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【無能唱元・伝法講義録 085】重力波地図

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重力波の微妙な変化

波動には、「磁波」「電波」「音波」などの色々な名前を私たちは知っております。しかし、それらの別々の呼称は、質の違いを意味するものではなく、波動の数値の違いか、あるいは共振される際の波動同志の組み合わせの違いにしか過ぎないのです。即ち、それはすべて「波」であり、力が発揮される際の、その強弱のくり返し、つまり「リズム」で表されるものです。

さて、地球の中心から追い出された空間は波動となって、それを外界に波及させています。
一方、地球の中心は、より質量を高めようとして、物質を自分の方に引き寄せようとしております。こうして出来た地球は、中心に対して、均一な物質で、均等な量で集中している訳ではありません。海や山などの地表的なものから、内部の鉱質の違い、火や水の部分など、大きな質量の異なった「ムラ」が中心に対して取り巻いているのです。そこで、中心より外部へ向かって出て来た波動にも、当然、あるムラが生ずることは考えられることです。

例えば、地下水の水脈は、その流れの分布図のとおりに、地表に重力波の波形分布図を表すとも考えられるのです。
日常、私たちは、重力というものを意識しておりません。それは、私たちの五官がそれを特に知覚して、信号として、意識に対して伝達していないからです。
しかし、例えば、階段を登る時、私たちは筋肉を通じて、重力を感じてはいるのです。あるいは、高い所からとびおりた時など、足の裏やその他に、重力を衝戟として、捕らえてもいるのです。すなわち、これは、私たちが、重力波を触覚で感じ取っていることの証明です。

そこで、もし、この触覚的感覚を、とぎすまし、より鋭敏なものとすることができたと仮定しましょう。そうすると、水脈つまり地下水の流れている上へ来た時、その重力波の変化は、身体の触覚へ感じられます。そして、その感覚を両腕に伝えるように訓練すれば、インディアンの持つ木の枝の先端は下へ曲がるようになるのです。
これが、*ダウジングロッドの原理です。

ダウジングロッド
アメリカ・インディアンの水脈占いとして有名なこの方法は、のちに、地中に埋没されている金属管などの発見にまで利用されるようになりました。
最初、インディアンが使用していたのは、ハシバミなどの木の枝で、ふた又になった部分でした。
ふた又の両端を持ち、ゆっくりと地面の上を歩いて行き、水脈の上にくると、両手が開きます。すると、枝が開き、その先端がわずかに下へ曲がります。そして、そこを掘ってみると水が出てくるのです。

触覚の受信力

さて、以前にも述べましたが、触覚とは他の四つの感官と違って、四つのその感官を統括する基礎的器官である、ということを私たちは学びました。
そこで、私たちは「触覚こそ、生命力の基本的表現であり、他の四官は、その二次的表現の役割を有するに過ぎない」
ことも知りました。触覚は実に膨大な量の波動を受けているのですが、それを音や光その他に翻訳して、大脳に報告するものは、非常に微々たるものに過ぎないのです。そして、触覚自身も、その感覚は四つの感覚にすべてを任せてしまう習慣がついている結果、その感覚性が鈍磨してしまっています。
「もし、四つの感覚が沈黙するならば、テレパシーと呼ばれる他の波動も触覚は受信するであろう」とアダムスキ—は言いました。
これと同様に、重力波の変化も、私たちの触覚は受信する筈なのです。
次の引用文は、この地球上で、異常に重力度の高い、ある場所についての報です。

その場所に行った者は、一瞬、自然が狂ったのではないかとわが目を疑うだろう。
馬に乗って行くと、馬は本能的にその場所から後ずさりをする。空を飛ぶ小鳥も突然バタつき始め、あわてて周囲の狂っていない場所へ飛び去る。また、樹木も逃げられない力の作用をうけているように見える。というのは、重力の狂っているその奇妙な円の範囲内では、樹の枝が下に垂れ、樹木自体も地軸に対して傾いている。しかし、その範囲の外の樹木は、まっすぐ上を向いて伸びているのだ。

これが世界に名高い「オレゴン渦動」である。オレゴン州グランド峠から五十キロ、サーディン川の堤に沿ったところにある。それがいかなるものか、ということはよく知られているが、なぜ、どうしてという問題に対しては、何ら、わかってはいない。

この渦動は円形をなし、直径およそ五十メートル、測定器による実験結果によると、この不思議な力の働いている地域の大きさは、わずかずつではあるが刻々と周期的に変動している。

ここの円内に古い木造の小屋がある。しかし、現在、建物自体も歪み傾いている。未知の渦動力によるのか、丘を滑り下る地圧によるのかは、推測の域を出ない。

古ぼけた建物の内部に足を踏み入れると、一種別世界に入った感がある。下方におそろしく引っ張られ、まるで重力が急に強くなったように感じる。そして、円の中心にむかい約一〇度の角度で自然にからだが傾く。うしろに反りかえれば、円の外側にむかうことになる。中心にむかって、引き寄せる力は、測定器によっても示される。

この渦動について、多くの科学者たちがいろいろ実験をくり返し、なんとかその謎を解こうと試みた。古ぼけた丸木小屋の粱からくさりで13キロの鋼鉄球をつり下げたりした。そうすると、この鋼球が重力の法則に反し、明らかにある角度をもってつり下がっているのを、訪問者は目にすることができた。それは渦動の中心に向って大きく傾いているのである。この鋼鉄球は、円の中心方向に押すのは容易なのだが、渦動円の縁に向かって押すのはたいへんな力がいる。

タバコの煙でさえ、渦動円部の気味悪い力の影響を受ける。小屋の中のよどんだ空気にタバコの煙を一吹きすると、螺旋をえがきはじめ、だんだん速くなって消えて行く。
旅行者の目をうばうための、お道化た検査法がある。それは、斜めにした板の上に空のガラス瓶を置き、ガラス瓶を上方に転がりのぼらせる方法である。子供の使うスボンジボールにしても、渦動円のふちの地面に置くと、やはり中心に向かって転がってく。細かくちぎった紙片を空中にバラまけば、まるで見えない手が空気をゆるくかき回しているかのように、ヒラヒラと渦を巻きながら落下するだろう。こういう異常な光景を見ていると、背筋がつめたくなってくる。
自然が狂気にかられている。この森の中の僻地をインディアンも知っていて、初期の白人植民者たちに、この場所は呪われている、とおごそかに告げたものだ。おそらく顔から血の気がひいたろう。そして今も見る者を青ざめさせている。この奇怪な現象についての研究が始まり、こうしている日々、なおもそれは続いている。

果してこれは想像力のたくましさからくるたんなる視覚上の錯覚にすぎないのだろうか。精密な機械によって測定した結果、渦動が働く円の大きさは、大体五十メートルとわかった。渦動力の影響範囲外に別の機械を設置して慎重に比較して見た結果でこれらの現象が単なる妄想や錯覚に基づくものでないことは、たやすく立証できる。

渦動力にともなう現象を観察する時、それは電磁気的な性質のものであると思われる。
ふつうの写真機の露出計は光を電気に変え、目盛りに表示するわけだが、この渦動円の内と外では、同じ日光でありながら目盛りに大きな変動のあることを示す。磁針計などは全く用をなさなくなる。

[出典:しかもそれは起った―超自然の謎/フランク・エドワーズ(ハヤカワライブラリ 1963年)

このように、極端に強力な重力の場に立てば、ある人々は身体が何となく重くなったことを感ずるそうです。
また面白いことに、このオレゴン渦動の中心に立った人は、中心より離れて立っている人より
「背が短かくなって見える」のです。これは、二人が場所を入れかえて立つと、はっきりします。
すなわち、中心に立つ方の人はいつも背がちぢんで見えるのです。
この現象は視覚的に小さく見えるのではなく、あくまでも、その人自身がちぢむのです。これが空間の歪曲であり、その中に入った人に重力偏差の力が及ぼされている状態なのです。
また、マンガン、コバルト、ニッケルなどの大鉱床などの上に立つと、妙な感覚に襲われる人もあるそうです

重力波地図

ここまで考えてくると、地下水脈だけではなく、鉱脈、あるいは、マグマ(溶岩)のような火脈、あるいは高い山、低い海溝などによって、地球上には、重力波の強弱の分布図が出来る筈です。
そして、これこそが、渡り鳥や回遊魚が、誤りなく目的地へ旅をする鍵であると考えられるのです。彼らは、重力波の変化を読みとる感官を備えており、その地図を記憶することもできるのです。
地球の中心は、より集まろうとし、例えば原子核は電子と結ばれようとし、空間はそれをへだてようとし、空間歪曲が生じ、それが重力波を作り出している、ということが解りました。

集まろうとするのは「求心」であり、へだてようとするのは「遠心」です。そして、この求心も、遠心も物体に回転現象を起こさせるのです。
その回転とは「自転」と「公転」です。すなわち、地球でいうならば、自らが回転し(一日)、そして、太陽の回りを回転する(一年)のがそれです。
自転は求心により、公転は遠心によって起こされるものと考えられます。すなわち、求心は物質化への欲望であり、遠心は空間化への欲望と考えられるのです。
求心は陰であり、遠心は陽です。

これはつまり、前者は「物質化」であり、後者は「空間化」への力を示すものです。この二つの相反する力と、その均衝を保っている状態こそ、この宇宙の存在原理であります。すなわち私たちにとっての実在とは「粒子」と「波」の離反と相引の上に成り立っているのです。この原理は、私たちの日常の生き方にも大きな教訓を与えるものです。私たちは、あまりに自己中心的になれば、それは求心的であり、また、他者についてのみ考えすぎていれば、それは遠心的になりすぎてしまうのです。ただ、この世の中では、求心的な人の方が圧倒的に多いことも事実ですが……。

求心か遠心のどちらかが強すぎれば、実在のためのバランスは崩れ始めます。それは生命体にある種の苦痛を与えるものとして作用するのです。
「宇宙はバランス(調和)をもって存在している」この原理を、ぜひとも私たちは知り、それを、実生活の上で役立てなければなりません。
ということは、私たちは、より自然的に生きようとすることであり、それは宇宙発現の意志にかなうことでもあるのです。

[出典:唯心円成会伝法講義]

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