無能唱元

【無能唱元・伝法講義録 084】欲望を楽しみとする

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感覚器官を制御する

そして、自在の霊力を得たら、現実の世の中に戻り、そこで常識智の世界に住み、善悪を立て、好き嫌いの感情を発動し、しかも自らの肉体の感性に振り回されることなく、その感性をもって楽しみつつ、生きていくことが大切となります。

古いヨガ哲学書に描かれてある次のさし絵をご覧ください。この教えは「カタ・ウパニシャッド」というヨガ哲学書に説かれてあるものですが、人間の生き方を馬車に例えております。
この絵の示す意味は次の通りです。

真我 → 車主
肉体 → 車体
理性 → 御者
心 → 手綱
感覚 → 馬(五頭)
対象 → 道路

五頭の馬は、放っておけば、感覚を楽しませる道の方へ行ってしまいます。それは、享楽に溺れる道で、危険の待ちかまえている処です。馬に引きづられることなく、馬を制御して、霊的進化の道へと進むならば、ついには解脱の境地へと至り、太霊ブラフマンと、真我アートマンは、合一し、一如の世界はそこに開けるであろう、といっているのです。

要は、感官を主とした心の動きの主人たれ、ということです。それは決して、感官的知覚の持つ快感的なものを全部捨ててしまえ、といっているのではないのであります。しかし、人はしばしば、この極端へ走るという誤りを侵してしまうのです。

密教の考え方というものは、他の仏教の殆どの教えに真向から対立した内容性を持っているところに大きな特色があります。
その対立する部分とは、他の仏教が人間の欲望を否定するのに対して、密教ではそれを最も尊いものだといって礼讃するところです。
ではここで、次ぎの引用文を参考としてみてください。

仏教はなぜ、あれを見てはいけない、これをしてはいけないと、すべてものを否定してかかるのだろうか。とくに男女の欲望は、長い迷いのもととなり、ついには身を滅ぼしてしまうのだという禁制の中におかれてきた。
この欲望をたつのに、僧たちは、山野にあとをくらませ、ひたすらに実人生を否定し、松吹く風、夕べの嵐にたえて、死の寸前まで人生とはなにか、それを見いだそうと努力し、その哲学がつもりつもって数千巻。年数にして二千数百年。

欲望をおさえようとして、おさえきれなくなり、こんどはそこから脱出しようとする。仏道ではこれをうまいことばで「解脱」という。みんなをおいてけぼりにしておいて、自分だけすたこら脱出しようとしたり、あるいはまた人をさそって脱出しようとする。それでもとにかく脱出に成功したと言えるのか。
そそもそも目から入ってくる外界、耳から入ってくる声、鼻にかぐにおい、男や女のからだのにおい、食欲といわれるあくことのないような欲望、この肉体のあるかぎり、これはあきることがない人間の欲望である。このようなものは人間の生活を毒するものだとする考え方、このようなものは人生のなかで、不潔であるとする考え方、これらに対しては、高く貴い力をことごとくくりだして、この欲望をおさえなければならないとする考え方。この欲望から抜け出さなければいけないとする、これらの考え方に変わって密教では、正面からこれを肯定して、これこそが人間の欲望である。ことさらに人間のすることなす事にけちをつけて、きたないものだとする考え方はおかしいではないか。人間の欲望は、もとからありのままにきよらかなものであり、「この世の中で欲望を捨てるほどの大きな罪はない」と教えるのである。

[出典:理趣経入門―秘密世界の発見 密教最高の経典/加藤宥雄著、立体社]

欲望を楽しみとする

水泳という運動は、健康にとても良くしかも楽しいものですがうっかりすると溺れてしまうこともあります。
つまり、水泳には、溺れてしまうという危険性が付随しているのです。しかし、だからといってそれを恐れるあまりに、水泳は止めた方が良いと、人は考えるでしょうか?要は、溺れないように配慮し、つまり、泳ぎを習い、危険な場所を避けるなど、慎重に行動すれば良い訳で、その上で泳ぐ楽しみを満喫することです。
肉と心を備えたこの人生を、私たちは精一杯楽しんで良いのであります。
ただ、溺れさえしなければ……。

このようにして、人生を肯定的に受け入れて生きるならば、その人の霊格は確実に進化向上をしているのです。
なぜならば、その人は、幸福の内に生きつつあるからで、この「幸福である」という感情こそ、その人の霊格を向上させる基本条件であるからです。

[出典:唯心円成会伝法講義]

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