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【無能唱元・伝法講義録 086】空無と空間の違い

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相対を超えたるもの

相対を超えたものとは、相対すなわち「存在」が未だ出現せざる以前の「絶対なるもの」です。
実は、この絶対なるものは、私たちの思考領域をもっては、意識の上で捕捉することは到底不可能なのですが、敢えて、論理をもって、そのものについて思索してみようと思う訳です。ではまず次の引用文をお読み下さい。

古代知恵によれば、諸世界、人間、あらゆるものや生命の木、我々が神と呼ぶところの知性、理性、創造力などが存在に入る前にただ一つの空無のみしかなかったという。
その空無の中には何ものも存しなかった。光や闇もなかった。もし、そこに光と闇とがあれば、二つのものが存在したことになるのだから、空無には光も闇もなく、その中間の何ものもなかった。

そこには運動もなければ非運動もなく、理性もなければ知性もなく、意識もなかった。そこにはただ、古代知恵の教師たちが。大空無(ボイド)、つまり、我々が存在物としているものは何もない状のみがあったのである。

それでも、その空無は、中心も周囲もなく、有限でも無限でもなかった。というのは、これらのものは、存在と原因とを含んで存しているからである。むしろ、わたしは空無なんて存在しなかったというべきであろう。空無といった様なものが存在したといえば、すぐに無のものが存在したという矛盾に陥ってしまうのである。我々にはとても記述しえないものを記述しようとしているのである。そうであってそうでないものを比喩し得る様なものはこの宇宙には存在しないからである。

古代の教えによれば、空無はただ一つの特性、唯一の特性のみをもっていたという。それは空無自身が空無自身に対する圧縮で、それは空無自身内のみのことであった。すなわち、空無には、形も知識も中心も周囲もなかったが、その真の非存在が自己自身に圧迫を加えていてそれが点となるまで続いたのである。この点、小片は、我々が慣性と呼ぶ力の圧迫によって存在化したのである。
慣性の例でいえば、空無の空無自体に対する圧迫は、それ自身、真の非存在であるもの自己自体に圧迫を加えて点となったのである。

圧迫がどの面にも均等だったから中心が形成されたのである。空無はそこに中心点が形成される前からあった。そこに中心があり、点があるには、圧縮がなければならなかったし、動きがつくり出されねば、最初の動きが表面化しなければ点は表われなかったのであるから、その点は存在の中心だったのである。この最初に表われた点、空無の基本的顕現が人間が数千の名称をつけているところの神なのである。

この一つの点、一つの動き、一つの基本的基礎が無から存在となり、後に形成創造造形されたすベてのものの基盤となったのである。この運動がひろがり、運動のあるところに空無がなくなったが、空無の空無に対する絶えざる圧迫によって、この点、動きが絶えず送り出され、動きのあるところには空無がなかったのである。わたしはここで圧迫するという語を使ったが、それはしかし、正確な用語ではなかろう。動きのあるところに空無はないし、動きの表われているところには空無がないのである。わたしは、圧迫されるという用語を使うがそれは正確な用語ではない。空無は運動のあるところには存しないのであり、運動が大きくなり、拡がるにつれ、それが光となったのである。それは地上的光ではなく、人間が霊光とか光の聖なる精髄とか呼ぶところの原初的光、基本的光なのである。これを光の聖なる精髄(エッセンス)と言うのは、これは、人間が霊光と呼ぶものの前からあり、その背後にあるものだからである。

[出典:「カバラの真義」M.ドーリル]

この引用文の中で、特に注意して頂きたいのは
「動きのあるところに空無はない」としている点です。

これは、私たちが存在する世界は
「すべて動のみが存在の意味である」ということになると思います。つまり、宇宙には静止がないのです。宇宙はすべて運動しており、そして運動していることが宇宙の実在を表現しているものです。
「静止」と「空無」は同義語です。すなわち、「動」のみの世界にある私たちは、空無について知覚思推する能力を持たないのであります。

この場合の「動」とは、陰陽の二元対極の発生として生じているのであり、逆にいえば、空無から生じた陰陽への分裂こそ、宇宙の発現であり、その発現そのものが「運動の連続」であるといえましよう。

この意味では、私たちは、動のみの世界に生きているのであり、その故に、私たちは空無についてのみならず、動の意味さえも明確につかめてはいない、と思えるのです。これを次のような比喩で説明してみましょう。

生まれた時から、光を見たことのない人は、光を知らないだけではなく、実に、くらやみをも知らないのです。何故なら、くらやみとは、光に対比した時のみ認知し得るものだからです。
このように、私たちは、動のみの世界にあってその動の意味や実体について、究極的には知っていないのであります。

空無と空間は異なる

実際のところ、空無は、この動の世界にもあまねく存在しているのです。しかし、ここでいう空無と「空は間とは異なっているもの」なのです。
「空間とは物質のもう一つの顔である」ということは、今までにくり返し述べてきました。
空間とは、いいかえれば、それは動いているもの、すなわち「波」なのです。
そして、波は粒子(物質)に対峙し、そして、しばしば、波は粒子に変貌し、またその逆の状態(粒子は波に変貌)を生ずるのです。
しかし、空無は、波と粒子(空間と物質)が未だ生じない前の状態です。
さきほども言いましたとおり、空無は私たちの宇宙に偏在しております。そして、その空無を私たちは決して見ること、あるいは知覚することはできません。しかし、知覚ができなくても「その存在を肯定できる」ある現象があるのです。
それは、車輪の中心です。

回転する車の真正の中心は、まったく幅のない、ただその存在のーヵ所を示す「一点」です。この点には、いささかの量も幅もありません。しかし、その中心に、かりにペン先きで黒い点を描けば、それはもう、完全な意味でも中心ではなく、それは小さくても、黒い円形の模様であり、そしてそれは回転しているのです。真の中心とは、まったく動かないところです。そして、これこそ、一切の量や運動を持たないところの「空無」なのです。
このように、私たちは、そのものを、ゼロである故に決して見ることは出来ないとしても、その存在を確認し得るのであります。
空無の点は、無限に、常に存在しており、それが、中心となった時、波動と球とその回転運動を発し、これが宇宙存在となるのです。

万有引力説は生きている

ニュートンの万有引力の法則は、アインシュタイン以来、しきりといわれる空間の歪みをもととする理論で、否定し去られたように現代では思われているようです。
しかし、当会の現在における仮説では、依然として、万有引力説を部分的に認めているのです。
ただし、それは部分的にであって全体的にではありません。
空無より発生した球体は、より大きくなろうとし、陰子を中心の陽子核に引き付けようとしています。これが求心力であり、万有引力の意味するところです。
ところが、空間は、この二者の間にとって入り、陰子を無限のかなたへ追放しようとします。つまり、この場合、球体の中では、空間は外側へ向かって波動を送っていると考えてもよいでしょう。

しかし、球体の外側では、本来自分の在るべき位置から、粒子によって押し出された空間は、その復元力をもって、球体を外側から圧迫します。これがつまり「重力波」です。

ですから、中心核に対して、陰子は、中心核自身の求心力によって引きつけられているのですが、これはまた、この陰子の公転によって表象された球体の外側のもの(球体の表皮にあたる部分)が、空間の重力波によって、その球体内へ押しつけられているのです。

これを、原子の姿で考えると、その中心核も同様に「球体」として捕らえることもできるのです。
すなわち、これも更に小型の原子として、同じようになってくるのです。こうして、遂に、究極の粒子というものは存在しなくなるのです。なぜならば、そこは遠心力としての空間の存在しなくなった地点であり、空無としての中心の一点あるのみということになるからであります。

[出典:唯心円成会伝法講義]

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