エッセイ

なぜ生きる(屁理屈バージョン)

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存在の意味。

意味を求める、意義付けをしたがるのは人間の心理の産物であり、人間だけが意味に拘っているように思う。

ネコなんかは、一日中喰うか寝てるかしているわけで、喰ってたれて息して寝てることに、なんの意味を持たせる必要があるのだろうか。

喰ってたれて息して寝てるだけのネコの存在に意味をもたせたがるのは、私のようなネコ好きくらいのものであって、ネコ嫌いな人は見るだけで嫌がるし、存在の意味を見出すどころか、ネコがこの世からいなくなって欲しいと真剣にまじめに思っているくらいなのだ。

ゴキブリだってそうだ。

ゴキブリ好きな人(実際カゴに入れて飼っているそうだ)はゴキブリの存在意義を見出すが、一般大衆は、どうしたらゴキブリを退治することができるかということに意味を求めるわけで、存在に意味を認めていない。

たとい、ゴキブリはこれこれこういう存在する意味があるのだと科学的合理的説明をされても、ゴキブリ嫌い人間は、その意味を認めない。

認めるものか。

『意味』というものは、実在のものではなく、人間のアタマの中にある妄想のようなもので、意味づけはいかようにもできるものだ。

だから、人が生きていることに、なにも意味はない。

人もネコと同じように喰ってたれて息して寝るの繰り返し。

男女士農工商身分の違い、学歴、肩書き、蓄財の大小、容姿の美醜、など差異はあっても人は人。

みな、喰ってたれて息して寝るの繰り返しで生きている。

それに意味などなく、ただ生きるために喰ってたれて息して寝る。

喰えない、出せない、寝れないとき人は永遠の眠りにつくのである。

永遠の眠りについたら肉槐は腐り、現在生きている人のアタマのメモリーから消えてしまったら、その人が存在していたことすら定かでなくなる。

歴史上の人物が本当にいたかどうかも、本当はわからない。

事実は、その人物が現在、この世に存在していないこと。

ただ、それだけ。

過去に存在していたかどうかなんてことは、どうでもいい。

イエスキリストや釈迦が存在していたかどうかなんていうのも確かめようがなく、宗教に関心ない人にとってはいてもいなくても現在生きていることに支障はない。

キリストや釈迦や、孔子とか老子とか、いてもいなくても、聖書や、仏典、諸子百家があってもなくても、今生きてることになんの支障もない。

聖人と称される人の存在意義を見出すのは、その人物を崇めている人たちだけである。

キリスト教とは関係ない人たちなんていうのは、たとえば野グソしているとき尻拭き紙がなかったら、たまたま目の前に聖書の落し物があったとしたら、迷わず尻を拭うだろう。

キリストも聖書も、その野グソ人にあっては存在意義など、尻拭いのためだけにしかないことになるのである。

人が生きていることに、なにも意味はないけれど、あえて意味を持たせるとすれば、何億パターンもの意味づけができるということに意味があるといえよう。

人は何故生きるのか。

それは、人間存在の意味を求めるためである。

それ自体意味がないことなんだが……

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