飯豊皇女の謎
応神系図
飯豊皇女(いいとよのひめみこ)は、推古天皇以前の女帝という説があります。
神功皇后を女帝、天皇として考えるのであれば飯豊皇女は2番目、推古天皇は3番目の女帝となります。飯豊皇女は蘇我氏台頭のきっかけを与えた重要人物なので、蘇我氏滅亡と共に彼女も天皇の位から排除されたと考えられるのです。
シリウスの都 飛鳥/栗本慎一郎
建築家:渡辺豊和氏の研究に触発された、経済学者:栗本慎一郎氏の著書を参考文献として解説していきます。
蘇我氏や聖徳太子はおそらくは、一般にスキタイと呼ばれる遊牧民の特定の一角にあった人たちでミトラ教的価値観を持つ人たちであった。
5世紀末以降、突如日本政治の表舞台に現れて、7世紀中葉には内部の裏切りにあって滅ぼされてしまった蘇我氏が最初に出てきた場所は、今日のイラン高原東部のシースタンで、紀元前3世紀から紀元4世紀までサカスタンと呼ばれていた場所だろう(いくつかの事実に基づく「推定」である)。このサカスタンは、西インドにあったサカスタン王国の中心地とは違う。むしろパルティアの最初の中心地の南方部分でイラン高原の東部地域名だ。
われわれがよく知っている蘇我氏の隆盛の後、645年のクーデターによって一族本家は滅亡し、支持勢力は四散した。だが、彼らが作ろうとした日本王権つまり天皇制はそのまま双分制や上天思想の要素を根幹に残して成立していった。つまり、王権や律令国家の基礎は蘇我氏が作って今日に至るのだ。
また、北日本を中心にして、金属鉱山関係者、水利事業者、運搬事業者、山岳信仰関係者、遍歴の商人など、非主流に回った蘇我氏や聖徳太子の一統が残されたのである。蝦夷の将軍アテルイ、奥州藤原氏、北関東の王・平将門は、いずれもその関係者またはその後裔である。鹿島神宮を信仰する北関東武士団もその流れである。
それがなければ、鎌倉や江戸が政府の中心になることはなかった。つまり、蘇我本家は滅びても日本文化に大きな影響を残したのである。
[出典:シリウスの都 飛鳥/栗本慎一郎(たちばな出版)]
遊牧民である彼らの思想:ミトラ教では双分制の構造を持っていて、大王と祭祀階級が分かれていた。つまり祭祀職のトップである天皇と経済・軍事を司るトップである大王が分かれていたということです。
栗本氏の説によれば、祭祀階級の古代王権の中心はヤマトであり、三輪山を中心とした王権、これが祭祀階級の頂点である。一方で、政治経済の中心をどこかに作ろうとしたはずだが、現実には出来なかった。では、政治経済の中心はどこかと言うと、近江である、というのです。
すなわち双分制という概念からすれば、蘇我馬子や蘇我入鹿というのは、大王だったのではないかということも考えられるのです。
日本書紀をはじめとして、我々が教え込まされてきた歴史は、蘇我氏が天皇になろうとしたとか、天皇と同等に振る舞い、横暴が目立つようになってきたために中大兄皇子に滅ぼされたと。
しかしそうはなく、蘇我馬子や蘇我入鹿は当時の大王だったのではないかという考えもあるのです。さらに『蘇我入鹿や蘇我馬子が大王・天皇が祭祀階級のトップ・聖徳太子が法王』の三分制という統治形態を実現させようとしたのですが、潰されてしまったという説もあります。
日本列島に数千年前から存在した精密な太陽(観測)のネットワーク
応神朝以降の政治権力の実体は、土木工事力であり、ヒスイすなわち玉を持ってくる力(財政力)であり、背後にあった騎馬戦力を持つ軍事力であったが、それ以前の日本列島内の権力というものは、太陽信仰あるいは太陽に依拠する生活価値観を統治の基礎力にしていたと思われる。
本書では、渡辺豊和教授の用語法に基づいて、冬至の日没を西南西に望み、東北東に夏至の日出を望む地点を結んだ線のことを冬至線と呼ぶことにする。また、夏至線というのは、夏至の日没地点(西北西)と冬至の日出地点(東南東)を結ぶ線のことである。
三輪山はこの冬至線・夏至線のネットワーク(太陽のネットワーク)の中心交点上にぴたりと載り、おそらくは縄文時代晩期にはそこから日本列島全体にそのネットワークを広げていたのである。
このネットワークは、最初は列島全体を覆うものではなかったが、政治的状況の変化に応じて広がっていった。また、他のローカル・ネットワークを「吸収」していった。そして、そこからやがて連合国家大和が築き上げられていったのである。そして弥生時代に入っていく。
そう断言できるほど、この冬至線・夏至線のネットワークは広汎で精密だ。これは世界にも稀有なものであろう。冬至線・夏至線の一部を巨石建造物や祭祀場の建設に用いたことはいくらか見つけられている(たとえばイングランドのストーンヘンジ)が、これほどの規模のものは少なくともどこにも見つかっていない。
さらに、冬至線・夏至線の通る道(線)の上には重要な神社や巨石信仰の拠点が置かれた。そこには磐座や鏡石が置かれ、鏡石には太陽光線を反射させる機能が付与されていた可能性が高い。表面が磨かれたり、何かを表面に貼られたのである。
こういう工事は、それを統括する支配権力が存在しなければ遂行できるものではない。だからそういう権力が古墳時代以前から(つまり縄文時代から)存在したことが容易に想定できるのだ。そしてそのネットワークは全国に及ぶことから考えると、この時、日本列島を最初に宗教的価値観を以て統合した「王国」が出来上ったと見ることができる。
↑図8をよく見ていただきたい。もし太郎坊神社本殿の上に立つとすると、三上山の上に冬至の太陽が沈むわけだ。この太郎坊山と三上山を結ぶ空間上の直線が、本書で言う冬至線である。
この冬至線と三輪山の三輪神社の磐座(三つあるとされるが、中心のものが張り出し台地上にある)との南北距離(経度上の距離)は48・6キロメートルだが、この距離は後にわれわれが割り出して示す30古代里と呼ぶ距離と完全に一致する。これは縄文中期から存在する特別の距離である。
三輪神社の磐座から太郎坊−三上山冬至線と平行に冬至線を引くと、畝傍山頂、忌部山頂を通る。それも当然ながら冬至線である。これを三輪山−畝傍山冬至線と名付ける。その冬至線は、畝傍山、耳成山、天香久山といういわゆる大和三山が作り出す二等辺三角形の中線となる。
この三山の山頂が正確な二等辺三角形を作っていることだけでも驚きだが(それは少なくともこれが人工造山であることを示す)、その二等辺三角形を畝傍山を頂点とする中線で割ってできた直角三角形は三辺の比が5対12対13の、いわゆる「メソポタミアの聖なる三角形」となっている(図9参照)
そしてその二等辺三角形の中線が東北東に延ばされると三輪山に至るのである。
[出典:シリウスの都 飛鳥/栗本慎一郎(たちばな出版)]
↑これは京都:平安京の地図ですが平安京は、大山咋神(おおやまくいのかみ)という神様が非常に重要な役割を果たしているということで、秦氏が創建した松尾神社が大山咋神を主祭神として祀っている神社です。比叡山も大山咋神を守護神として祀っています。
松尾神社ー比叡山延暦寺を結んだラインが冬至線と重なります。そして下鴨神社がこのライン上にあります。一方夏至線は、和気清麻呂(わけのきよまろ)の墓所:神護寺(じんごじ)と、将軍塚とを結んだラインになっています。冬至線と夏至線が交わったところに平安京があるという構図です。
渡辺氏の発見は、大和三山の三輪山という重要な山が冬至線・夏至線のネットワークの中心点であり、三輪山が出発点だったということです。当初のネットワークは列島全体を覆うものではなかったが、徐々に地方のローカル・ネットワークを吸収しつつ連合国家ヤマトが築かれ、弥生時代を迎えたと。
三輪山基点の冬至線と夏至線を全列島に引いてみると(三輪王朝の神官は引いたに違いない)異様な巨石遺跡を残す78力所の交点ができる。そして、この冬至線・夏至線によって、富士山、白山、鹿島神宮などの重要な日本の信仰施設が結びつけられている。
三輪山と大和三山~その隠しえない方位
大和桜井の三輪山は、言うまでもなく神武天皇以前の三輪王朝の中心地だと考えられている山だ。そしておそらくその通りである。ただ、三輪王朝なるものがいかなる政治的実体を持っていたのかははっきり分からない。
三輪山の張り出し台地のその部分は三輪神社の禰宜(ねぎ)しか入れない聖地で、冬至線に沿って一直線に巨石が配列されている。また、(まだ研究が地域的に行き届いていない)北海道を除く本州・四国・九州には全部で78力所の冬至線・夏至線の交点があるが、不思議なことに三輪山以外はどこも(禰宜だろうと神主だろうと)人が足を踏み入れないことが前提になっている土地である。
その交点にはほとんど巨石遺跡または巨石だけがぽつんとある。人口が稠密(ちょうみつ)になっている現在においてさえ人は住めない地ばかりだ。ときには、岬の先の海の中だったり、崖が急に迫っていたりと、それらがきわめて意識された位置であったことがうかがえる。いずれも列島全体をおおう太陽信仰と暦に対する意識があったことを示すもので、その高い技術は、現代人のそれをもしのぐ。
要するに、縄文晩期以降に三輪山を基点として、その基点から30里の距離で冬至線、夏至線がセットされ、菱型というか籠目の紋様を地上に織り成すネットワークが作り出されていた。おそるべき天体観測力と地上測量力と土木工事力だが、これを成しえるのは、現在のところ推測すらされていないほど強力な王権だったかもしれない。
蘇我氏が登場するまでの日本においては、農業と日々の生活をともに司る太陽の運行のスケジュールの(精神的)管理が価値観の中心であった。古代的な太陽運行を基軸においた暦と、その管理・伝達・告知を中心とした祭祀である。日時計、年時計はその重要な中心である。世界のどこにおいても、大枠として同じものを見ることができる。
日本列島の特徴として石などの建築物よりも山そのものが重要だった。
そしてその太陽信仰の中心が三輪山にあった。
冬至線・夏至線の時空間とネットワークの交点
78力所を計算するためには北海道を除いているが、縄文時代が北日本を中心にしていたことを考えると、南北海道にも本来冬至線や夏至線を引いてみなければいけないだろう。しかし、それはまだ次の研究課題である。それでも交点の78力所はなんと南北2000キロに及ぶ範囲に分布している。縄文晩期までの北日本ネットワークはもちろん、それにとってかわった三輪山基点とするネットワークもそこまで広がっていた可能性があって、それは驚くべき広さだと言える。しかもはっきりした一貫性がそこにあった。
その一つが交点が丹念に人里を避けられているということで、その交点の多くには、目印であるのか、儀礼に使った跡であるのか、「巨石」が置かれていることが多いことだ。
三輪山−畝傍山冬至線の30里北に平行するのが三上山−太郎坊冬至線だったことは詳しく述べた。そして三輪山−畝傍山冬至線から30里南に平行する冬至線は、驚いたことに富士山に至っている。冬至線は富士山頂をわずかに北にはずれたところを通り、小室浅間神社(おむろせんげんじんじゃ)の上を通る(図16)。そして、そこから東南東にある浅間神社からわずかのところが夏至線との交点である。そこも人は足を踏み入れない場所だ。
もはや明らかだろう。冬至線と夏至線のネットワークは意識的に作られ、大和の支配者はその空間感覚を持って列島を支配下に置いていったということなのである。
つまり、冬至線や夏至線上には重要な神社などが多数載ってきて、人が集まる所も多数あるのに、30古代里を単位に線を引いた籠目のネットワークの交点上には必ず荒地や(ちょうどそのあたりから)海や山間の谷や川の洲などがあるのである。
だが、太陽に関する儀礼のネットワークを最初から作ろうとしたのだと思えば不思議ではない。大和の三輪山にあった神(官)の王朝は、古墳時代前には大変な(精神的)権力を持っていたのだろう。
[出典:シリウスの都 飛鳥/栗本慎一郎(たちばな出版)]
新価値観の登場~応神天皇陵
古墳時代のあるときから、全く太陽を意識しない特別の方位を持つ前方後円墳が現れ始めた。太陽のネットワークからの脱出、それはまさしく大々変革だ。「前方部」を真北から20度西に傾けた前方後円墳である。
聖なる方位という意味でそれを「聖方位」と名づけることにする。そして聖方位は、冬至線・夏至線のネットワークをもつ縄文時代以来の太陽のネットワーク・システムに「侵入」し、自分たちの新たな価値観の存在を主張した。
聖方位前方後円墳は文句なく絶対的に巨大であるか、地域古墳群中最大のものである。そういう意味でも特別に「聖」なる性格があることが予測される。
聖方位の巨大墳建設は、会津若松から始まっている。
聖方位前方後円墳の建設の波は、大和への進出の勢いが本格的になる時期(5世紀半ばから6世紀前半)にやってくるということだ。この時期に、聖方位前方後円墳は、常陸から大和まで連続して造られる。以下に聖方位前方後円墳の築造時期と場所を示す。
つまるところ、古墳築造9期から10期、すなわち6世紀前半に蘇我氏の勢力が列島内で本格化したのだった。そして蘇我氏が常陸から大和へと進出するにつれて聖方位前方後円墳の建設が行われていった。伝えられるところ(『古語拾遺』)によると、5世紀後半の雄略朝で蘇我満智が国の財政を担当したというが、その後、飯豊皇女と顕宗(けんぞう)、仁賢(にんけん)両帝の時代を経て6世紀前半に蘇我一族が大和朝廷で力を増してくる。
[出典:シリウスの都 飛鳥/栗本慎一郎(たちばな出版)]
大和の「聖方位」~法隆寺の謎
北北西20度傾斜の構築物は前方後円墳だけではない。ついに大和の大王権の座にまで到達した蘇我氏一族は、飛鳥の地にこの聖方位で様々な建築物を作った。あるいは都(京)自体を作った。言うまでもなく、飛鳥は蘇我氏の都である。
蘇我氏系が作った建物のなかで聖方位が完璧にあるのはまず、聖徳太子の作った原法隆寺だ。現在の法隆寺(奈良時代)でも充分に古く、世界最古の木造建築物なのだが、太子が607年(推古15年)に創建したと言われる原法隆寺のほうは670年に焼失したとされる(実は遺跡には充分な焼け跡や焼け焦げがないため、火事というのはどの程度のものなのか疑問が残る。一部が焼かれ、全体としては叩き壊されたのではないか)。今日、若草伽藍と呼ばれる、現在の法隆寺の東南方に当たる部分がその原法隆寺である。そこは聖徳太子の宮殿の一端だった。
そこに残されていた塔心礎(とうしんそ)の石が明治半ばに盗み出され昭和14年に返還されるという、まことに信じがたい事件があった。そのようなことが、単純な個人によって行われうるだろうか。何はともあれ、その時に計りなおされた創建時における法隆寺の建築主軸の方位は、建築学者たちにとってさらに信じがたいものであった(歴史家はこの問題について鈍感であった)。主軸は真北から20度西に傾けて建造されていたのだ。つまり聖方位である。
一方、現存する法隆寺のほうは、真北に向けてではなく、北から西に4度ずれた方位で建てられている。新規建築はそれまでの都市の方位や構造に合わせるものである。あるいは、火事で焼けたから再建したというなら、元の建築方位に合わせるものだ。ところがそうはしていない。
飛鳥に隠された聖方位はおそらくまだ山のようにあるだろう。まずいずれも直接、蘇我氏に関係している。
蘇我氏の腹心であった司馬氏の氏寺が坂田寺である。近江の坂田(坂田郡は米原などの北近江)から移築したものと伝えられるが、この寺の境内ははっきり聖方位を採っていた。
また坂田寺から北北西に聖方位の線を引けば、蘇我馬子屋敷跡を通り、板蓋宮の北東の端をかすり、飛鳥寺へと向かっていく。坂田寺は、飛鳥と蘇我氏にとって重要な施設であった可能性が高い。そこには梁(502−557年)からの帰化人司馬達等が住み(娘の嶋が寺を作ったとも言われる)、不思議な外来の仏を祀っていたという。達等の孫が止利仏師だ。坂田寺の不思議な仏とは、言うまでもなく弥勒すなわちミトラであった。飛鳥に聖方位を隠すという、このこだわりは並々ならぬものではないか。
もし坂田寺の司馬氏が、ミトラこと弥勒の信仰を6世紀初頭から行っていたとするなら、日本への仏教の伝来は538年でも552年でもなく、少なくともそれより何十年も前だということになる。そしておそらく、それが真実だろう。
公式の仏教伝来の年は朝鮮半島の百済から仏典その他が飛鳥にもたらされた時だが、他の多くの文化要素ともども、弥勒信仰の仏教も日本海—北日本経由の道と、半島経由の道とがダブっていても不思議はない。おそらく、聖徳太子が編纂して失われたという『天皇記』、『国記』にはそれが書かれていたはずである。
坂田寺のほかには7世紀初めに蘇我稲目によって小墾田の地から移された(と思われる)豊浦寺がある。聖方位を持ち、境内に残る不思議な立石(板石という)は真北から聖方位方向に角度を振られて立てられている。意味はまだ研究中である。
同じこだわりは、やはり蘇我氏の腹心であった秦氏の氏寺である太秦寺の近くの木嶋坐天照御魂神社の、有名な正三角形をなす鳥居に見られる。
この鳥居は三角形という不思議な形をしているだけでなく、不思議な方位を採っていることでも知られている。なぜならその一辺は、北に向かって真北から20度西を指しているからだ。つまり正三角形をなす有名な鳥居は、その一辺が聖方位を指し示していたのである。
[出典:シリウスの都 飛鳥/栗本慎一郎(たちばな出版)]
近江における二つの価値観の交錯と交替
蘇我氏や聖徳太子にとって八坂神社は非常に重要な施設であったはずである。
八坂(ヤサカ)とは「八つの蘇我」と思われるからである。八坂神社はすべて、現在、京都の八坂神社を本社とする。この八坂神社はもともとは祇園社という仏教的響きを持つ名を持っていたが、近世に廃仏の影響を受けて、地名であった八坂を神社名とした。だから昔から八坂神社ではない。しかし、地名が元からヤサカであったということには大きな意味がある。近江には日吉神社、天満宮、春日神社と並んで八坂神社が非常に多い。それらはすべて何かの意味を持って建設されているようだが、ここで問題にしていくのは「方位」である。
近江の長浜の南西端、田村に一つの八坂神社がある。この八坂神社から夏至線を引く。すると冬至の日出にあたる南南東に近江町多和田の八坂神社が載ってくる。夏至線だから、それは三輪山を基点にするネットワークの一端と言えるものだ。ところが不思議なことに、多和田の八坂神社から真北に向かって20度西に傾けた線(聖方位線)を延ばしていくと、そこに山室町の八「阪」神社が載ってくる。
音はすべて同じヤサカだ。また、すべて坂田郡、つまりサカ・タ郡にある。近江において三輪山ネットワークの一端が聖方位と関わっている(交錯している)ことが見て取れる。
つまり近江で太陽のネットワーク線と聖方位線が交わっているのだ。要するに近江は、この両方の価値観が交錯したところではあるまいか。八坂神社がそのキーをなしているだろう。
もう一つわれわれが近江で発見した両価値観の交錯は、かの武士団の本拠地沙沙貴神社だ。沙沙貴神社は太郎坊を通る夏至線上に作られていた。ところがきわめて奇妙なことに、神社は四角く囲った境内で一見、十字をなすようにレイアウトされている(ミトラ教の十字形を想起せよ)にもかかわらず、南からその十字回廊に入っていく参道が、わざわざ真北から西に20度傾いているではないか。沙沙貴神社のなかに、太陽のネットワークと聖方位が混在している。
これは近江源氏の祖、オオ氏が東国から来たということを考えれば当然のことだったかもしれない。北日本の扶桑国から来たオオ氏がササキ氏になった。すると仁徳天皇の本当の呼び名オオササキノミコトとは、露骨に扶桑国出自を示す名前ではないか。
[出典:シリウスの都 飛鳥/栗本慎一郎(たちばな出版)]
八坂神社は通称として祇園さんや八坂さんとも呼ばれる。祇園祭(祇園会)の胴元としても知られ、全国にある八坂神社や素戔嗚尊を祭神とする関連神社(約2,300社)の総本社。
昔は祇園神社と言っていた。しかも、祭神が明治以降入れ替わっている。
神仏分離令以前の祭神は、沙竭羅竜王(サガラリュウオウ)と頗梨采女(ハリサイニョ)だったが、神仏分離令によって明治以降は、素戔嗚尊(スサノオノミコト)と櫛稲田姫命(クシナダヒメノミコト)と八柱御子神(ヤハシラノミコガミ)になった。
櫛稲田姫命は素戔嗚尊の妻。八柱御子神は、素戔嗚尊の八人の子供たち。
この中には大己貴神(オオナムチノカミ)も大国主命(オオクニヌシノミコト)他の姫様、酢芹姫や、葛城一言主、大歳神などが祀られている。
神社の由緒には、牛頭天王というのが実は素戔嗚尊で同一だと書いてある。
しかしこれは、ありえない。同一体ということにして素戔嗚尊に入れ替わってしまったということです。
ではこの牛頭天王というのは誰なのか?
昔祇園神社と呼ばれていた祇園から連想されるのが仏教の祇園精舎。祇園精舎というのは、インドのシュラーヴァスティーにあった寺院で、釈迦が説法を行なったとされる場所です。
由来はというと、「ジェータ太子の森」と「身寄りのない者に施しをする」という意味が結合したのが祇園精舎の意味で伝説によれば、
”インドのその場所に、スダッタという長者がいて、貧しい人たちに施しをしていた。ある日スダッタが釈迦の説法を聞いて感激して仏教に帰依し、釈迦の説法のための寺院を寄付しようと思い立ち、ちょうどいい場所が見つかった。それがジェータ太子の所有する森林だった。そこで、土地の譲渡をスダッタはジェータ太子に申し入れた。するとジェータ太子が冗談で、「必要な土地の表面を黄金で覆ったら、覆った部分の土地を譲ってやろう」と言った。しかしスダッタが本当に金貨を敷き詰め始めたので、ジェータ太子は驚いてそのまま土地を譲渡して、自らも森林を寄付して寺院建設を援助したという。”
そこが祇園精舎という所であり、牛頭天王というのが実はこのスダッタという長者なのです。(前世でスダッタだった人)牛頭天王に関係しているから、祇園神社というのです。
この沙竭羅竜王こそ、ジェーダ太子であり、当時の妻が頗梨采女です。(※後離縁)
このように明治以前には、日本で祀られていたのです。神々が入れ替わっているのです。
※余談ですが、実はこのようなことはよく起こっています。神社の由来に書かれている神々が実際まったく入れ替わっていることがあります。ですから、ご祭神の名前がすべて正しいとは限らないということをチョット意識しておくことも大事なのではないでしょうか。
シリウスとペルセポリスと聖方位
ところで、この真北から西に20度傾くというのはどういう意味を持つものなのだろうか。実は、紀元前500年頃にアケメネス朝ペルシアが首都ペルセポリスを建設したとき、都市全体を聖方位で建設した。
当時のペルシアでは、新年は冬至の真夜中、今で言う12時に迎えた。暦はシリウスの暦だった。その意味で、人は「光」の根源を太陽よりシリウスに感じていたのだ。実際、全宇宙的にはシリウスのほうが太陽より上の存在だろう。知識階級の神官(マギ)たちはこのことを知っていた可能性もある。
紀元前500年頃、ペルセポリス(北緯29度57分、東経52度22分)の冬至の真夜中、今で言う12時にシリウスは真南から20度東に傾いた方向に煌々と輝いた。
私たちは、現地調査の結果、次の事実も発見した。まずペルセポリスが聖方位を持ち(これは誰でも否定しようがない)、入口が西面していることによって、まさに鹿島神宮と同じように、西から入って北から南に向かい、神殿または王宮は北に向かっていて南は開けていることを確認した。聖都の真横(東側)には、ペルセポリスを訪れる者の誰の目にも印象的な山(丘陵)がある。
クーヘ・ラフマト(慈愛の山)とはアラビア語の影響で変えられた名前で、古い文献には、この山はクーヘ・ミフラ、つまり、クーヘ・メトラ(ミトラの山)という山だったと示されていた。つまり、ペルセポリスはミトラ山に寄り添うように建設された都だった。
物理的に近かったペルシア
確かにペルシアは、一見、遠い土地だ。だがそれは中国を間において考えるからそうなるにすぎない。そもそも北ユーラシアの遊牧民国家は紀元前から立派な駅伝制度を作っていて、それを用いれば特別の伝令でなくとも3000キロを十数日で移動していたことが確認されている。その移動力をこれまで歴史家は過小評価してきた。
例えば、日本からペルシア北部まで行く場合は、中国西部からいわゆるシルクロードを通るのが、一見、最短路に見えてしまうが、実際はバイカル湖南部を通るのが最短路なのだ。つまり、草原の道である。
ペルシア(イラン高原東部)から日本列島に来る一番の近道は、アフガニスタンや北西インドヘは行かずに、天山山脈の北に出て、ジュンガリア、アルタイなとからバイカル湖南部(あるいはモンゴリア北部)を通って沿海州へ出るルートだ。沿海州からは、北日本へ船で渡る。
要するに、ペルシアから日本へは一ヵ月で来られる。ただし、一ヵ月で来る必要性はなかったのである。
[出典:シリウスの都 飛鳥/栗本慎一郎(たちばな出版)]
ヤマトタケルと白鳥伝説
死んだヤマトタケルは白鳥となって空を飛び、河内の志貴に降り立つ。その志貴に墓が造られ、それが白鳥陵となる。ヤマトタケルと白鳥の伝承は(記紀的には)ここに起源を持つが、もっと別の精神的起源も持っている。人は死して白鳥となり飛んで天界へ帰るという、古くからある思想だ。
白鳥は、物理的にも精神的にも北アジア、それもバイカル湖からやってくる。日本で最も白鳥の飛来が多いのが青森の陸奥湾だ。したがって、東北地方には多くの白鳥伝説が残るのである。同時に羽衣伝説も残している。羽衣が、はっきり天界と繋がる契機になっているものである。
ただし、白鳥伝説と天の羽衣伝説が重なるのは日本ではわずかに二例しかない。この二つとは、常陸の潮来の白鳥の里に残るものと、後述の近江・余呉湖のものだ。つまり「日立ち」と「あおみ」である。
それにしても、近江まで来ると白鳥伝説には明瞭な(バイカル民話そのものの)形を取るものが現れた。『近江国風土記逸文』が伝える白鳥伝説である。
琵琶湖の北にある小さな湖である余呉湖に八羽の白鳥が飛んできて地上で天女に変身した。これを見ていた若者が、一番若い天女の羽衣を盗んだ。
他の天女は羽衣を身にまとうと再び白鳥になって飛び去ったが、羽衣を盗られた天女は白鳥に戻って飛翔することができず、その若い男と夫婦になって二男二女をもうける。
しかし、天女は天上の故郷を思う気持ち忘れがたく、ついに男が隠していた羽衣を見つけ出すと、それを着て白鳥の姿に戻り天界に舞い戻ってしまうのであった。これと全く同じ民話が、バイカル湖にあることは有名だ。余呉湖の白鳥が産んだ子供の一人は赤児の頃は泣き虫だったが、非常な秀才で学者の菅原家に養子に行き菅原道真となったという伝承がそこに残っていて、われわれを一瞬唖然とさせる。だがそれは、なぜ天神様が異界から来た厄神の一種なのかという疑問に少しは答えてくれるものではないか。道真は白鳥を母とする異人だったのである。
われわれにとって最も重要なことは、スキタイ—サカ人が日本のそれとほとんど同じと思わざるをえない建国神話を持っていたことだ。このことが多くの学者の関心を惹いて、神話が「伝播」したのだ、いや独自に起こったものだという議論を呼んできた。
とりあえず、「事実」を追うことにしよう。スキタイ—サカ人の神話によれば、民族の始祖タルギオタオスは、天上の最高神パパイオスとドニエプル川の神の娘である女神との間に生まれた。そのタルギオタオスの息子たちの時代に、あるとき天から三点の黄金の宝器が降下し、それを手に入れた末弟のコラクサイスが、二人の兄たちによって王と認められ、王族の祖先となったという。
日本神話では、初代の天皇となった神武帝の父であるウガヤフキアエズノミコトは天孫ニニギノミコトの子である天神ホヲリノミコトと、水を支配する神ワダツミの娘のトヨタマビメとの結婚から生まれた。そして王家、王権のしるしとして天から三点の宝器が降下した。
日本とスキタイーサカの二つの神話は、神話学の分類の上では、全く同じと言っていいほどのものである。
[出典:シリウスの都 飛鳥/栗本慎一郎(たちばな出版)]
蘇我氏とミトラ教的宇宙観
蘇我氏はおそらく5世紀後半から6世紀にかけて、北日本にやってきた北ユーラシア系の民族である。越の国には以前から日本海を渡って日本列島に来た民族がいたはずで、その中から応神らの第一波北日本系勢力がヤマトの地までやってきたとわれわれは考える。
越の王城・秋田の古四王神社
中国の北魏で扶桑国と呼ばれていた国は、日本国内では「越」の国と呼ばれていた。ヤマトは三輪山の王朝によって開かれた。そこに九州から物部氏、越から応神のオオ氏が加わった。越からは二波に分かれてヤマトヘの波があって、一波目が応神朝で二波目がそれを追ったところの蘇我氏の登場期である。
先に5世紀末の重要な人物として飯豊皇女の名を挙げた。出身の系譜(父履中天皇、母葛城氏の黒媛)から言えば明らかに葛城氏の系統だが、清寧天皇が死去した後、『古事記』によれば実質の天皇になった(482年から485年の間のこと)。
また『日本書紀』によれば、雄略天皇によって殺された飯豊皇女の兄、市部押歯皇子の子供二人を清寧天皇が死ぬ前に播磨から引き取って、そのうちの兄を皇太子にして以降摂政となった。
飯豊皇女は飯豊青皇女であり青海皇女でもあり、飯豊青尊となる。「みこと」とは天皇にしか用いない尊称で、この高貴な女性は平安末期12世紀の史書『扶桑略記』(僧皇円著)で日本最初の女性天皇とされている。実はわれわれもそのように考える。彼女は、日本王権史に大きな転換を与えるきっかけを作った女性である。
蘇我氏が登場するのがこの飯豊青皇女とほぼ同時期であることに注意しよう。つまり北日本扶桑国の王・蘇我氏が飯豊青皇女のバックとしてヤマトに登場したと考えられるのである。
飯豊青皇女は、蘇我政権への架け橋役として登場した。そのため、後の正史(記紀)から天皇としての名を外されたのである。
青海は新潟県南部にある場所で、そのすぐ南に黒姫山がある。その黒姫山を含め、越後にはいくつもの黒姫伝説がある。黒姫または黒媛は、飯豊皇女の母の名前だった。
そうなれば、想起されるのは新潟に二つある青海神社だ。
一つは県西南部の青海町にある青海神社で、そこにはおそらく伝承の本拠地であろう黒姫山がある。西に糸魚川があるこの青海(現青海町)こそが、フォッサマグナによるヒスイの産地であり、日本海岸に親不知子不知という自然の難関を作って、北日本から北陸への直接の通行を妨げた地域である。もう一つの青海神社は、北部の加茂市にある。この加茂市の周りには黒姫伝説が全く採取されていないのに、多数の古四王神社が密集して存在する。いわば越後の古四王神社地帯なのだ。
飯豊山という山が、新潟と山形と福島の県境にあることも有名だが、その山頂には飯豊山神社がある。ここは「いいでやま」と読むが、古来から東北の発音では「とよ」が「で」になる。それだけのことである。この神社は南入りではあるが、なんと方位軸が真北から20度西に傾いている。聖方位ではないか。これがついに発見した飯豊に関わる聖方位だ。
飯豊皇女と越の国、その王である蘇我氏、4、5世紀における越の国の重要拠点である常陸の鹿島、大陸との主要交易品ヒスイとの関わりがここに示されたと言えるだろう。
飯豊皇女と古四王神社および鹿島神宮
新潟、山形、福島には地名として飯豊がある。飯豊町も飯豊山も飯豊川もある。まず福島県西白河郡大信村には飯豊比売神社がある。明らかに飯豊皇女である飯豊比売だけを祭神としているこの神社は、かつては鹿島神社だったと伝えられている。ここで鹿島神宮と飯豊皇女が繋がっていた証拠が一つ、具体的に挙がったわけだ。
常陸国風土記によれば、鹿島の祭神はタケミカヅチの前は香嶋天之大神であった。藤原氏が後に、春日大社に鹿島と香取両神宮の神を遷座させた。
山形県西置賜郡には、その名もずばり飯豊町が存在する。ここには古四王神社がある。このことは、飯豊皇女と越の国の関係を示すと同時に、飯豊の名が鹿島神宮と古四王神社を代替していることを示しているのではないか。
[出典:シリウスの都 飛鳥/栗本慎一郎(たちばな出版)]
【参考文献】
・シリウスの都 飛鳥/栗本慎一郎(たちばな出版)
・日本建国の秘密