新説・日本史講座

【新説 日本史講座_002】古代日本の基礎知識②~原始キリスト教の伝来

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原始キリスト教の伝来

[隠された十字架の国・日本~逆説の古代史]より

P32-34
アッシリアは最初の基督教国

イエス・キリストには、最も側近の弟子たちであった「十二弟子」のほかに、そのまわりにはさらに、次の側近の弟子たちである「七十人の弟子」たちがいました(ルカの福音書10:1)その一人に、アダイ(アラム語。ギリシャ語ではタダイ/Thaddaeus)という弟子がいました。

西暦1世紀、アダイはアッシリア地方の古都エデッサ(現ウルファ。トルコ南東部)に福音を伝え、そこに教会を建てました。また、パルテヤ地域(カスピ海南東)にも行っています。

……その後エデッサの都は、アッシリア東方基督教の中心地として栄えました。すでに西暦95年には、その地域には19の都市に、基督教の主教がいました。……このようにアッシリアは、最初の基督教の民となったのです。

……じつはアッシリア地域には、紀元前の時代から、多くのユダヤ人が住んでいました。というのは、アッシリアの地域はかつてバビロン帝国によって支配されましたが、南王国ユダのユダヤ人たちは紀元前606~前536年までそこに捕囚されたという経緯があります。

いわゆる「バビロン捕囚」ですけれども、バビロン帝国が滅びて、ペルシャ帝国が中近東を支配した時代になって、彼らユダヤ人の一部はエルサレムに帰還しました。しかし一方では、エルサレムに帰還せず、捕囚の地にとどまったユダヤ人たちも多かったのです。

このようにアッシリアの地域には、紀元前の時代からユダヤ人がたくさん住んでいました。また「イスラエルの失われた十部族」のうち多くの人々も、そこに住んでいたでしょう。そして彼らの多くは、福音を聞いたとき、クリスチャンになったのです。

そのため、アッシリア地域で栄えた基督教には、非常にユダヤ的な面があります。
これは、エルサレム以西に伝わって、のちに「ローマ・カトリック」と呼ばれるようになった西方基督教とは、大きく異なる点です。カトリックは、じつはユダヤ的な特徴をできるだけ排除したような基督教なのです。

それに対し、「アッシリア東方基督教」は、ユダヤ的な面、つまり原始基督教(西暦1世紀頃)の特徴を大きく残した基督教でした。

P37-39
景教もアッシリアで生まれた
さて、しばらく時代が進んで5世紀になると、「景教(けいきょう)」と呼ばれる基督教が、アッシリア地域で栄えました。これはアッシリア東方基督教です。

「景教」は東方基督教の一つです。「東方基督教」には、ギリシャ正教会やロシア正教会などのいわゆる「東方正教会(オーソドックス)」、および、景教などの「東方諸教会」とがあります。景教はその中の一つでしたが、一時は東方世界で最大の勢力を持ちました。

東方正教会が西方教会(ローマ・カトリック)と分離したのは、11世紀のことです。これに対し、景教と西方教会の分離は、それよりずっと早く、5世紀に起こりました。

景教ははじめ、アッシリア、ペルシャ地域に広まり、その後さらに中央アジアから南アジア、シベリア、東アジア方面へと広がっていきました。やがて西アジアから中国に至るシルクロードの大都市すべてに、景教の教会がつくられました。

景教徒はまた、ユダヤ人と同様に、絹織物業や絹の交易も盛んに行なっていました。
西暦800年頃、当時の世界において、エルサレムの東側の地域(中近東~東アジア)にいる基督教徒の数は、その西側の地域(ヨーロッパ等)にいる基督教徒の数を上回っていました。

12使徒の一人であるトマスは、イエス昇天の2年後にはすでにアッシリア地域で伝道していました。さらにトマスはアッシリアの宣教後、インドに向かいました。

現在も南インドにはトマスの名を冠した『聖トマス教会』が残っており、その地方のキリスト教徒たちは『トマス・クリスチャン』と自称しています。

このようにキリスト教の福音伝道はものすごい勢いで急速に広がっていきました。
ここで重要なのは、最初のキリスト教伝道がアッシリアの国ということです。

アッシリアには多くのユダヤ人が住んでいましたから、ユダヤ人の中で改宗者が数多くいたことがわかります。アッシリアで栄えたキリスト教は『原始キリスト教』であってユダヤ的な側面を非常に色濃く持ったキリスト教ですから、ローマ・カトリックとは根本的に異なるものです。

景教徒はシルクロードにおいてユダヤ人同様、盛んな交易を行っていたと記録されています。
ここで特筆すべきは、交易が盛んだったのは、東側の景教徒(原始キリスト教徒)であって、西側のローマカトリックではないということです。

日本にキリスト教が伝わったのは、ザビエルより遥か以前……という根拠はここにあるわけです。

秦氏の出身地

P40-43
秦氏の出身地「弓月」国
秦一族は、中国人が「弓月(ゆづき)」と呼んだ中央アジアの国から、シルクロードをたどって東にやって来ました(『新撰姓氏録』)。「弓月」は日本語では「ゆづき」と読みますが、中国語では「クンユエ」(Kung‐Yueh)と発音されました。

佐伯好郎教授によれば、これは小国とはいえ、基督教国でした。西アジアや中央アジアの多くの国々は、2世紀くらいから、すでに基督教国となっていました。

さて、古代において中国の皇帝たちは、征服した周囲の多くの民族を使役して、次々と万里の長城の建設にあたらせました。

その苦役に耐えかねて、多くの人々が朝鮮半島や日本に逃げてきたのです(好太王の碑文、『後漢書』の東夷伝 共に5世紀)。クンユエ(弓月)の人々も、万里の長城建設の苦役に耐えられず、満州を経て朝鮮半島に逃れました。

朝鮮半島でも彼らは苦境に追い込まれましたが、それを助けて保護してくれたのが、日本の天皇でした。こうやって日本にやって来たのが、秦氏です。

P54
シルクロードの終点は、奈良だと言われます。奈良の正倉院に行けば、3世紀以降、8世紀頃を中心として大陸からもたらされた様々な遺品が収蔵されています。その中には、ペルシャ方面からもたらされたものが、たくさんあります。

ラクダの描かれているものがあり、クジャクやゾウの描かれたもの、ペルシャの琵琶の描かれたもの、また中近東の人々の顔をした面などがあったりします。その収蔵品の数々を見れば、約9000キロものかなたから、非常に多くのものがシルクロードを通って日本にやって来ていたことがよくわかります。

こんなに様々なものが日本にやって来ているというのに、基督教だけはザビエル来日の1549年まで入らなかった、などという話がいったいあり得るでしょうか。

学校の教科書レベルでは、秦氏は朝鮮半島からやって来たとしか説明しないのですが、たとえば雅楽の面のように、彼らが持ってきたもの、あるいは信仰の形態などから、どう考えてもの弓月の国はキリスト教国であり、彼らはここから来たんだろうと佐伯教授は推察しています。

正倉院所蔵の大陸からもたらされた数々の遺品、さらに聖徳太子の側近には、多くのペルシャ人がいたということも現在わかっています。

ペルシャとその周辺は既にキリスト教が成立していたわけですから、古代の日本にキリスト教など一切入って来なかった!というのは、とても考え難いことです。

東西文化が交流する場所は、様々な物が集まりそして活性化していきます。
シルクロードの終点である奈良もそうだったはずで、様々な宗教、様々な文化をもった様々な国々の人たちが集まり賑わっていたと思います。

はるばる辿り着いた終点の奈良の宗教が仏教だからといって、彼らがその日から仏教徒になりました……など到底ありえないことです。

そう考えると、古代日本は様々な宗教・文化が交流する国際的な都市だったのではないかと推察することができます。

P57-59
日本に大集団で来た原始基督教徒
日本の古文書『新撰姓氏録』は、仲哀天皇(第14代)の第8年に、「弓月」国の王「巧満」が日本の朝廷を公式訪問した、と記しています。

彼らは、景教が成立する前の原始基督教徒です。
「仲哀天皇の第8年」は、伝統的な理解では西暦199年(または198年)にあたります。2世紀には、すでに基督教が日本に入っていたというのです。

ただし、今日の歴史学者の多くは「仲哀天皇の第8年」を、一般に4世紀後半頃と見ています。一説には356年とされます。だいたい500年以前の天皇の年代は、伝統的理解と今日の歴史学者の意見との間に、少し開きがあります。

いずれにしても、遅くとも4世紀までに基督教徒は日本に入っていたことになります。
さらに、じつは日本の応神天皇(第15代)の第14年に——これは先の巧満王の来日の84年後にあたりますが——弓月国の功満王の子が大集団を率いて、日本に渡来しているのです。

伝統的理解では、これは283年頃、あるいは最近の歴史学者の意見によれば、5世紀前半になります。また、そののち雄略天皇の時代(5世紀後半)に、彼らの人口を数えてみると「1万8670人」いたといいます(『新撰姓氏録』)。

彼らははるか弓月の国からやって来て、日本に帰化したのです。
記録によれば、彼らの大半は養蚕と絹織物業にたずさわっていました。
そしてこのハタ氏が入ってから、「機織り」(ハタ織り)という言葉が、人々の間で使われるようになったのです。

有名な京都の「西陣織り」なども、秦氏が始めたものです。
秦氏は日本の文化に大きく貢献しています。京都で難しい水利工事をやってのけたのは、秦氏の技術でした。「和紙」をつくったのも、秦氏だったようです。

彼らは、芸術の分野でも大活躍しました。
能で有名な世阿弥(1363?~1443年?)なども、秦氏の人です。雅楽の基礎をつくったのも秦氏でした。

仲哀天皇は、日本武尊(やまとたけるのみこと/ヤマトタケル)の息子、神功皇后:気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)の夫、応神天皇は、神功皇后の息子です。

歴史学者による近年の年代解釈によれば、弓月国の巧満王が、仲哀天皇の時代に日本の朝廷を公式訪問したのは356年であると。ですから遅くとも4世紀までには原始キリスト教徒たちが日本に入って来たということがわります。

応神天皇の時代に、巧満王来日の84年に、弓月国の大集団、その数1万8,670人が日本に帰化しているわけです。しかも彼らは原始キリスト教徒なのです。聖徳太子の時代の最大のブレーンが原始キリスト教徒の秦河勝だったのです。

さらに彼らは様々な技術を持っていました。

彼らは万里の長城を造っていたわけですから、土木建築技術に関してもプロフェッショナルでした。京都の難しい水利工事や、平安京創設など、秦氏がもたらした影響は多大なものです。

日本を代表する伝統文化、西陣織や和紙も彼らがつくったものです。
芸術の分野でも多大な貢献をしました。能や雅楽も彼らが作ったものです。
日本の文化伝統だと思っているほとんどのものが、秦氏が持ち込んだものだということを理解する必要があります。

その起源を辿るとそれはユダヤから来ているものであり、ユダヤ教、聖書まで遡らなければ秦氏、ひいては日本の宗教・文化を理解することはできない、ということです。

ただし、日本の朝廷、日本の民族はもっとず~っと古い歴史がありますから、日本人のルーツはユダヤ民族、ということではありません。

彼らが途中から古代日本に入って来て日本に同化して、日本の文化・伝統を築き上げた、その貴族たちがじつはユダヤ人だった、ということなのです。

古代日本の基礎知識③へ続く

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【参考文献】
隠された十字架の国・日本~逆説の古代史(ケン・ジョセフJr.)
・日本建国の秘密(中山真申)

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