秦一族の基督教信仰
P63-64
秦氏の人々はまた、古代基督教の信仰——それもユダヤ的な基督教信仰を持っていたと言われています。イタリアから日本に来たカトリック宣教師、マリオ・マレガ神父は、ザビエル以前の日本にすでに基督教が入っていたことを認めてそれを研究した人でした。彼は1952年の東方学会で、歴史学の教授たちを前に、その日本研究の論文を発表しました。
マレガ神父は、『秦氏の首長、秦河勝によって京都の地に603年に建設が始められ622年に完成した寺は、もとは仏教の寺ではなく古代基督教の教会であった』と書きました。それは、京都の葛野(かどの)の地に建てられました。しかし後に焼失したため(818年)、そこから数キロの京都、太秦の地に再建されました。
現在は「広隆寺」(別名 蜂岡寺、太秦寺、秦公寺)と呼ばれる仏教の寺になっています。けれども、現在の広隆寺は創建当初の建物の面影を残すものではありません。
江戸時代後期の儒学者・大田錦城(1765~1825年)は、広隆寺を見たとき、「寺という名はついているが、仏教の寺ではない」と述べました。そして彼はその著『梧窓漫筆拾遺』において、広隆寺は中国の長安にある景教寺院、大秦寺に倣って建立されたにちがいない、と書いています。
秦氏の人々は、『古代基督教の信仰、それもユダヤ的な側面を色濃く残した基督教信仰を持っていたと言われています』という記述は、通説ではありません。これは、一部の研究者だけが言っていることであくまで仮説です。
秦河勝が創建した当時の広隆寺は焼失のため、現在の太秦の地に移されました。元のオリジナル広隆寺がどこにあったのかは、未だに謎のままです。
大田錦城が『広隆寺は中国の長安にある景教寺院、大秦寺に倣って建立されたにちがいない』と書いたのは、仏教ではない、キリスト教が色濃く残っている建物と直感したからでしょう。
「メシヤ」が「ミロク」になった
P64-70
広隆寺といえば、そこに有名な弥勒菩薩像半珈思惟像があります。
広隆寺の弥勒像は右手をあげ、その手の親指の先と他の指一本とを合わせて、三角形をつくっています。そして他の三本の指を伸ばしています。じつはこのスタイルと同じものが、景教の遺跡中に見られるのです。これはじつは、景教徒がよく使ったシンボルなのです。
↑中国西部・敦煌で発見された景教の大主教の壁画(ロンドン・大英博物館蔵)
オーレル・スタイン卿によって1908年に発見された。傷んだ状態だったが、この絵はロバート・マグレガーが復元したものである。
右手の親指と中央の指で三角形をつくり、他の3本は伸ばしている。これは三位一体信仰のシンボルと言われ、広隆寺の弥勒菩薩像の右手にも同様の形が見られる。また、ミロクというのは、何でしょうか。それは仏教における未来の救い主、来たるべきメシヤです。
有名な比較宗教学者*エリザベス・A・ゴードン女史(1851-1925)も、豊富な検証に基づき、こう述べました。『インドのマイトレーヤは、中国ではミレフ、日本ではミロクで、これはヘブル語のメシヤ、ギリシャ語のキリストである』
京都大学の池田栄教授は、『中国の景教徒の間ではキリスト(メシヤ)とミロクは混同されることもあった』と書いています。つまり、秦氏の寺にミロク像が置かれたことは、そうした背景からも考えることができます。
*エリザベス・アンナ・ゴルドン/E.A.ゴルドン(Gordon, Elizabeth A.)
景教の大主教と弥勒菩薩のつくる指のサイン(シンボル)は、一見同じように見えますが、厳密には違います。景教の大主教は、”親指と中指”を合わせて(繋げて)いて、弥勒菩薩のほうは、親指と”薬指”を合わせています。
三位一体信仰のシンボルとされる指でつくるサインは、たとえば『親指を、人差し指と小指以外の中指または薬指と合わせる』という決まりのようなものがあれば、シンボルが一致したことになりますが、一致していな以上、指のシンボルが似てるというだけでは、両者を関連付けることは出来ません。
このあたり、仮説の域を出ていないので、今後まだまだ考証・研究の余地がありそうですが、じつはそんな細かいことに拘っている場合ではない重大なエビデンスが弥勒菩薩には隠されていたのです。
中国の景教徒はキリスト(メシヤ)とミロクを同一視していたのです。
ミロクというのは、仏教における未来の救い主・来たるべきメシヤであり、キリスト教においては来たるべきメシアが、ミロクなのです。
弥勒菩薩を安置するということはつまり、メシア・キリスト像を安置しているのと同じことです。
ものの道理が分かる人なら、それは仏教もキリスト教も或は景教も、或は原始キリスト教においても、共通した認識だと理解しているはずです。
秦河勝は原始キリスト教徒でありながら、仏教の弥勒というのはキリストと同一人物であることを理解していたからこそ、弥勒菩薩を崇拝したわけです。
したがって、キリストの崇拝・礼拝のために広隆寺を造ったと考えるのが極めて自然なのではないでしょうか。
「ウズマサ」は本尊名
P70
秦河勝は、異例の出世をした人でした。彼は聖徳太子に認められ、太子が制定した「冠位十二階」の第二番目の地位にまで登りつめたほどでした。
『日本書紀』には、7世紀、皇極天皇(在位642年~645年)の時代に、人々が秦河勝を称えて、
“ウズマサ様は神の中でも神だと大評判だ。常世の神を打ち懲らすほどだから”
(ウズマサ様は 神とも神と聞こえ来る 常世の神を打ちきたますも)
という歌を詠い出したと記されています。歌の内容から見て、「ウズマサ」は宗教の本尊名でしょう。「ウズマサ」の名は、現在も京都の地名としても残っていますし、人々には秦河勝のことだとか理解されたこともあったようです。しかし秦氏にとっては、もっと特別な意味を持った言葉だったようです。
佐伯好郎博士や、手島郁郎氏などは、「ウズマサ」は、イエス・キリストを意味するアラム語、あるいはシリア語(景教徒の中心地エデッサで話されていたアラム語の方言)のイシユ・マシァ(Ishu M’ shekha)から来たものだろう、と述べました。
ウズマサ様というのは、秦河勝自身であるという説と、秦河勝が拝んでいた神であるという2つの説があります。
カステラの語源は、スペイン語でカスティーリャ(Castilla)、古王国の名称:カスティーリャ王国のお菓子からきている、という説が現在有力のようですが、このように語源を調べることは物事の本質に迫る一つの方法です。
北原白秋もこよなく愛したというカステラが、これから1,000年も経てば、南蛮渡来であることも忘れ去られるかもしれません。
そう考えると、ウズマサの語源へのアプローチは、忘れ去られた歴史の真実を解明する上でも賢明なことです。
ウズマサは、イシュ・マシァ(Ishu M’ shekha)つまりアラム語でキリストを意味する言葉であろうとの推察から、秦河勝自身ではなく崇拝対象であるキリストを指す言葉と考えるのが妥当なのではないでしょうか。
【参考文献】
・隠された十字架の国・日本~逆説の古代史(ケン・ジョセフJr.)
・日本建国の秘密