無能唱元

【無能唱元・伝法講義録 087】無への回帰願望

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先回は、自己の霊格を高める方法は、幸福感に満ちた人生を創造することにある、と述べました。
これは言いかえれば、生きる喜びを追求するという意味であり、生存本能の肯定ということになります。
この反対に、生存本能を否定すれば、霊格は低まります。
しかし、そこにおいて、霊の進化向上はストップしても、不幸感ばかりがそこにあるのではなく、そこにはある種の快感さえもあるのです。そして、この点にこそ、私たちは最も注意しなければならないのであります。
ここでまず、次の引用文を読んでみて下さい。

日本人に話題を呼んだ「自殺論」
大正のはじめ、日本の知識人、学生のあいだにショーペンハウアーの「自殺論」は話題を呼んだ。
そして若い男女のあいだに自殺が行した。
ショーペンハウアーの「自殺論」は、彼の哲学の根本思想である「生きんとする」の否定に関連するものであるが、その結論は自殺について否定的なのである。
ショーペンハウアーは、まず万物の基礎となるものを意志と名づけ、その究明を自分の哲学の中心においた。彼によれば認識される一切の世界は単に主観に対する客観にほかならず、全世界は単なる現象であり、表象である。

しかし、これはいわば氷山の一角に過ぎず、認識されない世界の最も内的な本質、いわゆる物自体は生きんとする盲目的な意志である。これはおよそ生あるものにとって、直接確実な事実であり、われわれの肉体もこの意志の客体化にほかならない。

生きんとする意志は、無生物の中にも、動物の中にもあらわれるが、特に人間にあってはまず性(種族の保存)、食欲(個体の保存)、そのほか野心、憎悪などさまざまな欲望に客体化される。

しかし、そうした生きんとする意志に駆り立てられた人間はまことに不幸であり、常に苦悩する。
生きんとする意志は、快楽や物欲を求めているのに、求めるものはほとんど得られず、したがって人は苦悩しなければならないのだ。

それではこうした苦悩から離脱するにはどうしたらよいのか?生きんとする意志を否定するほかはない。セックスの満足を求めず粗衣粗食の禁欲生活に入るのが一番である。

原始仏教の僧侶や、中世キリスト教の修道僧などの生活を現代人は見習うべきなのだ。
そうすれば、人はすがすがしい気分にひたり、我欲の追求をやめ、他の苦悩している人たちを救おうという気持にもなるのだ。

その境が浄化されると、ついに欲望も野心もない聖者の境地に立つようになれる。

自殺を肯定しなかったショーペンハウアー
ところが自殺はこれとは全く逆で、意志の否定ではなく、強力な意志肯定のあらわれである。
自殺者はほんとうは生の快楽や物欲を求めていたものである。しかし、それが得られないために、大きな苦に陥り、そこで「ままよこれまで」と自殺に走ることになる。
自殺者は、自分の肉体を破壊することはできても、物体である自分の生きんとする意志は全く破壊されてはいない。
自殺者はむしろ、苦しみを求める宗教的な生活に入ればよかったのである。

ショーペンハウアーはこのように説いている。これは明確な"自殺否定"である。
彼は自定者ではなく、むしろ否定者といえよう。

日本を変えた思想」金森誠也 かんき出版

ジョギングを続けていると、苦しさがつのってきて、もうこれ以上走れないと思うとき、ふっと楽になってきて、これが快感にまでなることがあります。
これは、脳内から一種の麻薬性物質が供給されて、苦痛の極限状態を救うのです。
この時の快感のとりこになり、ジョギング・マニアになる人さえおります。

座禅なども、公案などにとり組み、長い間、疑問と戦っておりますと、それが氷解した瞬間、この脳内麻薬物質の急激な分泌が起こり、例えようもない快感におそわれ、歓喜のあまり踊り上ってしまう人もあり、これが悟り体験と呼ばれているのです。

ヨガの作業に、瞑想ヨガとして、チャクラの開発というものがありますが、これも体内に生じたある分泌物質が体内における爆発的体験を生じさせるものと考えられます。ヨガの場合、この体験は、クンダリーニという抽象的物質あるいはエネルギーが、尾底骨あたりに、眠っており、それが目覚めて、脊髄にそって上昇し、各チャクラを次々と目覚めさせて、遂には脳天のサハスラーラ・チャクラに至る、といっております。

クンダリーニとチャクラについて

目覚めの状態
クンダリーニは、これまでもたびたび述べてきたように、意識体験(サマーディ)に非常に大きな役割を占める「神秘な力」であり、人間の体内に潜在する宇宙の根源的なエネルギーの形態であるといえよう。すなわち、自然界を生みだした根元力、あるいは宇宙創造の原初初の力なのである。

この根元力は宇宙の絶対界から顕現して森羅万を創造した後、再び絶対界(シバの世界)との結合を求めて静かに眠る神秘なエネルギーは抽象的で神秘のベールにつつまれたものであるが、その解釈の差異にもかかわらず、その体験を語っている者、先駆者、ヨーギは数多い。
したがってわれわれは、その指示により実践することで確認することが可能なのである。
クンダリーニは、ムーラダーラ・チャクラに連結しているスシュムナの起点に、三角形で三半半トグロを巻く蛇の形態で眠っている。

しかし、呼吸法や瞑想などによって、ひとたびクンダリーニが目覚めさせられると、スシュムナの中に入り、その中を上昇しながらチャクラを次々と活性化させ、上部のサハスラーラ・チャクラまで上昇していく。そのとき、われわれは、意識に目覚め、究極の境地に到達することができる。

通常、クンダリーニは、たんなる潜在力として眠っていて、スシュムナの口も固く閉ざされている。しかし、これが目覚めたときは、普通の状態では経験できないさまざまな体験をするようになる。

次に述べるような体験は、クンダリーニの目覚めと直接に関係があると考えられる。

・尾骨のあたりに熱を感じて、何ものかが脊髄を伝わって昇ってくるような知覚体験。
・脊髄に沿って蟻が這いのぼるような触感、チクチクする電気的な感覚を皮膚に生じる。
・脊髄の中を熱湯または冷水が昇ってくるような感じ。
・雷鳴のような音、鳥のさえずり、ドラムやシンバルの音、蝉や虫の鳴き声など、実際には何の音もしていないのに体の内部や周囲にはそれらの音が聞こえてくる。
・体中が火につつまれ、燃えるように感じ現象を起こしたりする。
・脊髄に沿って白く輝く光や、全身が炎につつまれるヴィジョンをみる。その他、さまざまな幻覚。
・突然、身体が空中に浮遊しはじめたり、持ち上げられるような現実をともなった錯覚。
以上のような体験は、当事者にとって、まったく思いがけない場合に起こることも多く、何が起とったのか皆目見当がつかず、むやみやたらに恐怖のみに襲われることもある。
だが、クンダリーニの存在と目覚めの現象を正しく認識していれば、何の危険性もないのである。

---中略---

クンダリーニの目覚めのもう一つの形態は「発光状態」である。それは、鮮明なチャクラの輝きとクンダリーニのヴィジョンをともなった体験である。
チャクラが完全に純化され、準備が整ったとき、クンダリーニは自動的に目覚め、チャクラに美しい光の輝きが現われる。
また、クンダリーニの完全な目覚めは、次の三つの状態が完全に実現された場合であるという。

1.プラーナの上昇
2.プラーナの上昇にともなうエーテルの音神秘なアナハタの音を聞くこと。
3.チャクラの光を見る。

以上の三つの状態を体験すると、はじめて超意識(サマーディ)への扉かれたことになる。
ひとたびクンダリーニの完全な目覚めがなされたあとは、瞑想のさまざまな障害は取り除かれ、究極の境地により直線的に近づいていくことになる。そして、体内に目覚めた光を頼りに、われわれはさらに精妙な内宇宙の奥深く入っていくことができるのである。

[出典:「瞑想術入門」山田孝男著 大陸書房]

以上のようなヨガ瞑想における、クンダリーニの上昇や、チャクラの発光ヴィジョン体験について、当会は次のような見解を有しているのであります。

①クンダリーニやチャクラなどの肉体的器官は存在しない。それは、あくまでも抽象的観念そのものである。
②しかし、その抽象的観念は、肉体上に具体的現象を起こすのも事実である。

要するに、これは幻覚体験なのです。しかし、それは同時に、肉体に大きな影響も及ぼすのであります。例えば、尾底骨下のクンダリーニが目覚めたのだが、その上のスシュムナの関門がうまく開かず、尾骨の辺にヤケドを負ってしまい、あとに傷ができてしまったなどの報告があります。
しかし、これも、催眠術において、エンピツを焼け火箸であるといって、腕に押しあてた時、被術者は、「アツイ!」といって、手を引っ込め、そのあとがヤケドのように赤くなってしまったと言うことがありますが、これと照らし合わせて考えると理解されることです。
クンダリーニも、チャクラも、そしてまたプラーナ(気)も、幻覚的知覚をもって体験される概念です。
ですから、それは、あらかじめ、ある器官として、肉体的に設定されてあるものではないように思えます。しかし、この概念も、幻覚的知覚となって現れた時、それは肉体的に、ある器官的なもを創造させたといってもよい、と考えられるのです。

つまり、ヨガのこの手法によって、ククンダリーニ上昇や、チャクラの発光を体験し、サマーデ(至福の悟り)へ達することは可能なのであります。ただし、このような瞑想においても、怖れや危惧の念をそこに付随させてはならないのです。
なぜならば、すべては観念によって生ずる体験ですから、怖れをもてば、その怖れも具現化してしまうからなのです。

人によっては、よく、
「クンダリーニ瞑想は危険であり、良き指導者がなければやってはいけない」などという人がありますが、これは一つの否定暗示にしかすぎません。しかし、心弱い人は、このような否定的な言葉にも影響されてしまい、
「クンダリーニが、まで上ってしまったが、首でつかえてしまって下ってこれなくなり、頭が火のように熱い」などとか、
「チャクラの発光が濁った色になり、内臓の調子がおかしくなった」などというようになることもあります。

すべては観念のなのです。だから、私たちは、自分が主人であるならば、その観念も自由にあやつって、肯定的な方向へとむけることは、だれでもが可能なのであります。
断じて、私たちは、観念を主人とし、それにあやつられてはなりません。

[出典:唯心円成会伝法講義]

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