日本史

【新説 日本史_012】古代政治と神々

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大化の改新とは、蘇我系の神である八幡系の神と、クーデターを起こした中臣鎌足や中大兄皇子側の春日系の神が背後にあった蘇我氏を滅ぼすためのクーデターだったという説に基づき、武甕槌神(タケミカヅチノカミ)の神社とされる鹿島神宮に関しさまざまな文献を参考に解説していきます。

千葉市蘇我の蘇我比咩神社(ソガヒメジンジャ)

倭建(ヤマトタケル)が浦賀水道を渡る時の嵐を鎮めるために身代りに海に身を沈めた弟橘姫(オトタチバナヒメ)とともに、蘇我大臣の娘と同行の三人の姫も入水した。このうち蘇我比咩だけが蘇我の海岸に打ち上げられ、里人の看護で無事都に帰ることができた。
その後応神天皇のとき蘇我一族の者が当地に国造として派遣され蘇我比咩を祀った。この神社はいつの時代にか「春日大明神」といわれるようになったが、平安時代の「延喜式」では「蘇賀比咩神社」と見えている(『日本地名大辞典』角川書店)。

この神社が地元の人々からいつしか「春日大明神」といわれ、祭神は天照大神、蘇我比咩大神、応神天皇、御霊大神(みたまたいしん)であり、この御霊大神が春日大明神とされた。春日大社にはこのような神はいない。

神は伊勢神宮から招来された比売神(天児屋根命の妻)・タケミカヅチ・経津主(フツヌシ)・天児屋の四神であり、本来の藤原氏の氏神はアマノコヤネだけである。

ともあれ御霊大神は春日大社の神ではないのにそう言われるようになったというのは、ソガの神を春日大社に奪われた記憶が鹿島、香取の両神宮に近い下総の人々に残存していたことを物語るのではないか。
[出典:扶桑国王蘇我一族の真実/渡辺豊和(新人物往来社)]

御霊大神とは比売神(姫神)のこと。
中臣氏(なかとみうじ)は、忌部氏とともに神事・祭祀をつかさどった中央豪族であった。中臣鎌足は、臨終に際して大織冠とともに藤原姓を賜った。
本来の中臣氏の氏神は天児屋根命であり、藤原氏は武甕槌神である。本来経津主は藤原氏とは関係ないが、武神の怒りをかってはいけないということで祀っている。

”御霊大神は春日大社の神ではない” ”ソガの神を春日大社に奪われた”
という記述から、おそらく梅原猛氏の影響を受けているものと思わる。梅原猛氏の著書『神々の流竄』に、”武甕槌神は蘇我の神”と書かれている。

武甕槌神は藤原氏の神である。なぜなら、滅ぼした蘇我氏の氏神を祀るなどということはありえない。聖徳太子のように呪いを恐れてを祀るようなことはあっても、氏神として祀ることは決してありえない。

武内宿禰の影

武内宿禰は八代孝元天皇の皇子:彦太忍信(ひこふとおしまこと)の子であり、波多、巨勢、蘇我、平群、紀、葛城、江沼の諸氏が子孫であり、この諸氏は応神王統の中で目立って活躍するから、応神王統は武内宿禰の一統によって支えられていたといっても過言でない。宿禰が五代の天皇の中で最も活躍するのは神功皇后と応神天皇の母子のためにである。

仲哀天皇(倭建の子、景行天皇の孫)は神功皇后を伴って北九州の香椎宮に行き、ここを根拠にクマソを討とうとしていた。ところが皇后が神に憑かれてこれに反対する、これといった産物のないクマソの国を討っても無駄で、海を渡ってあり余る財を誇る三韓を討つにしくはなしと強硬に主張する。天皇はこれを絶対に許さなかったが、神の逆憐にふれ急死してしまった。

神功皇后は武内宿禰や諸臣を従え渡海し、新羅、百済は恐れて服属を誓った。この二国を屯倉(支配地)として帰国し、筑紫で皇子、後の応神天皇を生む。しかし大和では仲哀の二皇子、香坂と忍熊が力を得ていて、簡単に大和に入ることができなくなっていた。

神功皇后は幼い応神天皇を武内宿禰にあずけ、自分は兵をつのって二皇子と戦う。結局は勝利するが、武内宿禰は応神天皇を抱いて近江から若狭を経て越の敦賀に行ってここに隠れひそむ。この隠れひそんだ場所に応神天皇を祀って気比神宮が造られている。神功皇后の摂政時代は長く、『日本書紀』では69年となっている。
[出典:扶桑国王蘇我一族の真実/渡辺豊和(新人物往来社)]

氣比神宮(けひじんぐう)というのは、氣比大神:伊奢沙別命(いざさわけのみこと)を主祭神として、仲哀天皇、神功皇后、日本武尊、応神天皇、玉妃、武内宿禰というこの一族を祀っているお仲間たち。

なぜ住吉さまが宇佐神宮に現れるのか

宇佐神宮の放生会(ほうじょうえ)では、まず、宇佐神宮の周辺の神社で、宝鏡を造り、これを奉納する。また、船団に神体の傀儡子(くぐつし):操り人形を乗せ、浜に向かう。ここで、ハマグリなどの生き物を放流する。そのあと、祭りのクライマックスで、傀儡子たちが細男の舞を演じる。

ここに登場する傀儡子は、神功皇后の眷属(一族)という設定になっている。傀儡子は東西二手に分かれて、古要相撲を始める。互角に戦うが、やがて東軍が優勢になり、西軍は敗れる。ところが、最後の最後に、大逆転が起きる。海神の「住吉さま」が登場し、東軍をばたばた倒していく。

ひとつの事実に気づかされる。それは、仲哀天皇が亡くなった晩、住吉大神が神功皇后と結ばれたという話である。

これは、大阪の住吉大社の伝承であり、宇佐神宮とはまったく関係ないはずである。それにもかかわらず、なぜ「住吉さま」が宇佐神宮の放生会のクライマックスに登場していたのだろう。
[出典:神社仏閣に隠された古代史の謎/関裕二著(徳間書店)]

神功皇后が神に憑かれて、クマソを討つのではなく三韓を討ちなさいとの神託が下った。仲哀天皇は「そんな海の中にどこに国があるんだ。何も見えない」と言って疑義を差し挟んだ時、「なぜ神を信じないのか。汝は国を治められない。今、皇后は身籠っているが、その御子こそ国を治めるであろう」と神託が下った。

ところが、神託を受け入れなかった仲哀天皇は神の逆鱗に触れて死んでしまう。後でまた神を呼んで、神功皇后が神の名前を尋ねた所、こういう言葉があった。
「そのお心は天照大神にあり」と。将来の天皇はお腹の中にいる応神天皇がなるという事は、天照大神もご承知の事だと。

「我は、底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと)の三柱である」「我は住吉大神である」と神託を得た。

住吉大社に伝わる住吉大社神代紀には、「仲哀天皇が亡くなった晩に、ここに皇后、大神と密事あり」と記されている。(神功皇后と住吉大神が、夫婦の交わりを行ったと注を加えている)

仲哀天皇が死んだ後、住吉大神が巫女である神功皇后を気に入って妻にすると言って結ばれたということで、これは明らかに神功皇后は住吉大神の妻として同時に祀られる事になって、非常に位が高くなった。

人間的で下世話な見方をする人は、「その夜、そこに居た男(ヤツ)は武内宿禰だけなンだから、応神天皇ってのは武内宿禰の子に違いねぇ」と。

神々の世界を知らない人からすれば、そんなふうに勘ぐっても仕方ないのですが、神功皇后は仲哀天皇との子をすでに身籠っていたのです。

実はその応神天皇というのは、住吉大神の中の表筒男命(うわつつのおのみこと)という神様の本当の霊的な息子なのです。
生物学的には仲哀天皇の息子なのですが、霊的には住吉大神の、表筒男命の息子が転生に入ってくるのです。

梁書による日本国の構成

梁書』に描かれている日本の時代は継体天皇出現の直前である。
『梁書』に記されている扶桑国は、北海道渡島半島北部に都を持つ国であった。当時日本は、九州阿蘇山の倭国、出雲の文身国、河内の大漢国と扶桑国と4か国が並存していたらしい。『梁書』では、扶桑国の記事が最も分量が多い。

扶桑とは、果実の木で、実が赤く梨に似ているというから、どうもリンゴらしい。国王は乙祁といった。また、宋の大明2(458)年、罽賓国(ガンダーラか)の僧5人が来て、経典・仏像を伝え、教えを広めて人々を出家させ、やがてその風俗も変わったというが、このことは注目していい。

日本の正史(『日本書紀』)では、仏教伝来は欽明天皇の時代、538年か552年のどちらかに、百済の聖明王が仏像と経典を貢納してきた時であるとされているから、それより100年近く早い。

もう一つ気になるのは、扶桑国では王のことを乙祁といったことである。ちょうどこの頃か、もう少し前の大和朝廷の大王は遠祁であるから、これは扶桑国王であったのに違いない。雄略天皇の死後、息子の清寧天皇が継ぐが、彼には子がなく、その死後適当な後継者が見つからなかったことが記紀に記されている。そこで、播磨の田舎に隠れていた、雄略天皇の4代前の履中天皇の孫にあたる兄弟が見つけ出されて、即位したのが遠祁王であった。

清寧天皇が死んで、応神系の血が絶えようとした時に、しばらくは履中天皇の娘・飯豊皇女が政治をみたとされ、彼女が自分の同腹の兄の子である兄弟を見つけることになっている。

扶桑国の近く、東46キロメートル強のところに女国があるとされ、これはアイヌの国を指しているらしい。ところが、張説の『梁四公記』には扶桑の都を女国がいくつも取り巻いていたとあるから、扶桑国は北海道・東北であり、アイヌに取り巻かれた国であったのであろう。
[出典:扶桑国王蘇我一族の真実/渡辺豊和(新人物往来社)]

改竄された飯豊皇女の真実

古事記は清寧天皇の段に
「天皇みまかりましし後、天の下しろしめす王なかりき。ここに日継ぎ知らしめす王を問うに、市辺忍歯王の妹、忍海郎女、亦の名は飯豊王、葛城の忍海の高木の角刺(つのさし)宮にましましき」
と述べて、清寧の没後、飯豊皇女が皇位を継いだことを記している。そして、治世の間に、播磨に隠れていた意祁(おけ)(仁賢天皇)袁祁(をけ)(顕宗天皇)の兄弟が現れたので、彼らに皇位を譲ったとしている。

一方日本書紀は、清寧天皇の在世中に億計(おけ:仁賢天皇)、雄計(をけ:顕宗天皇)の2皇子が発見されるが、やがて清寧は没する。ところが、兄弟は皇位を譲り合って決しない。そこで
「これによって、天皇の姉、飯豊青皇女、忍海の角刺宮に、みかどまつりごとしたまい、自ら忍海飯豊青の尊と称えたまいき」

と顕宗紀に記している。すなわち、古事記が飯豊皇女を履中天皇の娘とし、また、その皇位継承を公式なものとしているのに反し、日本書紀は、皇女を市辺押磐皇子の娘で2兄弟の姉とし、かつ、その皇位は全く臨時的方便的なものとしており、飯豊の皇位継承は無かったごとく記している。しかし、彼女が女帝、それも、日本最初の女帝であったことは疑得ないように思われる。

それは、後世、天皇就任を渋る炊屋姫(推古天皇)に対して聖徳太子が、「女性の天皇は飯豊青皇女という前例があります」といって説得するという話がある事でも確認できる。
ところで日本書紀はこの飯豊青皇女について、清寧天皇三年秋七月の条に以下のような短い記事を突然挿入している。前後の脈略とは何の関係もなさそうに見える記事だが、一体何のためにここに記載されているのか昔からの謎の一つである。

「飯豊(いいとよ)の皇女(ひめみこ)、角刺(つのさし)の宮にて、夫(おとこ)と交(ま)ぐわいしたまいき。人に語りて曰く、ひとはし女の道を知りぬ。またいずくんぞ異ならん。終(つい)に、まぐわいを願わじ、とのたまいき」
[出典:扶桑国王蘇我一族の真実/渡辺豊和(新人物往来社)]

古事記と日本書紀で記述が違う。古事記が飯豊皇女を履中天皇の娘としてその皇位継承を公式なものとして書いている。古事記の方は市辺押磐皇子の方の妹として書かれている。ところが、日本書紀の方はオケ、ヲケの姉として書かれている。
日本書紀の方は、皇女を市辺押磐皇子の娘で二兄弟の姉として、皇位というのが全く臨時方便的なもので、飯豊の皇位継承はなかったのもののように記しているが、これは明らかにおかしい。

推古天皇に対して聖徳太子が、「女性の天皇は飯豊青皇女という前例があります」といって説得するという話があるように、明らかに天皇として知られていたのに、日本書紀では天皇ではなかったように書いてある。

さらに、飯豊皇女が角刺宮で男性と性交渉をしたと人に語って一通り女の道を知ったがどうという事はなかった。だからもうしたくないと言った……というような冒涜する文章まで載せている。

このように、日本書紀は凄まじく改ざんされており。意図的に歴史の真実を隠蔽しているということなのです。

歴史から抹殺された蘇我氏の真実

継体天皇というのは、大伴、物部の方が連れて来た天皇で、蘇我と最初から緊張関係にあり、遂に連合政権として継体天皇を擁護するようになったが、朝鮮政策という点では相容れず、物部の方は百済の中心の外交で、蘇我は全方位的な外交という形が対立構造を生んだ。大化の改新で蘇我が滅びると、中大兄皇子が百済を守るための支援をしたが結句は大敗を喫することになる。

大化の改新は、権力を握って驕慢になった蝦夷、入鹿親子の態度にあると古来言われてきた。皇極元(642)年7月にひでりが続いたので、蝦夷は寺々で経を読んで降雨を祈ることをすすめ、自分でも香をたいて雨乞いをした。雨乞いは天皇の専権事項であって、大臣といえども勝手にはできない。

同年10月には越の蝦夷が入朝してきたので、朝廷では宴を張って歓迎したが、蝦夷はさらに自分の家に呼んで宴会した。これも越権に近い。さらにこの年蝦夷と入鹿は葛城に祖廟を作り、八侑の舞いを催し、二人の墓をあらかじめ築造し、寿造の陵(天皇の墓の意)と呼んだ。

翌年には、蝦夷は病気を理由に朝廷に出ず、勝手に大臣のしるしの紫の冠を入鹿にさずけ、大臣の地位を与えてしまった。
皇極3(644)年になると、蝦夷と入鹿は甘檮岡に並べて館を作り、蝦夷の館を上の宮門、入鹿の館を谷の宮門といった。息子や娘を王子と呼んだ。

こうして皇極天皇になってから蘇我蝦夷、入鹿は天皇を無視し勝手な振舞いが目立ったが、天皇になろうとする形跡は認められない、と門脇禎二郎は言う(『蘇我蝦夷・入鹿』古川弘文館)。

確かに天皇側からすれば大変な増長慢である。しかし推古天皇からは、宮都は現在の明日香村であり、舒明・皇極と続いている。明日香、すなわち飛鳥はもともと蘇我氏の本拠地なのだ。天皇がなぜ三代も続けて蘇我氏の本拠地に宮殿を営むのか。

継体天皇の子孫である欽明、敏達、用明、崇峻ともに現在の桜井市に宮都を営んでいるのに、女帝の推古以来は蘇我氏の本拠地に居住させられているともとれる。

もともと継体天皇の政権は蘇我氏との連合政権であり、欽明から崇峻までは継体の本拠地磯城(桜井市一帯)を宮都としたが、蘇我氏の血を引く女帝・推古からは、政権は継体側から蘇我氏に移ったのではあるまいか。

蝦夷、入鹿が勝手な振舞いをし、天皇しかしてはならない雨乞いをおこない、あらかじめ自分の墓を作ったこと、自分の子を王子と呼ばせ、自分の館を「ミカド」と言ったというのも、彼らが天皇(厳密には大王)であったから当然である。

第一、彼らの館が甘檮岡にあって、天皇の宮殿の板蓋宮を見下ろしていたというのも奇妙な話である。身分の低い者が身分の高い者よりも高い場所にいて見下ろすなどありえようか。それは古今東西ありえまい。どう考えても推古以降は蘇我王朝であろう。

推古天皇の治世もすべて蘇我馬子のそれであり、馬子は大王、推古は継体系天皇家の祭祀権のみを握る巫女王であったであろう。外交に秀でているのは蘇我氏本来の特徴であるから、対隋外交はすべて馬子によってなされたはずである。

「冠位一二階」の制定も「一七条憲法」も大王馬子の業績であるのはいうまでもない。遣唐使小野妹子が中国皇帝から「蘇因高」という名を賜ったのは、自分を日本大王蘇我氏の重臣であると中国皇帝に強く言上したからであろう。
[出典:扶桑国王蘇我一族の真実/渡辺豊和(新人物往来社)]

大王:蘇我馬子

蘇我馬子が大王だった確たる証拠がある。法隆寺金堂薬師如来像の光背銘文である。
池辺治天下(用明)天皇が大変な辛労になって、大王、天皇、太子をともに召して、「私は大病になったが治ることを祈願して寺を建て薬師像を造ってほしい」と言った。しかし造らないうちに亡くなられてしまった。小治田大宮治天下(推古)天皇の時、大王と天皇と東宮聖王が大命を受けて奉仕した。推古元年より寺と薬師像を造りはじめ、同15年に造り終わった。

用明天皇が「大王、天皇、太子三人を召し」とあり、この場合用明天皇以外にもうひとり天皇が出てくる。これは誰かと思われるのだが、続いて推古天皇の時代になって、大王、天皇、東宮聖王三人が用明の遺志を受けて造寺造仏をおこなったということで、天皇は推古、東宮聖王は聖徳太子であることがわかる。

残る大王とは誰のことか。この当時そう呼ばれるべき人は蘇我馬子しかいない。ところがはるか後代の応永34(1427)年以降に成立した『善光寺縁起』には、この薬師像光背の文面があまりに奇妙なので、大王は敏達、天皇は用明、太子、東宮は聖徳太子のことであり、よく心得て読まなければならないと注意を促している。

しかしこれはおかしい。敏達が死去して用明、用明が死去して数年して推古が天皇になっているから推古天皇時代に敏達や用明が生きているはずがない。室町時代ではこうでも解釈しないと大王と天皇が同時存在していたことが説明できなかった。

しかし薬師像光背銘文は聖徳太子死去からでも50年ほどしか経っていないし、蘇我氏滅亡からなら20年たらずのこと、この文章の真偽を疑うことはできない。となるとこの「大王」は蘇我馬子と断言して間違いない。

推古天皇の時代に聖徳太子がおこなったとされる遣隋使、遣唐使、一七条憲法の制作、冠位一二階の制定など、すべて蘇我馬子によってなされた可能性がきわめて高い。彼こそ天皇だったのだ。『古事記』にはまったく記されていない聖徳太子は、どうも『日本書紀』で造作された匂いが濃い。

聖徳太子が作った法隆寺の仏像や絵画等の芸術品のほとんどが太子時代のものであるが、例外なく北魏様式であって朝鮮様式ではない、という伊東忠大の指摘は重要である。蘇我氏と北魏の関係を思わせるからである。

北魏は聖徳太子・馬子時代には、滅びて50年以上経っていたのになぜ北魏様式なのか。実は北魏の都洛陽(平城のあと)のことを書いた『洛陽伽藍記』には、倭館がなく扶桑館があったとあり、日本の代表は倭ではなく扶桑であった。

当時の倭は、北魏の敵対国・南宋と交通し、北魏とは外交関係はなかった。この洛陽の扶桑館に詰めていた者こそ蘇我氏の一類ではなかったか。もしそうであったとすれば、聖徳太子が北魏様式で美術工芸品を作らせたのも納得できる。
[出典:扶桑国王蘇我一族の真実/渡辺豊和(新人物往来社)]

法隆寺に残るペルシアの影

原法隆寺よりも前に建造されたのが四天王寺と法興時(飛鳥寺)であるが、『日本書紀』には法興寺が建造される時経綸とともに律師、禅師や寺大工、瓦職人、仏師などが百済の王から送られて来たとある。

ペルシア学の泰斗伊東義教はその名を解析して、寺大工などの職人はすべてペルシア人に違いないといっている。『日本書紀』では寺工太良未、文賈古子、鑪盤博士将徳白昧淳、瓦博士麻奈文奴、陽貴文、㥄貴文、昔麻帝弥、画工白加とある。

伊藤は「ダラミタ」は中世ペルシア語でそのまま寺工を意味し、「モンケコシ」はテント型の御堂(仏像を安置する厨子のことか)であり、「ショウトクハクマイジュン」は露盤(仏塔、五重塔などの相輪の下の台)受け、「マナモンヌ」は屋根葺き、「ヨウキモン」「リョウキモン」は丸瓦、「ジャクマタイミ」は鬼瓦、「ビャッカ」は彫刻の意味であるという。

寺大工と屋根葺きは職業、それ以外は仏寺に必要な厨子や瓦、露盤受け、仏像など物の名である。このことからも、百済王から送られて来たペルシア人は人名が記されたのではなくペルシアの専門職の名を帯びた職人たちだったことが示された。

伊藤は、すでに3世紀には中国南部揚子江沿岸の江蘇地方にはペルシア人が渡来・居住していたことが知られているから、これらの人々も江蘇地方から百済王に呼ばれ日本に送られてきたに違いないといっている。

不思議なのはササン朝ペルシアの宗教はゾロアスター教である。日本に仏教を伝えた仏教の先進国百済では、仏教寺院をゾロアスター寺院専門のペルシアの職人に任せていたのだろうか。しかも石造、煉瓦造の専門家にである。

この頃ササン朝ペルシアは文化の全盛時代であった。そうであればあるほどペルシアの職人が他国の宗教である仏教寺院を造るであろうか。現代でもアメリカ、ヨーロッパの建築家や大工が仏教寺院を造りに日本に来るであろうか。

職人が仏教徒ならいざ知らずキリスト教世界の彼らがわざわざ日本に来て仏寺を造るとは思えないし、時代はいわんや宗教に対して現代とは比較にならないほど不寛容の時代であった6世紀末か7世紀初頭に、そんなことがありえたであろうか。

百済の仏教ならいざ知らず、聖徳太子の青年時代の仏教はひょっとしたらゾロアスター教ではなかったろうか。それがたとえ仏教だったにしてもゾロアスター教と習合したものだったのではないか。

そうでないかぎり百済王がわざわざペルシア職人を中国から呼び寄せたりはしなかったはずである。ゾロアスター習合の仏教か、ゾロアスター教は当時の日本の新来宗教であり、それを積極的に受け入れたのが蘇我氏である。

推古30(622)年に死去した聖徳太子をしのんで遺族が釈迦三尊像を止利仏師に依頼して制作してもらい法隆寺に納めた。この法隆寺はもちろん原法隆寺であり、これは推古15(607)年に建立された。

この原法隆寺こそ飛鳥寺を造ったペルシア職人たちの腕によって建造されたのであろう。これが若草伽藍であるのならば主軸が真北より20度西に傾いていることが、そのことを如実に示しているに違いない。

蘇我馬子が物部守屋を滅したときに、物部の神を追放してその住居をどこかに造営したであろう。それが鹿島神宮だったのではないか。追放された神は物部の氏の神、フツノミタマである。この神の奉祀をさせられ大和から移り住まわされたのが多氏である。

大化改新以前に鹿島・香取両神宮周辺に盤踞していたのが多氏であった。タケミカヅチは、かつて鹿島に鎮座する前はここのすぐ南の潮来にある大生神社の神であり、大化改新後に鹿島神宮に遷座したらしい。

それ以前鹿島神宮の主神はフツノミタマであったろう。鹿島にタケミカヅチが祀られることになって新たに香取神宮を造営し、ここにフツノミタマを遷座したのではないのか。

『常陸国風土記』では、大化改新直後高向臣と中臣幡織田連とを関東の総領にしたとある。高向臣が長官、中臣連が副長官であろうと岩波書店刊の『日本書紀』の注にはある。

こうしておいて中臣部兎子らが高向臣に鹿島周辺の土地をさいて、神宮の神郡とすることを願い出た。高向氏は蘇我氏の一族である。蘇我本宗家を滅した朝廷が騒然とする関東をなだめるには蘇我氏の一族を派遣し治めさせるしか手はなかったことを、『風土記』の記事はうかがわせる。
[出典:扶桑国王蘇我一族の真実/渡辺豊和(新人物往来社)]

鹿島神宮と大生神社・大生古墳群

鹿島神宮の元社と呼ばれている社がある。
鹿島神宮より約8.5km北西の台地上に「鹿島ノ本宮」とも呼ばれる大生神社が鎮座している。伝承によれば当神社が鹿島本社に遷座したと記されているのである。
当神社に残されている古文書は幾つかあるのだが、簡略化してポイントを記述してみる。

南都自大生邑大明神→大生宮→鹿島神宮となる。

これは大和国十市郡飫富郷の多坐弥志理都比古神社(オオニマスミシリツヒコ:多神社)であってこれは多氏が奉じた社であった。つまり多氏の祖神を祀る大生邑大明神が茨城県潮来市大生の地に、そして現在の鹿島神宮へ移ったとしているのである。

大生古墳群
茨城県潮来市大生台地に100基以上の古墳が存在している。築造年代は6世紀中頃から7世紀と推定されている。埋葬施設が通常とは異なり古墳に付出し部分(テラス)を設けて埋葬している、いわゆる常総型古墳である。
大生古墳群の報告書である「常陸大生古墳群」(茨城県行方郡潮来町教育委員会)によれば、「地名と墳墓とが立派な傍証となっているので、その背景の中に鎮座される大生神社の創始はオフ一族の移住に伴って起こったとするのが妥当である。」としている。つまり大生神社との縁起と古墳群とを兼ね合わせた状況から、多氏が大和方面から移住し多坐弥志理都比古神社を勧請、それを鹿島の神として遷座するに到ったとする。

建御雷神と祭祀氏族
風土記に云う「鹿島の大神」にしろ、または多氏の「神八井耳命」の可能性もあるにしろ、現在の祭神である建御雷神になぜ置き換わったのだろうか。建御雷神は、日本書紀では神武天皇記に「フツノミタマの剣」を下したと記される神様であるが実のところこのタケミカヅチ神は中臣氏(→藤原氏)の氏神なのである。

中臣氏は天児屋根命を祖とする忌部氏と共に古代に於ける祭祀を司る氏族であり(古語拾遺)、仏教受入問題による物部氏と共に蘇我氏の圧迫を受け一時は衰退したが大化の改新によって復活をとげる。その復活から鹿島の神を置き換えるストーリを妄想してみる。
天平18年(746)、鹿島の中臣部、占部が中臣鹿島連を賜る(続日本紀)。それ以前に風土記記載の香島郡に中臣国子と中臣部兎子が大化5年(649)請願して香島郡が成立したとしている。
以降次々と官位が進められるなどして中臣氏の鹿島支配権が確立し、それはもちろん中央政界の後ろ楯があって、国司にも藤原宇合など一族が着任して氏族上げての大仕事であったに違いない。
元々鹿島の神は多氏系であったのかもしれない。しかし多氏が衰退し、それまで祭祀を司どっていた中臣氏が台頭、天平18年(746)には連に昇格し鹿島の実権を掌握、神護景雲2年(768)に春日に遷座、以降祭神をタケミカヅチとしたのであろう。
嘉祥元年(848)、陸奥国の鹿島神が奉幣が途絶えたとして祟ると言う事件が起こる。さらに奉幣に向かった鹿島宮司が陸奥国境で入国を拒否される事態となった。タケミカヅチ以前に陸奥国に分祀された鹿島神がタケミカヅチを祭神とする鹿島神を拒否する出来事であったのだろう。
[出典:http://www14.plala.or.jp/nikorobin/katorikasima.html]

【新説・日本史】一覧


【参考文献】
扶桑国王蘇我一族の真実/渡辺豊和(新人物往来社)
神社仏閣に隠された古代史の謎/関裕二著(徳間書店)
地図とあらすじでよむ 古事記と日本書紀/坂本勝(青春出版社)
・日本建国の秘密

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