を非常に重視します。この書かれない、白く残された部分で何かを主張しようとしているのです。それは、空と色の対比であり、また調和を示すものでもあります。
この書かれない部分、そこを敢えて「無」として残し、そこで何かを感じさせようとしている、この配慮に思い至る時、仏教における「我の否定」とそれが結びつくような気がするのは、私だけでしょうか?、
つまり、それは言語というデジタル(記号)に代えて理解することは到底不可能なのであり、それをそのままの形で、ぱっと体得し、自覚する他に手段の無いものなのです。なぜならば、それは「可視的」な範囲を越えるものであり、この不可視的な部分を伝えるには、その空性なる意味を、空性なるままに伝える他はないように思えるからです。

で、仏教教学は、自己存在の否定を敢えて行ったのだ、と私は解するのです。すなわち、それは水墨画における空白の部分に匹敵するものです。
こうして、その時に生じた「真我」こそ、バラモンでいう「アートマン」と思いを同じくするものでありましょう。
すなわち、バラモン教は、それを「有法」で説き、仏教は「無法」で説いた。そしてその二者の違いは、手段(方便という)の違いでしかない、と思うのです。

バラモン教、ヒンズー教そして現代のヨガ哲学も、太霊としての「ブラフマン」と個霊としての「アートマン」を説き、この二者の合一合体こそ究極の救いとして、その修業に励みます。いわゆる「梵我一如」がそれです。
この真我こそが「霊」そのものなのであります。
これこそ、内にアラヤ識という業報体を包括しながら、それを進化のための根元基体として、転生をつづけ、永遠の彼方へ向かって普遍化、あるいは無限化の旅をつづける「空性力体」であり「根元識体」なのです。

自霊の進化向上

では霊(真我)というものが向上し、進化して行くのは、どういう場合なのでしょうか?
それは、「空性が縁を得て、空華を咲かせた時」なのです。すなわち「色体」の縁が生じて、アラヤの内の熟成したものが「業報」として体験させられている間なのです。普通、これを「生命」と呼びます。そして、それを、物質的実在のように、私たちの感官は捕らえるのです。
しかし、それらのものは、アラヤ識が造り出した「自我的」なものと、「対称的」なものの表象現象にしか過ぎません。
だかしかし、これを、私たちの感官内における生活意識では確かに「実際的実在間」として感じられることも事実なのです。そして、その実在感の中で、私たちが、時に幸福感を、そして又、他の時には不幸感を味わうことも決して見逃せない事実です。
そこで、ここで考えてみたいのは
「では、その幸、不幸とはいったいどういうことなのだろう?」という命題です。
たとえ、生命的実体が、単なる「表象」に過ぎないとしても、幸、不幸感は確実に感じられるの
です。

輪廻転生とはどんなことか
まず、霊とは
「意識であると同時に力である」と定義してみましょう。
そして、その意識的な面は
「波動的に現れ」、その力的な面は
「粒子結合力として現われる」と考えてみるのです。

前者の波動は、私たちの五感的領域では捕えられないものですが、その働きを知ることは出来ます。それは、電流は見えないが、電燈として、その光を見ることが出来るように、または、リンゴが木から落ちるのを見て、重力があることを知るように解るものです。

後者の「粒子結合」とは、つまり物質的な世界で、これが私たちの五感的領域にあるものです。
現世と呼ばれるこの現実界、それはつまりこの地球上の人生のことでありますが、それは粒子結合をもって、さまざまな象を表現しているのであり、それは同時に、波動的な力をもって裏づけもされているのです。

死とは、この粒子結合が解体して、この力が波動的なものに吸収されて、それは一時、意識(それは波動)のみの世界に変容することを意味するのです。
そして、またある時期がめぐり来て、それは別の意味での「力の表象」を行なうことでありましょう。それは、私たちの理解度からいって、新しい生命と呼んだ方が解りやすいでしょう。
これが、すなわち、仏教でいわれる「輪廻転生」です。
しかし、この輪廻転生とは、少しも、この人間界へ再び戻って帰ってくるという意味ではありません。
この世には、よく、自分はジンギスカンの生れ変りだとか、前世は弘法大師だったとか吹聴する人がおりますが、これは愚かなことです。

すべての霊(それは個的な意識)は、向上進化しつつあります。そして、この現世は、その進化をするための学校だと考えると理解しやすいでしょう。私たちは、ここで学び、卒業し、更に新たなる、より高き次元の生を求めて転生して行くのです。

輪廻とは、波動的なものから、粒子的表現のものへ、そしてまた波動的なものへと、回転しつつあることで、この人間界とあの世との往復ではないのです。もし、人間界へ再生するとするならば、それはこの学校で単位がとれず、もう一度留年しなければならないという落第生の意味になってしまうではありませんか?
それに、この広大な大宇宙の中で、ただ一点、針のさきでつついたような小さな地球上へ、なぜ再生して戻ってこなければならないのでしょうか?

現世のこの宇宙でさえ、何億光年をもっても計り切ることの出来ない広大無辺の世界であるのに、この現世以外の他の次元における宇宙的な世界の存在を想像した時、再生を、この地球上の一点に一捕われて考えることが、いかに卑小なることか解ろうというものです。

たしかに、私たちの霊は進化します。そして、その進化の抜けがら(それは遺伝という形式で)を、この地上に残して、更に高き何ものかにあこがれて、飛翔して行くのです。

[「霊格を高めよ」無能唱元著より]

瞑想中に起こる幻覚

幻覚についての当会の考え方については、すでに前に述べました。
それは恐れる必要もなく、また、啓示を受けたとして有頂天になる必要もないことなのです。
瞑想中に幻覚や幻聴が起きたら、どうすれば良いのでしょうか?
これを恐れて、瞑想を中断してしまうのはあまり良い手段とはいえません。何故なら、それは、心に「幻覚に対する恐れ」を植えつけることになるからです。
しかしまた、その幻想の世界に身をゆだねてしまい、それに酔ってしまうことも好ましいこととはいえません。これについて、偉大なヨギストであるシュリ・ラーマナ・ マハーリシはつぎのようにいっております。
「どんな状態、どんな力、どんな幻影や幻覚がやってきても、常にそれが誰のところに来たか尋ね、真我だけが残るまでは、断じて真我探求をやめてはならない」

また、神仏などの幻影をみるような場合についても次ぎのように述べております。
「人格神(人間のような形をした神)の姿をみることは、その人自身の信仰している人格神に具象化された真我の幻影にすぎないのだ。最も大切なことは真我を悟ることだ」

すべては、内なる自霊、真我の探求へと結びついていくのです。
そして、それを悟り、体得する時、一切の事物は霊力の造り出した幻影のようなもの、ということが解ってくるのです。
しかし、幻影であるからといってそれは「虚しいもの」と捕らえているわけではありません。

大宇宙を生み出した太霊は、大宇宙の中に無駄なもの、不必要なものを造り出した、と考えられるでしょうか?
たとえば、あるヨギストや、禅僧などがいうように、物欲などの肉体的欲望は卑しく悪しきものであるのでしょうか?

答はノウです。肉も心も、ともに太霊の生じさせたもの、霊の働きによって心身は形成されたものです。この宇宙には無駄なものは何一つありません。すべては尊いもの、価値あるものなのです。
このように、すべてを善しと見、それを肯定し、受け入れていくことこそ「自己霊格を向上発展させていくための秘訣」なのです。

肉の喜びを心の喜びと同じように、感謝し、受け入れなさい。物の喜びと精神の喜びに分別比較の知恵を用いるべきではありません。
物心は不二にして、色空は一如なるものです。私たちは、今、不二の法門に入り、一如の世界に入ってきたのであります。この世はすべてあるがまま、あるがままで受け入れ、そこに善悪、是非の段階をつけるべきではありません。この一如の境地にあなたの心が到達したならば、あなたは自在の霊力を自分の内に備えたことになるのです。
[出典:唯心円成会伝法講義]

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