聖徳太子の謎
聖徳太子以前の日本史
人物が登場しない不幸な歴史教科書
歴史の教科書を開いてみて改めてびっくりするのは、7世紀の聖徳太子以前、日本史にはほとんど「生きた人間」が登場しないことだ。邪馬台国の卑弥呼を除いては、ほとんどが「考古学」や「法制度」にまつわる記述なのだ。8世紀の朝廷が、6世紀以前の歴史を知っていたのに知らぬ振りをしていたことは、「聖徳太子」が証明してくれているのではあるまいか。
聖徳太子は仏教導入に寄与していたのだから、いかにも「聖職者」であったかのような印象を受けるが、実際にはこの人物はまぎれもない「俗人」であり、血なまぐさい現実を生き抜かなければならない「政治家」でもあった。
聖職者でない者が、まるで聖者のように称えられる場合、たいがいは、ろくな死に方をしなかったことが多い。つまり、政敵に陰謀によって葬り去られ、手柄を横取りされた者が、死後崇って出ると信じられ、だからこそ歴史の中で礼賛され、「神」と崇められ方々で祀られるわけである。
ヤマト建国から7世紀に至る時代背景
まず、ヤマト建国が3世紀後半(はっきりとそう決まったわけではないが、だいたいこの時期とみて間違いなさそうだ)で、ヤマトの纒向(まきむく)に誕生した前方後円墳という新しい埋葬文化は、4世紀には東北南部にまで受け入れられていった。このように、4世紀は安定と発展の時代であり、5世紀になると、朝鮮半島に積極的に軍事介入できるほど、力をつけたようなのだ。
なぜこのようなことが分かるかというと、高句麗の広開土王碑文に、高句麗が朝鮮半島南部に食指をのばし盛んに侵略したこと、これに対し、倭国(ヤマト)が朝鮮半島に兵を繰り出し、高句麗と戦火を交えた様子が描かれていたからだ。
このような軍事行動によって、倭国の存在は中国にも認められるようになった。『宋書』倭国伝には、五人の倭王、讃・珍・済・興・武(これを「倭の五王」と呼んでいる)の名を挙げ、彼らは「称号がほしい」と言っていたこと、実際に宋が、称号を与えたことなどが記録されている。
倭の五王最後の武は、『日本書紀』に記録された第21代雄略天皇と同一であった可能性が高いが、この人物は、「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」という長い称号を獲得している。
雄略天皇の王統は酒池肉林をくり広げた暴君・第25代の武烈天皇で絶えるが、どちらも異色な形で独裁色を前面に出し、「悪しき天皇」と酷評されていた。
さらに、武烈天皇亡き後、武烈に男子がなかったことから、皇位継承問題が浮上し、応神天皇の5世の孫の継体をヤマトに連れてきて即位させたという。
このように、5世紀の後半は、「強い王家」と「いまだに強大だった豪族層」の綱引きの時代であったといえるかもしれない。[出典:「古代史」封印された謎を解く(関裕二)]
卑弥呼の正体と邪馬台国の場所
卑弥呼と同一人物説最有力候補
卑弥呼=百襲姫(モモソヒメ)
孝霊天皇の皇女:倭迹迹日百襲媛命(ヤマト トトヒ モモソヒメノミコト)
卑弥呼
『魏志倭人伝』等の中国の史書に記されている倭国の王(女王)。邪馬台国に都をおいていたとされる。『日本書紀』により倭迹迹日百襲媛命の墓として築造したと伝えられる箸墓古墳は、邪馬台国の都の有力候補地である纏向遺跡の中にある。(Wikipedia)
奈良県桜井市の三輪山.北西麓一帯にある纏向遺跡の箸墓古墳というのがモモソヒメの墓であることから、邪馬台国が大和にあったということがわかります。
百襲姫命。母母曾毘売命。
フルネームはヤマトモモソ姫。「ヤマト」は母の名から。
オオヤマトフトニ(7代孝霊天皇) と内侍ヤマトクニカ姫の生んだ三つ子のひとり。
霊能者であったようで、ミマキイリヒコ(10代崇神天皇)の時、オオモノヌシ神が懸かったり、少女の歌の意味を解いたりしている。
後にオオモノヌシ神の妻となるが、子蛇と化して現れたオオモノヌシ神を見て驚き叫んでしまう。
姫はその事を恥じて、箸で陰を突いて罷り、大市の箸塚に葬られる。ヤマトタリヒコクニ┐ (孝安天皇)├────オオヤマトフトニ(孝霊天皇) オシ姫──────┘ ┃ ┃ シギ県主オオメ───────ホソ姫[内宮]───────(7)ヤマトクニクル ┃ (孝元天皇) カスガ県主チチハヤ─────ヤマカ姫[典侍] ┃ トイチ県主マソヲ──────マシタ姫[勾当] ┃ 大和国造 ───┬───ヤマトクニカ姫[内侍]──┬(1)ヤマトモモソ姫 │ (ヤマト大宮女) │ │ ┃ 三つ子├(2)ヤマトヰサセリヒコ │ ┃ │ │ ┃ └(3)ヤマトワカヤ姫 │ ┃ └───ハヘ姫[内侍]──────┬(4)兄ワカタケヒコ (若大宮女) │ 三つ子├(5)ヒコサシマ │ └(6)弟ワカタケヒコ
卑弥呼とは”大物主神の神託を伝える”日巫女のことで、霊力に優れ人々に畏れられていました。大物主大神とは、大神神社(おおみわじんじゃ)の祭神。北九州~出雲~吉備~畿内を支配した神武以前の大和の王:饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)
身の回りの世話をし、神託を外に伝える祭司長:饒速日の末裔伊香色雄(いかがしこお)
邪馬臺国のその後
王位をめぐり再び乱れ伊香色雄の姉である伊香色謎(いかがしこめ):臺與(とよ・いよ)が2代目女王となりました。
伊香色謎は、8代孝元天皇、9代開化天皇と結婚し、開化天皇時代に奈良盆地北部へ拡大、9代開化天皇と伊香色謎の間に、後の崇神天皇(すじんてんのう):御真木入彦印恵(みまきいりひこいにえ)が生まれます。
聖徳太子が聖者として崇められた理由と死の真相
621年、聖徳太子の母:穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が死亡。そのわずか2ヶ月後、最愛の后:膳菩岐岐美郎女(かしわのほききみいらつめ)が死亡。さらにその翌日、聖徳太子自身が、49歳の若さで亡くなりました。
これら死の真相は毒殺という説がかなり有力です。
⇒参照:聖徳太子一族はなぜ殺されたか
では、誰が何の目的暗殺を企てたのでしょうか?
その謎を紐解くためにはどうしても蘇我氏のルーツが重要になってきます。
蘇我倉山田石川麻呂の系図
蘇我倉山田 石川麻呂(そがのくらやまだ の いしかわまろ/そがのくらのやまだのいしかわ の まろ)は、飛鳥時代の豪族。
蘇我氏のルーツ
武内宿禰・神功皇后(170-269年)・応神天皇(201-310年)の関係
武内宿禰の子孫は有力な氏族ばかりです。
羽田矢代宿禰=波多氏
巨勢小柄宿禰=巨勢氏
蘇我石川宿禰=蘇我氏
平群木蒐宿禰=平群氏
葛城襲津彦=葛城氏
紀角宿禰=紀氏
若子宿禰=若子氏
蘇我氏は、武内宿禰の子孫であり、これらの有力氏族は、蘇我氏の親戚です。武内宿禰という人物は、神功皇后、そして子供である応神天皇に仕え一緒に仕事をしていました。突き詰めるとこれらの氏族は、お仲間ということです。
蘇我氏→蘇我稲目→蘇我馬子→蘇我倉麻呂→蘇我倉山田石川麻呂
その娘が天智天皇(中大兄皇子)に嫁いでいるというところがポイントになります。
大化の改新の乙巳の変で、蘇我入鹿を暗殺した中心人物、中大兄皇子の義父が蘇我倉山田石川麻呂でお仲間ですから、乙巳の変で、上奏文を読み上げているわけです。すなわち中大兄皇子と共にクーデターを企てたということです。
娘を嫁がせた中大兄皇子が将来天皇の座についたとき、自分も高い地位に就くことができるという野望から蘇我氏を裏切った人間なのです。
33代推古天皇、そして34代が舒明天皇です。法提郎女の子供が古人大兄皇子です。
舒明天皇にはもう1人の皇后:35代皇極天皇・37代斉明天皇がいます。
皇極天皇の子供が38代天智天皇(中大兄皇子)と40代天武天皇(大海人皇子)。
大海人皇子は、壬申の乱で天智天皇の息子大友皇子を滅ぼします。
34代舒明天皇が、35代皇極天皇、36代孝徳天皇、37代斉明天皇と同じ女性が2回天皇の座に就き、その後38代天智天皇に移るという奇妙な相関図に謎が隠されています。
33代推古天皇と摂政の聖徳太子。推古天皇が亡くなります。天皇候補が2人います。舒明天皇と山背大兄王(やましろのおうえのおう)です。で、結局舒明天皇が皇位を継承するという形になります。その後、奥さんが……という絵図が描かれるわけです。
ここまでわかれば複雑な推理は必要ありません。素人探偵でも舒明天皇とその奥さんが怪しいと見抜けるのではないでしょうか。
大化の改新とは、蘇我氏を滅ぼすのが目的だったわけです。企てたのは蘇我氏に対して敵対感情を持っていた者たちです。例えば物部と蘇我氏が戦っている時に物部側についた中臣氏です。
天智天皇とその腹心の中臣鎌足は明らかにお仲間なのですから、背後で暗躍していたのは間違いないことなのです。ねっちりと計画を練って、ことこと時間をかけてじわじわーっと、時期が来たら一気に作戦決行!と相成るためには、類は友を以て集まり悪は徒党を組む……お仲間づくりが肝要なのです。
ヤマト建国から7世紀に至る時代背景と蘇我氏の台頭
25代武烈天皇亡き後、武烈に男子がなかったことから、皇位継承問題が浮上し、15代応神天皇の5世の孫の継体をヤマトに連れてきて即位させたという。
継体天皇は、翡翠が採れる北陸地方のあたりから来ていることがわかっています。
翡翠と蘇我氏は密接な関係がありますので、継体天皇と蘇我氏が繋がってきます。
蘇我氏は武内宿禰の子孫ですから、蘇我氏というのは非常に新しい勢力ということになります。一方、物部氏にはものすごく古い歴史があり、ニギハヤヒ:邇芸速日命(にぎはやひのみこと、饒速日命)/ウマシマジ:宇摩志麻遅命(うましまぢのみこと)の子孫ですから、神代の時代から続いているわけです。
ヤマトの国というのはすでに卑弥呼の時代から存在し、10代崇神天皇の時には出来ていたわけです、また崇神天皇自身が「出雲の神々がヤマトの国をつくった』とはっきり言っているわけです。出雲の神とは大物主系の神のことです。
ですから、高価な翡翠をと高度な土木建築技術を持つ応神天皇・武内宿禰・蘇我氏の潮流:新参者が台頭してきたということが、とにかく目障りで邪魔だったのです。
律令制度の真相
ヤマト朝廷は各地の豪族層の寄合所帯だった。
だから、朝鮮半島情勢が流動化し、国内問題も山積みになってくると、物事がなかなかスピーディに解決できないという合議制の「負」の面が際立ってきたのだろう。
7世紀になると、ヤマト朝廷は中国の隋や唐で完成しつつあった律令制度の導入を、本気で考え出した。
ところで「律令」とは何かというと、「律=刑法」「令=行政法」でつまりは「明文法」のことだ。律令制度の完成は8世紀の大宝律令(701)まで待たねばならぬのだが、なぜこれほど時間がかかったかというと、律令制度が単なる「法制度」ではなく、土地改革を伴っていたからなのだ。
これは、豪族層から一旦土地を取りあげ朝廷の所有物とし、さらに全国の人口調査(戸籍の製作)を行い、集めた土地を頭数に応じて平等に分配しようとするものだった。
当然のことながら、豪族層は既得権を振りかざし猛烈に反発するに違いなかった。そこで朝廷は見返りに、豪族たちの「実力」に見合った役職と官位を与える必要があった。有名な大化改新(645)も、このような「朝廷と豪族層のせめぎ合い」という図式を当てはめると分かりやすい。
なぜ蘇我入鹿が成敗されたかというと、既得権を振りかざし頑迷に抵抗したからだ。蘇我入鹿を殺さねばヤマト朝廷は衰弱するだけだという中大兄皇子や中臣鎌足の政変劇が乙巳の変で、その後の行政改革を大化改新という。真の改革者は誰だったのか
これまでの考えでは、抵抗勢力の雄が、蘇我氏ということだった。だいたい、大化改新は、自分勝手に振る舞い、改革事業の邪魔になった蘇我氏を排除したからこそなしえた快挙だったと誰もが信じて疑わなかった。
ところが近年、「違うのではないか」という疑問が提出されている。というのも、蘇我氏は大王家(天皇)の直轄地=屯倉の設置に積極的に活動し、新制度導入の先頭を走っていたのではないかという指摘が出てきているのだ。
じつを言うと、この「蘇我氏が律令制度導入に動いていた」という指摘は、歴史がひっくり返るほど大きな意味を持っている。蘇我氏は本当に悪なのか
蘇我氏の横暴を示すもっとも有名な話は、蘇我入鹿が聖徳太子の息子・山背大兄王の一族を滅亡に追い込んでしまったという事件だろう。
山背大兄王は推古天皇亡き後、有力な皇位継承候補だったが、古人大兄皇子の即位を望む蘇我本宗家に疎まれた。結局蘇我入鹿が斑鳩に兵を繰り出し、山背大兄王一族を滅亡に追い込んでいる。
乙巳の変の入鹿暗殺の場面でも、この事件が入鹿暗殺の大義名分となっている。だが、8世紀の朝廷は、強大な勢力をもっていた蘇我氏を滅ぼすことによって成立した政権であり、その政府が蘇我氏の悪口をいうのはむしろ当然のことなのだ。近年の研究では、蘇我入鹿ら蘇我氏こそが、7世紀の行政改革の先頭を走っていた可能性が高くなってきている。
その首魁を殺したというのならば、中大兄皇子や中臣鎌足たちこそが、「改革潰し」に走ったのであって、『日本書紀』は中臣鎌足の息子の藤原不比等の息のかかった者たちの手で完成していた可能性が高いのだから、蘇我氏の手柄をすべて、藤原氏が横取りしていた疑いが出てくるのである。[出典:「古代史」封印された謎を解く(関裕二)]
私達が教えられてきた歴史認識では、大化の改新で蘇我氏が滅ぼされたことにより律令制ができた事になっていますが、真相は藤原不比等を中心とする中臣家、藤原家が蘇我氏の手柄すべてを横取りしている可能性があるということです。
法隆寺に隠された謎の真相
聖徳太子の謎、法隆寺の七不思議
聖徳太子の謎といえば、梅原猛氏の『隠された十字架』(新潮社)を避けて通るわけにはいかない。まず、梅原氏は、法隆寺に多くの謎が隠されているという。たとえば、西院伽藍の本来の入口の中門のど真ん中に、柱が立っている。それだけではない。法隆寺がかつて全焼してしまったのだと『日本書紀』は記録している。ところが、天平19年(747)に朝廷に提出された法隆寺の財産目録である『法隆寺伽藍縁起ならびに流記資財帳』は、法隆寺焼失の事実をまったく無視している。法隆寺は聖徳太子が建立して以来、この地にあり続けたというのが、法隆寺側の正式見解となったわけである。
梅原猛氏は、これを法隆寺側の虚偽と隠蔽だと指摘している。東院伽藍夢殿の本尊・救世観音も、法隆寺の謎のひとつだ。この秘仏が永い眠りから目を覚ましたのは、明治17年(1884)に政府の許しを受けたフェノロサと岡倉覚三(岡倉天心)が訪れたときのことだった。
秘仏を開帳すれば、天変地異が起きると恐れおののく僧侶らの逃げまどう姿を尻目に、二人は重い扉を開いて見せたのだった。すると、まるでミイラのように、500ヤード(1ヤードは約91.4センチ)の布でぐるぐる巻きにされた救世観音が現れたのだった。
梅原氏は、聖徳太子等身仏とされる救世観音の後頭部に注目した。直接光背が打ち込まれていたからだ。これは、日本人の感覚からいえば「呪い」であり、聖者=聖徳太子に呪いの「五寸釘」が打ち込まれていると指摘したのだった。梅原氏は、聖徳太子は崇りをもたらす恐ろしい人であり、後世の人びとは必死になって崇りを封じ込めようとしたのではないか、とした。
たとえば中門の真ん中に柱が屹立しているのは、聖徳太子の怨霊が外に出ないようにしてある、というのだ。また、救世観音の光背も、同様の理由で打ち込まれたのだろうと考えたのだ。
『日本書紀』に従えば、山背大兄王の一族(上宮王家)を滅亡に追いつめたのは蘇我入鹿だったということになる。だが、これには黒幕がいて、陰から入鹿を操っていたのではないかと、梅原氏は指摘したのだ。それが誰かといえば、古代史最大の英雄・中臣(藤原)鎌足である。その理由は、法隆寺の祀られ方と、藤原氏の歴史とにかかわりがあるからだという。
あらためて述べるまでもなく、中臣鎌足の末裔の藤原氏といえば、このあと千年の栄華を誇り、日本を代表する名家として知られている。そんな彼らでも、つねに盤石な地位を保ったとは限らなかった。とくに、奈良朝は藤原一族の「成長期」にあたっていて、けっして安定した地位を確保していたわけではなかった。そんな中にあって、何回かの藤原氏のピンチがあって、その時期にちょうど重なるように、藤原氏は法隆寺を手厚く祀っているのだと、梅原氏は指摘したのだ。
藤原氏には、聖徳太子に対しやましい気持ちがあった……。そう考えないかぎり、「藤原が困っているときに法隆寺を手厚く祀る」という現象を説明できないと梅原氏は結論づけるのだ。つまり、中臣鎌足が蘇我入鹿をそそのかし、山背大兄王とその一族に、兵を差し向けるように仕組んだのだろう、という。
罪もない聖徳太子の末裔一族を滅亡に追い込んだ最大の責任を、『日本書紀』の中で蘇我入鹿になすりつけることに成功したとはいえ、聖徳太子の崇りが恐ろしい藤原氏は、法隆寺を丁重に祀った、というのである。
『隠された十字架』の最大の欠点
だが、梅原猛氏の推理には、重大な欠点がある。梅原氏のいうように、藤原氏は、「先祖の中臣鎌足が山背大兄王の一族を滅亡に追い込んだ主犯」であることを知っていたのなら、聖徳太子ではなく、まっさきに山背大兄王の崇りを恐れるはずだった。百歩譲って、「聖徳太子という絵に描いたような聖人君子の末裔を滅ぼした後ろめたさ」が崇りの恐怖を募らせたとしよう。それならば、藤原氏が聖徳太子だけを恐れ、山背大兄王を恐れなかったのはなぜだろう。
法隆寺は山背大兄王一族滅亡という悲劇の目撃者であり、誰よりも山背大兄王の一族の菩提を弔う動機が備わっていたはずだ。ところが、山背大兄王本人、さらに一族の墓が、どこにも見あたらない。非業の死をとげた人物の墓が見つからないというのは普通考えられない。
聖徳太子は崇って出る、と言い当てた梅原氏の推理は正鵠を射ていた。そして、藤原氏が聖徳太子を恐れている、という推理も、大きな意味を持っていた。だが、「山背大兄王殺しの黒幕は中臣鎌足だった」という、最後の詰めが甘かった。これが『隠された十字架』の最大の欠点といっても過言ではない。
聖徳太子の謎を解き明かすための大胆仮説
ここで問題を整理してみよう。まず、これまでは蘇我といえば、天皇家をないがしろにし、専横を極めた大悪人という「動かし難い常識」があった。そのいっぽうで、近年次第に、蘇我氏こそが律令制度導入に積極的に取り組んでいた者たちではないか、という問題提起がなされるようになってきた。
実際、律令制度導入の直前、蘇我氏は天皇家の直轄領(屯倉)の設置に奔走していたことがはっきりとしてきているのだから、「蘇我の専横」という『日本書紀』の記述は、どうにも怪しくなってきたわけである。
そうなってくると、大化元年(645)の蘇我入鹿暗殺(乙巳の変)は、蘇我氏らの推し進めていた改革事業を潰してしまったというのが、本来の姿ではなかったか。もちろん、中臣鎌足の子・藤原不比等が編纂に大いに関わったと考えられる『日本書紀』の中で、蘇我入鹿は悪人に、中臣鎌足は天皇家再興の英雄に描かれたわけである。
そうなってくると、ここで考え直さなければならないことが出てくる。それが、蘇我入鹿の山背大兄王一族滅亡事件をどう考えればいいのか、ということなのだ。この事件も、蘇我氏を悪く見せるための「演出」だったのではないかと思えてくるからだ。
[出典:「古代史」封印された謎を解く(関裕二)]
関氏は梅原氏の説に対し、いい線いってるけど惜しい!と、最後の詰めが甘かった!と言及しています。ちなみに、梅原氏の『隠された十字架』(新潮社)にはこのよう書かれています。
私は何気なく747年に書かれた法隆寺の資財帳、財産目録、資財帳を読んでいた。
そこで私は、巨勢徳多(こせのとこた)が孝徳天皇に頼んで、法隆寺へ300戸を奉っているのを見た。最初に食封(じきふ)が下された時が、大化3年、647年であり、それは巨勢徳多が孝徳天皇に願って食封300戸を下さったというのであると。巨勢徳多は、日本書紀において別の字で書かれている人物であり、彼は実に山背大兄王の殺害の現地部隊長であった。彼はこの乱による手柄が買われたのか、後に孝徳朝の重心になり大化の改新の中心勢力が担ぎ上げた政権の後、それぞれ左大臣、右大臣みたいな高い地位に昇っている。
かつて法隆寺を取り囲み、山背大兄王を始め、聖徳太子一族25人を虐殺した当の本人ではないか。その男がどうして法隆寺を供養する必要があるのか。
山背大兄王は本当に実在したのか
すでに触れたように、法隆寺は山背大兄王を積極的に祀っていないし、彼らの墓がどこにあるのかさえ、はっきりとしない。
どうにも不審なのは、蘇我入鹿に襲われたときの山背大兄王の行動だ。いったん生駒山に逃れ、「兵を挙げれば勝てる」という進言には耳を貸さず、「自分のために人びとを苦しめることはできない」と言い放ち、一族郎党を率いて斑鳩に戻り、全員で死を選んだという。この結果、聖徳太子の末裔は、根絶やしにされたのだという。
だが、この話、あまりにもできすぎではないか。何十人もいた一族がきれいさっぱり「消えてしまった」というのは、最初からいなかった役者たちを、ここで邪魔になったから、退場してもらったというそれだけのことではなかったか。
山背大兄王を滅亡に追い込んだという「お話」を『日本書紀』の中ででっち上げることで、蘇我入鹿を「この上ない大悪人」に仕立て上げることに成功したのではなかったか。
[出典:「古代史」封印された謎を解く(関裕二)]
法隆寺は山背大兄王を祀っていないし、墓がどこにあるかもわからない。
入鹿に襲われた時、自分のために人びとを苦しめることはできないと兵を挙げれば勝てるという進言にも耳を貸さず、一族郎党を率いて斑鳩に戻り、全員で死を選んだという、まことに出来過ぎた話。そして、何十人もいた一族がきれいさっぱり消えてしまった!?
ということは……最初からいなかったのでは?
関氏のアッ!と驚く超ウルトラ推理、山背大兄王が架空の人物とは、なんという大胆不敵な仮説。
これで封印された歴史の謎が解けました。聖徳太子毒殺の実行犯は巨勢徳多なのです。
架空の人物である山背大兄王は祀る必要なんかないんです。しかし、聖徳太子は祀る必要があるのです。
大化改新とはいったい何だったのか
蘇我入鹿暗殺が乙巳の変で、このあとに行われた行政改革が大化改新というのが、教科書で習った歴史の常識だった。ところが、われわれはとんでもない勘違いをしてきたようである。
律令制度導入の先鞭をつけたのが聖徳太子で、これに既得権を振りかざして抵抗し続けたのが蘇我氏だったと、われわれは学校で教わってきた。
そして、この大悪人=蘇我を排除することで、中大兄皇子や中臣鎌足が新たな政治体制を敷いたのだと、われわれはなんの疑いも持たずにいた。だが実際には、この図式は根底から覆されるようである。
さらに、「蘇我=悪」というこれまでの常識を棄ててかかると、大化改新にまつわる多くの謎が解けてくる。
たとえば、入鹿暗殺ののち、皇極天皇が退位すると、中大兄皇子は皇位継承を目論むが、側近の中臣鎌足の進言で、断念する。「年功序列」を優先し、叔父の軽皇子(即位して孝徳天皇)に玉座を譲ったのだ。
一般的には、中大兄皇子は名を捨て実を取り皇太子の地位にいることで、政治的実権を握ったというが、その後の政局を見るかぎり、中大兄皇子が主導権を握っていたようには見えない。
中大兄皇子は、蘇我入鹿を殺してみたものの、結局政権を奪取するところまではいかなかったのが、本当のところではなかったか。
このことは、事件のほとぼりも冷めないうちに、新政権が難波京(大阪市中央区)遷都を強行していることからもはっきりとしてくる。
一般に難波遷都は、新政府が独自に進めた改革事業の一環と考えられてきたが、この考えはおかしい。
クーデター直後の不安定な政権ならば、蘇我の残党が多く残る大和盆地を放置し、そのまま難波に移ることは、常識的ではない。
そうではなく、蘇我入鹿の時代、すでに遷都は画定済みで、入鹿の遺志を引き継いだ孝徳天皇が、難波に都を遷したと考えた方が真実に近かっただろう。
その証拠に、『日本書紀』には、乙巳の変の直前、ヤマトのネズミが大挙して西に向かって移動したとあり、これが難波遷都の予兆だったのだとしているが、これは入鹿存命中の「予兆」なのだから、難波遷都が「蘇我氏の事業」だったことを暗示している。
『日本書紀』をよく読み返せばはっきりとするが、大化改新後の中大兄皇子と中臣鎌足は、孝徳天皇と行動をともにしていた気配がない。それどころか、中大兄皇子は孝徳天皇の側近を次々に陰謀にはめて殺している。
度重なる要人暗殺によって、孝徳朝は衰退する。多くの重臣の不審な死に、中大兄皇子や中臣鎌足がからんでいた疑いは強く、また孝徳の晩年、中大兄皇子は勝手に都を飛鳥に戻してしまうのだから、これまでの考え方だけでは、大化改新の意味がまったくわからなくなってしまうのだ。
[出典:「古代史」封印された謎を解く(関裕二)]

乙巳の変 江戸時代、住吉如慶・具慶の合作によって描かれたもの。 左上は皇極天皇。 談山神社所蔵『多武峰縁起絵巻』(奈良県桜井市)
蘇我入鹿の首が皇極天皇の後を恨めしげに追いかけているような絵の構図になっています。蘇我入鹿が殺された後、鬼になって皇極天皇に付きまとわれ悩まされたという伝承がのこっています。
たとえば長野の善光寺には、皇極・斉明天皇は地獄に落ちたという伝承が残っています。
”斉明天皇と言えば、天智天皇、中大兄皇子や天武天皇、大海人皇子の母として名高い。また、蘇我入鹿を目撃し蘇我の亡霊に苦しめられた女人である”と。
なぜ遠く離れた信州の地でこういった伝承、この天皇が地獄に落ちたという伝承があるのでしょうか。殺したのは中大兄皇子・中臣鎌足ですから、彼らに蘇我入鹿が恨んで祟るのならわかりますが、なぜ皇極・斉明天皇が祟られなければならないののでしょうか?
それは、彼女がこれら一連のクーデターの首謀者だとすれば合点がいきます。
乙巳の変で叫ばれた謎の一言
話を入鹿暗殺の場面(西暦645年)に戻そう。
飛鳥板蓋宮大極殿で中大兄皇子らに斬りつけられた蘇我入鹿は、皇極(重祚してのちに斉明)天皇ににじり寄り、事態の説明を求めた。あわてた女帝は、息子の中大兄皇子を叱責する。すると中大兄皇子は、入鹿の非を責め、「皇室が乗っ取られようとしているのです」と訴え、皇極はその場を去ったのだった。
問題は、このあと、蘇我氏の息のかかった古人大兄皇子が、自宅に駆け戻り叫んだ言葉なのだ。それによれば、「入鹿が韓人に殺された!! 胸が張り裂けそうだ!!」というのだ。
「韓人に殺された」というのは、入鹿暗殺の下手人が日本人(倭人)ではなく、他国の何者かであったということだろう。
しかし、入鹿暗殺現場にいたのは、三韓(朝鮮半島の国々)の使いであって、蘇我入鹿を殺す謂われはない。忽然と現れた「韓人」の二文字は、いったい何を意味しているのだろう。
『日本書紀』本文には補注があって、これは、「韓(朝鮮半島)の人という意味ではなく、韓政=半島情勢をめぐる外交問題のことをいっている」というのだ。
つまり、蘇我入鹿は、朝鮮半島をめぐる思惑の差によって殺された、ということになる。じつをいうと、古人大兄皇子の「韓人」は、当時の古人大兄皇子の第一声がそのまま語り継がれていた言葉そのままであった疑いが強い。というのも、入鹿暗殺現場に、本当は「韓人」ではないかと思われる怪しげな人物がいたからだ。
何を隠そう、それが、中臣鎌足なのである。
そこで、中臣鎌足の素性を洗っていくと、この人物の「出自の怪しさ」が際立ってくる。中臣鎌足が、どこからやってきたのか、どうにもよく分からないのだ。
中臣氏の祖神・天児屋命(あめのこやめのみこと)は、記紀神話にも登場しているし、中臣氏といえば神道に関わる一族だから、古い歴史を持っていたであろうことは、容易に想像の付くところだ。ところが『古事記』は、神話時代はいざ知らず、その後の中臣氏の活躍を、ほとんど記録していない。
『日本書紀』にしても、中臣鎌足の登場の仕方は、「唐突」という言葉が相応しい不自然なものだった。入鹿暗殺の直前の皇極3年(644)、中臣鎌足を神祇伯に抜擢したというのだ。それまで、まったく姿を見せなかった人物を、いきなり神道祭祀の頂点に持ってこようというのだ。
くどいようだが、『日本書紀』の編纂には、藤原不比等が関わっている。その不比等は中臣鎌足の子で、だからこそ乙巳の変の父の功績を、不比等は必死に称えた。
とすると、もし中臣鎌足の出自が「正しい」ものであったならば、不比等はかならずやその系譜を高々と掲げただろう。
ところが、『日本書紀』は中臣鎌足の両親の名を挙げることもなく、ましてや天児屋命から続く系譜を掲げることもなく、降って湧いたように、中臣鎌足を登場させたわけである。藤原不比等が父の功績を称える一方で、父の出自を口ごもったのには、それ相応のわけがあってのことだろう。
私見はその理由を、中臣鎌足が百済出身だからと読む。
[出典:「古代史」封印された謎を解く(関裕二)]
中臣鎌足は人質として来日していた百済王子・豊璋
中大兄皇子の懐刀として辣腕をふるったとされる中臣鎌足だが、どうしたわけか、中大兄皇子の人生最大のピンチに、姿をくらましている。それがいつかというと、天智2年(663)の白村江の戦いなのだ。
一度滅亡した朝鮮半島南部の百済が復興を目論み、倭国を引きずり込み、唐と新羅の連合軍と戦い、大敗北を喫した事件だ。中大兄皇子は、負けることの分かっているこの戦争に、どういう理由からか猪突した。
問題はこのとき、中臣鎌足が『日本書紀』の記述から消えてしまい、乱が終わったあと、ひょっこりと戻ってくることなのである。
じつを言うと、白村江の戦いの直前、日本から百済に「帰って行った」人物がいる。それが、百済の義慈王(ぎじおう)の子・余豊璋(よほうしょう)なのだ。豊璋は人質として日本にやってきていたのだった。ところが百済が滅びてしまったので、復興の旗印として、本国に召還されたのである。
どうにも不思議なのだが、豊璋の来日、そして百済行きの期間と、中臣鎌足がはじめて歴史に登場してから意味不明の「失踪」に走るまでの時期が、ほとんど重なってしまうのだ。これは果たして偶然なのだろうか。そうではあるまい。二人は同一人物だったと考えると多くのつじつまがあってくる。
中臣鎌足と百済を結びつける傍証は腐るほどある。6世紀までのヤマト朝廷は、百済との間に強い絆を持っていた。中国大陸に渡るには、百済を経由する場合が多かったから、必然的に百済重視の外交を展開した、ということであろう。
ところが7世紀の飛鳥の蘇我氏の政権は、百済一辺倒のそれまでの外交策に大鉈を振るった。隋や唐、高句麗や新羅と友好関係を結び、「全方位型外交」を展開した。だから、蘇我的な発想からいえば、白村江の戦いは起こりえなかった。起こりえないことが起きたのは、乙巳の変で蘇我本宗家が滅び、のちに中大兄皇子や中臣鎌足が実権を握ったからにほかならない。
また『続日本紀』には、百済の義慈王が中臣鎌足にプレゼントしたという東大寺の「厨子」の記録がある。『日本書紀』を読むかぎり、中臣鎌足と百済の義慈王の間には、まったく接点が見いだせない。だが、義慈王は豊璋の実の父であったから、豊璋と中臣鎌足が同一と考えると、理由がはっきりとしてくる。
このように、古人大兄皇子の叫んだ「韓人が入鹿を殺した」の意味は、百済王子豊璋=中臣鎌足を想定することで、謎ではなくなるのである。
[出典:「古代史」封印された謎を解く(関裕二)]
大化改新後の中大兄皇子の不可解な行動
中大兄皇子は名を捨て実を取ったことで、この時代のむずかしいかじ取りをしていたという通説の考えは、事の真相を見誤っている。
中大兄皇子は実際には「即位したくてしたくて仕方なかったのに、そうすれば民衆の罵倒の矢面に立たざるを得なかった」というのが、本当のところだろう。なにしろ当時の人びとにとって中大兄皇子は、改革事業を推し進めていた蘇我氏を滅ぼした大悪人。改革潰しの許し難い奸物だったからである。だいたい、白村江の戦いで、中大兄皇子は立場の弱さを露呈している。
まず中大兄皇子は北部九州に陣を敷いたが、このとき、母斉明のみならず、後宮の多くの女人(額田王や娘たち)を引き連れている。
この行動は謎とされているが、中大兄皇子が古代史の英雄と信じて疑わないから謎は解けないのであって、中大兄皇子が入鹿を殺してみなから嫌われていたと考えると、謎などなくなる。中大兄皇子は遠征中に政敵に女人を人質に取られるのを恐れていただけの話だろう。
中大兄皇子が即位した(天智天皇)のは白村江の戦いから5年後のことで(西暦668)、みなに祝福され、背中を押されて王位を獲得したという話とはほど遠い。なぜこのようなことが言えるのかというと。
これまで話してきたように、民衆の不人気を、『日本書紀』も認めていること、さらに最晩年には、天智がもっとも嫌っていたはずの蘇我一族の面々を朝堂の中枢に「取り立てざるを得なかった」からである。左大臣以下、朝堂の要所要所を「蘇我」が固めてしまったのである。これはどう考えても異常なことだ。
天智天皇は晩年、弟ではなく子の大友皇子の即位を願うようになった。病を患い、老い先短いと悟った天智には、焦りがあったのだろう。病床に大海人皇子を呼び出し「皇位を譲ろう」と誘いをかけ、罠にはめようと企んだ。
大海人皇子が首を縦に振れば「謀反!!」と決めつけ、殺す腹づもりでいたようだ。 だが、大海人皇子は機転をきかせて出家して、そのまま吉野に去ってしまった。
[出典:「古代史」封印された謎を解く(関裕二)]
【参考文献】
・「古代史」封印された謎を解く あまりに意外な「あの人物・あの事件」の真相とは?(関裕二)
・日本建国の秘密