天智天皇の死の真相
天皇は、馬に乗って山階(科)郷に遠乗したが、そのまま帰ってこなかった。山林の奥深く入ってしまい、どこで亡くなったかもわからない。そこで、履いていた沓が落ちていた場所に陵を築いた。それが、山背国宇治郡山科郷北山にある山科陵(やましなのみささぎ)である
[出典:扶桑略記(ふそうりゃくき)]
天智天皇は天武天皇に殺された説:実行犯は、大伴御行(おおとものみゆき)
※天智天皇のときに高い地位に就いていたことから推理される。
謎めく壬申の乱
壬申の乱(672)は、古代史最大の争乱である。
ほとんど裸同然のまま東国に逃れた大海人皇子が、朝廷の正規車を抱えた大友皇子に勝てるはずはなかった。ところが、『日本書紀』には奇怪な記事が載っている。大海人皇子が東国に逃れたという情報が近江朝に届けられたとたん、近江朝の多くの兵士が武器を捨て逃げまどったというのである。しかも、天智の死の直前、大海人皇子は「譲位」の誘いを断っていた。ということは、皇位継承権は大友皇子に移ってしまっていたようなものだ。したがって、「謀反人」は大海人皇子であり、大義名分は大友皇子側にあった。その近江朝が、なぜ一気に崩れていったのだろう。
天智が病床に大海人皇子を呼び出したとき、大海人皇子に「ご用心下さい」と進言したのは「蘇我」で、大海人皇子はこの言葉を受けて、天智の禅譲(ぜんじょう)の申し出を断っている。
次に、近江朝の正面軍が東に進軍し、敵主力部隊といよいよ激突というその時、近江軍の大将を、副将の「蘇我」が殺害し、近江軍は敵前で戦わずして空中分解している。こののち大海人軍は一気に近江朝になだれ込んでいるから、壬申の乱の最大の功労者は、「蘇我」ということができる。
[出典:「古代史」封印された謎を解く(関裕二)]
『日本書紀』は誰が何を目的に書いたのか
『日本書記』に関して、これまで誤った考えが罷り通っていた。それは、「『日本書紀』は天武天皇が発案し、天武天皇の正統性を主張するために書かれたもの」というものである。
たしかに、『日本書紀』の中で天武天皇は特別扱いで、壬申の乱だけに一巻を割いていたり、また『古事記』の序文にも、この歴史書の編纂が天武天皇の発案によってはじめられたという記事が残されている。天智系の王家から天武系の王家に入れ替わった結果、歴史書の編纂が必要になった、ということになろうか。ところが、このような常識を当てはめると、どうしても理解できない矛盾が出てくるのだ。
誰が『日本書紀』を書いたのか
ここで、壬申の乱の直前に話を戻そう。
中臣鎌足が天智と息子の大友皇子を支持し、かたや「蘇我」が大海人皇子を支持していたこと、この二つの勢力の思惑が激突し、大海人皇子が勝利を収めた事実を軽視しては分かるものも分からなくなる。すでに触れたように、乙巳の変の「蘇我潰し」と、壬申の乱の「蘇我の大海人皇子加勢(天智系王家潰し)」は、深い因縁でつながっていたはずだ。だが、「蘇我」の後押しをもらった天武天皇であったならば、なぜ「蘇我=大悪人」という歴史認識を、後世に残したというのだろう。
そこで問題となってくるのが、『日本書紀』が完成したとき、誰が朝堂を牛耳っていたか、ということだろう。
ここに、問題の人物が登場する。それが、藤原千年の繁栄の基礎を築いた藤原不比等なのだ。藤原不比等は天武天皇亡き後、持統天皇に大抜擢され、めきめきと頭角を現していた。『日本書紀』編纂当時、朝堂を牛耳っていたのはこの男だ。だからこの「権力者」の強い意志が『日本書紀』に反映されていたと考えるのが常識的なのだ。
そして、不比等が中臣鎌足の子供だったというところに、話の妙がある。はたして不比等が、「父の敵=天武」を礼賛しただろうか。そして、「父の功績=蘇我潰し」を礼賛せずにいられただろうか。『日本書紀』が「藤原(中臣)」の手で書かれたと考えれば、多くの謎が解けてくるのである。
壬申の乱(672)を制した大海人皇子は、都を飛鳥に戻し、即位する。天武天皇(在位673~686)の誕生だ。天武が選んだ飛鳥の地は「蘇我」の根城であり、せっかく整備されつつあったろう近江京を捨てたのは、天武と蘇我が近しい間柄だったからだろう。
[出典:「古代史」封印された謎を解く(関裕二)]
天武天皇は天智天皇の弟ではなかった
壬申の乱で蘇我氏が天武天皇(大海人皇子)に荷担したのはなぜだろう。なぜ天武と蘇我と尾張は強い絆で結ばれていたのだろう。
天武天皇と天智天皇はともに舒明天皇と斉明天皇(皇極)の間の子で、天武天皇が天智天皇の弟と『日本書紀』は記録している。
そのいっぽうで、『日本書紀』はどういう理由からか、天武天皇の生年を書き残さなかった。だから天武天皇が何歳で亡くなられたのかがはっきりしない。
というのも、『日本書紀』が言葉を濁した天武の年齢を、多くの中世文書が「饒舌」なまでに語っていて、しかも、天智よりも天武の方が年上だったとする記述が目立つのである。
大和岩雄氏は、『日本書紀』に記された斉明天皇の奇妙な「男性遍歴」に注目している。それによれば、舒明天皇に嫁ぐ以前、斉明は高向王なる人物と結ばれ、漢皇子を産み落としていたというのだ。
大和岩雄氏は、この系譜を重視し、中世文書のいうとおり、天武が天智の兄とすれば、該当するのはこの漢皇子(あやのみこ)以外には考えられないと指摘し、さらに、天武天皇と高向王(たかむくのおおきみ)、漢皇子の接点をいくつもあげて、「天武=漢皇子説」を展開している。[天武天皇出生の謎:六興出版]
つまり天武は、『日本書紀』の記述とは違い、天智の兄で母親を同じくし、父親を異にしていたことになる。
この中で興味深いのは、高向王と漢皇子の親子が、「蘇我」といくつもの接点を持っていたという指摘であり、天武天皇が蘇我系の皇族であった可能性が高いことだ。その証拠に、天武天皇の謐号「天渟中原瀛真人天皇」には、「ヌ=瓊=ヒスイ」が入っていて、のちに触れるように、ヒスイと「蘇我」は、深い縁で結ばれていた。
そして、天武天皇に蘇我氏の息がかかっていたと考えれば、壬申の乱の前後、蘇我氏がなぜ体を張って天武を後押ししたのか、なぜ『日本書紀』が、天武の正体をはっきりと記すことができなかったのか、その理由がはっきりとしてくる。
また、天武が乙巳の変の入鹿暗殺に参加しなかったのは、この人物が「蘇我」であったとすれば、当然すぎるほど当然の事態であった。ようするに、天武と天智は、血は半分つながっていたが、政敵同士の関係にあったわけである。
だから壬申の乱を制すると、天武は「皇親政治」という極端な政治体制を敷いて、「蘇我」の悲願であった律令制度の導入に奔走したということになる。
[出典:「古代史」封印された謎を解く(関裕二)]
天武天皇死後の不穏な情勢
天武天皇は道半ばで倒れた。飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の完成目前にして、帰らぬ人となってしまった。朱鳥元年(686)9月のことだ。
さて、『日本書紀』によれば、天武天皇の崩御直後の10月、大津皇子(おおつのみこ)が謀反を起こし、捕縛された翌日、間髪人れずに処刑されたと記されている。どうやら大津皇子は鸕野讃良皇女(うののささらのひめみこ/持統天皇)の魔の手にかかったようなのだ。
草壁皇子は鸕野皇女の一粒種だ。
『日本書紀』の記述を信じれば、草壁皇子(くさかべのみこ)は皇太子だったのだから、天武天皇の崩御後、自動的に皇位を継承できるはずだった。ところが、こののち3年の空しい歳月を過ごし、玉座を手にすることなく病没してしまうのである。
いくら病弱とはいえ、「空位」を放置しておくことは、常識では考えられない。
「3年の空位」もさることながら、「鸕野の即位」も、常識では考えられない。鸕野が無理を承知で皇位を狙ったのだとすれば、その目的はなんだろう。
鸕野の本当の目論見は、「夫の天武朝を継承するかのように見せかけて、実質的に天智朝を復活させよう」というものではなかったか。
[出典:「古代史」封印された謎を解く(関裕二)]
”天武は政治上大きな勢力を治めて、画期的な政策を次々ともたらしたが、晩年には地震とか流星、台風、火災など天変地異が絶え間なかった。占いでは、熱田神宮に祀られている草薙剣の祟りだと出た。この剣は天智天皇の時に盗まれて国外に持ち出されそうになったが無事取り戻し宮中に置かれていたものである。それを熱田神宮に戻し一生懸命祈ったのだが結局死んでしまった。”
[出典:面白いほどよくわかる天皇と日本史]
これは何を意味するかというと、天武天皇によって飛鳥浄御原令が完成し、蘇我氏の悲願である律令制が完成すると困る者がいる。誰が困るかというと藤原氏が困る。それと藤原氏が祀っている神々が困る。すなわち藤原氏が祀っている春日系の神が困るのです。つまり、天武天皇は春日系の神によって祟り殺されているということです。
鸕野は天武天皇葬儀のとき、草壁皇子をトップに立てて皇族、臣下を度々列席させ葬列をやっている。皇位継承権は草壁皇子にあるということを見せつけ、印象づけている。
ところが、689年4月に病弱だった草壁皇子が亡くなったため皇位継承計画は根本的に狂ってしまった。そこで草壁皇子の子、当時7才の軽皇子(かるのみこ).(42代文武天皇)に望みを託すにしてもあまりにも小さくて、7才なので、皇太子に立てることさえ憚られた。そこで鸕野皇女が自らが即位することに決めたと。
天武天皇の妻であり天智天皇の娘でもある持統天皇は政治的な大天才でした。政治と権力のためなら何でもできる女性です。だから周りの人、側近は、仲が睦まじいと思わされていた。
ずっと天武に付き従って、夫に適切な助言をして二人三脚で政治をやっているように、そして、夫が死んでも何度も吉野に行幸に行って、夫の霊を慰めるような行動をして、蘇我氏一族を宥めていた立派な女性だと思わせていたのです。
親の仇でもある天武天皇を愛しているように見せかけ、死後も一生懸けて、何十回も吉野に行って霊を慰めるようなことを行っていた。これは明らかに政治活動であって、蘇我氏を宥めるため、蘇我氏を自分の中に掌握するためです。なぜなら天武天皇はカリスマだったから。
そのカリスマであった夫をこれだけ大切にしていますよと見せることで、自分の思い通りに蘇我氏を動かせるからです。
この時代の価値観は現代と全く違います。夫というのは政略結婚のためにだけ存在したのです。自分の社会的地位のためだけに存在するんです。夫と父親を比べたら、或は兄弟を比べたら、絶対に父親とか兄弟の方が大切なんです。
わかりやすく言えば、夫なんてどうでもいいのです。野望のためには裏切り行為など平気でやります。妻であることより、兄弟であるとか父親であるとか直接血が繋がっていることのほうがとてつもなく重要なことなのです。
したがって、実際は父である天智天皇と深く繋がっていた。だから藤原不比等とも超仲がよかったのです。
持統天皇と藤原不比等は二人三脚で政治をやっていました。持統天皇の庇護の下藤原不比等が日本書紀を作りました。
日本書紀には何が書かれているかといえば、中大兄皇子と中臣鎌足が英雄になっているような藤原氏の繁栄の物語になっているわけです。
>>鸕野の本当の目論見は、「夫の天武朝を継承するかのように見せかけて、実質的に天智朝を復活させよう」というものではなかったか。<<
関氏の説には大いに納得させられます。
意味がわかると怖い話
春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山
百人一首にも出ている持統天皇の歌。山にかかった夏の白い雲を、天女が干す衣に例えている。衣替えの季節……のような爽やかな印象の有名な歌です。この歌について、関氏の共同研究者である梅澤恵美子氏の解釈が秀逸なので紹介します。
彼女の発見の中で最も感動したのは持統天皇のこの歌だ。彼女はこの歌の意味を解いた。と言うんです。それは何かと言うと、
「春が過ぎて夏がやって来るらしい。天の香具山の青々とした緑の中に、白い服が干してある」これは普通に考えた歌の意味だと。だけど梅澤氏にとっては全く別に見えたと。天の香具山というのは大和三山の霊山の一つで、大変な霊山なんです。そんじょそこらの山と訳が違う。そんな山に洗濯物を干す馬鹿がどこにいる。これは常人の服じゃない。じゃあ誰の服なのかと言ったら、当然、天の羽衣伝説、天女の天の羽衣が干してあるんだというわけです。そうすると天の羽衣伝説がどういうのだったかというと、こういう伝承だと言うんです。
”京都府の丹後の、丹波の比治の里の辺りに真名井という井戸があって、ある時、8人の天女が降りて来て沐浴をしていた。たまたま通りがかった老夫婦が、1人の天女の羽衣を奪ってしまったので天女は恥じて水から出られないで困っていた。そこでおばあさんが、「私たちは子供がいないから留まってほしい」と懇願されて子供になるんです。天女は酒なんかを造ったりして、その家はものすごく豊かになるんです。豊かになったらその天女を追い出してしまったと。彷徨い歩いて、高野郡の所に行って、奈具という村の所まで行って、「ようやくここに来て我が心は穏やかになりました」と言ってそこに住むようになった。”
そういう天女の伝説があって、その奈具の社という所に、豊宇賀能売命(トヨウカノメノミコト)という、天の羽衣を盗まれた天女、豊宇賀能売命が祀られている。こういう伝承がある。
豊宇賀能売命……蘇我氏の重要な面々はみんな豊が付いている。推古天皇の名前は豊御食炊屋姫(トヨミケカシキヤヒメ)、神功皇后の系列、神功皇后、応神天皇、武内宿禰、そして蘇我。これらは同じカテゴリーに属します。
神功皇后は、豊浦宮という名前で全部豊が付きます。聖徳太子も上宮厩戸豊聡耳太子(うえのみやのうまやととよとみみのひつぎみこ)。蘇我と豊は完全に密接に繋がっているのです。
つまりこの歌の真意は、豊宇賀能売命という豊という名前が付いている天女の羽衣を盗んでしまえば、天女はもう自ら出られない。身動きできない。蘇我氏から権力を奪うことのできる今ことそのチャンスなのだというのです。
では、天の羽衣とは何か?蘇我氏の羽衣とは何か?それが律令制なのです。律令制という蘇我氏の天の羽衣を今奪ってしまえば、蘇我氏はもう身動き出来ない。我々のものだというのです。
結局天武天皇は律令制を完成させられず、持統天皇と藤原不比等によって成し遂げられました。そのことで律令制は根本的に違うものになってしまいました。
蘇我氏の律令制は天皇を中心とする中央集権国家なのです。周りの家臣は天皇を扶けるもの。ところが藤原の律令制は全く違い天皇は飾りで藤原が牛耳る……それが藤原が絵図を描いた律令制なのです。
一方、蘇我氏の律令制は藤原の絵図と全く違い、天皇が政治をするための律令制だったのです。
持統天皇と藤原不比等の結託
もし仮に、私見にいうように、鸕野の野望が「天智朝の復活」にあったとしたら、入れ知恵をしたのは、不比等だったろう。
藤原氏は8世紀来、日本で最高の格式を誇る名家として繁栄を誇ってきたが、その基礎を築いたのは、中臣(藤原)鎌足ではなく、藤原不比等である。
不比等が律令整備の最終段階に頭角を現し、しかも不比等自身が、律令(法制度)作成に参画したところに、大きな意味があった。というのも「法」とは、施行されたのち、それぞれの案件に関して、「法解釈」が必要となるからだ。つまり、ここに至り、藤原不比等は「歩く法律」になったわけであり、不比等の末裔たちも、律令を自家にとって都合のいいように解釈するという手口を用いた。
藤原が支配したのは「律令」と、あともうひとつ「天皇」である。
自家の女人を天皇の妃に据え、皇子が生まれると、これを即位させた。藤原氏は天皇家の外戚となることによって、この上ない権威を獲得したし、いざというときは、律令の枠に縛られない(ようするに法によって罰することができない)天皇を前面に押し立てることで、他の並みいる諸勢力を圧倒したのである。このように、「律令」と「律令に縛られない天皇」という二つを支配した藤原氏には、もはや恐いものはなくなったのである。
「その他諸々」の旧名家は、かつての発言力の源泉であった土地と私有民を朝廷に差し出してしまったから、もはや対抗できるすべを失っていた。それどころか旧名家は、働きに見合った官位と役職をもらうことによって命脈を保っていたのだから、律令と天皇を支配し、思うがままに人事権を発動したであろう藤原の動きに一喜一憂するという、情けない状態に追い込まれたわけである。
正義漢・長屋王の反発
藤原不比等が藤原氏の基礎を築き、さらに不比等の4人の男子が盤石な体制を固めようとしたその時、藤原のあこぎな手口に反発し、あえなく一族滅亡に追い込まれた悲劇の皇族がいた。それが高市皇子の子で、長屋王(天武天皇の孫にあたる)である。ちなみに長屋王の父高市皇子は、『日本書紀』に従えば天武天皇の長子ということになるが、なぜ皇太子にならなかったのかというと、卑母の出(母は宗像氏)だからとされている。
神亀元年(724)、文武天皇と藤原宮子の間の子・首皇子(おびとのみこ)が即位した。これが聖武天皇(しょうむてんのう)で、史上初の「藤原腹の帝」であった。藤原一族は中臣鎌足以来の悲願を、ようやくここに成就したのである。そしてこのとき、長屋王は左大臣に登りつめたから、ここに微妙なパワーバランスのせめぎ合いがはしまった。左大臣は現代風にいえば、内閣総理大臣といったところである。
[出典:「古代史」封印された謎を解く(関裕二)]
藤原不比等の娘が宮子で、その2人の間に生まれたのが聖武天皇。遂に藤原は藤原の娘を文武天皇に嫁がせ、聖武天皇という藤原腹の天皇を生み出した。藤原不比等が藤原氏の基礎を築き四人の息子が盤石な体制を築こうとした時、藤原の下衆な野望反旗を翻し一族滅亡に追い込まれたの悲劇の王が長屋王。長屋王は藤原の四兄弟に陰謀で殺され、父;高市皇子は持統天皇に殺されている。
彼らのルーツは天武天皇と宗像氏系の尼子娘(アマコノイラツメ)。宗像氏は福岡の宗像市で八幡系の神;応神天皇・武内宿禰。天智、持統、藤原不比等、その背後で霊導している神が、春日系の神:神天児屋命(アマノコヤネノミコト)・武甕槌(タケミカヅチ)
天武天皇、高市皇子、長屋王、聖武天皇、彼らを霊導しているのが応神、武内宿禰なのです。
文武天皇と藤原宮子の間に遂に藤原腹の帝:聖武天皇が生まれ、藤原一族は中臣鎌足以来の悲願をようやくここに成就した。その時、長屋王との間に争いが始まったのです。
藤原の陰謀で抹殺された長屋王一族
事件は聖武天皇即位の直後に起きた。
「藤原夫人(聖武の母・宮子)をこれからは大夫人(だいぶにん)と称する」という勅が出され、これに長屋王の一派が反発したのだ。というのも、新たな称号の「大夫人」は、律令の規定にない尊称だったからだ。藤原にすれば、こういう細かい法律違反をくり返し、「前例」をつくっておきたかったからだろう。というのも、藤原には、聖武の妃の一人で、藤原不比等の娘の光明子(こうみょうし)を、「皇后位」に押し上げたいという野望があったからだ。
長屋王の反撃が功を奏し、勅は撤回された。恥をかかされたのは藤原である(白業自得なのだが)。ここに、「もはや長屋王を生かしておくわけにはいかない」という藤原の方針は固まったのだろう。天平元年(729)、長屋王は謀反の嫌疑をかけられた。
「ひそかに左道(良くないこと)を学び、国家を傾けようとした」というのである。
結果長屋王一族(藤原から嫁いだ女子と子は助かった)は滅亡したのである。興味深いのは平安初期の仏教説話集『日本霊異記(にほんりょういき)』で、そこには次のような記事が残されている。まず、長屋王一族の遺骸は火葬され、骨は砕かれ平城京の外に捨てられたのだという。ただし、長屋王の骨だけは、土佐(高知県)に持っていったという。ところが、土佐で疫病が流行し、「長屋王の崇りにちがいない」ということになり、やむなく紀国(和歌山県)の小島に移したのだという。
藤原4兄弟はこの世の春を謳歌していたが、長屋王の死から8年後の天平9年(737)、恐怖のどんでん返しが待っていた。北部九州で流行っていた天然痘が都を襲い、藤原4兄弟が、あっという間に全滅してしまったのだ。
尋常なことではない。4人の権力者が、消えてなくなったのである。
「これが長屋王の崇りでなくしてなんであろう」
都人たちは、誰もがそう噂し合ったに違いない。長屋王はどこかで祀られていなければおかしい。藤原4兄弟をあっという問に呑みこんでしまったほどの崇りである。誰もが怯え、祀りあげようとしたに違いないのだ。
梅原猛氏が指摘していたように、藤原氏は「藤原にとっての難局」が訪れると、かならずといっていいほど法隆寺を手厚く祀りはじめていたのである。
藤原不比等は『日本書紀』のなかで、「蘇我の正体」を抹殺するだけではなく「天武と蘇我のつながり」をも断ち切っていた。そうしないと、藤原が「行政改革に取り組んでいた」蘇我入鹿を殺し、「律令制度の完成を目指して邁進していた」天武王家を持統王家にすり替え、しかも「天武=蘇我王家」の功績を横取りしてしまっていたことが、すべてばれてしまうからである。
とするならば、「藤原」は、誰にもわからないように、「蘇我」と名のつく者、「蘇我」の血を引く王家、それらすべてを十把一絡げにして、法隆寺で祀っていた、ということではなかったか。
そうであるならば、なぜ「崇って出た恐ろしい長屋王」がどこにも祀られず、いっぽうで、法隆寺が崇る寺だったのか、その意味がはっきりとしてくるのである。
[出典:「古代史」封印された謎を解く(関裕二)]
なぜ聖武天皇は東大寺を建立したのか
聖武天皇の業績としてもっとも名高いのは、東大寺建立ではなかろうか。
そもそも東大寺は、「国家のために建てた寺」、あるいは「天皇家のための寺」という印象が強いが、実態はかならずしもそうではない。なぜ、何を目的に東大寺は建てられたのだろう。それは普通に語られているように、「国家鎮護」のためなのだろうか。ところが、どうにも様子がおかしい。というのも、『続日本紀』には、天平12年(740)2月に、聖武天皇が難波に行幸したときのこと、河内の智識寺(ちしきじ)を参拝し、この寺の姿勢に感動したのがきっかけだったと記されているからだ。
智識寺とは、有志が集って、ようするにボランティアの建てた寺で、それまでの国家や大豪族のための寺ではなかったところに話の妙がある。なぜなら、聖武天皇は東大寺建立のために、本来ならありえない人物を大抜擢しているからなのだ。それが反骨の僧・行基である。
行基は税を都に運ぶ途中で行き倒れになった人びとを救済する布施屋を造り、各地に橋をかけ、治水工事を行った、土地を手放し流浪する人びとは、やがて行基のもとに集まり優婆塞(朝廷の許しを得ずに仏門に入った人)となり、平城京の周辺に出没した。
民衆が土地に定住し、一定の税を払ってくれなければ、律令の理念は崩壊する。勝手に人びとが出家して放浪してしまえば、国家財政が行き詰まってしまう。
当然朝廷は、行基らを弾圧したのである。
ところが聖武は、藤原の手にも負えなかった札付きの行基を、あろうことか身内に引きずり込んでしまったわけである。それだけならまだしも、優婆塞=乞食坊主を正式の僧と認め、土木工事に参加してもらい、彼らの親分だった行基を、仏教界の最上位に大抜擢してしまったのである。
先述した「智識寺」とは、まさにこれら優婆塞たちが力を合わせて造った寺であり、それまでの「国家鎮護のための寺」であるとか、「裕福な大豪族の私的な寺」とは、まったく意味が違ったのだ。そして、聖武天皇は、「日本一の智識寺」の建立を夢想し、それが東大寺発願だったのである。
罪滅ぼしの寺を建てた光明子の心情
光明子(光明皇后)は自宅に寺を建て、病人や貧しい人びとに救済の手をさしのべたという。これを「権力者の偽善、スタンドプレー」と一蹴することもできる。だがどうにも気になるのは、光明子が寺の名を法華滅罪之寺としていることだ。
聖武天皇が河内の智識寺を見て感動したとき、背中をぐいっと押したのは光明子であった。光明子の後押しを得て東大寺建立ははじまったことになる。東大寺は「反藤原の寺」といっても過言ではなかった。平城京ににらみをきかす高台に建てられた「藤原の興福寺」を抑える場所に、東大寺が建てられていることも、意味がある。
4兄弟が「長屋王の崇り」で一気に滅亡してしまったことは、人ごとではなく、「呪われた藤原」に心を痛め、必死になって善行を積もうと努力したのではなかったか。
[出典:「古代史」封印された謎を解く(関裕二)]
【参考文献】
・「古代史」封印された謎を解く あまりに意外な「あの人物・あの事件」の真相とは?(関裕二)
・日本建国の秘密