無能唱元

【無能唱元・伝法講義録 089】自己利益と自己福祉

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今回は「霊の力」というものについて、少々考察してみたいと思います。
すでに学徒のみなさん、ご承知のように、当会における、霊についての考え方は、「それは生命を維持する根元的基体である」ということです。
すなわち、それはまず、肉体的生命を発現し、かつ保持させている、ある力または意識のことです。それで、この霊の力が、ある理由で、うまく発揮されないと、まず、肉体存続状態に歪みが生じます。つまり病気です。

心霊手術について

フィリピンで行なわれている心霊手術の真贋について論争が始まってから、かなり久しいのですが、私がテレビでの実況を見たかぎりでは、あれはトリックであると思います。
にもかかわらず、この心霊手術で、ガンなどの重病患者が治ることも多いのです。これは、いうなれば、古来よりいわれる「神癒」と呼ばれるものの一形態であります。たとえば、キリストなどの幾多の教祖が、手をふれただけで、病人を治してしまったこと、また、ルルドの泉の奇跡のように、その泉に体をひたしただけで、長年の病いが全快してしまったことなどがそれに当たります。

体内に居る二人

心霊手術も、手でふれることも、奇跡の泉も、そしてあらゆる宗教に共通する祈りも、すべては、ある演出効果を高め、それを真実感をもって当事者に信じさせるための有効手段なのです。
ギリシャの古い諺に
「体内に医聖あり」という言葉があります。この言葉の示すとおり、真に身体を治すものは、自分の身体の中にあるのであり、それを助ける手段として、薬その他の療法が外部にあるのです。
しかしながら、このギリシャの諺の反対に、
「体内に病気製造者もある」ことに、案外、人々はきづいていないのです。そして、これらの人々は、それと氣づかないままに、自分の体内におけるこの病気製造者の跳梁を許してしまっているのです。

神癒とは?

私の知りあいの奥さんが、最近ガンが再発し、もう駄目だという話を聞きました。
実は、この奥さんは五年前に、フィリピンへ行って心霊手術を受けているのです。そして、その時は、本当に良くなったのです。以来、この心霊手術の体験を人に語っていたのですが、五年たって突然再発し、今度はもう全く見込みがなくなってしまったのです。
ある人は、これを、それは実は再発ではなく、五年前も完全には治っていなかったのだ、といいます。それは潜伏的に進行していたのだろうともいいます。一々もっともですが、私の考えは少し違います。

彼女は五年前の心霊手術で、実際に良くなったのだろうと思います。ただ、そのあとのアフター・ケアがうまくなされていなかったのだろうと思うのです。
いわゆる「神癒」というものが起こる条件は、まず、その人の心身が完全に「解放的」であり「受動的」である状態を必要とするのです。私たちが無意識の内に行なっている日常的思考というものは、この反対のタイプのものです。すなわち、それは「閉鎖的」であり「能動的」なのです。
そして、それはしばしば、不安、怒り、後悔などの暗い考えに落ち入りやすく、そのような思考の時間帯には、体内の病気製造者が、有害物質を、せっせっと生産しているのです。

自己利益と自己福祉

人間が生存本能をもって追求するものは二つに分けられるのではないかと私は考えます。
それは「自己利益」と「自己福祉」の二つです。前者は人生における「生活的な面」を、後者は「生命的な面」を意味します。この二者は共に大切なものですが、しかし、生命のないところに、生活があるわけがないのですから、自己福祉は圧倒的に自己利益に優先されるべきだと思えるのです。

この世の中には、仕事が忙しいからといって、自分の健康への十分な配慮を怠る人がいますが、これは大きな誤りではないでしょうか?
「命あっての物種」と昔の人はいいましたが、これは本当だと思います。
では、自己福祉を優先させて、体内の医聖に働いてもらうには、どうすれば良いのでしょうか?
その答えは、次ぎの言葉に要約されましょう。

「心身を完全にリラックスさせ、そして、健康を夢見よ」

その方法には、神仏への祈願があり、催眠術(心霊手術を含む)があり、瞑想があり、そして、広義にいえば、ハリや灸、手あて法、呪術マジナイの類までがそうである、と私は思うのです。そして、それが大きな効果を発揮するためには、いずれの場合も、「完全に解放的かつ受動的になる」
ことが必要なのであります。

霊動法

禅や瞑想、あるいは自己催眠術は、ーロにいえば、静寂の内に、真我を体得し、その力によく通じようとするところにあるといえましょう。
ところが、日常の生活意識を弱めて行き、意識が開放的かつ受動的になると、突然、身内からある衝動的な動きが発生し、無我的な躍動が始まる場合もあるのです。
ある人はこれを
「動の瞑想」と呼び、またある人は
「霊動法」とも呼びます。では、この霊動法について、次ぎの引用文を参考としてみて下さい。

古い人ならば知っているように、大正から昭和へかけて「本能法」と言われる一種の霊動法があって、病気治療に大変役立ったといわれている。これは健康法の領域で発達した霊動法に過ぎないが、一方では「鎮魂法」として宗教的次元でもやはり霊動法が採用されたのである。しかし原理は両者とも全く同じことでしかないのであった。

人間は病気になっても自然治癒力というものがあるので、軽症ならば大した服薬治療を加えなくても全治するものである。自分の体は自分が一番よく知っているわけであろう。だからブラウン・ランドーンが考えたように、患者を一室に放置したままにすると、自然に動いてみたくなって体が動く。それも半ば無意識のうちにである。それが天然に備わる自然良薬なのであって、その湧起する運動を本能法と名づけたのには、それなりの意義があったのである。神経医でもあったらしい博士は、病人を何も置いてないガランとした部屋の中へ、投げ込むようにして放置し、自然に湧き起る運動に任せて治療の実績を挙げていたのである。それは一種の特殊な意識状態であったと考えてよいが、霊動と称した所以もこれによっておよそお判り頂けると思う。当事者にとっては、その自瘉運動が自分の意志によるものではなく、何か他者の別な意識に支配されて起るものらしいという実感が伴うものである。

人間の意識は深層心理学によると、表面の顕在意識と共にもうひとつ内部の潜在意識というものがある。顕在意識は脳波で言えば30~14サイクル、ベータβ波がそれに該当し、以下は潜在意識の領域となる。因みに、アルファ波が13〜7、セータθ波が6〜4、デルタ波が3~1サィクルである。セータ波が出るようになると眠くなるもので、デルタ波は熟睡の領域に入る。瞑想の場合は覚醒の状態でセータθ波までを出すわけであるが、デルタ波だけは目ざめた状態で出したというヨーガ行者のいることを知らないと言われる。霊動中の脳波といえどもアルファ波までは容易に落すことができるし、セータθ波も霊動から瞑想の境地へ入った段階では出せるに違いないと思う。いずれにしえても潜在意識へ沈潜するわけであるから、特殊な意識伏態と称しても差支えない。

この段階で霊動が誘起するものである。最初はベータ波の状態から動き出すかも知れないが、真の霊動らしきものが湧起するのはアルファ波以下であろうと考えられる。ところで潜在意識というものは、外界の刺激を受容するのみで、論理で言えば演繹だけの世界であり、帰納法は行使することができない。したがって、この意識領域は暗示を受け易く、他律的に操縦することもできる世界である。他者の意識に牛耳られているような気がすると言ったのはこのことに他ならない。体験してみれば判るように、霊動で半ば無意識の運動が誘起される状態というものは、何者か他者に動かされていると考えられる伏態である。その辺の心境は甚だ微妙で第三者に伝えるのは難しいと思われるし、やはり実地に体験して頂くより以外に途はない。

---中略---

健康法として入った霊動法では、初めの段階でドタン、バタンの激しい巡動が繰り返されても、それはそれでよいのである。自意識も残っていることであるから、止めようと思えばいつでも止められるが、自我の意志で勝手に止めてはならない。必要とあらば、ヨーガや太極拳のポーズも出てくるが習ったことのないものが現われても不思議ではない。しかし粗い波動が次第に精妙な波動に変ってゆくのが霊動法の通軌で、動から静へのコースが必然的なものである。また、静から動へと移って繰り返されることもあるが、次第に動作は目立たぬようになってゆくものである。そして動きがピタリと静まった状態で、心の内側から閃くように智慧の光が湧いてくることもあり、今まで分らなかったことが不意に謎でも解けるように分ってみたりするということもある。霊動の最終段階では深い瞑想状態が現れることもあるので、霊動法は単に健康管理の域に留まるものではなく、当人にその気があって深入りしてゆくならば、その先に幾らでも高次の神秘体験の領域が続いていることを知らなければならない。

[出典:「ヨーガ霊動法」中野裕道著、日貿出版社]

瞑想における静と動
「静の瞑想」(普通の瞑想)にしろ、この「動の瞑想」にしろ、その導入法は、まず「五感知覚の抑制」から始まります。
その方法は色々ありますが、それが静的なものであり、心身の興奮状態を静めて行く点では一致しております。
その結果、大脳にある制止状態が生じ、運動神経が、一時的に身体各部の筋肉と遮断されたような状態になります。すると、各筋肉の自律神経は、独立性あるいは自由性といったものを得た状況下に置かれるのです。
ですから、それは、静のまま放置されれば、それは更に深まって行き、「静の瞑想」となり、反対に、ある刺激が加えられれば、それが呼び水となって、いわゆる「霊動」と呼ばれるものになるのです。
静の瞑想では、脳波はゆるやかなアルファ波を示しますが、もっとこまかい波動で、日常生活における思考波動と良く似ていることが多いのです。
これは、催眠術の場合にも、あてはまる現象で、自己催眠、あるいは瞑想、座禅などの場合は、脳波はアルファ波形ですが、他者催眠(他人にかけてもらう)の場合は、細かいベータ波であることが非常に多いのです。
しかし、脳波はたとえ、こまかい波形であっても、大脳制止のかかっている状況下でのそれは、日常生活による思考波の場合とは異なるものと想像されます。
なぜなら、それは、脳波がアルファであれ、ベータであれ、その両者がトランス状態(没我的)にある点では共通しているのですから……。
では、なぜ、このようにアルファ波とベータ波の違いが生じてくるか、という疑問がおきてくるのですが、これについては次ぎのように考えることが出来ます。
自己催眠や瞑想では、大脳に制止はかかっていても、自己の意志の分野は覚めております。

意志が脳波をコントロールする

この自己の意志が、自分の思考活動をリモート・コントロール的に抑制し、それを静めますので、脳波はゆるやかに大きい、そして一定化したアルファ波を生み出すものと考えられます。
これに比して、睡眠、他者催眠、霊動法には、この自己の意志は制止がかかっているので、思考活動を静めようという意志が働いておりません。それで、脳波は日常の覚醒時と似たベータ波になりやすいのです。
しかし、これは変動しやすいのです。すなわち、ベータからアルファ、また更にゆるやかな波形
などへと変化しつつあることが多く、要するに不安定なのです。
それで、この様な状況下では、他人の言葉や思考の影響を非常に容易に受けやすくなっております。この時、良い暗示あるいは明示を与えれば、その人の心は静まり、脳波はアルファ波形を生ずることが想像されます。また、その反対に、心を興奮させたり、悩ますような言葉を与えたなら、脳波は日常のベータ波よりもっとこまかい波形を生ずるかもしれません。
一般的にいって、このような情動の不安定をもたらすベータ波は、休息を得ようとする催眠時においては望ましいものではありませんが、しかし、催眠時には、大脳には制止がかかっているので、そのベータ波の緊張的影響は、日常生活のそれと違って、はるかに低下していると考えられます。
つまり、脳波はべータ型でも、それはアルファ的リラックスが、他者催眠また霊動法にも働いているのでしょう。
いずれにしても、他者催眠や霊動法の脳波は変容しやすくこれは施術者が常に心して、相手の心を安らかな方向へ導くように努力しなければならないところであります。

密教における霊動法

呪文を唱えながら祈りつづけたりしておりますと、次第に声が高く大きくなったり、また身体が震えたり、大きく動き出してくることがあります。
これは霊動法の導入部であると考えられます。
また、神道の祈祷や、密教では、いろいろなマントラを唱え、手で印契を結んだりする秘儀がありますが、これは、この自然的霊動を定型化したものとも考えられます。

無相の三密

由来、真言密教では、身・語・意の三密ということが言われてきた。印を結び、真言を唱え、本尊を念ずるという一定の型がそれであるが、既に型ができている以上は有相の三密というべきものである。この密教では真言宗のそれに全く価値を認めていない。型を破った三密が霊動中に出てくるが、それはもう三密という形式には該当しないものであり、私は有相の三密に対して無相の三密と呼んだが、後になってこのような言葉がやはり真言宗の教学の中にあることを知った。

それは高神覚昇師が「密教概論」の中で言っているような「有相の三密が円成された境地」と称すべきものではなく、無相は初めから型がないのであって、有相の段階が次第に無相になってゆくというものではない。六次元研究会の山本健造氏も次のように言われている。

「曽て私は、結印と咒文について、自らの機関誌上に書きました所、それら形式に神通力があると信ずる人々の間で問題が起りました。これは古の悟った行者や大師は、結印や咒文に拘らず無相の三密であったが、七世紀頃から悟っていない人々を指導する方便として、結印や咒文に一定の形式を定め、有相の三密として伝えたのです。その後も悟った人は形式に拘らず、無相に還ってゆき大成したことを、詳しく説明しなかったのが悪かったのだと思います」

氏の説明によると、一心不乱に患者の病気平癒を祈念しているうちに、止むに止まれぬ気持になって自然に手足全体が動いてくるのが「身密」であり、ロで「あなたの病は治る、病のない本来の姿に立ち還れ、治れ、治れ!」と叫びつづけていると、最後にはロも手も足も動かず、心の奥底で叫びつづけるようになってくるのが「ロ密」であり、心のどん底でこのように深く念じつづけるのを「真密」と称するのだと言われているが、自身の体験に振り当てた三密の見事な解釈であると見てよい。三密が合致したとき、すばらしい精神統一状態に入り、神通自在になるともいう。しかし凡夫の身・ロ・意は三業と称して、密教入定中の三密とは区別して扱うのが、真言教学の建前のようである。多年にわたって祈祷修法を手がけてきた霊能家の山本氏は、更に続いて次のごとく言われる。

「病人の状態や、牛馬の苦しむ状態、その他、念ずる目的の内容により、自然に手足全身の動きや念ずる言葉や念ずる心の内容は様々に変化し、目的に合致するように、その場その時に応じて変化するのも自然であり、本当の神通力はこのような状態において現れて参ります」

無相の三密ということになると、必ずしも印契を結んだり、マントラ(真言=咒文)を唱えたりしない。およそ一切の作法を超越して現出するものである。だから修法中に、催すがごとく自然の動作が現れるのをよしとするものである。かつてアナンダ・マルガ協会を訪れた際、ギリジャと名乗るオーストラリアの美しい尼僧が、私の質問に答えて少しもためらわず、印相は自然に出てくるもので、こちらで工夫してするものではないと言われたのに驚いたことがある、余りに淡々として解答されるのみか、しかも本当のことをよく知っておられるのに感服したのであった。更に深くこの人に訓えられたかったが、台湾へ行かれて二度と会う機会を得なかった。この辺のことは弘法大師も『大日経開題』の中で融通無礙の活釈をしているのが注目されてよいだろう。

1、ロを開き、声を発すること、真言にして罪を滅す。(語密)
2、手を挙げ、足を動かすことは、印契にして福を増す。(身密)
3、心の起きる所、妙観自ら生ず。意の趣く所、等しく接すれば、即ち成る。(意密)

また高神覚昇師も次のごとく述べられている。
「有相より無相へであって、無相の世界に到って初めて我等凡夫の三業はそのまま仏の三密となり、衆生の三密は仏の三密と彼此渉入し、所謂、仏我れに入り、我れ仏に入り、茲に於て、我等は如実に凡即是仏、仏凡一体の心境を味ひ得るのである」(「密教概論」一〇〇頁)

ただし、ここに引用した師の解説は、まだ「有相」に執われたところがあり、必ずしも適切な説明であるとは言いがたい。何となれば、有相の三密から始まって無相の三密へ至るというコースは、実際にやってみるとほとんどあり得ないからである。無相の場合は初めから作法がないのが普通で、また現象としていかなる動作が現れ来っても、それが三密であると意識することもないのである。

霊動中に現れる印相などは、次から次へ千変万化していかなる形が出てくるかも分らず、再度の同じ演出などは到底不可能なことに属する。
霊能力をもった治病の達人が患者に手を触れて治すという場合には、その動作がことごとく霊動であって、三密の規則に叶っているものといってよい。現に山本健造氏も結印や咒文を使わずに、多くの病人を実地に治祕せしめてきたという経歴をもつ。

したがって密教の瑜伽行の場合も、三密の形式は全く意に介しなくてもよいわけで、行ずる最中に意識の中へ何が登場してもロ密と心得てよいであろうし、また何か喋りたくなって発言をするのは語密と受けとればよく、自然に寝たくなってゴロリとなればそれも身密であると考えてよいのである。ひとたびスタートを切って霊動法が開始されたら、身・語・意の三密は意識せずとも現成するのだという道理をよく心得ていてよいであろう。

霊動法は体験した人なら誰でも分ることであるが、自分の意識はありながら、しかも何か他者の意識に操られて動いているようなところがある。その比率を正確に測定する方法はないが、自他の意識が仮りに半々で雑り合っていると考えてもよい。なかば無意識で体が動き言葉を発しても、自分がそうしようと思ってするのではなく、また自意識で方向を変えようと思ってもできないことが多いのである。仔細に観察すると、動物性神経と植物性神経との中間に当る神経作用のようでもある。それはどこか呼吸とよく似ていて、止めようと思えば止めることもできるが、止めようと思わない限り、自動的に行われているといった感じである。

それは水車に譬えることもできるであろう。水の流れに何分の一か浸っているからこそ車輪は廻るのであって、全部が水に浸ったら水流の力で押し流されてしまう。霊動法が何パーセントか自意識を残しておきながら、他者の意識とも思われる何者かの意識下に心身を委ねている有様は、この水車の例とほとんど同様であると理解することができよう。

霊動法で大切なところは、自意識が消え去っていないというところである。特殊な意識状態であるが、それを冷静に観察する自分自身というものがあって、何をするのか仕草のいちいちをジーッと見ているので、やがて容易に平常の意識に戻れるのである。これがもし戻れなくなったらそれこそ一大事であって、水車が川と共に流れ去ったようなものである。それこそ自分自身を失ったときであり、俗にこれを気狂沙汰という。

だから半分が自意識、そして半分が他意識と考えてみても、精神それ自体はある種の危険に曝されているわけで、もしそこへ強烈な悪念波や低級霊などが作用しようものなら、たちまち意識が攪乱されることもまたあり得るのである。

[出典:「ヨーガ霊動法」中野裕道著、日貿出版社]

この引用文の最後で、特に注目を引くのは、霊動法においては、自意識のある部分が覚めているべきだと主張している点です。
これは、自己催眠や瞑想と同じく、自己意志の分野を、ある程度、覚めさせておくよう注意しているように思えるのです。
[出典:唯心円成会伝法講義]

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