新説・日本史講座

【新説 日本史講座_001】古代日本の基礎知識①~謎の渡来人:秦氏(はたし・はたうじ)

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はじめに

ケン・ジョセフJr.氏の著書【隠された十字架の国・日本~逆説の古代史】を参考資料として解説しています。

永六輔氏による序文より

この本の著者であるケン・ジョセフ・ジュニアはキリスト教会に生まれ、ぼくは仏教の寺に生まれ、それぞれ違う環境で育ってきましたが、ケンさんと出会っていろいろ教えられることがあります。

たとえば日本は仏教の国だと思いがちですが、そうではなく昔から幅広い文化をもっていたのです。

あるとき、「題名のない音楽会」で二回にわたってシルクロードの音楽を特集したことがあります。ケンさんがいつもぼくのところに来ては変な話をしていたので、彼等のコンサートに行ってみたのです。

そこでシルクロードのいろんな地域の人たちの演奏を聞いているうち、不思議な感覚に包まれました。

自分がこれまで伝統的な日本の音楽だと思っていたものが、そこで演奏されている。中央アジアの歌唱法が声明(しょうみょう)追分(おいわけ)と重なってきました。中近東からアジアを経て日本にたどりついた文化。

そんなこともあって、ケンさんがお父さんと一緒につくったこの本の話を四年前にぼくにしたときから、ラジオで情報を求めたり、お寺に紹介したりと応援してきました。

ぼくは仏教徒ですが、十字架を戴いている人たちからも学んでいかなければいけないと思っています。

かつて仏教のお寺の中には困った人たちを無条件で受け入れてくれる「駆け込み寺」がありました。

ケンさんたちが国際ボランティア組織の「アガペハウス」として大震災後の神戸をはじめ、三宅島、北海道の有珠山、島根などの被災地や難民キャンプに出かけていって困っている人たちの手助けをしている姿は、まさに現代の「駆け込み寺」だといえます。いまはお寺に行っても助けてくれるところが少ない。

耳が痛いとこかもしれませんが、仏教も、仏教徒の人たちも、いまこそ原点に戻ってみるべきじゃないかと思います。

ひょわ、あやふや――まるで骨のないように見える現代の日本人。自分たちのルーツであるかつての日本の姿を知ることは、現代に生きるわたしたちに大きなメッセージを与えてくれるに違いありません。この本を通じて、みなさんが日本文化の世界につながる奥深さに気づいてくれたら幸いです。

永 六輔(えい ろくすけ)

関連研究者紹介

謎の渡来人:秦氏(はたし・はたうじ)

P16

多くの人は、最初に日本に基督教を伝えたのは、16世紀のフランシスコ・ザビエル(1506年~1552年)だと思っています。しかし、事実はそうではありません。

P20

こうして、そののち私は父が教えてくれた情報をもとに、兵庫県のある小さな町に向かいました。そこは非常に古い時代に、東方基督教の古代基督教徒(酉暦1~5世紀頃の基督教徒)たちが、日本にやって来たと言われているところでした。
それは兵庫県赤穂市(あこうし)にある坂越(さこし)という港町です。高楠順次郎(たかくす じゅんじろう)博士の研究によれば、そこは大昔、「秦氏」(「はたうじ」ともいう)と呼ばれる渡来人一族が日本に上陸した、と言われているところでした。

日本史の授業ではフランシスコ・ザビエルによるキリスト教伝来が16世紀だと教えていますが、多くの研究者によれば、それよりはるか以前に原始キリスト教(古代キリスト教)が入ってきたことがわかっています。

秦氏は、中国大陸や朝鮮半島(百済・新羅)経由で古代日本に帰化した渡来人一族で、キリスト教伝来や日本の文化に大きく関わった人物です。

弓月君(ゆづきのきみ/ユツキ/ユンヅ)と秦氏

『応神天皇14年、弓月君が朝鮮半島から120県(あがた)を率いて、日本に渡来した』
と、教科書にも載っているように、15代応神天皇の時代(4世紀~5世紀)ごろ朝鮮半島から数多くの渡来人がありました。

1県が100~200人ですから、少なくとも1万人以上もの人々が大挙して日本に渡ってきたのです。これは民族大移動ともいうべき出来事でした。韓国の考古学者によると、『5世紀初頭に金官伽耶(きんかん かや)から騎馬民族的習俗をもった集団が突然消えた』ということです。

新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)によれば、
『弓月君は、秦の始皇帝の五世孫の融通王(ゆうずうおう)で、応神天皇の14年に百済より日本に帰化した』と記されています。ただしこれは九世紀後半に盛んになったもので年代的な真実性が疑わています。その出自は明らかではありませんが、近年の研究では『失われたイスラエル十部族説』が有力になっています。

その弓月君の末裔が秦氏ですが、秦氏は明らかに新羅系の神を祀っており、さらに弓月君の父とされる功満王(こうまんおう)は、名前から高麗(こま)から来たとも類推できます。

いろいろと謎の多い一族ではありますが、秦氏の業績は、歴史にしっかりと遺されています。

秦氏の業績

■治水・灌漑

秦氏は高い治水灌漑技術を持っており、京都の嵐山には、葛野大堰(かどのおおい)

渡月橋(とげつきょう)淀川水系・桂川(かつらがわ)

大阪の交野市(かたのし)には、茨田堤(まんだのつつみ)が造られ、今も残っています。
堤根神社(つつみねじんじゃ)

■養蚕(ようさん)・機織り(はたおり)・酒造り

養蚕・機織り技術もあり、木嶋坐天照御魂神社(このしまにます あまてるみたまじんじゃ)は秦氏創建の神社で、蚕の社(かいこのやしろ)ともいわれます。この神社は、三本柱の鳥居が特徴です。

機織部(はたおりべ)という職種は、元は織部といいました。酒造りも秦氏の仕事であり、秦酒公(はたのさけのきみ)から始まっています。

■芸術

芸術の分野では、秦久麻(はたのくま)が、『天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)』を作成しています。

猿楽(さるがく)の創始者は、秦河勝(はたのかわかつ) 、有名な芸能論書『風姿花伝(ふうしかでん)』を著した世阿弥(ぜあみ)の本名は秦元清(はたのもときよ)といいます。

■神社創建

秦氏は、数多くの神社創建に関わっています。

伊勢神宮が現在の三重県伊勢市に建立されるまで27回移動(遷移)しています。
現在地へ遷る以前に一時的にせよ祀られたという伝承を持つ神社(場所)いわゆる元伊勢(もといせ)26か所には、秦氏が関連しているといわれています。

秦河勝について

その中でも特に有名な人物は、聖徳太子(厩戸皇子/うまやどのみこ)の側近だった秦河勝です。秦河勝は、太秦(うずまさ)と呼ばれる秦一族の首長で、*広隆寺を創建し『十善戒(じゅうぜんかい)』をつくりました。
*別称:太秦寺(うずまさでら)・蜂岡寺(はちおかでら)・秦公寺(はたのきみでら)、地名を冠して太秦広隆寺とも呼ばれている。

■常世の虫事件(とこよのむしじけん)

これは皇極天皇3年(644年)7月、*常世神(とこよのかみ)信仰を広げた大生部多(おおうべのおお)という人物を、秦河勝が打ちすえた、という事件です。
常世虫信仰が、都のみならず周辺の地方にも波及し、私財を投じて財産を失う者が続出して社会問題となったため、この騒動を懸念した秦河勝が鎮圧にあたり、騒乱を起こし民衆を惑わす者として大生部多を討伐しました。
*常世神は『緑色、黒色斑点をした、橘の木に生まれ、蚕に良く似た形の虫』であることからアゲハチョウの幼虫であろうというのが通説となっている。

■莫大な資金力

首長の秦河勝は長岡京平安京が遷都するための造営資金を提供し、自らの住居を平安京の大内裏(だいだいり)として桓武天皇(かんむてんのう)に寄贈しています。
現在の、映画村がある京都の太秦を拠点としていた秦氏は、794年に平安京遷都で桓武天皇を迎えて以後、歴史の表舞台から消え、以後記述はありません。

秦河勝の像と雅楽面/胡王面(こおうめん)・蘭陵王の面(らんりょうおうのめん)

P21-22

私たちはまもなく、その坂越町にある「大避神社(おおさけじんじゃ)」という古い神社に着きました。そここそ、父がかねがね言っていた、大昔に先祖がたどり着いて初めて古代の基督教会を建てたらしいという場所なのです。

……宮司さんは、「この神社は、じつは秦氏という氏族に関係のあるところで、正直に申し上げると、大変変わった神社なんじゃよ……」と言って、神社の由来とか、神社にまつわる「奇妙」と言われるものを、いろいろ見せてくださいました。秦氏一族にまつわるものなどです。

たとえばその一つに、秦氏の族長・秦河勝が自分で彫ったという、雅楽の面がありました。その面は彫りの深い顔で、鼻が高く、かぎ鼻で、頭上には天使のようなものが守っている形になっていました。

「雅楽というものはもともと、みな中近東からやって来たんですよ」とも宮司さんは教えてくれました。私はその面を見るなり、
「あれー、うちのお父さんの顔にそっくりだ」と叫んでしまいました。

……さらに、今はこの大避神社では秦河勝を祭ってあるけれども、はじめは「秦河勝が拝んでいたもの」を祭っていたのだろう、とも宮司さんは言いました。


秦河勝の像(広隆寺蔵)

秦河勝が弓月国から持ってきた胡王面。頭上に天使が守る。(坂越の大避神社蔵)

ケン・ジョセフSr.
-Kenny Joseph ケニー・ジョセフ
景教研究所所長。京都インターナショナル・ユニバーシティ客員教授。
先祖はアッシリア人景教徒。来日以来50年を、古代日本に来た景教徒たちに関する研究に捧げてきた。
景教の大主教マル・ディン力師(在イラク)とも親しい。

“雅楽の祖”秦河勝を祭神に祀る坂越の大避神社(生浪島堯宮司)は2008年7月25日(金)、「神社貴重宝物特別展」を開く。河勝の作とも伝わる舞楽面などを初めて一般公開。今後の公開予定はなく、稀少な機会となりそうだ。
雅楽の曲目の一つ「蘭陵王(らんりょうおう)」は中国の古事を基にした楽曲で、龍頭をあしらった華麗な面をつけて舞う。
同神社所蔵の「蘭陵王の面」は縦33センチ、横20センチ。龍頭とあごの部分は欠損し、表面の塗装は剥落しているが、鼻しわや眼窩などにわずかながら金箔を残す。
漆塗りの木箱に納められ、来歴を示す書付は残っていないが、同神社では、「河勝公が自ら彫ったか、聖徳太子から賜ったもので、1300年前の日本最古の面」と言い伝えられてきた。「みだりに人目に触れさせてはならない」との戒めから永く公になっていなかったが、2000年に来社した雅楽師の東儀俊美氏が専門書で紹介し、存在が知られるようになった。

[出典:赤穂民報 2008年7月19日(1804号)]

大避神社の地図

秦氏の起源~彼らはどこから来たのか

P26-27

アッシリアという国

私も、父も、先祖は中近東に住むアッシリア人だと言いました。しかし、「アッシリアという国が昔、中近東にあったのは聞いたことがありますが、今もあるのですか」と人に聞かれることがあります。

今は、アッシリアという国はありません。しかし、今も世界各地に「アッシリア人」はたくさん生きています。そして、自分たちがアッシリア人だという自覚を持って生きています。

20世紀になって、ユダヤ人は自分たちの国「イスラエル」を再建しました。そのように、アッシリア人もまた、自分たちの国家を再建したいと切望しています。

アッシリアという国はかつて、今のイラクやイランあたりの地域にありました。紀元前900~607年頃まで、そのあたりに大帝国を築き上げていました。

当時イスラエルは、ソロモン王の死後、南北二つの国に分裂していて、北王国イスラエルと、南王国ユダとになっていました。そしてアッシリア帝国は紀元前722年、北王国イスラエルを占領。その民のうち、多くをアッシリアに連れて来ました。彼らを捕囚の民としたのです。

彼ら北王国イスラエルの人々は、イスラエルの12部族中の10部族で成り立っていましたから、彼ら捕囚の民は「イスラエルの失われた十部族」の名でも呼ばれています。

そののち紀元前607年に、アッシリア帝国は、強大となったバビロン帝国(新バビロニア王国)によって征服されました。

北朝イスラエルの最期

紀元前722年、アッシリアがイスラエル12支族のうち、10支族で構成されていた『北朝イスラエル王国』を滅亡させました。アッシリアはそのことを『イスラエル王国の貴族27,290人を連行した』と記録しています。⇒アッシリア捕囚

この連行は三段階で実施されています。

第1回:ヨルダン川東側のルベン・ガド・半マナセ族(歴代史Ⅰ)
第2回:ヨルダン川西北側のダン・アシェルナフタリ・ゼブルン・イッサカル族(列王記Ⅱ)
第3回:首都サマリアの半マナセ・エフライム族(列王記Ⅱ)

アッシリアは、さらに18万5,000人の大軍をもって『南朝ユダ王国』も支配しようと攻撃を仕掛けてくる中、預言者イザヤの励ましによって祈り続けるユダ王とユダの人々。すると、奇跡が起きました。なんとアッシリア全軍がペストに襲われ全滅!
そしてこの時、アッシリアに連行されていた『北朝イスラエル10部族』は、いつの間にか姿を消していたのです……

■北朝イスラエル十部族が目指した地

『あなたは、彼が別の平和な群衆を自分のもとに集めるのを見た。これはかの九つの部族のことである。彼らはかつてヨシヤ王の時代に、捕囚となって祖国から連れ出された民である。アッシリア王シャルマナサルは彼らを捕虜として連行し、川の向こうに移し、彼らはこうして他国に移されたのである。しかし彼らは、多くの異邦の民を離れて、人がまだだれも住んだことのないほかの地方に行こうと決心した。彼らは、それまでいた地方では守ることのできなかった掟を、そこで守りたかったのである。彼らはユーフラテス川の狭い支流を通って入って行った。その時、いと高き方は彼らにしるしを行い、彼らが渡るまで、川の流れをせき止められた。その地方を通り過ぎる道のりは長く、一年半に及んだ。その地方は、アルザルと呼ばれている。彼らは、最近までそこに住んでいたのである。』
[出典:旧約聖書外典エズラ記/第四エズラ書・第二エスドラス書・エズラ書(ラテン語)]

旧約聖書外典:エズラ記には『彼らは、自分たちの掟が守れる地に行こうと決心し、ユーフラテス川を渡って東に向かった。その時神は二度にわたって川の流れをせき止めた』とあります。

自分たちの掟を守るために……その掟とは『多神教』のことです。北イスラエルは、故国にいた時、偶像崇拝に陥り、神の怒りに触れ、アッシリアに滅ぼされたと思われています。

ところが、そのような不信仰なイスラエルの民を、神は二度も川をせき止めて、東の国へ導いているのです。

その後、……大きな川を渡り、ひたすら東へ向かった。こうしてアフガニスタン中央部の山岳地帯ハザラットに到達した……との記録を最後に、これ以降彼らの情報は途絶えました。

古代日本の基礎知識②へ続く


【参考文献】
隠された十字架の国・日本~逆説の古代史(ケン・ジョセフJr.)
・日本建国の秘密(中山真申)

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