秦氏のダビデ神社
P72-73
広隆寺の近くに、現在は大酒神社と呼ばれているところがあります。これも秦氏がつくった神社です。
かつては広隆寺の境内にあったそうです。そして大酒神社の門柱に、
「ウズマサ明神」(太秦明神)
を祭っていると書かれています。いわば「イエス・キリスト明神」であるわけです。秦氏の大酒神社の由緒書には、その神社の名は、もともと「大辟(おおさけ)」神社と書いたと記されています。「辟」は君とか、天子の意味です。「大辟」は、大君、天子イエス・キリストのことでしょう。そこはもともと、イエス・メシヤを礼拝するところだったと思われます。
また、中国の景教徒の間では、聖書に出てくる古代イスラエルの王ダビデのことを「大闢(ダヴィ)」と書きました。これが簡略化されて“門がまえ”がとれ、「大辟」となったとも言われています。神社の名前というものは、音はそのままでも、漢字はよく変わることがあるのです。
また、ダビデは聖書によれば竪琴の名人、そして舞踊家でしたが、この神社の門柱に、
「蠶養機織管絃楽舞之祖神」(蠶は蚕の古字)
と記されています。つまりこれはダビデのことでしょう。
しかし、この神社が“古代イスラエルの王ダビデを祭った神社“ということではありません。じつはメシヤ預言の中では、「ダビデ」はイエス・キリストの別名でもあったのです。旧約聖書のメシヤ預言の中で、イエス・キリストはしばしば「ダビデ」の名で呼ばれています(エゼキエル書37・24~25、ホセア書3・4~5)
この「ダビデ」は、古代イスラエルの王ダビデのことではなく、イエス・キリストのことなのです。
三位一体信仰を表した三柱鳥居
P75-81
さて、同じく京都・太秦の「元糺(もとただす)の森」に、「蚕の社」または「木島坐天照御魂神社」と呼ばれている神社があります。これも秦氏が創建したものです。
この神社には、全国でも珍しい「三柱鳥居」と呼ばれる、鳥居を三つ重ねた形の聖なる三脚があります。現在ある三柱鳥居は、比較的最近つくられたものですが、昔の資料、伝統に基づいてつくられたものとのことです。
しかしこの「三柱鳥居」は、鳥居という名がついていても、門ではありません。それは池の真ん中に立てられている、立体的なオブジェです。
宗数的なシンボル、宗教的なオブジェには、必ず意味があります。池田栄教授は、この三柱鳥居は、秦氏の信奉していた古代基督教の三位一体信仰の象徴であろう、と述べました。
「蚕の社」(木島神社)ではまた、神社としては珍しく、「アメノミナカヌシの神」(天之御中主神)を祭っていると説明されています。
アメノミナカヌシの神とは、日本神話において一番最初に現われ出た神です。宇宙の中心に住み、天地を主宰する神。姿形なく、死ぬこともなく、単独の神で、最も中心的な主なる神です。
秦氏の人々は、アメノミナカヌシの神という名のもとに、じつは聖書の言う絶対神ヤハウェを信奉していたようにも思えます。
秦氏と稲荷神社の関係
P186-187
秦氏はまた、全国に数多くある「稲荷神社」の創建にもかかわりました。全国に一番多いのは八幡神社で、稲荷御社は八幡神社についで多い神社です。
稲荷神社の頂点に立つのは、京都にある伏見稲荷大社です。伏見稲荷大社は、秦氏の首領・奉公伊呂具(はたのきみいろぐ)が創建したものです。稲荷神は奉氏の氏神(氏族が崇拝する神)でした。また空海に始まる真言密教の僧侶たちも、熱心に稲荷信仰を広めました。
イナリは、今はふつう「稲荷」と書きますが、漢字が日本に輸入される以前から、イナリという音がありました。「稲荷」は当て字です。ある人は、このイナリというのは、「INRI」(ユダヤの王ナザレのイエス)から来たのではないか、と述べています。
聖書には、イエスが十字架につけられた時、ローマ帝国第5代ユダヤ属州総督ピラトがイエスの罪状を書いた札を持ってこさせ、十字架に掲げさせたことが記されています。
ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上にかけさせた。それには「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書いてあった。
[ヨハネによる福音書:19章19節]
その罪状札に書かれていた言葉が、『ナザレのイエス、ユダヤ人の王』
ラテン語で Iesus Nazarenus Rex Iudeorumという言葉でした。
※発音⇒https://ja.forvo.com/word/iesus_nazarenus_rex_iudaeorum/
この頭字語が『INRI』です。
ヨハネの福音書によれば、この罪状札は、ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で書かれていた、とありますから、当時のエルサレムに集まっていたユダヤ人も、ローマ人も、ギリシャ人もみんなその意味が分かったということです。
17 イエスはみずから十字架を背負って、されこうべ(ヘブル語ではゴルゴダ)という場所に出て行かれた。
18 彼らはそこで、イエスを十字架につけた。イエスをまん中にして、ほかのふたりの者を両側に、イエスと一緒に十字架につけた。
19 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上にかけさせた。それには「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書いてあった。
20 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。それはヘブル、ローマ、ギリシヤの国語で書いてあった。
21 ユダヤ人の祭司長たちがピラトに言った、「『ユダヤ人の王』と書かずに、『この人はユダヤ人の王と自称していた』と書いてほしい」。
22 ピラトは答えた、「わたしが書いたことは、書いたままにしておけ」。
[ヨハネによる福音書:19章17節~22節]
『キリストの磔刑』(ディエゴ・ベラスケス画) キリストの頭上にある罪状書きには「ユダヤ人の王 ナザレのイエス」とヘブライ語・ラテン語・ギリシア語で書かれている
画家が十字架上のイエスを描いた時、十字架上の罪状札に『ナザレのイエス、ユダヤ人の王』と描くのが大変だったので、“INRI”と略して書かれ、それが一般に知られるようになりました。
秦氏とヤハタ神
P188-191
つぎに「ヤハタ神」(八幡神)信仰と、秦氏の関係について見てみましょう。
奈良時代の末期になって「それまでの『記紀』(『古事記』と『日本書紀』)の神々とはまったく系譜の異なる神が、突如として登場しました。それが「ヤハタ神」です。日本全国の約11万に及ぶ神社のうち、最も多いのが八幡(はちまん)さまで、4万社以上あります。「はちまん」という呼び名は、漢字が輸入されて漢字を当てはめたのち、それを読み替えたものです。それ以前は「ヤハタ」、または「ヤハダの神」(矢羽田、綾幡(あやはだ))と言われていました。
ヤハダ神の起源は、九州大分県、宇佐(うさ)の地にあります。そこには今も「宇佐八幡宮」があります(8世紀建立)。宇佐八幡宮といえば、有名なのが宇佐八幡宮神託事件、いわゆる「道鏡事件」(769年)です。
この九州・宇佐の地方は、じつは昔、秦氏一族の最も古い居住地でした。宇佐八幡宮の宮司を務めた三氏族——宇佐氏、大神(おおが)氏、辛嶋(からしま)氏は、いずれも秦氏でした。ヤハダ神の古い神社「箱崎宮」(福岡市)の大宮司も、秦氏であったことが記録にあります。ヤハダ神は、秦氏の信奉していた神でした。
秦氏の故郷・弓月は、「天山山脈」のふもとでした。ところで九州・宇佐のすぐ近くにも、「天山山地」と名づけられた山々があります。これは秦氏の人々が、故郷を思い出して名づけたものではないでしょうか。
さて、宇佐八幡宮に行くと、そこには「応神天皇が祭られている」という説明になっています。応神天皇は、秦氏が渡来したとき、秦氏を受け入れてくれた天皇です。当然、秦氏と非常に親しい間柄にあったでしょう。
ヤハダ神信仰には、聖書の物語を思い起こさせるようなことがしばしばあります。
たとえば、860年に京都につくられた古い神社「石清水八幡宮」に伝わる説話に、聖書の物語にそっくりのものがあります。それは、源頼義が奥州合戦(1189年)の際に、水がなくて兵士たちが苦しんだので、彼が石清水八幡に祈って岩を突きました。すると、そこから清水が湧きだしたという話です。
一方、聖書には、イスラエル人が荒野で水がなく苦しんだとき、モーセが神に祈って岩を突いたと書かれています。すると、そこから清水が湧きだしたと。
頼義は頼信の子で、鎮守府将軍に任じられる。冷泉院の時、奥州で反乱を起こした安倍頼時と戦い、昼夜甲冑をとかないこと九年、苦痛をしのんで賊徒と戦う。ある年の六月、士卒みな喉が渇き水を望んでいた時、頼義は八幡神に念じて弓で岩に穴を開けたところ、たちまち清水が噴出した。石清水八幡の号はこれより始まったという。
[月岡芳年の武者絵:大日本名将鑑]
1 イスラエルの人々の全会衆は、主の命に従って、シンの荒野を出発し、旅路を重ねて、レピデムに宿営したが、そこには民の飲む水がなかった。
2 それで、民はモーセと争って言った、「わたしたちに飲む水をください」。モーセは彼らに言った、「あなたがたはなぜわたしと争うのか、なぜ主を試みるのか」。
3 民はその所で水にかわき、モーセにつぶやいて言った、「あなたはなぜわたしたちをエジプトから導き出して、わたしたちを、子供や家畜と一緒に、かわきによって死なせようとするのですか」。
4 このときモーセは主に叫んで言った、「わたしはこの民をどうすればよいのでしょう。彼らは、今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」。
5 主はモーセに言われた、「あなたは民の前に進み行き、イスラエルの長老たちを伴い、あなたがナイル川を打った、つえを手に取って行きなさい。
6 見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つであろう。あなたは岩を打ちなさい。水がそれから出て、民はそれを飲むことができる」。モーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのように行った。
7 そして彼はその所の名をマッサ、またメリバと呼んだ。これはイスラエルの人々が争ったゆえ、また彼らが「主はわたしたちのうちにおられるかどうか」と言って主を試みたからである。
[出エジプト記:17章1節~7節]
宇佐八幡宮の主祭神は、応神天皇・神功皇后・比売大神(ひめおおかみ)の三柱です。
比売大神とは、宗像三女神(むなかたさんじょしん)のことです。
多岐都姫(たぎつひめ)・多紀理姫(たごりひめ)・市杵島姫(いちきしまひめ)という宗像三女神のことを比売大神といいます。
725年に創建された宇佐神宮ですが、興味深いのは宇佐神宮公式WEBページにある、『神輿発祥の地 宇佐』というトピックです。
大仏鋳造直後の天平勝宝元年(749年)12月に八幡大神とお供の宇佐宮の女禰宜(めねぎ)・大神杜女(おおがのもりめ)が大仏を拝するため、紫の輿(こし)に乗って転害門(てがいもん)をくぐりました。これが神輿のはじまりとされています。
紫の輿とは天皇が使用する高貴なものでした。転害門では大勢の僧侶、文武百官(もんぶひゃっかん)が出迎えました。東大寺では八幡神を迎え、聖武太上天皇、考謙天皇、光明皇太后の行幸のもと、僧侶5,000人の読経、呉楽(くれがく)、五節舞(ごせちのまい)などの法要が賑々しく営まれました。
日本の神輿の起源が宇佐神宮にあるということですが、二本の棒を渡して人が担ぐ形式になっているところなど、モーセの『契約の箱(アーク)』とよく似ており、ユダヤ人と濃厚に関連していることがよくわかります。
景教は異端ではない
P81-84
秦氏の人々が来たあと、景教徒たちも、日本にやって来ました。5世紀以降のアッシリア東方基督教は、一般に「景教」と呼ばれます。この景教も、日本に大きな影響を与えています。それは決して「新しい宗派」ではありません。むしろアッシリア東方基督教=景教は、原始基督教の流れを汲むものです。
池田栄教授はこう述べています。
”『ネストリウス派基督教』の名称は、アッシリア東方基督教に対して与えられた間違った呼び名です。景教=アッシリア東方基督教は、ネストリウス以前から存在していました。それが確立されたのは西暦1世紀でした”アッシリア東方基督教は、ローマ・カトリックから分かれたのち、爆発的に東方世界へと広がっていきます。それは中国にも達し、中国では「景教(Luminous Religion)」と呼ばれるようになりました。この「景」は日の光、光明の意味です。
景教は信仰の自由を認めた
P167
景教は、アジアにおいて一時、支配的勢力となりました。9世紀、また13世紀が、景教の絶頂期でした。しかし、そうなったときも、景教以外の宗教を禁じることはありませんでした。信教の自由を認めたのです。
たとえば7世紀に、中国・唐の皇帝、太宗(たいそう)は景教の教典を読んで感激し、国民にも景教を勧めて、「景教の伝道が自由になされるようにせよ」
と言いましたが、その信仰を国民に強要することはありませんでした。彼のもとで、またその後の時代にも、国民の信教の自由は保証されていたのです。景教はまた、政治権力を取ろうとはしませんでした。京都大学の池田栄教授は、
「景教の教会は……ローマ・カトリックとは異なり、いまだ一度たりとも政権を主張したことなく、カイゼルのものはカイゼルにゆだね、つねに教権のみを有してきた」
これまで秦氏の宗教を考察してきてわかったことは、仏教とは思えないユダヤ的な原始キリスト教的な側面を持っていたということです。
そもそも、秦氏は数多くの神社を創建しているわけですから、秦氏が仏教徒だったとは到底考えにくいのです。
『ネストリウス派基督教』とは、コンスタンティノープル大主教であったネストリウス(Nestorius)によって説かれた基督教のことです。
『景教』とは『アッシリア東方基督教』のことを指すもので、『ネストリウス派基督教』とは別物です。
『アッシリア東方基督教』は、『ネストリウス派基督教』より以前に起こった原始基督教です。
Wikipediaには、ネストリウスの『崇敬する教派:アッシリア東方教会』と記述されていますから、池田栄教授が言うように、ネストリウス派基督教の名称は、アッシリア東方基督教に対して与えられた間違った呼び名です。
アッシリア東方基督教がローマ・カトリックから分かれた後、爆発的に東方世界に広がってゆき、それが中国に達して景教と呼ばれるようになり、景教徒もまた日本に入ってきました。
ここで重要なことは、景教徒は信教の自由を認めたということです。改宗を迫ることもなければ、ローマ・カトリックのように政権を主張したこともありませんでした。
秦氏の信仰形態はまさにそれであり、日本人の宗教である神道を否定したりあるいは侵したり改宗させるというようなことは一切しなかったわけです。
信教の自由を認めながらトラブルを起こすことなくうまく融和し調和が保たれてきたのです。
【参考文献】
・隠された十字架の国・日本~逆説の古代史(ケン・ジョセフJr.)
・日本建国の秘密